「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、、文化財および近代土木遺産をめぐる。

長崎県五島市  「 楠原牢屋跡 と 楠原教会 」

2017-12-25 11:35:32 | 教会



キリシタンが投獄された楠原牢屋敷跡






















1868(明治元)年末、久賀島から始まった五島崩れは
クリスマスの日に水ノ浦におよび、
まもなく楠原のキリシタンも取り調べをうけて、
仮牢となった帳方・狩浦喜代助宅に投獄された後、水ノ浦の牢に移された。
牢屋となった屋敷の材木は、1954(昭和29)年、
水ノ浦修道院楠原分院の1階に使用され、
1995(平成7)年に解体され、翌年、牢屋跡横に、
残された材木で牢屋が縮小復元された。
敷地内には、1971(昭和46)年、
「信仰の自由100周年記念祭」の時に立てられた「祈りの像」がある。


元治2(1865)年長崎の地で世界中を驚かせる信徒発見の日を迎え、
五島のキリシタンたちも、次々と長崎のプチジャン司教の元を訪れ、
五島の津々浦々に待ちに待った神父到来の報が伝えられました。
しかし喜びもつかの間、五島では明治に入る頃から
信徒への弾圧が始まり楠原も例外ではなく、
捕えられ帳方の家が牢にあてられました。

北風の吹きすさぶ寒い季節でしたが、
着物一枚しか身に着けることを許されず、
夜具もなく、着のみ着のままで過ごさねばなりませんでした。
信徒達は寒さに震えながらも互いにロザリオを祈り、
励ましあって殉教も覚悟していたといいます。
やがて水ノ浦の牢に移され、棄教を迫る役人の残酷な拷問が待っていました。
あまりの苦痛に泡を吹いて気を失う者もいました。

明治6(1873)年、禁教の高札が撤去され、
ようやく捕縛や入牢はなくなりました。

牢屋敷当時の柱材の一部は、
お告げのマリア修道会楠原分院の建物の一部として
約40年間使用されましたが、修道院の解体に伴い、
平成8年に復元された現在の牢屋敷跡に使われ当時の名残をとどめている。



























ファチマの聖母と牧童











殉教地を見守る ” 男性的教会 ”


大村藩(現在の長崎市外海方面)から移住してきた潜伏キリシタン第一陣108名のうち、
一部の者は楠原に住み着きました。
彼らは五島と大村の藩主の了解のもと家老の指図で送られたもので、
移住当時は御用百姓として優遇されました。

明治10(1877)年になると、
パリ外国宣教会の宣教師が来島し五島への布教が始まりました。
楠原の信徒たちもまだ貧しい生活でしたが、
外国人神父の指導もあり教会建築の費用として
長年にわたる積み立てを始めました。

明治45(1912)年、教会建築の名工鉄川与助により、
3年の歳月をかけて完成したのが現在の楠原教会です。
内部はリブ・ヴォールト天井、外観はレンガ造りのゴシック様式で、
下五島に現存する教会としては、堂崎教会に次ぐ2番目に古い教会です。
信徒たちも教会建設のためにお金を捧げるのはもちろんですが、
整地作業や建築資材を寺脇の山奥から伐採し
運び出すなど危険を伴う作業もいといませんでした。

また外壁に使用する赤レンガは、
購入後船で運ばれ奈切の浜に積み上げられていたのを、
小学校に通う子ども達が学校帰りに持てる数だけ運び手伝いました。
女性達は浜で集めた蜷殻を焼き漆喰用の石灰を手作りし、
男性達は基礎工事用の石材やコンクリート工事用の資材の運搬を受け持つなど、
骨の折れる仕事も喜んで行いました。

こうして完成を見た楠原教会は大正2年、
コンパス司教により祝別、献堂式が行われました。
楠原の信徒ばかりでなく、水ノ浦小教区全体にとっても大きな喜びであり、
盛大な落成式であったと伝えられています。

