パパと呼ばないで

再婚した時、パパと呼ばないでくれと懇願した夫(←おとうさんと呼んで欲しい)を、娘(27)「おやじ」と呼ぶ。良かったのか?

一途

2013年04月16日 | 本・マンガ・テレビ・映画
4月16日(火)晴れ

今、韓流時代劇「階伯(ケベク)」を見ている。
日本の大河ドラマとかもそうだが、事実というか史実というのは切ないですな。
どんなに栄華を誇ろうと権勢を極めようと、平家は没落し、織田信長は本能寺の変を免れることはなく
新撰組の最後も悲しい。
このドラマは、百済の英雄ケベク将軍の波乱に満ちたストーリーを描いたもの。
もう、一回目のとっかかりで「百済最後の~」と言うあたりに、
いくら世界史に疎いワタクシでも、「あ、百済って新羅に負けたんだっけ。ということはケベクは最後死んじゃうのね。」
くらいはわかる。
わかっていて見ると言うのはなんともせつない。
それはしょうがないとしても、このケベク、少年時代に好きになったお嬢様(ウンゴ)を一途に想う。
そしてそのお嬢様もケベクのことを憎からず想っている。
そこへ、百済の王子が絡んでくる。
この王子もウンゴに惹かれている。
これまた一途過ぎる。
一途というのはある意味厄介でもある。
人間、あきらめが肝心な時もある。
ストーカーというのも、「一途」の想いの変型かもしれない。
この、「一途」な想いのせいで、一国が滅びへと進んでいくのは、切ないを通り越して腹立たしくさえ思う。
王子には、天下をとるために画策して娶った正室がいる。
苦難をともにしたことも、命の危険にさらしたこともある妻だ。
無事に苦難を乗り越え王になったのだから、仲良く暮らせば良いではないか。
なぜに正室を疎んじ、ウンゴに執心するのだ。
そのせいで正室VSウンゴ(側室)という、女の戦いまで勃発し、話がどんどんややこしくなる。
「一途ってうっとおしい」とつぶやきながらシャツにアイロンをかけ、
ケベクの一途さにちょっときゅんとなりながら、王の一途さを罵るのが最近の朝の日課。
コメント (2)
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