「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、、文化財および近代土木遺産をめぐる。

原 民喜  「 夏の花・心願の国 」

2018-05-26 06:37:08 | 文学・文化・映画作品








ボクのブログに訪問してくれる人で、
  「 あなた知ってる?広島 」  というブログがある。

これは広島に住む裕さんのブログであるが、
そのブログに 原 民喜さんの墓 が紹介されていた。
その墓というよりも、原 民喜の名前にハッとした。

 「 夏の花 ・ 心願の国 」 は、
朝鮮戦争勃発のさなかに自殺して逝った
原 民喜の代表的作品である。

昭和50年初期のことだから、
かれこれ数十年前に読んだ彼の作品が、
途切れ途切れの記憶の中で甦ってきた。

真夏ノ夜ノ
河原ノミズガ
血ニ染メラレテ ミチアフレ
声ノカギリヲ
チカラノアリッタケヲ
オ母サン オカアサン
断末魔ノカミツク声
ソノ声ガ
コチラノ堤ヲノボロウトシテ
ムコウノ岸ニ ニゲウセテユキ

など、
原爆の悲惨な情景が鮮明に浮かぶ文字の羅列に、
頭で想像という映像や画像を流し、強い衝撃を受けた
 「 夏の花 ・ 心願の国 」 だった。


福岡県添田町  『 谺して 山ほととぎす ほしいまゝ 』  杉田久女 

2018-04-09 14:28:46 | 文学・文化・映画作品











英彦山神宮にある 「 谺して山ほととぎす・・・ 」 の句碑









英彦山神宮へ続く参道





  『 谺 ( こだま ) して 山ほととぎす ほしいまゝ 』 


杉田久女は、高浜虚子門下の俳人である。
結婚後、二十代後半になって兄から俳句の手ほどきを受けて、
「 ホトトギス 」 に投稿を始め、
頭角を現し、大正中期から昭和初期の俳壇に久女旋風を巻き起こした。
当時は婦人運動の台頭期であり、新しい時代の風を感じ取る鋭い感性を持ち、
芸術的衝撃を俳句に結晶させた人といえる。


 谺して山ほととぎすほしいまゝ

この句は昭和6年 ( 1931年 ) の 「 日本新名勝俳句 」 募集で、
帝国風景院賞金賞を受賞して話題になった句で、彼女の代表句でもある。

久女は何度も英彦山に足を運び、幽玄な雰囲気の中で彼女の言葉を借りれば、
「 嶮谷 ( けんこく ) に谺してじつに悠々と、また切々と自由に 」
ほととぎすが鳴いている様子を詠んでいる。

久女は、この句をきっかけに俳誌 「 ホトトギス 」 の巻頭を何度も飾り、
「 ホトトギス 」 同人に推された。
そんな久女が通った英彦山に神宮奉幣殿 ( ほうへいでん ) 下にこの句碑がある。

英彦山は、大峰山 ( 大和 ) 、 羽黒山 ( 出羽 ) と並ぶ我が国三大修験道の山で、
最盛期には三千の衆徒が住み、八百の坊舎があったといわれ、
参道両側の修験者屋敷跡に、その面影がしのばれる。
また、奇岩奇石に富み、山頂付近のブナの原生林や
南岳の南腹の鬼杉など、植物の宝庫である。
その英彦山一帯は国定公園第一号の指定を受けている。

英彦山神宮は、天忍穂耳命 ( あめのおしほみみのみこと ) を祭っており、
奉幣殿 ( 国の重要文化財 ) が最大の社殿である。
他に倉庫である板倉や銅の鳥居、
雪舟が築いたといわれる旧亀石坊庭園などがある。

豊前坊の高住神社 には久女のもうひとつの句碑がある。




高住神社にある 「 橡の実つぶて・・・ 」 の句碑





  橡 ( とち ) の実の つぶて颪 ( おろし ) や 豊前坊 


トチの実が風にあおられて小石のように降ってくる様子を細密に詠んでいる。


杉田久女、本名 杉田久子。
明治23年 ( 1890年 )鹿児島に生まれる。
明治41年 ( 1908年 ) 東京のお茶の水高女を卒業。
翌年、画家の杉田宇内と結婚する。
「 ホトトギス 」 に初出句後、虚子に会い、師事する。
昭和11年 ( 1936年 ) 虚子の拒絶に遭い、
昭和21年 ( 1946年 ) 57歳で没した。