その後年月の経過と共に楠原教会は徐々に傷みが出始め、
その都度部分的な補修が行われていましたが、
昭和43年には祭壇部分を含め大がかりな増築、
補修工事が行われ現在に至っています。
境内にはファチマの聖母と牧童達のかわいい像を配した一角があり、
こちらも祈りの場になっています。


所在地  /  長崎県五島市岐宿町東楠原

教会の保護者  /  聖家族


長崎県新上五島町  「 鯛ノ浦教会 」

2017-10-09 16:04:51 | 教会



コンクリートで造られた新しい 「 鯛ノ浦教会堂 」








新教会の裏に立つ 「 旧・鯛ノ浦教会 」
















旧・鯛ノ浦教会堂








原爆で崩壊した浦上天主堂の被爆レンガで造られた鐘楼















旧教会堂の裏にある 「 鯛ノ浦ルルド 」





上五島の鯛ノ浦教会は、明治13年(1880)パリ外国宣教会ブレル師によって、
現在の希望の灯学園の前身である養育院が建てられ、
翌14年(1881)地区信徒が待ち望んだ旧鯛ノ浦教会堂が建立された。
その後明治36年(1903)クゼン師によって建て替えられ、
さらに潮風のため、破損いちじるしく
昭和54年(1979)不漁続きで不況の最中、
信徒世帯当り80万円という巨額な拠出により
現在のスマートな聖堂に建て替えられ、
3月14日里脇大司教によって献堂された。
 
明治3年の鯛ノ浦六人斬りで知られるように
他の五島各地と同じように信徒の信仰は篤く、
敷地内に聖地ルルドを設け、
優しい慈愛の微笑みをたたえたマリア様を祀リ、
毎年5月と10月にはルルドヘの信仰を深めている。

美しい佇まいの旧聖堂の鐘楼は、
原爆で崩壊した浦上天主堂の被爆レンガで造られており、
現在、資料館として保存されている。
この地域の信徒の信仰は篤く、
上五島を訪れる観光客、巡礼者を引き付ける魅力を持っている。



所在地  / 長崎県新上五島町鯛の浦326
教会の保護者  / 聖家族


長崎県生月島  「 一部氏屋敷跡 」

2017-03-02 01:50:26 | 教会



「 壱部氏屋敷跡 」 の碑銘








一部氏屋敷跡の説明板







屋敷跡に建つお堂





生月島の壱部集落の児童公園になっている場所は、
かつて籠手田氏の一族で、
この地の領主であった一部勘解由 ( いちぶ かげゆ ) の屋敷跡です。

一部勘解由は籠手田栄の子で、一部氏の養子となった。
1557 ( 弘治3 ) 年、兄の籠手田安経 ( こてだ やすつね ) と共に
カーゴ神父から洗礼を受け、洗礼名はドン・ジョアンでした。

領主の洗礼によって、カトリックに入信するものが年々増えたが、
1563 ( 永禄6 )年に相神浦の戦において
ドン・ジョアン勘解由が戦死したため、
その子バルタザル大和正治が一部氏を継ぎました。

1582 ( 天正10 ) 年に、アントニオ籠手田安経も急死し、
その後キリシタンに対する弾圧が強くなり、
1599 ( 慶長4 ) 年、安経の子 ジェロニモ安一は、
バルタザル正治と共に、生月を逃れました。

今は、この地に堂が建てられ、旧8月29日を一部氏の命日として、
ゆかりの人びとによって 「 オラショ 」 が唱えられます。



映画 「 沈黙 - Silence 」   おろくにん様 と 中江ノ島 と ガスパル西

2017-01-23 01:24:46 | 教会



おろくにん様が葬られている聖地・ウシワキの森





「 映画 ・ 沈黙 - Silence 」 は、
遠藤周作が書いた外海のキリシタン時代の小説を映画化したものだが、
未だ映画を観ていないので何とも言えない。
ただ、禁教令後は平戸や五島、大村などでの徹底した弾圧で、
多くの殉教者を出している。

