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もんく [とある南端港街の住人になった人]

近所のタイと終の棲家

先日、お店の中にべスパを飾っているタイ料理店を見つけてべスパの写真を撮りました。

タイ料理屋さんと言うよりはタイ食堂と言うべきだろうけれど。近所なのにそこでタイ料理を食べた事はこの2年で1回もなし。他に魅力的なお店がたくさんあるし、道がいつも通るところとはちょっと違うからだけれど。

そこで今日はそのタイ食堂で食べて見ることに。そうしたらちゃんとタイの街も食堂らしい味がしました。でも料理はムスリムの人が作っているらしくてハラルです。また行こうと思います。



昨日、「終の棲家」(磯崎憲一郎著)を読みました。

日本人の男の人生って感じです。仕事ができていて生活もできていてお金もある程度あって結婚もして子供もできて家も建てて、それだけ書けばたしかにそれなりの人生ですが、どこにも確実な物がないのです。どれ1つとっても自分で完全にわかっていたりコントロールできている部分が無い。そして心から楽しくて何かやっているような部分もない。どこまで行っても納得のいくところに到着できないままに歳を重ねてそうして結局何もわからないままに死んでいくのだろうな、と感じるのです。



全くもって日本人の男の人生です。

"彼は"と言う言い方で主人公の心理が描写されます。どうみても主人公本人の思いが書かれているのですが、"彼は"と描写されます。いつも主人公の半歩離れたところから"彼は"と描かれるのです。

もともと小説と言うのはそう言う書き方はするものなのですが、この文章はとてもそれが意図的っぽく使われていてちょっと面白いと思いました。



著者の趣旨とは違うと思われますが、別の読み方もできます。

人やその行動が持つ問題点と言うのはいろいろあると思うのですが、ある場合には一種の"正しさ"との相違にあります。"間違った人生"と言うと"正しい人生"とは違ってしまったと言うことです。さて、どうしてこうなってしまったのだろう?、と言うのが小説に書かれたりするものです。



例えば"こんな事してはダメだ"と知りながら、例えば不倫にはまってしまうような場合です。そのとき"こんな事はダメ"と言う正しさがあるからそこに実際との相違が出てきてそれが物語になります。

ですが、この小説の中にはそう言う正しさが無いのです。だから心理的に絶対的な拠り所がありません。神様がいない世界、真理が無い世界のようなものです。



ですが、実は真理が無い方が日本人的には肌に合う、と言うか普遍的なのではないでしょうか。世の中は常に解釈される事によって成り立っている。解釈がなければ成り立たない世界が本当の世界なのです。そうすると何があっても別にそれは悪くも正しくもない。危なくも危険でもないそう言う世界。

長くなったので中途半端ですが、止めます。
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