熊本県益城町 ・ 矢嶋姉妹 「 四賢婦人記念館 ( 旧矢嶋家 ) 」

2017-09-28 11:51:41 | 文学・文化・映画作品












































今回の熊本訪問は、選手時代の先輩に会うのと、
かねてから訪れてみたいと思っていた
竹崎順子、徳富蘇峰らが育った益城町杉堂への旅だった。

震災の被害が大きかった熊本県益城町立津森小学校の横にある四賢婦人記念館は、
この村の出身者の竹崎順子・徳富久子・横井つせ子・矢嶋楫子の資料館である。
「 四賢婦人記念館 」 は、江戸時代後期に益城町杉堂に建てられた、
惣庄屋矢嶋忠左衛門直明の旧家屋を移築したもので、
館内には、矢嶋家や徳富蘇峰に関する古文書や生活用品を展示しているが、
熊本地震の影響で現在は閉館中である。

また、記念館の敷地内には矢嶋家姉妹の功績を称えた 「 四賢婦人誕生地之碑 」 は
上部の碑は倒れ台座のみが残っている。

矢嶋家は、 「 熊本の猛婦 」 ・ 「 四賢婦人 」 と称され、
近代日本における女子教育や婦人解放運動に尽力し、
今日の男女共同参画社会の礎を築いた竹崎順子・
徳富久子・横井つせ子・矢嶋楫子を輩出しています。
矢嶋家は、幕末の思想家で明治新政府の参与となった横井小楠との関係が深く、
長男直方 ( 源助 ) をはじめ、矢嶋家姉妹の配偶者らも門下生として小楠に師事した。

また、雑誌 『 国民之友 』 、 『 国民新聞 』 を主宰した
近代日本を代表する言論人徳富蘇峰も、
文久3 ( 1863 ) 年に徳富一敬・久子夫妻の長男として、
母方の実家であるこの家で生まれている。
生前の蘇峰はこの家を訪れ、
昭和27 ( 1952 ) 年には 『 生誕之記 』 を執筆し、
潮井神社 ( 杉堂 ) に記念植樹をしています。



竹崎順子は、幕末~明治期の女性教育者。
旧姓矢島。竹崎茶堂に嫁し、夫を助けて農業と子弟の教育に当る。
夫と兄矢島源助を通じて横井小楠の影響をうける。
海老名弾正に従いキリスト教に入信。
夫の死後は女子教育に専心し熊本女学校生徒監督・同校長となる。
矢島楫子は妹・徳富蘇峰・蘆花は甥。
明治38年 ( 1905 ) 歿、84才。


徳富久子は、1829-1919 幕末-明治時代の女性。
文政12年4月生まれ。肥後熊本藩郷士矢島直明の娘。
漢学者徳富一敬(かずたか)と結婚し,徳富蘇峰(そほう),蘆花(ろか)の兄弟を生む。
のち東京にうつり,妹の矢島楫子(かじこ)の
日本基督 ( キリスト ) 教婦人矯風会の仕事を助けた。
姉に熊本女学校長の竹崎順子。
大正8年2月18日死去。91歳。


横井つせ子は、矢嶋家の五女で、横井小楠に嫁ぎ、
明治維新の立役者小楠を内から支えた女性です。


矢嶋楫子は、 [ 1833~1925 ] 女子教育家。肥後の生まれ。
女子学院の初代院長をつとめ、キリスト教に基づいた教育を行った。
明治26年 ( 1893 )日本基督教婦人矯風会を設立して会長となり、
婦人運動・社会改良事業に尽くした。


〔 所在地 〕 上益城郡益城町大字上陳436


鹿児島県奄美大島 / 加計呂麻島 ・ 映画 「 海辺の生と死 」

2017-08-21 13:14:54 | 文学・文化・映画作品



加計呂麻島にある安脚場戦跡 「 金子手崎防備衛所 」






















安脚場戦跡 「 爆薬格納庫 」




















わずかに見えるトーチカ跡














加計呂麻島の呑之浦にある特攻船 「 震洋 」 の格納庫





















震洋が格納されていた 「 呑之浦 」








斎藤隊5人が戦死した砲台跡







第一砲台跡















奄美大島嘉鉄から加計呂麻島待網崎を望む大島海峡








奄美大島と加計呂麻島の間の大島海峡の夜明け








ロケが行われた 「 加計呂麻島諸鈍長浜 」








奄美大島 「 ホノホシ海岸 」






加計呂麻島出身で 「 死の棘 」 などで知られる作家の島尾敏雄の妻、島尾ミホが書いた
「 海辺の生と死 」 が映画化され、その役を満島ひかりが演じる。
満島ひかり自身のルーツが奄美大島だということから、
この作品にかける思いも一入だった。