これまで 「 おろくにん様 」 や 「 中江ノ島 」 。
その他にも「 八体龍王 」「 ガスパル様 」のことを書いてきたが、
平戸、生月には、それ以外にも
「 ダンジグ様 」 や 「 パブロー様 」 などの殉教の聖地がある。


平戸島の切支丹資料館と根獅子浜との間にある聖地
それが「おろくにん様」を弔う「うしわきの森/ウシワキの森」です。

永禄9年 ( 1566年 ) のこと、
両親と娘3人が暮らす家に男が住み込みで働くこととなり、
やがて長女の婿養子となります。
娘が身ごもったため、両親は一家が潜伏キリシタンであることを男に告白すると、
男はどこかに行ってしまい、代わりに捕縛の役人たちがやってきました。

役人たちは村人全員が潜伏キリシタンであることを白状するよう一家に強要しますが、
村人たちをかばい、信者は家族の五人だけと告げて、
根獅子の浜で処刑されてしまいました。

「おろくにん様」とは長女のお腹の中にいた赤ちゃんを含めて6人の呼び名で、
根獅子の海に投げ捨てられた遺体は「うしわきの森」に埋葬され、
聖地として大切に守られています。

かつて「うしわきの森」の敷地内に入る際、真冬でも靴を脱いでいました。
今でも石の祠にお供えする際は、靴を脱いでお参りする神聖な場所です。

ちなみにウシワキとは、もともとこの森が 「 おおいしわき 」 と呼ばれ、
それが訛まってウシワキと呼ばれるようになったという。







波が光っている場所の浜から50mが、パライソ(天国)へと向かう根獅子浜の「昇天石」





根獅子浜は「日本の快水浴場百選」に選ばれた白砂の美しい遠浅のビーチで、
夏には数多くの海水客で賑わいます。
その浜の沖にある岩場が「昇天石」と呼ばれている聖地です。

「おろくにん様」が根獅子浜で処刑され、
海に打ち捨てられると曇天であったにも関わらず岩場に日があたり、
パライソへと招魂される様子が見えたと伝わっています。

その後も弾圧は続き、寛永12年 ( 1635年 ) には
70名もの信徒たちが根獅子の浜で処刑され、
海岸は血で真っ赤に染まったといいます。
「 おろくにん様 」 に続き、この浜で殉教した者は、
この岩からパライソへ向かうと信じられるようになり、
「 昇天石 」 と呼ばれて大切にされています。
海水浴をする子どもたちは、この岩には腰掛けないよう、
今も大人たちから言い聞かされるとのことです。







中江ノ島(サン・ジュワン)殉教地




中江ノ島 ( なかえのしま ) は、長崎県の平戸島と
生月島双方から約2キロの沖合にある長さ400m、幅50mの無人島で、
キリスト教が禁止された17世紀前半に
平戸藩によってキリシタンの処刑が行われたことから、
いわゆる隠れキリシタンの聖地となった。

1612年 ( 慶長17年 ) の江戸幕府による
禁教令後となる1622年 ( 元和8年 ) に平戸や生月で宣教し、
現在の田平町で火刑に処せられたカミロ・コンスタンツォ神父に協力した
ヨハネ坂本左衛門とダミヤン出口が、
次いでヨアキム川窪庫兵衛とヨハネ次郎右衛門、
さらに二年後には坂本と出口の子供三人を含む家族も中江ノ島で処刑された。
ヨハネ次郎右衛門は中江ノ島に向かう船の中で
「 ここから天国(パライソ)は、もうそう遠くない 」 と言ったと伝わる。
こうしたことから隠れキリシタンの間で、
中江ノ島は聖地 ( 天国への門 ) と見做されるようになり、
「 お中江様 」 「 お迎え様 」 「 サンジュワン様 」 などと呼ばれ、
島自体が信仰の対象となった。
神父がいないため隠れキリシタンは 「 お授け(洗礼 )」 の儀式を自ら取り仕切ってきたが、
その際に必要な 「 サンジュアンさまの御水(聖水) 」 を汲み取る
「お水取り」の行事が行われる場所となり、
平戸・生月のみならず西彼杵半島の三重村樫山からも授かりに来ていた。

