フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

荒木経惟 NOBUYOSHI ARAKI - UN PHOTOGRAPHE ROMANTIQUE

2005-10-14 23:54:51 | 写真(家)

お昼の散策時に荒木経惟の 「写真ノ話」 を読む。昔から気になっている存在だ。常に自分に注意を払っていて、正直。そのツッパリの奥にシャイな自分があり、痛々しくもあり、どこかに深い悲しみを湛えている。この本は語りなので、まさにラジオを聴く感覚で読める。気がついてみると、白水社から出ていて小さくフランス語の題が添えられている。

題名 Leçon de photo
第一部 朝 le matin
第二部 昼 l'après-midi
第三部 夜 le soir

彼にとっての写真とは、日記のようなもの、人生そのものだと言う。常にカメラを持って、その時の自分の周りを撮る。それによって自分が撮られることになる。昔の写真を見ると当時の自分がよくわかる。その当時がどのように今に繋がっていたのかということまで見えてくる。写真に撮っておかなければ、すべてが記憶のかなたに消えていく。まさにブログである。彼の言っていることはよくわかる。彼はこれを40年もやっていたことになる。

写真とは何かを学んだのは、彼の父親と母親が死んだ時だという。その人のよいところを撮ろうとすること、そのためにアングルを選ぶこと。極端に言ってしまうと、それが彼の写真哲学のように感じた。

彼の言葉をいくつか。まず、「日本人ノ顔」 というプロジェクトについて。

「で、撮ってて思うんだけど、顔を撮るっていうことは人と会うっていうことだけど、人の顔の中にすべて、人生とかなんかあるということなんだね。それと、他人と会って、面と向かって、面と向かうことで、相手にエネルギーを与え、向こうからもエネルギーをもらっているような関係性ね、人との関係性、それが写真っつうことなんだよなって思うのよね。そういう関係性、そういうことを、ずーっとやってきたみたいな感じなの。」

近くの子供を撮っていた写真を始めたころを振り返って。

「こうやって四十年分をまとめてみて、このころの写真が一番いいなと思うんだけど、なぜそう思うかというと、やっぱり動くことだって気がついたのよ。生きるっつうか、何かやるっていうことは動くことなの。"生"は動くこと、そっからアタシの場合ははじまってんです。だから、しょっちゅう動いたり変わったりしてるでしょう?実際は変わんないんだけどさ。...
 ...やっぱり、子どもたちの仲間に入って一緒になって子どもたちの世界に入って、子どもになって撮る、そういうことね。アタシは大人になんかなりたくないのよ。っつうのは、ずーっとこういう感じで子ども世界にいたいっていうような感じがあるわけ。」

今や誰でもカメラをいじる。私のその仲間である。そういう時代において写真家とは一体どういう職業なのだろうか。彼の写真一枚だけを見てもそれほど感動しない。彼の命をかけて撮っている写真全体を見る時にある感動が襲ってくる。そしてその後に、一枚をその全体の中に置いて見直すとすべて意味を持ってくる。写真家とは写真を撮ることによって生きている、自分を晒す職業のような気がしてきた。

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パリの Amateur d'art 氏が最近 Araki について書いている。Araki を書いた日はアクセスが一気にシュートしたらしい。

Amateur d'art 氏は彼のことをズーッと怪しい男と思っていたようだ。次のような言葉が続いている。trop porno chic, trop de bondage, un vieux pervers (余りにポルノチックで、ボンデージに溢れ、倒錯老人)。しかし、Arakimentari という映画をロンドンで見てその考えが変わったという。彼が愛すべき人間であり、写真家であることを発見したから。そして、次のような賛辞を送っている。

"Un lutin, vif, nerveux, sautillant, aux cheveux en bataille, rigolard, plen de respect pour ses modèles. Loin d'être misogyne."
(元気がよく、神経質で、考えや動きまでが飛び跳ね、ぐしゃぐしゃ頭の、おどけた、モデルに対する敬意に溢れた悪戯好きの小悪魔。人間嫌いとは程遠い。)

最後に彼はパリのギメ美術館太田記念美術館の浮世絵を見た印象から、荒木を結論付けている。

「江戸という時代が自由 (la liberté)と放縦 (la libertinage) に溢れていた官能的な時代であり、それが明治によって突然打ち切られてしまった。現代の日本人はそのアンビバランスを未だに引きずっているのではないか。Araki はその象徴である。」 

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気がついた展覧会。
荒木経惟 「飛雲閣ものがたり」 (epSITE、新宿)
Araki: Self*Life*Death (Barbican, London)

(version française)

コメント
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