「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、、文化財および近代土木遺産をめぐる。

熊本県菊池市 ・ 正観寺 「 菊池武光の墓 」

2019-01-16 14:48:07 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )









































菊池公園にある第15代当主菊池武光公の騎馬像。






菊池市のシンボルとして建てられたこの騎馬像は、日本有数の大きさを誇り、
騎馬像のある菊池市民広場は、市民や訪れる人々の憩いの場となっている。
菊池武光は、南朝軍の主力として征西将軍・懐良親王を擁し、
4万の軍勢を率い戦いを繰り広げた。
特に 「 大原の決戦 」 における迂回隊の利用、
敵主力に対する正面よりの縦深突破などの武勇伝がある。

また、菊池武光が血刀を川で洗ったという故事により、
福岡県の大刀洗町の由来となった。


熊本県菊池市 ・ 正観寺 「 菊池16代当主 菊池武政の墓 」

2019-01-06 12:00:00 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )






























菊池 武政 ( きくち たけまさ )、
興国3年/康永元年(1342年) - 文中3年/応安7年5月26日(1374年7月6日))は、
南北朝時代の武将であり、菊池氏の第16代当主である。
第15代当主菊池武光の子で、良政の兄。通称は菊池次郎と呼ばれていた。

父、武光と共に九州における北朝勢力と戦い筑後川の戦いにも従軍、
建徳2年/応安4年(1371年)7月に九州探題今川了俊の嫡男貞臣と
田原氏能が籠城した高崎山城を攻撃、
翌文中元年/応安5年(1372年)2月に肥前に上陸した了俊の弟仲秋を攻めたが敗れ、
大宰府を捨てて父と共に高良山に逃れた。
文中2年/応安6年(1373年)11月に病死した父の後を受けて家督を継いだが、
阿蘇惟武に援軍を要請する必要に迫られるほど
菊池氏の勢力は逼迫するようになったと言われている。

家督継承後から半年後の文中3年/応安7年(1374年)5月26日、
戦いで負った傷がもとで病没。享年33歳。
遺体は熊本県菊池市正観寺に葬られ、子の武朝が後を継いだ。法名は志行。


熊本県菊池市 ・ 正観寺 「 菊池武澄の墓 」

2018-12-26 12:00:00 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )






















墓は左手奥にある





菊池 武澄 ( きくち たけずみ )
生年不詳  ( ? - 正平11年/ 延文元年6月29日(1356年7月27日) ) は、
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
菊池氏第12代当主・菊池武時の子。
子に菊池武安。詫磨(詫間)氏の祖で、
菊池氏第25代当主となる菊池武包は来孫にあたる。

建武の新政のとき、父の戦功により後醍醐天皇より肥前守に任じられた。
1348年、兄弟の武光と共に後醍醐天皇の皇子・懐良親王を肥前に迎え、
以後は親王を擁して武光や阿蘇惟澄と共に九州各地の北朝勢力と戦い、
これを破った。1351年には筑後溝口城、
1353年には一色氏、1355年には大友氏泰と
一色範氏相手と南朝勢力拡大のための戦いに明け暮れた。
しかし翌年6月初旬に病に倒れ、平癒を祈って寺院を建立しようとしたが、
その甲斐なく6月29日に死去した。
死後、武澄の妻によって紫陽山廣福寺が完成した。

大正13年(1924年)2月11日、従三位を贈られた。



熊本県菊池市 ・ 正観寺 「 菊池 ( 高瀬 ) 武国の墓 」

2018-12-19 11:20:11 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )



守護代として、主に武朝を支えた菊池(高瀬)武国公墓。




























菊池氏 ( きくち し ) は、日本の氏族の一つ。
本姓を藤原氏とし、九州の肥後国菊池郡 ( 熊本県菊池市 )を本拠としていた一族である。
明治維新の立役者 (維 新の十傑の一人 ) 西郷隆盛も菊池一族の末裔と伝わる。

天正15年7月隈部親永・親泰父子は、
秀吉の朱印状を盾に検地を拒否して挙兵した。
佐々成政は直ちに7,000人の兵を率いて本拠にしていた隈本城を発し、
親永の籠る隈府城を攻撃、落城させる。
親永は親泰の籠る城村城へと逃亡、佐々成政はこれも包囲したが、
思いのほか守りが堅く攻略に手こずった。
親永は甲斐親英と謀り、国人ら35,000余に兵を挙げさせ、
和仁親実・菊池武国らに率いられた一揆軍は隈本城を攻囲するに至った。
そんな肥後国衆一揆に参加した菊池武国は武治の孫・石坂次郎武国が改名したものである。


