「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

鹿児島県知覧町 「 知覧飛行場給水塔・弾薬庫・防火用水槽 」

2014-02-02 00:03:41 | 近代化産業遺産・土木遺産



戦争当時、多くの人に水を供給していたタンク








高さ14.3m、直径6.3mの給水塔














訓練用の実弾を保管していた弾薬庫








機銃掃射の痕跡が残るコンクリートの外壁















直径9.8m、深さ2.3mの円形の防火用水槽







給水塔の斜め前に設置された円形防火用水槽














知覧城址碑銘





■ 所在地     /  鹿児島県南九州市知覧町
■ 竣工      /  1942年 ( 昭和17年 )
■ 給水塔     /  町指定史跡
■ 知覧飛行場   /  Bランク近代土木遺産



戦禍が大きくなるにつれて肉弾という言葉が現実のものとなった忌まわしい歴史を九州も背負っている。
太平洋戦争末期、悪化する戦況に対して軍がとった作戦は、
爆弾を抱えたまま戦闘機で乗員もろとも敵艦に突入するという、前代未聞の特攻作戦であった。
1036名を数える犠牲者のうち、ここ知覧飛行場を離陸して帰らぬ人となったのは452名である。

畑や住宅が点在するグラウンドの横に給水塔が傾いて立っている。
町指定史跡になって風化を防ぐために補修が施されて、現在は白っぽいコンクリートになっているが、
以前はもっと重苦しい陰のある様相で立っていたという。
太平洋戦争が勃発する昭和16年12月に滑走路や鉄骨の格納庫、給水塔などの整備が完了し、
翌17年3月には太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が開校している。
また、ほとんど知られていないが国指定史跡である知覧城の本丸等地下には横穴式の壕が掘られ、
陸軍太刀洗航空廠知覧分廠という立派な称号を得た整備掩体壕が残存している。


知覧飛行場関連施設跡へのアクセス
知覧関連施設跡へは、九州道鹿児島I.C.より指宿スカイラインにて知覧I.C.へ。
知覧町役場から左へ曲がって次の交差点を右に入れば給水塔が見える。
周りに3面ほど野球が出来るグラウンドがある。
駐車は、給水塔の前が無料駐車場になっている。


鹿児島県加計呂麻島 「 待網埼灯台 」

2014-02-02 00:02:41 | 奄美群島の灯台



船上からの眺望








灯台へ続く階段が設置されている








岩の上に立つ姿は軍の監視塔のようである








単閃白光で毎3秒に1閃光の灯器








満潮に合わせて上陸したので夜明けの時間になった








大理石に彫られた文字の色が消えて見づらい








灯台は奄美大島と加計呂麻島との間の大島海峡を見守る







奄美の嘉鉄から対岸の待網埼の眺望






灯台表番号 / 6954
ふりがな / まちあみさきとうだい
標識名称 / 待網埼灯台
所在地 / 鹿児島県大島郡瀬戸内町 ( 待網埼 )
北緯 / 28-07-06
東経 / 129-20-32
塗色 / 白色
灯質 / 単閃白光 毎3秒に1閃光
光度 / 実効光度 560カンデラ
光達距離 / 8.0海里
地上~頂部の高さ / 9.4m
平均水面上~灯火の高さ / 17.93m 
地上~灯火の高さ / 8.7m
業務開始年月日 / 昭和34年12月18日
現用灯器 / LD管制器Ⅱ型


待網埼灯台は、奄美大島の南にある加計呂麻島の待網崎の下に立つ灯台である。
この場所は奄美大島と加計呂麻島の間にある大島海峡の安全を守る重要な役割を果たしている。
岩の上に立つ灯台の高さは9.4mで、平均水面から灯火までの高さは18mとなっている。
灯台付近は岩場になっており、上陸するには小型船外機で満潮時に接岸することになる。
一度、待網公園から山を降りる方法をとったが、急斜面なうえ道も無く、
ハブがウヨウヨいそうな感じだったので海からのルートに切り替えた。


待網埼灯台へのアクセス
待網埼灯台へは、古仁屋港から海上タクシーで瀬渡しをしてもらった。
料金は皆津崎回りで行ってもらったので、1万2千円だった。
ちなみに生間港までが3500円の相場となっている。
瀬渡しは事前に予約となっている。 ℡ 0997-72-3629


それぞれの海 「 鹿児島県喜界島 ・ 楽園の海 」

2014-02-02 00:01:41 | 海 ・ 港 ・ 空 ・ 木々







ここは
喜界島の小野津

緑の芝に
青い海
ほかに何も要らないほど
こころが豊かになる

そんなこころの御馳走は
オヴラートに包まれた
時空の独り占め