昨日読み始めた荒木経惟の 「写真ノ話」 の残りを読む。改めて書こうと思ったのは、先日のブラッサイ Brassaï の展覧会に彼も女の子と一緒に行っていて、「夜のパリ」 が素晴らしかったという感想を話しているのを読んで、あの空間をどんな風に味わっていたのかという想像を掻き立てられたから。その他にも面白い話があった。例えば、
「なんにしろ、創るということはドキュメンタリーからはじめなければいけないのです。ドキュメンタリーということは、人間の本質をつかみとることです。ドキュメンタリーは凝視の連続です。そして発見、感動です。」
「巨匠といわれる絵描きなんかだって、現物見ないでカタログで影響受けたりするって言うでしょ。現物よりカタログから影響受けるほうが多いんだよね。」
(バルテュスの『街路』の話をしていて)
「『街路』にはいろんな職業の人が描かれているんだよな。子供とか、コックとか。それで、そこにいるのはみんな個人なの。個人個人、個人と個人の間には一見なんの関係もない、個人それぞれが何かをやってる。で、街路でその個人の人生が交差するっていうことなんだろうな。街路は人生の通路っつうかさ、そういうことなんじゃない。そういうのに案外やられたね、『少女』たちより。
『街路』をみて、オレのイメージと同じだって思ったけどバルテュスはオレよりもずっと前にオレと同じことやってたわけよ。『あれ、な~んだ、もうやってんじゃねぇか』っていう感じ。だからね、いま何か新しいことを思いついたとしても、世界で同時に五人くらいは同じことを思いついているらしいから、そんなもんだよ。」
日仏の見方の違いが窺えるようなお話も。
「きれいなんだもん、とかさ。しょうがないんだよねー、もう可愛くってさ~とか、そういうのがいいの、オレ(笑)。『それはどうしてですか?』とか、『なぜですか?』っていうのが駄目なんだよ。
はじめのころね、ヨーロッパからいろんな人がインタビューに来てくれて、『それはなぜ?』とか、『どうしてですか?』って聞くわけ。とくにフランスっつうか、パリから来たのがうるさいんだ。『なぜ?』『どうして?』って。」
それから、彼の写真を見ていて、この人は一枚の写真では勝負してはいないな、と感じて昨日書いた。本人もそういう意識でいるらしいことを今日読んで、やはりそうかという思い。
「一点作品にしようなんて意識はもうないんだ。一点無駄なしっていうようなへっぴり腰は駄目なの。ガンジーの火葬に行って撮ったその一点が名作だとか、そういうんじゃないんだよ。ブレッソンさん、ごめんなさい。たとえば、ガンジーの火葬に行くときにぶつかったインドの女のデカイけつとかさ、そういうようなことまで含めないと駄目なんだよ。面白くないんだよ。」
乳がんで乳房切除し、今年亡くなった歌人の話も出てくる。写真を撮るということはその人と関係を結ぶこと。最後まで気持ちを傾けている様子が伝わってきた。巻末には、やはり今年亡くなった杉浦日向子さんとの対談が載っている。彼の心に溢れる優しさが読み取れて、思いもかけない出会いとなった。