鹿児島市  「 西郷隆盛の墓 」

2018-12-16 18:36:29 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )








桜島を望む丘の上にある 「 南洲墓地( なんしゅうぼち ) 」 には、
西南戦争後、城山や鹿児島県内のみならず、
宮崎・熊本・大分の各県から集められた薩軍兵士2023名が眠っている。
西郷隆盛を囲むように兵士の墓が並んでいるほか、
西郷らを支援した鹿児島県初代県令 ( 知事 ) ・大山綱良の墓や、
西郷と深い親交があった勝海舟が亡き友のために詠んだ歌碑が建っている。



鹿児島県鹿児島市  「 西郷隆盛生誕の地碑 」

2018-12-09 15:45:41 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )








西郷隆盛が生まれた鹿児島市鍛冶屋町は元下級武士の町で、
西郷の他、大久保利通、大山巌、東郷平八郎らを輩出した所である。
各氏の誕生地の碑が建っている。

西郷隆盛は、大久保・木戸とともに維新の三傑といわれた。

文政10年(1827)、小姓与の吉兵衛の長男として生まれ、
郷中教育の中で文武に励み、禅学も修めた。
17才で郡方書役助となり、やがて島津家28代当主斉彬に登用され、
将軍継嗣及び条約勅許問題に奔走した。
しかし、安政の大獄に斉彬の急死も重なって帰藩した。
その後、僧 月照との投身事件を起こしたものの、一命はとりとめた。

その後、2度の島流しを体験し、元治元年(1864)召還後、
藩政の中核として活躍し、維新の原動力となった。

維新後、新政府の参与、参議、陸軍大将などとなり、
廃藩置県、兵制、地租改正等を断行したが、
いわゆる征韓論に破れて帰郷し、私学校を設立した。

明治10年(1877)私学校生徒の決起により、西南戦争が起こり、
圧倒的な政府軍の前に、城山の露と消えた。



熊本県菊池市 ・ 正観寺 「 大方元恢和尚と秀山元中和尚の墓 」

2018-12-08 20:44:11 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )



菊池一族の墓の上に正面にある大方元恢和尚 ( 左 ) と秀山元中和尚 ( 右 ) の墓









墓の説明板







階段の突き当りに僧侶の墓がある







大方元恢和尚の墓







秀山元中和尚の墓





向かって左の大方元恢 ( たいほうげんかい )の墓。
?-1368 南北朝時代の僧。
臨済 ( りんざい ) 宗。
筑前 ( ちくぜん ・ 福岡県 ) 円覚寺の秀山元中に師事してその法をつぎ、
のち鎌倉建長寺の嵩山居中 ( すうざん-こちゅう ) に師事。
懐良 ( かねよし ) 親王と菊池武光の帰依 ( きえ ) をえて
肥後 ( 熊本県 ) に正観 ( しょうかん ) 寺をひらいた。
応安元=正平 ( しょうへい ) 23年6月9日死去。
肥後出身。


向かって右の秀山元中 ( しゅうざんげんちゅう ) の墓  
1283~1349 法雲普濟禅師
信濃の人、薬翁徳倹に参ず。
筑前の円覚寺、相模の瑞泉寺、豊後の長興寺、聖福寺に住した。
塔頭継光庵創建
貞和5年 ( 1349 ) 5月7日示寂 世寿67歳

正観寺には、開山の秀山元中和尚や
大方元恢和尚の画像 ( ともに県指定文化財 ) や
市指定文化財の木造地蔵菩薩座像 ( 室町後期の作 ) もある。


長崎県新上五島町今里郷  「 今里平家塚と中世墳墓群 」

2018-10-03 11:07:25 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )





























壇ノ浦で敗れた平家の落人が今里の山中に隠れていましたが、
源氏の追討から逃れることができないと全員自害しました。
これを哀れに思った村人が手厚く葬り、
碑石を建てて供養したものといわれている。


福岡県矢部村  「 良成親王御墓 」

2018-09-21 14:28:22 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )























































































































被葬者:良成親王(後村上天皇皇子)
墓  名:良成親王墓(よしなりしんのうのはか)
墓  形:円墳
所在地:福岡県八女市矢部村北矢部


北矢部御側 ( おそば ) 集落にある大杣公園の良成親王陵墓。
良成親王は征西将軍の職を叔父の懐良親王 ( かねよししんのう )  から譲り受け、
南朝方の将軍として九州を守っていた。
しかし、中央における吉野南朝の衰退によって大勢は一変、
1372年に大宰府が陥落し、
良成親王も失意のうちに元中9年 ( 1392年 ) 、
ここ大杣の御所で35歳という若さで亡くなられた。
現在でも、命日である10月8日には
親王を偲ぶ 「 大杣公園祭 」 が催され、浦安の舞が奉納される。
なお、周辺の御側 ( おそば ) という地名は
親王の「 お側 」 に仕えた人々が、
親王亡 き後に住んでいたためといわれている。


