ショペンハウアーの 『パレルガとパラリポメナ』 (『付録と補遺』) の抜粋 「知性について」 という小編をパラパラとめくっていて気づいたことがある。今の人の発見であるかのように思っていたものが、実は昔から考えられていたのか、という感慨である。感慨自体はありふれているが、個々のものに自分で気づくということには、仄かな喜びがある。
---------------
以前に触れたことのある 「哲学者 vs 哲学研究者」 の問題 (1、2) にしても、ショーペンハウアーの時代から哲学者は少なく、彼の絶賛の対象であり、後者は厳しく批判されている。おそらく古代からある問題なのだろう。
先日アインシュタインの言葉を紹介した中で、ルイ・パスツールの 「少しだけ科学をやっただけでは神から遠ざかる、しかし打ち込むと神に近づく」 という言葉を書いた。ショーペンハウアーの本の中に 「わずかの哲学は人を神からひき離すが、すすんだ哲学は神へ連れもどす」 というのが出てくる。
考えることはものごとを関連づけることとして丸谷才一が 「考えるヒント」 の中で語っていた 「見立て」。これに関連したことも、「知性について」 では扱われている。
精妙な判断力をもつ頭脳の二つの長所として、第一に経験した中から重要な意義深いものを記憶に定着させ、いつでも引き出すことができること、第二に 「関連づけ」 をあげ、次のように続く。
「問題の要点とか、それと類比的な事柄とか、その他何かそれと縁のある事柄を、なかなか他人の気づきにくいことでも、好機に思いつくこと。・・・一見きわめて離れ離れな物事においても、同一のもの、従って互いに連関するものを、ただちに見分けられる、ということ」
第一の点については、ブログが非常に有効であることを今年発見。
「政治家は嘘をつく存在」 という鶴見俊輔の発言 (28 mai 2005) は面白いと思ったが、その後ジョージ・オーウェルを読んでみて、その響きがあることを感じた。これもそれ以前から言われていることなのかもしれない。
---------------
誰もが古典を読むわけではない。むしろ極めて少ないと思われる。先日の話ではないが、クラシックの演奏家のように、昔の人の考えを今に蘇らせてくれる人が必要なのだろう。それは 「太陽のもと新しきものなし」 ということでもあり、昔の人の声を直接聞くことの重要性を改めて感じた年の瀬となった。