中江ノ島は隠れキリシタンのオラショにも謡われている。


平戸以外にも 「 五島崩れ 」 といわれた久賀島の 「 牢屋の窄 」 など、
各地に牢屋が造られ、想像を絶する迫害が行われた。







大きな十字架が立つ 「 黒瀬の辻 」 殉教の地




生月島の山田教会のそばの道路から見上げる場所に
ひときわ大きな十字架がある。
そこが、ガスパル西が処刑された 「 黒瀬の辻 」 殉教の地である。

188福者のひとりガスパル西は、1609 ( 慶長14 ) 年に処刑され、
生月最初の殉教者となった。
十字架がたつ墓地 「 クルスの辻 」 での処刑を望んだという。
クルスが 「 黒瀬 」 となったらしい。

ガスパル西は、1556年 ( 弘治2年 ) 、生月島にて誕生。
2歳の時にガスパル・ヴィレラからカトリックの洗礼を受けた。
未亡人であったウルスラ・トイと結婚し、
その連れ子であったガスパル・トイと、
ウルスラとの間に生まれた息子3人、娘1人を育てた。

ところが、娘・マリアの嫁ぎ先の父であり、
キリシタンの取り締まりを行っていた近藤喜三が、
松浦鎮信に訴えたことにより捕らえられ、1609年 ( 慶長14年 ) に死罪となった。
その際にイエス・キリストと同じ磔刑を望んだが認められず、
生月島の黒瀬の辻で斬首に処せられた。
望んだ地での処刑であった。
また、妻ウルスラ、長男ジョアン ( ヨハネ ) 又一も同じように斬首された。

なお、次男・トマス六左衛門 ( トマス西 ) は、マニラでドミニコ会の司祭となり、
長崎に戻り潜伏しながら布教活動を行っていたところを捕らえられ処刑された。
三男・ミカエル加左右衛門は、広島の教会で奉仕を行っていたが、
兄であるトマス西をかくまったことを理由に、妻や子供と共に死罪となった。

ガスパル西とともに、妻ウルスラ、長男ジョアン又一は、
2008年 ( 平成20年 ) 11月24日に
日本で初めて長崎市で行われた列福式でカトリック教会の福者に列せられた。
また、次男トマスは1987年 ( 昭和62年 ) に
「 聖トマス西と15殉教者 」 として聖人に列せられている。



長崎県五島市  「 奥浦慈恵院跡 」

2017-01-20 14:23:59 | 教会



奥浦慈恵院跡に残る 「 マルマン神父 ( 右 ) とペルー神父 ( 左 ) と子どもの像 」









「 自由と愛の使者 マルマン神父とペルー神父と子どもたち 」 と書かれた碑







敷地内に残るマリア像





今は更地になった奥浦慈恵院・・・

1904年から2006年まで奥浦慈恵院があった場所に
マルマン神父とペルー神父と子どもの像と、
マリアさまの像が残されている。


堂崎教会に赴任した宣教師たちは福祉事業に乗り出した。
五島には貧しさゆえに育てることができない子どもたちが数多くいた。
フランス人宣教師マルマン神父らはその子どもたちを育てるため、
女性信徒たちと協力して大泊の民家に
「 子部屋 ( こべや ) 」 という養護施設をつくった。