良成親王(よしなりしんのう/ながなり )は、
南北朝時代から室町時代初期にかけての南朝の皇族。

近世の南朝系図によると、後村上天皇の第七皇子で、
母は越智家栄の女・冷泉局( 新待賢門院冷泉 )とされるが、
同時代史料には名が見えないため、親王の実在自体を疑う説は少なくない。
だが、征西将軍懐良親王( 後醍醐天皇皇子 )の跡を継承して
九州南軍を指揮した後征西将軍宮(のちのせいせいしょうぐんのみや)とは、
良成親王に比定されるのが旧来の通説であり、
他に有力な異説も見当たらないため(後述)、
本項では後征西将軍宮の事績を親王のそれとして記述する。


熊本県菊池市  「 菊池能運 ( よしゆき ) の墓 」

2018-08-09 16:05:02 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )




































菊池能運は、重朝の嫡子である。
はじめは武運と名乗っていたが、
 「 不運 」 につながるとして改名したとされる。
隈部氏をはじめとする家臣団の離反や、
大叔父の宇土為光 ( 二十代為邦の弟 ) の反乱などがあり、
一時期は守山城も奪われ島原に避難する。
その後奪還には成功するものの、
この時の戦傷が元で23歳の若さで死去した。
菊池一族直系としては最後の惣領となった。

墓所は熊耳山正観寺の、
実相院があったとされる場所 ( 現菊池グランドホテル前 ) にある。


菊池能運の墓正観寺にある能運の墓。夫婦の墓とされる。
正観寺は、最盛時には本坊のほか多くの院坊があったとされ、
実相院はその一つである。


大分県中津市 ・ 中津城内 「 三斎池 ( さんさいいけ )  」

2018-07-17 13:58:37 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )



三斎池(さんさいいけ)ー中津城跡ー










慶長5年(1600)関ヶ原の戦などの功によって
黒田長政は筑前五十二万石となり、如水とともに中津を去った。
黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と
豊後の国東(くにさき)・速見(はやみ)の二郡の領主として入部した。

忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元(おきもと)を小倉城においた。

慶長7年忠興は、居城を小倉城に変更した。
元和6年(1620)家督を忠利(ただとし)に譲り、忠興は三斎と号し隠居した。
翌7年三斎は中津城に移り、中津城や城下町の整備を黒田氏の後を引き継いで行った。
この時、城内の用水不足を補うため、城内への水道工事を行った。

工事は、山国川の大井出堰(おおいでぜき)ー三口(みくち)ーから
水道を城内まで導く大工事であった。
その水をたたえたのがこの池であり、鑑賞や防火用水としても使用された。
忠興の号”三斎”の名を冠して 「 三斎池 」 という。
現在は、中津上水道を引いている。



大分県中津市  「 生田門 ( しょうだもん ) と南部小学校 」

2018-07-09 12:00:00 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )
















南部小学校の校門は生田門とよばれ、
筆頭家老生田四朗兵衛の屋敷門で大手門のそばにありました。
明治4年、福沢諭吉の中津市学校創設の趣旨に基ずいて
 「 市学校 」 が旧藩主奥平昌遭の資金援助で開校し、
初代校長は小幡篤次郎、教師は慶応義塾から派遣され、
英語(本科)漢学(別科)を教え、600人余りの学徒が
関西、九州各地から集まり関西第一の英学校といわれ、
その後女子部、小学部が設置されます。

明治16年、西南戦争とその後の経済状態悪化のために閉校になってしまいます。
明治43年中津南部小学校として開校して、再び正門として使用されます。


熊本県菊鹿町   『 石工 ・ 仁平の墓 』

2018-06-03 08:16:54 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )











100基ほどある墓の向かって右端に墓がある








木の柱には仁平の簡単な経歴が書かれている








墓石の裏には 俗名 石工仁平 と刻まれている







墓の横側に 「 寛政二庚戌年 十二月五日 」 と刻まれている







墓の前にある「 菊鹿町公民館 」






石工 「 仁平 ( にへい ) 」 は、
加藤清正が熊本城を築城した時、
連れてきた近江 ( 滋賀県 ) 石工の子孫で、
長崎で石橋の技術を習得し、
帰郷後、黒川の眼鏡橋や
門前川橋 ( 御船町 )などを造ったといわれており、
熊本で最も古いアーチ石橋技術者であったと思われる。

