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もんく [マレーシアで働いて13年→2022猫を連れて日本]

人への死を言う事に対しての沈黙は何を意味する?

今日は猿は来たが1匹だけですぐにいなくなった。

これから毎朝屋根に登って雄叫びあげて縄張りを主張してみようかと思うが、どうだろう?それでも猿は来るだろうか?



最近、フランスあたりで宗教的な事を理由にいろいろな事が起きている。ニュースで伝わって来るがどの記事も短いもので概要がつたわって来るが詳細がよく分からない。こんな事で人は何かを判断してしまうんだろう。

FBで見ていると誰かの顔に靴の踏み跡を付けたり死を言う者が出てきている。何を隠そう...隠さないがここはマレーシアなのだ。この手の問題が世界中のどこかで起きると必ずそんな画像が流れる。それでしばらくすると忘れられる。今回はフランス製品ボイコットみたいな画像も出てきていて、ずらずらとフランスブランドのロゴやマークが一覧になっていた。見ると...まあ、うちの経済状態で買える物って言ったらフランスのバターだけだった。それ出して来る人って...バターじゃなくてもっと安いマーガリン買ってる層じゃないかとちょっと思ったが...それはそれだろう。


それで、誰かに死をとか言うのを流す人は、どんな目的でそう言うんだろう?と、そこらへんが全くわからない。真面目に死ねと思っているのか、それとも同じ側の仲間とのコンセンサスが真の目的なのか?

真面目に死ねと思っているとしたら、もし相手が近くにいたりその機会が有れば本当にその人を殺すのだろうか?たまにする人がいるのを知っているのでそうする人もいるだろうが、大半は機会もないのでしないだろう。でも機会があったらどうなのか?それと、もう1つは、死とか言う人でも一応基礎教育なり育ちの中で他人への加害は否定されてきていると思う。そうでなければ大人になるまで全く腹が立たなかったと言う事もないだろうから誰か殺しているかもしれない。でもほぼ誰もそんな事せずに大人になれている。

だとすれば、その死と言うのと、他人への加害否定との間の釣り合い、折り合いはどう付けて生きているんだろう?それは全く別の事として処理できるのか?例えばゲームの中で敵を撃ち殺すが現実世界では良い人と言うような感じか?


さらにわからないのは、そこで黙っている人達だ。同じ宗教の人達は、何も言わないのは暗黙の賛成なのか?それとも距離を置いているのか?反対的な事を言う事が周囲からの同調圧力でできないのか?また、誰も止めると言う事をしないのか?

ある宗教は断じて平和を求める宗教であると断言する人は多い。確かにテロのような行為であればそれは一部の教義を曲解している人達と言いやすい。そしてそれは間違いとは言えないだろう。けれども、今のような状態、つまりまだ極端な犯罪的行為があるたった1人かそこらの人しかしていなくて、周囲はただ囃し立てているだけの時、その囃し立てている人数がほとんど国や地域全体に近い範囲で行われている場合は一部の過激な輩のみとは言えない。

それを見て、つまり誰かの死を望むと言う事を多くが言う時に、そこで何も言わないのはどう言う事なんだろう?他人の大切なものを侮辱したり汚すのはもちろんいけないが、それに対して人の死を望むと言うのに対してどう頭の中で処理できて、これからそれをもってどう生きて行けるんだろう?
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