次第に子どもの数が増えて手狭になると、
堂崎の教会に隣接する形で移転した。
教会堂の建て替えなどに伴って場所を転々としながら、
この施設は 「 奥浦慈恵院 」 として多くの子どもたちの命を救い育んできた。
現在もこの精神は引き継がれ、
キリスト教が説く愛をしっかりと実践している場所となっている。

明治の初め貧しさ故に闇に葬られようとしている赤ちゃんを集めて育てようと
奮闘する若い娘さんたちが自給自足をしながら必死に育てても、
捨てられた子供たちは体が弱く、
対岸にある診療所まで舟の櫓をこいで子供を連れていかねばならない毎日・・・・
そこで、 「 自分たちの仲間内から医師を育てよう 」 と、
優秀な女子を医者になるための学校へと進学させた。

そして、 「 女が3人がかりなら男1人前の仕事ができるだろう 」 と、
売りに出されていた精米所を購入して精米・製粉業をして資金源としたり、
日々の農作業や機織り、二人一組で、
しかも結婚した女性に見えるよう歯を黒く染めて行ったという行商・・・・。
行商の目的は現金収入、というのはもちろんのこと、
その時に捨てられた赤子がいれば再び連れて帰り、
家々を回りながら子供の里親を探したり、
はたまた貰われて行った先での里子の様子を確認したり、
そういう目的もあったのだそうです。

一人は子供を抱えて、二人は櫓を漕ぎ、奥浦から福江まで海を渡る小さな舟が目に浮かぶ。


長崎県平戸市  「 田平教会 」

2016-12-26 16:33:52 | 教会






































































































































 鉄川与助、最後の煉瓦造教会堂


田平(たびら)教会は、1886年以降、
黒島と出津(外海)から移住して来た信者が造り上げた。
両地域とも潜伏キリシタンが多かったが、明治になってカトリックに復帰し、
フランス人神父が常駐して教会も建てられた。
その後、人口が増えると、神父が田平に土地を購入して数家族が移り、
次第に移住者が増えていった。

最初は民家を仮聖堂としていたが、本格的な教会の建設を計画する。
信者の積立金に県内各地での募金や
フランス人篤志家の大口寄付を加えて資金を調達し、
信者の献身的な労働奉仕により、1918年に念願の教会ができた。
設計施工は鉄川与助で、多彩なレンガ積み手法、
ススを塗った黒レンガによる装飾など、
与助のレンガ造教会の最高峰とも言われる。
正面には八角形のドームを頂く鐘塔がそびえ、
内部のリブ・ヴォールト天井も本格的である。


教会は、平戸瀬戸を見下ろす高台に立地する。
司祭館や門柱、石段、石垣などが残り、周囲には墓地や畑が広がるなど、
歴史的環境がよく保存されており、2003年に国の重要文化財に指定された。


住所  / 長崎県平戸市田平町小手田免19
教会の保護者  / 日本二十六聖殉教者



長崎県久賀島  「 五輪教会 」

2016-12-24 16:01:48 | 教会



昭和60年に建立された新聖堂







民家を挟んだ隣に旧五輪教会がある。







シンプルなデザインの新聖堂






旧五輪教会は、明治14年 ( 1881 ) に浜脇教会として建てられた聖堂を
昭和6年 ( 1931 ) 現在地 に移築、信仰の拠り所とした。
昭和60年 ( 1985 ) 老朽甚だしかったので、
隣接して現在の聖堂を建立し、6月23日献堂された。

五輪教会に所属する信徒は、五輪地区及び
蕨小島に居住する住民総てで構成する信仰共同体であって、
過疎の波 に押し流され50数世帯あった信徒世帯も、
現在は五輪、蕨小島あわせても十指にも満たない世帯数に減少した。
五輪は久賀島においても最も不便な地区で、
現在でも車が入る道はなく、
漁業 によって生計を維持する住民は、
山を越えて歩くか漁船を利用するより方法 がない。
それだけに久賀崩れの迫害を生き抜いた先祖をもつ信徒の生活は素朴で信仰に篤い。