「 肥後の石工 」 のルーツは、熊本城ともつながっているのである。
熊本城の石垣は、 「 武者返し 」 という特殊な石垣で、
まさにアーチ石を横にしたようなものだから、この説は妙に納得できる。
 ( 種山石工も、アーチの工法を、
お寺の屋根の曲線 ( 寺勾配 ) の工法を参考にしたそうで、
肥後の石工のアーチ工法が単なるポルトガルや中国の物まねでなく、
独自の工夫やアイデアを加味したもので、
まさに日本独特の工法であることが解る )

仁平は、石橋の他に、六地蔵や鳥居、仁王像などの秀作を残している。
肥後の石工の中で、最初に活躍した石工集団
 「 仁平グループ 」 のリーダーである。
植木町に残る豊岡橋 ( 享和2年、1802年 ) を架けた
理左衛門も仁平の石工集団の一員である。
中国式のアーチ石橋と言われる 「 リブアーチ 」 にその特徴を残している。
 

石工仁平、益城郡上嶋村の石工三九郎が男也。
親共に下内田村大塚に在し、庄屋喜兵衛が名子たり。
或日仁平肥前に赴き、石虹の法を伝習し、
太田川の流れに一虹を架し試む。某橋大塚の前に今猶存す。
幅二尺に未たず小虹也。
然して天明二年 ( 1782 ) 阿蘇郡黒川の虹を架す。
是当国石虹の始にして、今所々に架するは仁平を以って祖とす。
 ( 以上、山鹿郡史より )

墓は菊鹿公民館 ( 山鹿市菊鹿町下内田 ) 裏側の100基ほどの中にある。
墓石の裏には俗名 石工仁平と刻まれ、
横には寛政二庚戌年 十二月五日と記されている。


熊本県菊池市隈府  「 菊池武光の騎馬像 」

2018-05-28 13:26:05 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )


































菊池市民広場の中央にあるのは、
今から約650年程前の南北朝時代の武将、
第15代当主菊池武光公の騎馬像で、
後醍醐天皇の御子である懐良 ( かねなが ) 親王を征西将軍に迎え、
南朝方として室町幕府と戦い、一時は九州を平定するなど活躍した。

菊池市のシンボルとして建てられたこの騎馬像は、
日本有数の大きさを誇り、騎馬像のある菊池市民広場は、
市民や訪れる人々の憩いの場となっている。



熊本県菊鹿町  「 隈部親永と一族十二名の墓 」

2018-05-17 13:41:26 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )































先日紹介した  「 隈部氏館跡 」  の裏山にある隈部親永と一族十二名の墓である。

戦国時代、菊池氏が滅亡したのち、
その本城だった隈府城は、赤星 ( あかほし ) 氏、
ついで隈部 ( くまべ ) 氏が城主となった。
戦国末期、佐々成政 ( さっさなりまさ ) が肥後国主のとき、
肥後国人一揆の発端となる隈府城籠城戦を起こしたのが
隈部親永 ( くまべちかなが ) である。
隈部氏は、清和源氏・宇野氏の末裔といわれ、代々菊池氏の重臣であった。

天正八年 ( 1579 )、龍造寺勢が肥後へ進攻、
筒ヶ岳城 ( つつがたけじょう ) 、長坂城を落とす。
翌天正九年 ( 1580 ) 、龍造寺勢は再び肥後へ進攻、隈府城を取り囲んだ。
城主・赤星統家 ( あかほしむねいえ=親隆ちかたか、
道半どうはん ) は人質を出して降伏、
合志氏の竹迫城 ( たかばじょう ) へ移った。
これにより、隈部親永は隈府城へ入り、ここを本拠とした。
隈部館には、一族の富田氏続を城代として置いたという。
隈部氏の勢力は山鹿郡、菊池郡に及び、国人とはいっても大勢力となった。

このあとの親永の活躍は隈府城を中心として行われる。
そして、天正十五年 ( 1587 ) 、肥後国主となった
佐々成政 ( さっさなりまさ ) に反抗、
国人一揆 ( こくじんいっき ) へと騒動が拡大していく。
親永は息子の第二十九代・隈部親安 ( くまべちかやす ) とともに戦ったが、
黒田如水 ( くろだじょすい ) らの説得に応じ開城、
親永は柳川城の立花宗茂 ( たちばなむねしげ ) へ、
親安は小倉城の毛利勝信 ( もうりかつのぶ ) へ預けられ、
やがて両人とも切腹させられた。
だまし討ちともいう。
そして、 隈部氏はここに滅んだ。