フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

少数派から日本を見れば LE JAPON VU PAR UN MINORITAIRE

2005-10-23 23:44:31 | 哲学

中島義道は初めてではない。1年ほど前、ある焼き鳥屋で隣に居合わせた20代の女性二人と話をしている時に、「中島義道読んだことありますか?」 と聞かれたことがある。名前も知りませんと答えると、「『不幸論』 でも読んでみたらいかがですか、面白いですよ」 と勧められたのだ。私と話していて何かを感じ取ったのだろうか。実際に読んでみて、この人が感じ考えていることを私も感じていることを知り、その女性の感覚の鋭さに驚いたものだ。

昨日、今日と彼自ら言うところの「くだらない本 (大学に勤めているものとして本来書かなければならない専門論文ではないという意味だろう)」、同僚からの羨みも混じった忠告では 「ビラ配り」 のビラにあたる 「哲学の教科書」 と 「私の嫌いな10の言葉」 に目を通す。前者については後ほど書いてみたい。

「私の嫌いな・・・」 では 「相手の気持ちを考えろ!」、「一人で生きてるんじゃないからな!」、「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」 など10の言葉を吐き出す多数派 (著者言うところの善人、あるいはそこにある正義を押し付ける人) の頭の中を解剖した本と言ってもよいかもしれない。同時にこの本は、そこから浮かび上がる少数派から見た日本社会の問題点を指摘しているようにも見える。

多数派が繰り出すこれらの言葉の裏に、議論を打ち切る、言葉を否定する、善意の衣をかぶった暴力的なものを見ているようだ。自分と向き合って出てきた言葉ではなく、出来合いのものを正義として相手に押し付けている。社会で定型として認められていると考えているものを振りかざす。少数派にはそう写る。そこに少数派を自任する著者は息苦しさを感じ、嫌悪感を催す。その前に、言葉を尽くした議論をしましょうよ、ということになるが、多数派はそれを拒否する。日本社会の至る所に見られる現象かもしれない。

一般的に少数派は多数派をよく観察しているが、多数派は少数派には鈍感である。少数派は現実を生きていく上ではそうせざるを得ないが、多数派にはその必要がないのでセンサーがどんどん退化していくし、言葉を発する必要もなくなるのだ。このことを理解したのは、7年ほど滞在したアメリカから帰ってそれまで自分の中にあった少数派に対する感受性が急速に失われているな、と自覚した時である。努めなければ感受性は戻ってこないな、と感じた時である。

日本の大半の親が子供に自分の意見を余りはっきり言わないように育てるのも、その方が日本社会では生きやすいということを知っているためだろう。しかし、そうする過程で自分と向き合うことを止め、自分の言葉を持つ機会を次第に失っていくのだ。著者が大学で学生に質問をしてもニヤニヤ笑っているだけで答えが返ってこないと言って嘆いている。私も同様の経験をして、いつも物足りなさを感じている。日本社会では真の会話が成り立ちにくく、取り留めのないことに終始するのは、こういう背景があると思われる。

昨日だったか、ETVで日本章受賞作品の再放送があり、丁度レオナルド・ダヴィンチの 「最後の晩餐」 を巡る問題についてニューヨークの専門家と高校生が考えるという番組が流れていた。高校生はそれぞれの考えを自分の言葉を探すように表現していて、彼らの周りに広い空間が広がっていた。また柔軟で大きくものごとを捉えようとしている姿の中にある種の成熟を見たようで、すがすがしい気持ちにもなった。もちろん、専門家がダイナミックで挑発的だったことも大きいのだろうが、、。ふと日本の高校生ではどんな番組になっただろうか、などと考えていた。

仕事の関係でアメリカやヨーロッパの人と話をする機会があるが、その時にいつも感じるのは、彼らの独自の世界を上手に外に出す術を知っていることだ。その世界は人によって大きく異なってくるので、その空間を共有することは為になるという前に楽しめるのである。最近、この種の接触が無上の歓びをもたらしてくれるということに気付きつつある。

コメント (4)
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