隣接する旧五輪聖堂は、外観は和風 建築でありながら
内部はゴシックという明治初期の教会建築史を物語る貴重な遺構として、
昭和60年 ( 1985 ) 長崎県の文化財として指定され、五島市が保存している。

ちなみにシンガソングライターの五輪真弓さんのルーツは
この久賀島五輪地区で、かつて祖父は旧聖堂でオルガンを弾いていたという。



所在地  / 五島市蕨町五輪
教会の保護者  / 聖ヨゼフ

交 通
福江港より
①福江から海上ククシー 20分
②五島バス 30分 奥浦波止下車 フェリー25分 田ノ浦波止下船
タクシー 蕨経由30分 徒歩40分

主日ミサ
日10:00 ( 第4 ) ( 6~9月は9:00 )
司 祭
ペトロ 下口 勲師 ( 兼任 )
パウロ  葛島 輝義師
主任教会 浜脇教会


長崎県佐世保市  「 大加勢教会 」

2016-12-23 13:34:37 | 教会







長崎県佐世保市鹿町は炭鉱の町として栄えていたこの地に、
生活の糧を求めて外海・浦上・田平地方の信徒が移住したのが始まりで、
大正7年(1918)教会を建立し、
2代目は老朽化に伴って信徒の拠金と炭鉱会社の援助によって
昭和22年(1947)4月教会を建立した。

その後3代目がご覧の教会で九十九島の美しい島々と
海を見下ろす丘に建てられている。
平成3年(1991)2月8日、島本大司教によって祝別された。

炭鉱の閉山に伴い、最盛期120戸を 超えた信徒世帯も減少し、
現在は鹿町の中央部に位置することで、若いサラ リーマンの家庭が多い。

大加勢教会、褥崎教会はともに
国立公園九十九島を眺望する緑の山麓にある小さな教会である。
自然の中にあって、静かに祈り、
すべてを神に託す長崎の信徒の心を映しているようである。
コバルトブルーの海に点々と浮かぶ島々と
緑の中の教会は深い信仰と愛に満たされていた。


所在地  /  長崎県佐世保市鹿町町長串4-5
教会の保護者  / イエスのみ心



長崎県平戸市根獅子 ・ ウシワキの森 「 おろくにん様 」

2016-12-22 03:00:26 | 教会





























平戸の根獅子 ( ねしこ ) 地区にある
聖地 「 ウシワキの森 」 には悲しい殉教の話が伝わる。
禁教時代、キリシタンの夫婦と三姉妹の家族の前にひとりの男が現れた。
夫婦はその男の働きぶりが気に入り、長女の婿として迎える。
やがて長女が身ごもったため、家族はもう大丈夫だろうと、
男に自分たちの信仰を打ち明けた。
しかし、翌日男は家からいなくなり、
代わりに役人が来て一家は捕らえられた。
身ごもった子どもも含め6人 ( おろくにん様 ) が根獅子の浜で処刑され、
遺体は海に捨てられたという。

村人たちはその遺体をこの雑木林に埋葬し、ここを聖地とした。
ウシワキとは、もともとこの森が 「 おおいしわき 」 と呼ばれ、
それが訛まってウシワキと呼ばれるようになったという。
神聖な場所として、昔は靴を脱ぎ裸足で森に入っていたらしい。




長崎県平戸市根獅子  「 昇天石 」

2016-12-21 12:21:21 | 教会



光の道に小さな波影が写っている辺りが 「 昇天石 」 の場所




















平戸島のほぼ中心にある根獅子浜は、
「 日本の快水浴場百選 」 に選ばれた白砂の美しい遠浅のビーチで、
夏には数多くの海水客で賑わう。
その浜の沖にある岩場が 「 昇天石 」 と呼ばれている聖地である。

