彼はどんな本質的なものを発見したのか? Qu'a-t-il découvert d'essentiel ?
彼は現代哲学において非常にユニークな位置を占めている。第一に、彼は人間存在の重要な問題に取り組んだ。愛、死、苦悩、幸福の可能性など、人間を捉え続けてきた問題に。しかも真実を理解することを求めた。そのためにすべての作りごとや人間の悲惨さを覆い隠すすべてのことに対し、ある時は理論的に、またある時には怒りをもって真っ向から戦いを挑んだ。
そこから明らかになったものには、耳に心地よいものは何もない。耐え難いくらいである。曰く、愛は束の間の幻想に過ぎない。曰く、死こそわれわれの地平にある唯一のもの。幸福は虚構。われわれの存在は苦しみと不安の間を揺らぎ続けるもの。曰く、人間は残酷で、自己中心的で、偏狭で、悪意に溢れるもの。そしてこう言い放つ。
「今日は酷い。そして一日一日どんどん悪くなるだろう、最悪が訪れるまで。」
« Aujourd'hui est mauvais, et chaque jour sera plus mauvais - jusqu'à ce que le pire arrive. »
人を刺激し苛立たせる人間嫌いの考えだけでは文学の世界に留まり、哲学者にはなれない。しかし彼の背後に人間性の進歩についての考えがあるのだ。歴史、政治、束縛からの解放、革命、ユートピアなど当時のヨーロッパに沸き起こっていたものとは異質な考えが。人類は本来的に苦悩と破滅が運命付けられている。したがって、明日がよりよいものだなどという考えは無益。発展もなければ、幸福もない。聖書の神も。彼は断固とした無神論者であった。もちろん聖人、神秘的なもの、インド、仏陀には興味を示したが、誰かがこの世を創ったとは信じていなかった。
工業化が始まったその時に古代に知恵の必要性を再発見したのである。人間は苦渋と孤独の中にあり、慰めの言葉に助けを求めることなく、それに耐えなければならない、と。しかし彼の思想のもうひとつの核心は「意志と表象としての世界」にある意志(ドイツ語でWille)である。それは意図や意識とは何の関係もない。生命や物質を存続させるものである。したがって、それは絶対的で、無目的で、発展するものでもない、われわれの中に体現されている純粋な力 pur force である。
表象(ドイツ語で Vorstellung)はこの意志の反映で眼に見えるもので、われわれが語る歴史、世界がどのように構成されているのかを理解する理性から成っている。しかし、理性の力には限界があり、それを超える意志により囲い込まれている。彼にとって、われわれの知識、欲望、計画はすべて体、本能、われわれの中で知らぬ間に静かに蠢く自然により縁取られている。この考えがニーチェやフロイトへの道を開き、多くの芸術家に影響を与えた。
最後に、彼が見つけたものは一般に信じられているようなペシミズムでも軟弱な精神を挑発するニヒリズムでもない。それは芸術による救済や禁欲主義への関心である。芸術家や聖人こそ人間に運命付けられた悲惨な運命から少しでも逃れることのできる人である。結局のところ、禁欲主義は限られた人にしか割り当てられていない。彼は知性の最高の現れは生の放棄であり、隠遁者や僧を賛美していた。芸術に関しては、イタリアを真に愛し、味覚や絵画を愛し、毎朝フルートを吹く情熱を持っていた。音楽は彼にとって特別の意味を持っていた。このように書き残している。
« La musique ... est complètement indépendent du monde phénoménal ; elle l'ignore absolument, et pourrait en quelque sorte continuer à exister, alors même que l'Univers n’existerait pas. »
「音楽は現象としての世界に全く依存しない。それとは全く関係がなく、言ってみればたとえ世界がなくなろうとも存在し続けるであろう。」
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ショーペンハウアーとは(I)
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