加計呂麻島と奄美大島のふたつの島を背負って演じたというだけあって、
島の風に溶け込んでいた。

奄美大島と加計呂麻島の間の大島海峡は、
軍事的にも大きな役割を果たしていたため、
その防備衛所が加計呂麻島の安脚場に設置されていた。
また、島尾敏雄の文学碑がある 「 呑之浦 」 には、
特攻船の 「 震洋 」 が配置され、特攻を待たずに終戦を迎えた。

映画のロケは奄美大島と加計呂麻島で行われており、
お互いの島が持っている雰囲気がそのままスクリーンに映し出される。



福岡県芦屋町 ・ 野見山朱鳥 「 鵜の湾を 八重の冬波 ・・・ 」

2017-06-13 10:58:44 | 文学・文化・映画作品



野見山朱鳥の句碑  ( 昭和45年(1970)8月 )


              


  鵜の湾を 八重の冬波 うちしらめ



魚見公園国民宿舎右側裏の高台にあるこの句碑は、
昭和44年2月芦屋海岸で詠われたものである。
定礎として生前、野見山朱鳥が句作に指導に旅行等に巡歴、
その足跡を残されたゆかりの地、
北は北海道から南は鹿児島までの
全国各地から真心もって寄せられた石、砂、土、
噴火若、熔岩、陶片、埴輪、苔、木の葉など90余点を埋めてある。
こうして真心を籠めて建立した此の句碑は、
全国に魁け野見山朱鳥の第一号のものである。

野見山朱鳥は大正6年 ( 1917 ) 直方市に生れ、
昭和20年 ( 1945 ) よりホトトギスにより高浜虚子に師事する。
昭和27年 ( 1952 ) 直方にて俳句雑誌 「 菜殻火 ( ながらび ) 」 を創刊、
その主宰であった。
野見山朱鳥は昭和45年2月52歳という若さで逝去された。



福岡県芦屋町 ・ 藤本春秋子 「 月の夜の 稲架けあます ・・・ 」

2017-05-30 10:45:26 | 文学・文化・映画作品



藤本春秋子の句碑 ( 昭和53年 ( 1978 ) 4月 )


          


  月の夜の 稲架けあます 古墳の前



魚見公園国民宿舎右側裏の高台上り口にあるこの句碑は、
「 浜木綿俳句会 」 会員たちが、
藤本春秋子の還暦祝いと同会創立二十周年を記念して句碑を建立したもので、
藤本春秋子は、芦屋町の俳誌 「 浜木綿 」 の主宰である。

句碑がある魚見公園は、
柏原道左側の小山の上こゝからは響灘の海上一面が見わたせる。
魚の群がくると波の色が変るので、
この山上に見張りが立っていて
魚群の来たことを浜に待期する漁夫に、
どの方向に魚群がおるかを知らせた魚見番所があった場所で、
魚見山というのは、古くから名づけられていた呼称である。



福岡県久留米市  『 我が国は筑紫の国や・・・ 』   青木 繁

2017-04-12 16:50:14 | 文学・文化・映画作品



青木がふるさとを思って詠んだ和歌を、息子の福田蘭童が揮毫したものである。








柳坂曽根のハゼ並木に建つ歌碑。






青木繁は久留米市が生んだ明治の天才画家である。
彼は画家以外にも歌人としてもその才能を発揮して、
「 うたかた集 」 と 「 村雨集 」 のニ歌集を残している。


 我が国は筑紫の国や白日別 ( しらひわけ )
        母ゐます国 櫨多き国



「 わがくには つくしのくにや しらひわけ ははいますくに はじおほきくに 」

白日別け ( しらひわけ ) は古事記の文中では 「 筑紫(つくし) 」 と同じ意味で
どちらも現在の筑前・筑後地方のことさしている。
櫨は 「 はじ 」 と読み、はじとは櫨の木の古語であり、
古事記や万葉集などに登場している。
当地方では木蝋をとるために幕末の頃から栽培が盛んで、
かつての筑後平野の晩秋から初冬にかけての紅葉は、さながら櫨の国の景観だった。
また、この短歌中の 「 はじおおきくに 」 の 「 はじ 」 は
櫨と恥をかけたことばであるという説もある。



青木 繁は現在の福岡県久留米市荘島町で、
旧久留米藩士である青木廉吾の長男として生まれた。
武士の系譜を引く父は厳格な人物で息子の画家志望を聞かされた時、
「 美術だと。武術の間違いではないのか 」 となじったという逸話が残っている。

青木は同じ久留米生まれの洋画家坂本繁二郎とは同い年で小学校の同級生、
そして終生の親友であった。
同時代人の証言や本人による『自伝草稿』によれば、
青木は歴山帝に憧れる早熟な文学少年であったとされる。
絵画のほかに短歌もよくし、28年の短い生涯に多くの文章を残している。



