その当時は他の多くの出来事の中の1つに過ぎないものだったはずですが、その部分だけ記憶の中に浮き出して見えてくるのです。
今、私は誰もが認める字が汚い人なのですが、子供の頃に母親の趣味で習字を習わされました。
自分としては習字などには何の興味も無く、ただ言われるままに習字教室に週1回通っていました。眉毛が太くてぼうぼう、唇の厚いいかにも習字の先生らしい先生でした。その先生のお手本と同じになるように何度も何度も書かされました。単純に真似するだけで本人にとっては何の意味もありません。
ただ真似して書いているうちに習字を習っていない同級生よりは習字が多少上手くはなったようです。だからと言って本人はそれに何か意味があるとも思っていません。
習字と言えば書初めです。冬休みが明けると学校に書初めの宿題を持っていきます。
私はごく普通に先生に習ったように書初めを書いて持って行きますと、多少、上手いのです。全員分を黒板のあたりに貼り付けた中から自分のが選ばれます。他の生徒のも少しだけ選ばれます。先に選ばれた生徒が同級生の作品をさらに選ぶことがありました。私も選ぶ立場になりました。
私が選んだのは全然お手本通りに書いていない一枚でした。
今にして思えば誰か大人に書いてもらったのかな、と思えなくもない作品です。それはダイナミックな筆使いで、子供ながらにこんな書き方ができるものかと歓心してしまったのです。お手本とは似ても似つかないのです。わけもわからず、すごいなと思って選んでしまいました。
その作品は学級の中でちょっとした議論になりました。
小学生の基準からすれば、それはお手本とは全然違うと言う事はダメなのでした。
そうした一場面がずっとずっと年を経た今、なぜか思い出されるのです。そうしたちょっとした一瞬の出来事による影響が今の自分の中にあるのかも知れないとも感じます。今、このマレーシアで体験する何気ない一瞬もそうしたものになる日が来るのでしょうか?