「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

鹿児島県奄美大島 「 曽津高埼灯台 」

2014-02-24 05:22:41 | 奄美群島の灯台



曽津高埼の先端を平場に立つ灯台







高さ16mあるが径が大きいのでそんなに高く見えない






険しい崖道は約700mも続く






崖の斜面に野生の山羊が生息している






先につれてだんだん道幅が狭くなっていく






灯台までの最後の登りはかなり急だ






単閃白光で毎15秒に1閃光の灯器が設置されている






初点が明治29年とかなり古い歴史がある






明治29年にこの場所にあったことを示す記念の碑銘






かつて灯台があった敷地






左下は断崖絶壁である誤って墜ちれば 「 ハイ!サヨナラ 」 だ






灯台から山の斜面に来た道が見える






海から見た曽津高埼灯台 1





海から見た曽津高埼灯台 2





海から見た曽津高埼灯台 3





海から見た曽津高埼灯台 4




灯台表番号 / 6950 ( F4780 )
ふりがな / そつこうさきとうだい
標識名称 / 曽津高崎灯台
所在地 / 鹿児島県大島郡瀬戸内町 ( 曽津高埼 )
北緯 / 28-15-17
東経 / 129-08-14
塗色 / 白色
灯質 / 単閃白光 毎15秒に1閃光
光度 / 実効光度 210,000カンデラ
光達距離 / 21.5海里
地上~頂部の高さ / 15.97m
平均水面上~灯火の高さ / 139.58m 
地上~灯火の高さ / 13.01m
業務開始年月日 / 明治29年11月1日
現用灯器 / LB-M30


曽津高埼灯台は奄美大島の瀬戸内町の最西端にある灯台で、
灯台までの道程はかなり厳しいものがある。
そんな悪条件の岬に立つ灯台の初点は明治29年の11月とかなり歴史も古い。
現在の灯台下にその敷地があり、それを示す碑銘が立っている。
この場所にはたくさんの野生の山羊が生息しており、
山の斜面や山肌に生える草を食むので地盤が緩み、地すべりや土砂崩れが懸念される。
何れにしても明治の時代にこんな困難な場所に灯台を造ったことに敬意を表したい。


曽津高埼灯台へのアクセス
曽津高埼灯台へは、名瀬から国道58号線にて古仁屋まで行き、
古仁屋から県道79号線にて久慈まで行ってから西古見集落から更に西へ進むと、
左に下りる土道があるのでそこを行き止まりまで行き、
そこから崖道を700mほど歩けば到着する。



熊本県美里町 「 県 橋( あがたばし ) 」

2014-02-24 05:21:41 | 熊本の石橋



上流側から見た県橋








下流側から見た県橋







石橋の近景






県 橋の路標





所在地 / 熊本県美里町石野
架橋  / 弘化2年 ( 1845年 )
石工  / 種山石工?
長さ  / 5.5m
幅   / 4.5m  高さ / 3.6m


県橋(あがたばし)は、弘化2年に種山の石工たちが造ったと言われているが、
明治末期に架橋されたという説もある。
大正時代に県道の拡幅のため、現在地のすぐ横の場所から
移設されたものだといわれている。


県橋へのアクセス
県橋へは、内山橋から雄亀滝橋へ向う途中の右側に架かっている橋である。
駐車は、路上駐車になる。



長崎市 「 唐人屋敷跡めぐり 」

2014-02-24 05:20:41 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣

















「 ちゃんぽん 」 の生みの親 ” 四海楼 ” は、かつてここにあった




寛永12年(1635)から中国との貿易を独占的に行っていた長崎港。
来航した唐人(中国人)達は、はじめ長崎市中に散宿していたが、
密貿易が増加したため幕府は元禄2年(1689)、鎖国後の出島と同じように、
唐人達を収容する唐人屋敷を建設した。
約9400坪の敷地に長屋があり、2000人もの収容能力があったと言われている。
現在は四堂のみが修復改築され残されている。

日本人で唐人屋敷に出入りを許されていたのは遊女と僧侶だけだったが、
唐人達は唐寺などへ出掛けていたので、長崎人と交流する機会は多かったと考えられている。