福岡県朝倉市秋月  「 秋月悲話 ー 忠実と巷説と伝承 ー 」  水木ひろかず

2017-03-22 10:55:09 | 文学・文化・映画作品



腹切り岩の奥にある 「 恵利暢堯夫妻殉節之碑 」









腹切り岩





朝倉市秋月に 「 腹切り岩物語 」 という伝説がある。

「 天正15年 ( 1587年 ) 3月、秀吉は京都を発って九州平定の途に上る。
時に秋月氏は第16代秋月種実で、彼は島津義久と同盟し、
九州勢の第一線として秀吉軍を迎え撃つが、
北九州随一の堅城を誇った岩石城をわずか一日の戦いで攻め落とされて降伏する。
・・・これより先、種実の重臣の一人、恵利内蔵助は、
秀吉勢の強大なことは、秋月勢の到底抗しきれるものではないことを覚り、
戦わずに和を結ぶことを進言するが、種実の理解を得られず、
却って怒りを買い、ついには自刃して果てるという悲劇に終わっている 」

この自刃したところが 「 腹切り岩 」 と言われる。
水木ひろかずは、恵利内蔵助の子孫であり、
『 秋月史考 』 『 物語秋月史 』 や高鍋藩 『 本藩実録 』 などの
資料を紐解くうち、この物語に史実と異なる部分があることを知った。
『 秋月悲話 ー 史実と巷説と伝承 ー 』 は、
いくつかの説が残る内蔵助の出自や自害の真相を追求し、
一本にまとめたものである。

「 腹切り岩 」 は、3つの巨岩で、
中央の岩には昭和11年 ( 1936年 ) 内蔵助ゆかりの人々によって、
「 恵利暢堯夫妻殉節之碑 」 が建てられた。

秀吉勢に屈した秋月種実は、それまでの筑前、筑後、豊前の三か国を失い、
宮崎の高鍋藩三万石に移された。
その後、秋月には黒田長興が居城を置いた。

そんな秋月城跡には県の有形文化財の黒門と長屋門とが残っており、
秋には紅葉が美しく、観光の名所となっている。



福岡県太宰府市  『 東風吹かば匂ひおこせよ ・・・ 』  菅原道真

2017-02-10 16:13:04 | 文学・文化・映画作品



多くの参拝者で賑わう太宰府天満宮本殿 と 「 飛梅 」 右端





この時期の太宰府天満宮は合格祈願の真っ盛りである。
いくら自信を持っていても、勝負と同じ 「 受験は水物 」 で、
答案用紙に書き込むまでわからない。
「 人事を尽くして天命を待つ 」 とは言っても、
それから合格発表があるまで、不安になるものである。
そんな時、 心の支えになるのが ” 神頼み ” であろう。


菅原道真は、今から約千百年前にその見識、学問は群を抜き、
国の政治を司る右大臣の職にあったが、
左大臣の藤原時平の奸計にあい、太宰権帥 ( ごんのそつ ) におとされて、
筑紫に配流された。
京の邸宅を追われる時に詠んだのが、有名な 「 東風吹かば ・・・ 」 の一首である。

延喜元年 ( 901年 ) 2月1日の梅の季節に、
謫居 ( たっきょ ・ 流罪先の住まい ) である筑紫南館へ出発の朝、
京の邸宅の紅梅殿庭前の梅は今が盛りであった。
その梅を愛で、道真は名残を惜しんで一首したためた。


東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
          主 ( あるじ ) なしとて春な忘れそ



その梅花は主人の後を慕って筑紫へ飛び、
それが今の太宰府天満宮本殿前の 「 飛梅 」 であると言われている。

太宰府の道真は、ひたすら恐懼 ( きょうく ) 謹慎の日々を送り、
配所の南館から一歩も外へ出ようとしなかった。
道真は三年間の苦節のすえ亡くなるが、
後世に太宰帥惟憲卿 ( これのりきょう ) が南館跡に榎寺 ( 榎社 ) を建て、
現在では小祠が残っている。

道真は南館にあっての心境を

    都府楼はわずかに瓦の色を看 ( み )
           観世音寺はただ鐘の声を聴く
 と詠んだ。

この 「 不出門 」 の詩碑は、
西鉄大牟田線都府楼前駅の前にある。


太宰府天満宮は、菅原道真をまつる学問の神様として、
全国から受験生が合格祈願に訪れる。
そして数え切れないほどの受験生の願いを聞いてきた。
そんな現在の本殿は天正19年 ( 1591年 ) に、
筑前国主・小早川隆景によって建立されたもので、
国の重要文化財に指定されている。



