今週のお昼の読書は、ブルガーコフという20世紀初頭のロシア作家の 「運命の卵」 になった。
ミハイル・ブルガーコフ Михаил Булгаков (Mikhail Bulgakov) (1891-1940)
ウクライナのキエフに神学教授の長男として1891年に生まれる。1916年、キエフ大学医学部を卒業。5年後にはモスクワに移る。スターリンの体制を支持しなかったばかりではなく揶揄したため、彼の作品は長い間発禁処分になっていたらしい。スターリンに亡命あるいは西側にいた弟に会うことを求めたが拒否され、50歳を迎える前に亡くなる。
作品を発表することが仕事の作家が日の目を見ないことを承知のうえで書き続けるという状態は、どのようなものなのだろうか。袋小路に入ってしまったという感覚は常につきまとっているだろう。絶望に近いものがあるかもしれない。修行として受け止めることができるのだろうか。ただ書くこと、息をするのと同じように書くこと、そのことだけに意味を見出すことができるのだろうか。
考えようによっては、人生とはそんなものかもしれない。結果を期待するのではなく、ただ生きていることに意味があるという立場。生きて、五感を通して見たり、聞いたり、触れたり、感じたりすること、そのこと自体が素晴らしいという考えに達することができればの話だが、特に若い時にはなかなか難しいだろう。
この作品は1924年に書き終えたことになっているので、33歳の時の作品。ただ物語はその4年後から始まっている。主人公はモスクワ動物学研究所長のウラジミール・イパーチェヴィッチ・ペルシコフ教授 58歳 (4ヶ国語に通じる)。彼は自分の専門領域以外には興味を示さないため奥さんにも逃げられてしまう、偏屈な科学者の趣を持っている。マッド・サイエンティストとまでは言わないが。
ある日のこと、ペルシコフは赤色光線なるものでアメーバが異常増殖することを見つけ、対象を蛙のおたまじゃくしへ。最後に、ドイツから受けとるはずの鶏、ダチョウ、蛇、ワニなどの卵が何かの手違いでソフホーズに送られる。そこで大変なことが起こる。その有り様はまさに Sci-Fi、ハリウッドのパニック映画 (ジュラシックパークなど枚挙にいとまがない) と言ってもおかしくないような展開。どこかのんびりしたところも感じられるので、最初に頭に浮かんだのは子供の頃に見た怪獣が町で暴れる白黒のテレビドラマだった。娯楽作品として結構楽しむことができることに驚いた。
中に、ペルシコフと助教授のイワノフとの間に次にような会話がある。
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「教授」 とイワノフはつづけた。「あなたは世界的な名声を獲得されることでしょう・・・頭がくらくらしそうです。おわかりでしょう」 と熱っぽく語りつづけた。「ウラジーミル・イパーチイチ、これに比べると、ウェルズの小説の登場人物たちなどはまったく荒唐無稽なものにすぎません・・・わたしだって、あんなものはとるにたりぬ作り話だと思っていたのですが・・・ウェルズの 『神々の糧』 を覚えていらっしゃいますか?」
「ああ、あれは小説だよ」 とペルシコフが答えた。
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当時彼は H.G.ウェルズ (Herbert G. Wells, 1866-1946) を読んでいて、ウェルズに触発されてこの小説を書いたことを想像させる。当時のロシアには意外に情報が入っていたのだな、というのが読んだ時の印象。
それから学生時代にロシア語を一年だけ齧ったことがあったので、その音を久しぶりに聞く楽しみを味わうこともできた。
助教授 「ピョートル・ステパーノヴィチ・イワノフ」
家政婦 「マリア・ステパーノヴナ」
新しい守衛 「パンクラート」
問題のソフホーズの所長 「アレクサンドル・セミョーノヴィッチ・ロック」
研究所のある 「ゲルツェン通り」
所長の自宅のある 「プレチステンカ通り」
「トヴェルスカヤ通り」
「エカテリノフラフ市」
「コンツォフスカ村」
などなど。
ETVのロシア語講座にチャンネルが合った時に文学作品の朗読が流れていたりすると、なぜかわからないが感じる郷愁のようなものも蘇ってきた。この不思議な感覚も、ペルシコフのお話を読み進むのを後押してくれていたようである。
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(version française)