「 おろくにん様 」 が根獅子浜で処刑され、
海に打ち捨てられると曇天であったにも関わらず岩場に日があたり、
パライソへと招魂される様子が見えたと伝わっている。

その後も弾圧は続き、寛永12年 ( 1635年 ) には
70名もの信徒たちが根獅子の浜で処刑され、
海岸は血で真っ赤に染まったといいます。
「 おろくにん様 」 に続き、この浜で殉教したものは
この岩からパライソへ向かうと信じられるようになり、
「 昇天石 」 と呼ばれて大切にされています。
海水浴をする子どもたちは、この岩には腰掛けないよう、
今も大人たちから言い聞かされるとのことです。



長崎県平戸市根獅子  「 ルルドのマリア様 」

2016-12-20 10:46:47 | 教会





















1858年2月11日、フランスの寒村ルルドで、
喘息を患っていた少女ベルナデッタに
聖母が出現された時の様子を再現しているものです。
出現されたマリアは腰にブルーの帯をしめ、手にはロザリオを持ち、
2月であるにもかかわらずマリアの足元にはバラの花が咲いていたという、
ベルナデッタの証言をもとに像にした特徴のあるマリア像です。

この洞窟から湧き出た水によって、
病気が奇跡的に治癒した例がたくさん報告され、
巡礼地として世界的にとても有名になった。

このルルドのマリア様は平成14年8月14日、
「 おろくにん様 」 殉教祭の日に紐差のカトリック信者が建立したもので
「 おろくにん様 」 に捧げられました。
ウシワキ様の井戸下に、殉教地昇天石を見守るように建てられている。


■根獅子教会跡■
布教時代の根獅子教会跡で元々寺であったと伝えられている。
通称寺の坂といい、もと僧のトメーが管理人として居たという。
1567年トメーは昇天石で殉教している。(信者伝承)



長崎県佐世保市鹿町町  「 神崎教会 」

2016-12-10 16:16:34 | 教会














































昭和5年(1930)4月29日に現聖堂が落成・祝別され、
同年6月25日早坂司教によって下神崎小教区が設立された。 
昭和55年(1980)50周年に際し大改修を行い、
全部の窓に使徒たちや聖書を題材とした美しいステンドグラスが施された。
しかし、1990年頃より聖堂の傷みが至る所に現れ、
改築以外建物の維持管理が不可能となってから10年以上、
新聖堂の建設に司祭をはじめ、
多くの信徒が物心両面を尽くして新しい聖堂の建設、献堂に漕ぎつけた。
2004年4月2日高見大司教の司式により祝別された。

旧教会は日本最古の鉄筋コンクリート造りによるゴシック様式で作られた。
迫害に耐えて守り通した信徒たちの信仰は、
教会の尖塔とともに九十九島の蒼い海に照り映えて美しく、
今後も文化財として保存方法を摸索中です。
昭和63年(1988)12月24日、旧教会裏山にルルドが建設され信徒の力で守られている。
新しい聖堂は場所も移動して、
県道から入り旧教会の300メートルほど手前の小高い丘の上に建てられた。



所在地  / 長崎県佐世保市鹿町町長串
教会の保護者  / 聖ベネティクト


長崎県平戸市根獅子  「 切支丹資料館 」

2016-11-17 10:51:12 | 教会







1550年 ( 天文18年 ) ポルトガル船が入港して以来、
平戸は日本最初の国際港として繁栄した。
と同時にキリシタン布教の地としても栄え、
特に生月 ( いきつき ) ・根獅子 ( ねしこ ) では、
住民全員が信者になったと言われています。

カクレ切支丹は、1587年( 天正15年)の豊臣秀吉及び
徳川家康のキリシタン禁止令等による弾圧時代に秘密の集団組織をつくり、
仏教・神道を隠れ蓑にしながら今もなお信仰を続けている信者達のことをいいます。
弾圧の目を逃れるために家の奥深く衣類や調度品をしまっておく暗い納戸 ( なんど ) で、
密かに礼拝を行っていた人達は、 「 納戸神信者 」 ともいわれています。
また神棚、荒神棚もそれに祀り、後には祖先の教えとして
信仰生活の中に納戸神と併列する位置をしめるに至りました。