所在地  / 福岡県太宰府市太宰府4-7-1


福岡県古賀市 ・ 『 暗い玄界灘に 』  夏樹静子

2017-02-04 10:57:29 | 文学・文化・映画作品



福岡県古賀市 ( 花見海岸 )






昨年の3月に亡くなった夏樹静子は福岡市在住の推理作家で、
『 Wの悲劇 』 をはじめとした作品は海外で翻訳され、
晩年のエラリー・クイーンとも親交があった。
社会性に富んだ題材を取り上げながら、
女性らしい繊細な描写で人間の心理を追求している。

糟屋郡古賀町 ( 現・古賀市 ) が舞台となった 『 暗い玄界灘に 』 は、
『 ガラスの絆 』 ( 昭和55年・角川書店 ) に収められた短編小説で、
室生久美子は、婚約者の白井岳夫が出張先の福岡で入院したという知らせを受ける。
岳夫の幼なじみで、無二の親友であったはずの峰岸 朗が、
見舞いの品に薬物を混入し、手術中のショック死に見せかけ岳夫を殺してしまう。
福岡市近郊の町での医師不足、無資格診療という医療問題をベースに、
屈折した男の深層心理を描いた作品である。


「 玄界灘は今日も灰色の靄に包まれている。
浅いU字型の海岸線に縁どられた湾内には、
いくつも小さな島が散らばり、その淡い緑の影が、
わずかに風景をやわらげてはいるが、海面は棘々しく黒ずみ・・・ 」

曇天の玄界灘は、峰岸 朗の暗い瞳と重ねられており、
この短編の背景であり、その黒い海と松林に代表される風土から
この作品が生まれた。


旧古賀町は、玄界灘と犬鳴連峰に挟まれた町で、
福岡都市圏のベッドタウンとして住宅開発が進んでいる。
町の東部の山あいには大正14年に開かれた 「 薬王寺温泉 」 があり、
福岡市近郊の湯治場として人気がある。


夏樹 静子 ( なつき しずこ、本名:出光 静子(いでみつ しずこ)、
1938年12月21日 - 2016年3月19日 ) は、
東京に生まれ、昭和30年に慶應義塾大学英文科を卒業。
在学中の昭和35年に 「 五十嵐静子 」 名で 『 すれ違った死 』 が
江戸川乱歩賞候補となった。
昭和37年に 「 夏樹しのぶ 」 名で 『 ガラスの鎖 』 を発表。
昭和44年に 『 天使が消えていく 』 を江戸川乱歩賞に応募、
昭和48年に 『 蒸発 』 で日本推理作家協会賞を受賞した。

主な著書に 『 喪失 』 『 風の扉 』 『 遠い約束 』 などがある。
ちなみに兄は、小説家でミストラル社長の五十嵐均。
夫である新出光社長の出光芳秀は出光佐三の甥。
長男は俳優の出光秀一郎。



福岡県朝倉市  『 綾の鼓 』  後藤明生

2017-01-21 13:31:04 | 文学・文化・映画作品



謡曲 「 綾の鼓 」 の悲恋の地、桂の池跡碑








桂の池跡にある 「 綾の鼓 」 の説明板







桂の池跡に建つ「 綾鼓演能記念 」







桂の池跡は公園になっている





後藤明生は、戦後に朝鮮半島北部の永興から福岡に引き揚げ、
高校卒業まで甘木で暮らした。
早稲田大学在学中の昭和30年 ( 1955年 ) に、
『 赤と黒の記憶 』 で学生小説コンクールに入選、
その後、創作活動を続けた。

後藤明生の作品には 「 朝倉物 」 と呼ばれるいくつかの作品がある。
その一つの 「 綾の鼓 」 は、謡曲が好きだった父と、
父の故郷を振り返る作品で、昭和53年 ( 1978年 ) に、
文芸誌 「 海 」 に発表された。
本籍地は朝倉郡朝倉町だが、
そこに一度も住んだことがない 「 わたし 」 が、
父の友人からの手紙をきっかけに朝倉を訪れる。
そこで朝倉の伝説をもとにした謡曲 「 綾鼓 」 の存在を知った 「 わたし 」 の、
父への回想が主題となっている。


「 昔、百済の国を援けるために九州に向かわれた斉明天皇という女の天子様は、
ヨソンシュク ( 現・恵蘇宿 ) の仮御所でお亡くなりになった。
それで、その子の天智天皇様はヨソンシュクの山に木の丸殿を造って、
そこに籠もられ喪に服された 」


