問題解決というのはどんな場合でも物凄く難しい事だ。
例えば、今日FBでこんな記事が紹介されていた。
これを読んで何を思うだろう?
多くは、日本もアメリカのように法整備が必要、バスに運転手が後部まで行って停止させるブザーを付ける案を採用すべき? 他の記事でも紹介されていたように子供にクラクションを押す訓練をすべき?
これらはどれも正解に違いない。
ただ、言えるのは完璧な正解ではないし、数ある正解の中のたった1つに過ぎないとも言える。でも、多くの人はそのうちのどれかを正解だと言う。やるべきだと。それはそうだろう。間違った事は言っていない。
でも、気付くべき事は検討するその事象よりも正解(の1つか正解らしきもの)を言う方が、なぜそう言うかの方だ。これは経験上、ほとんどの場合、「脳みそを休ませたいから」に違いない。そこで正解に辿り着いてしまえばそこでもうその事に関して考えなくても良いという事だからだ。
これは大変に危険だ。
まず第一に、正解と考えたものが本当に正解だったのかを正解を出した本人が検証しない事を意味する。正解が正解でない可能性はあるだろうか? もちろんある。これは工場で仕事をしている人なら誰でも経験しているし、それを克服するのが工場の仕事だからだ。
例えばブザーを止めるボタンをバスの後部に付けるとする。何が起きるかはすぐに想像がつく。運転手はブザーを止めるボタンの上にゴミを丸めて置き、その上からガムテープを貼るだろう。こうしておけばうるさいブザーの音は永久に聞かなくて済む。さて、それを誰かが見て問題視して指摘したらどうなる? 運転手は子供に言う。「そこのボタン押してから外に出てくれ」ボタンではダメだ。キーを挿れて止めるようにしよう。これも簡単に破られる。スペアキーを数百円で自腹で作り挿したままにするだろう。
そんな事は何でもできる。
結局、10年に1度起きるかどうかわからない事故や事件の報道に接して臨場感を持って、自分の問題だと考えて何かするだろうか? 「いや、自分はこれまで15年この仕事やってきて1度だってそんな事にはならなかった」と流してしまうのが普通だろう。
これは当事者ばかりじゃない。例えば制度や法作りをする政治家はどうだ? 投票する我々はどうだ? ほとんど臨場感は感じない。日本全国でコロナにかかったのが公式には1990万人で死者は4万2千人。それだけ亡くなってもまだ嘘だと考ええる者がいる。バスに置き去りにされて亡くなる子はずっと少ないが、どうだろう? これを自分が何かせねばならない問題だと考えるだろうか?
工場で仕事していると物を使った解決策は山ほど出る。そんなものは簡単でどんな者にも何か思い付く事がある。そしてその者はそれを口にする。「○○すれば良い」「○○を付ければ良い」と。それが有効に機能するだろうか? ほとんどの場合はしない。
こうした問題解決は物だけでは解決しない。やり方が必要で、人が必要だ。制度にしてマニュアルを書いて、教育して、続けて、チェックして、手直ししてと、ほとんど起きない事の為にそれだけの事をし続ける。そしてそれにはコストがかかる。しかし、しなければならない。そこまでできて解決策になる「かもしれない」。