マヨの本音

日本の古代史から現代まで、歴史を学びながら現代を読み解く。起こった出来事は偶然なのか、それとも仕組まれたものなのか?

中臣氏に関しての考察

2010年01月13日 08時38分43秒 | 古代史
今朝の寒さは半端じゃなかったな。今は雪も小降りになったが、とても名古屋の景色じゃなかった。いよいよ地球寒冷化が深刻になってきている???この分で行くと二酸化炭素を放出し、気温を上昇させるしかあるまい。明日のエコでは氷河期が来る・・・・・。

さて、中臣鎌足に関して昨日質問が来ていて、あまり深く考えず、中臣氏は鹿島で、スキタイだろう、なんて答えたが、あとでやや反省した。というのは、考えてみると私としての結論は出したことがなかった。なんとなく鹿島のような気がしてそれほど深く追求してこなかった。はっきりしているのは中臣氏は実在したと考えるが、藤原鎌足に関してはやや疑わしいということである。
これは以前書いているが、私は昔から鹿島昇氏の「大化の改新は新羅の「ヒドンの乱」である」という説を信じている。三国史記にはほとんど載っていないので、おそらく三国遺事に詳しいのだろう。(あいにく私はそれを持っていない)
そのヒドンと金春秋そして金ユシンが争った内容がまさに大化の改新のコピーである。年代が二年ほど違うが、偶然とは考えられない。
おそらく新羅(当時は倭国かもしくは伽耶国)でおきた出来事をそのまま持って日本へやってきたのだろう。つまり、天智天皇が金春秋で、藤原鎌足を金ユシンになぞらえたのである。この年が645年の出来事で、高句麗と唐が遼東(現在の遼寧省)で戦い、唐の李世民が大敗し、淵蓋蘇文は唐の都まで追い詰め城下の礼を取らせた記念すべき年だったのである。(もちろん中国の史書には負けたとは書いてあるが降伏したとは書いていない。)
日本書紀はこのヒドンの乱を差し込むことで、後世の人にこの年号の持つ意味を知らせたと考えている。いうまでもなく大化の改新で行なわれたはずの政策が実在した証拠はない。しかも近江王朝に天智がいたという証拠もない。すべては幻なのである。

鹿島神宮や香取神宮、そして春日大社の関わりは十分に調べていないので心苦しいのだが、鹿島勢力(平家であり、スキタイだろう)は香取陣営(今のところ部族は不明)に監視され、その祭祀が中臣氏にゆだねられ、そのために春日大社を建立したのではないかと考えるが、どうだろう。この香取と鹿島の戦いが大化の改新の本質である蘇我氏の滅亡の実体ではないだろうか。
皆さんに意見があれば教えていただきたい。ある程度調べたがなかなか手がかりが得られなかった気がする。重要なことなので、慎重を期したいものだ。

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