謡曲 「 綾鼓 」 は、世阿弥作で、
斉明天皇のころ、筑前の国木の丸御殿の庭掃きの源太老人が、
女御の御姿を見て恋慕の情に悩んでいた。
この老人に、廷臣が女御の言葉を伝えると、
それは、池辺の桂木に掛けた鼓を打って、
その音が御殿まで聞こえたら今一度会ってやろうと云う条件だった。

源太老人はその鼓を見つめ、打って音が出るならば、
そのときこそ恋心の乱れを静めることができるのだと、
唯一筋に心をこめて鼓を打ってみるが一向に鳴らない。
元より鼓は綾を張ったものなので鳴り響かないのは当然であった。
なぶられたと知った老人は、いたく嘆き悲しんだ末、
池に身を投げて恨んで死ぬ。

まもなく、女御の様子がおかしくなると、
老人の怨霊が髪を振り乱し、すさまじい形相で現れ、
今度はかえって女御に綾の鼓を打ちたまえと責めさいなむ。
そのために女御は物狂わしくなり、
そして、亡霊は無限の恨みを残したまま、再び池の中に消え失せたのだった。



後藤 明生(ごとう めいせい、1932年4月4日 - 1999年8月2日)本名は明正。

朝鮮咸鏡南道永興郡生まれ。
生家は植民地朝鮮の元山市で商店を営んでいたが、
彼が中学に入学した年に敗戦となり、日本に帰国した。
その引き揚げの途中で父と祖母を失った。
旧制福岡県立朝倉中学校に転入し、早稲田大学第二文学部露文学科を卒業。
大学在学中の1955年に『赤と黒の記録』で「文藝」の全国学生小説コンクールに入選。
博報堂を経て平凡出版(現・マガジンハウス)に勤務。
1962年に『関係』で文藝賞佳作。
1967年、「文學界」に発表した『人間の病気』で芥川賞候補となる。
1968年には『S温泉からの報告』と『私的生活』で候補となり、退社。
1969年に『笑い地獄』で4度目の芥川賞候補となるが、受賞はしなかった。
1977年に『夢かたり』で平林たい子文学賞、
1981年に『吉野大夫』で谷崎潤一郎賞、
1990年に『首塚の上のアドバルーン』で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。


福岡県朝倉市  『 天狗笑 ( てんぐわらい ) 』  豊島与志雄

2017-01-01 13:32:22 | 文学・文化・映画作品



豊島与志雄出生之地碑






福岡県朝倉市甘木出身の豊島与志雄は、
ヴィクトル・ユーゴーの 「 レ・ミゼラブル 」 や、
ロマン・ロランの 「 ジャン・クリストフ 」 の翻訳家として知られているほか、
幻想味を帯びた心理小説や戯曲、随筆。
さらには評論などに多くの作品を残している。
戦後は日本ペンクラブの再建にも尽力を注いだ。

『 天狗笑 』 は、大正15年 ( 1926年 ) に、
「 赤い鳥 」 に発表されたもので、
自然豊かな村を舞台に、子どもたちが人間の格好をした天狗と
無邪気に遊ぶ光景を描いた童話である。
天狗という異形のものを自然の神秘として表し、
無垢な心と先入観にとらわれない自由な精神をうたっている。


「 むかし、ある山裾に、小さな村がありました。
村のうしろは、大きな森から山になってゐまして、
前は、広い平野に美しい小川が流れてゐました。
村の人たちは、平野をひらいて穀物や野菜を作ったり、
野原に牛や馬を飼ったりして、
たのしく平和にくらしてゐました 」


一人息子だった与志雄は、邸内の樹齢数百年の楠の大木でよく遊び、
寝るときは祖母から昔話を聞いて育った。
後年、彼はそのことを 「 中に出てくるものは、
人間をはじめ、鳥や獣や虫や魚など、さまざまでした。
それらの話を思い出すと、今でもあたたまるかんじがします 」 と記している。

与志雄が生まれた旧朝倉郡福田村 ( 現・朝倉市小隈 ) は、
佐田川と小石原川に挟まれた穀倉地帯で、
『 天狗笑 』 の舞台となった場所である。

そんな与志雄の生家横には 「 生誕碑 」 が建っている。


豊島与志雄 ( とよしまよしお ) は、
福岡県朝倉郡福田村大字小隈(現 朝倉市小隈)の士族の家に生まれる。
福岡県中学修猷館、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部仏文科卒業。
東京帝大在学中の1914年(大正3年)に、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らと
第3次『新思潮』を刊行し、その創刊号に処女作となる「湖水と彼等」を寄稿し注目される。
1915年(大正4年)、東京帝大卒業。
1917年(大正6年)、生活のため、新潮社に中村武羅夫を訪ねて仕事を貰ったのが、
『レ・ミゼラブル』の翻訳であった。
これがベストセラーになり、大金を得た。
この翻訳は今も何度か改訂を経て岩波文庫で読み継がれている名訳である。
こうして、翻訳が主で創作が従の活動が続く。