聖具と儀式の精神を指導する宣教師のいない長い年月は、
信者を正統なキリスト教信仰から孤立させてしまい、
全く独自の宗教を創りあげてしまっています。
人達がいかに堅く口を閉ざし、秘密を守ってきたかは、
ほんの対岸に住む根獅子における信仰様式の違いにも顕著にあらわれています。
生月は、ジョアン次郎右衛門が 「 ここから天国はそう遠くない 」 と言って、
処刑された中江ノ島を聖地に、根獅子は大量の殉教者を出した根獅子ヶ浜を聖地とし、
それぞれ異なった組織形態、礼拝行事、代表口伝のオラショ ( 祈祷文 ) を受け継いでいます。
徳川時代から禁圧に耐え、信仰を守り続けた 「 カクレ切支丹 」 の聖なるご神体は、
400年の時を経て、今日でも各家の納戸の中に大切に隠され、礼拝されています。

納戸とは物置を指し、ここを寝屋にも用いました。
この納戸は窓のない薄暗い部屋で一般外客はもちろん、
家族もめったに出入りしない部屋です。
 
この納戸に、人目をかくれて、カクレ切支丹の母体が秘蔵され、祭られています。
平戸市切支丹資料館館内では、この納戸神を中心に配置した納戸神さまを展示しています。



所在地  /  長崎県平戸市大石脇町1502-1
開館時間 /  9:00~17:30
休館日  /  水曜日
電話   /  0950-28-0176
入館料  /  大人 200円 / 高校生 150円 / 小中学生 70円


長崎県佐世保市鹿町町  「 カトリック褥崎聖ペトロ教会 」

2016-11-08 04:02:57 | 教会














褥崎 ( しとねざき ) 教会は、島原の乱に敗れて五島へ逃れた信徒が、
キリシタン弾圧の追及をさらに逃れてこの地に住み着いた者の子孫で、
最初浜辺に民家風の聖堂を持ち、ミサに与かっていたが、
昭和42年(1967)8月10日、下神崎小教区より分離され、
小教区として設立されるとともに高台に現聖堂を建立。
10月18日山口大司教によって祝別された。

この地区は漁業が盛んで若い人が多く、
殉教者の血を受け継いだ信徒の信仰は篤い。
先祖が長い迫害の時代から解放され、信仰の自由を手にした喜びを祝い、
故郷五島と祖先の信仰を偲び、始めたアヤタケ踊りが伝わっていて、
祝日などに披露される。


所在地  /  長崎県佐世保市鹿町町長串1089
教会の保護者 /  聖ペトロ


長崎県長崎市  「 高鉾島殉教地 と 岬の聖母 」

2016-11-05 10:10:10 | 教会



「 伴天連 ( バテレン ) の山 」 と呼ばれた高鉾島









高鉾島と神ノ島教会の中間にある岬の聖母像





























神ノ島教会と岬の聖母像






神ノ島の沖合にある高鉾島では、
宣教師の宿主・ガズパル上田彦次郎と、
アンドレア吉田が島に連行され、
元和3年 ( 1617年 ) 10月2日の早朝に、
多くの人の前で斬首、処刑された。
遺体は西坂で殉教した人々と一緒に海に投げ込まれた。
そんな島をオランダ人は、Papenberg ( 伴天連の山 ) と呼んだ。


岬の聖母像は、ザビエル渡来400年と海の航海安全を願って、
昭和23年 ( 1948年 ) に、
神ノ島教会堂の下の岩の上に1.7mの聖母像が建てられたが、
風雨に晒されてい痛んだので、昭和59年 ( 1984年 ) に、
現在の高さ4.7mの聖母像に代わった。