1923年(大正12年)、法政大学法文学部教授となる。
1925年から再び旺盛な創作活動が始まる。
1927年(昭和2年)〜1928年(同3年)、『レ・ミゼラブル』の再刊で再び印税多量に入る。
1932年(昭和7年)、明治大学文芸科教授となる。
1934年(昭和9年)、法政大学で野上豊一郎と森田草平の対立激化、解雇される。
1936年(昭和11年)、河出書房の編集顧問となる。
1938年(昭和13年)、再び法政大学教授となる。

戦後は、第二次世界大戦により活動を停止していた日本ペン倶楽部(当時の会名)の再建に尽力し、
1947年2月、再建された日本ペンクラブの幹事長に就任する。
1949年(昭和24年)、法政・明治両大学を辞職、法政大学名誉教授。
同年、日本芸術院会員となる。
1952年(昭和27年)、旧訳『ジャン・クリストフ』が売れ、莫大な印税が入る。
1955年(昭和30年)6月18日、心筋梗塞のため死去。享年64。

主な著書に、 「 生あらば 」 「 野ざらし 」 「 山吹の花 」 などがある。



福岡県朝倉市  『 帰 省 』  宮崎湖処子 

2016-12-31 13:13:31 | 文学・文化・映画作品



福岡県朝倉市の札の辻公民館にある宮崎湖処子の 「 帰省 」 の文学碑





宮崎湖処子は、北村透谷と並ぶ
明治20年 ( 1887年 ) 代後半を代表する詩人の一人である。
『 帰省 』 ( 民友社 ) は、明治22年 ( 1889年 ) 8月、
東京から帰郷したときの感激を詩を挿入して書いた抒情的散文である。
生まれ故郷・三奈木 ( みなぎ ) 現・朝倉市甘木への憧憬にあふれており、
翌年8月に出版され、当時多くの読者に愛読された。
近代化が進んだ東京を批判し、故郷を美化して描いたが、
湖処子自身は故郷に帰る事ができないという矛盾の中で、
故郷喪失者という意識を抱き続けることとなった。


このうるはしき天地 ( あめつち ) に、
父よ安かれ母も待て、
学びの業 ( わざ ) の成る時に、
錦飾りて帰るまで、



この詩は 『 帰省 』 第一章に入れられた自作詩の一節であり、
昭和41年 ( 1966年 ) 、三奈木の札の辻公民館敷地内に建立された
文学碑に刻まれている。

湖処子は、イギリスの湖畔詩人、ワーズワースの詩と生涯を
「 ヲルヅヲルス 」 ( 明治26年 ) にまとめて、
我が国に初めて紹介した人でもある。


朝倉市甘木の三奈木は、集落の中に清冽な小川がめぐり、
静寂そのものの田園地帯である。
広い平野を清らかな佐田川が流れ、
土手道や屋形原橋付近は湖処子の 『 帰省 』 当時を思わせる。



  帰省の前に帰省なし、帰省の後に帰省なし 

宮崎湖処子 ( こしょし ) の本名は宮崎八百吉と言い、
出身地は、福岡藩大老三奈木黒田氏の別邸・播磨屋敷から近い
現在の朝倉市三奈木札の辻。
宮崎仁平の二男として、文久3年 ( 1863年 ) 9月20日に生まれた。
 
湖処子のほかに、愛郷学人などの別号があり、
一時は末兼姓を名乗っていた。
宮崎家は、口碑によれば、秋月城主秋月種実の侍大将・三奈木弥平次の末裔で、
農業を営む旧家であった。
弟の右夫は詩人で、号を亡洋と言い著書に 「 貧の朋友 」 がある。


 「 帰省の前に帰省なし、帰省の後に帰省なし 」 とまで言われ、
多くの若者の心を掴み、
当時のベストセラーになった 「 帰省 」 誕生の経緯を略述。

父の死にも帰省しなかった湖処子は、父の一周忌に、兄の強い催促で帰省。
帰省にあたって一抹の不安が脳裏を掠める。
というのも、上京する時政治家になることが夢であったが、
今の自分を直視するとき、
果たして家族をはじめ親戚知人は暖かく迎えてくれるであろうか
という心配があったのだろう。

しかし、帰省してみると、不安とは裏腹に人情と平和のすめる故郷があった。
都会とは別世界の田園の理想像桃源郷の故郷の存在、
母の実家佐田安谷の美しい自然もそのまま、
後の湖処子夫人となる女性の優しいもてなし、
6年ぶりの帰郷は、湖処子の心に故郷礼讃を育んだ。
これがきっかけで翌年明治23年 ( 1890年 )6月 、
「 帰省 」 として民友社より刊行され、
故郷を賛美する田園文学の最高峰として絶賛をあびたのである。



『 帰 郷 』  海老沢泰久

2016-12-30 03:29:06 | 文学・文化・映画作品








栃木県の田舎の小さな町工場で自動車エンジンの組立作業員が、
その技術を買われてF-1のメカニックのチームに入り、
イギリスへ行き、その腕を磨いていくが、
3年の任期を終えて帰ると、F-1後遺症が彼を気難しくさせる。
そんな心の変化を描いている。

この本を読んだのは20年以上も前のことだが、
それ以来、 「 帰郷 」 のことをいつかブログに書こうと思っていた。
そして本棚から捜し出して、再び手に取って読んでみると、
ところどころに読んだ文面の記憶と、
その当時の自分に重ね合わせた心情が甦ってきた。



福岡県小郡市  『 文学散歩 ( 第24巻 ) 』  野田宇太郎

2016-12-05 16:05:14 | 文学・文化・映画作品



三井高校の近くにある 「 水鳥 」 の詩碑









野田宇太郎の経歴






松崎城跡





「 文学散歩 」 という言葉は、詩人で評論家の野田宇太郎の創案である。
昭和26年 ( 1951年 ) に、日本読売新聞に 「 新東京文学散歩 」 を連載したことに始まり、
『 九州文学散歩 』  『 関西文学散歩 』 『 四国文学散歩 ー 愛媛 』 などをまとめて、
『 文学散歩 』 ( 全24巻25冊、別巻4冊 ) が、昭和52年に文一総合出版が刊行された。

『 文学散歩 』 ( 第24巻 ) では、小倉、若松、柳川、福岡、久留米、朝倉などの文学者、
画家ゆかりの場所などを綿密に踏査し、紹介している。

野田の故郷である 「 筑後松崎 」 については、
「 わたくしの故郷は筑後路の旧宿場で、‥・・宿場町の形は今でもはっきりと残り、
北から上町、中町、下町と分かれたその下町の入口には、
御番所後の古い石垣が残っている 」 と紹介している。

筑前山家宿 ( 現・筑紫野市山家 ) で分岐した薩摩街道は、
松崎宿 ( 現・小郡市松崎 ) を通って南へ向かう。
今も松崎は古い町並みを残し、松崎城跡、茶屋跡、人足長屋跡などの古い石垣が残っている。
また、野田が幼年期を過ごした土地の近くには 『 水鳥 』 の詩碑がある。



昭和62年にオープンした 「 野田宇太郎文学資料館 」 は、
小郡市出身の詩人、野田宇太郎の生涯と文学を、
豊富な写真パネルと資料の対比により紹介している。
レファレンスルームには、近代文学の名著の初版本や、
明治、大正の文芸雑誌、「文学散歩」により収集された新たな文献、
古地図、記録写真など、約3万点の資料が所蔵されている。
当館は、小郡市民ふれあい広場 ( 文化会館・図書館 ) の中に位置している。
年1回企画展があり、10月に 「 水鳥 」 の詩碑の前で生誕祭が催される。


野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月28日 - 1984年(昭和59年)7月20日)は、
日本の詩人、文芸評論家、文芸誌編集長。

福岡県三井郡立石村(現小郡市)出身。
朝倉中学卒業後、第一早稲田高等学院英文科に入学するが、病気により中退。
1930年(昭和5年)、久留米市で同人誌『街路樹』に参加して詩作を開始する。
1933年(昭和8年)、詩集『北の部屋』を出版。
1936年(昭和11年)、安西均や丸山豊らと同人誌『糧』を創刊。
1940年(昭和15年)に上京し、小山書店に入社。
その後第一書房、河出書房を経て、
1944年(昭和19年)文芸誌『文藝』の編集長を務めた後、東京出版に入社。
衆議院議員の羽田武嗣郎(羽田孜の父)と交友があり、彼が創業した羽田書店の顧問も務めた。

1951年(昭和26年)、日本読書新聞に『新東京文学散歩』を連載、
その単行本はベストセラーとなり「文学散歩」のジャンルを確立した。
1976年(昭和51年)には『日本耽美派文学の誕生』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。
その後は博物館明治村の常務理事を務め、
1977年(昭和52年)には明治村賞と紫綬褒章を受賞。
1978年(昭和53年)には中西悟堂らと同人誌『連峰』を創刊。