» OotaCantaKaz 太田 和廣
スミちゃんから内田樹サイン本が届く
ありがとう!
それより驚きはサインをもらってくれた人、山本浩二氏、内田先生の友人、スミちゃんの絵の師匠、凄い画家です、凄い絵です、スミちゃん何者?師匠共々絵を見たいなあ
5時間前 お気に入り 返信 削除
» OotaCantaKaz 太田 和廣
内田先生、山本先生、スミちゃん、多くの人の世話になって頂けたんだなあと思うと、よけい嬉しい
タイトル「邪悪なものの鎮め方」も私にピッタリ(笑)
4時間前 お気に入り 返信 削除
(ツイッターより)
---
ネット上で小さい大きさしか見れてないけど、山本浩二先生の絵が、私にはとてつもなくヒットなのだ。
ミラノと日本を往復して活躍されてるすごい人だそうだ。
ネットで内田樹先生の書いた、山本浩二先生に関する文章を見つけた。
内田先生は、常々、文章を自由に使ってよいと仰っている。
それどころか、内田先生の言葉を、そのまま、自分の意見として使っていいとまで仰っている。
世界中の人が、内田先生と同じ意見を持つに至れば幸せと考えているからである。
そういうわけで、その文章を、しかし、内田先生のご意見として、書かせていただきます。
私自身は山本先生の絵から、生の躍動を感じ、内田先生の感想と異なるのですが、他ならぬ山本先生自身が内田先生に「その通りです」と答えてるので、この文章の通りなのでしょう。
まあ、私は絵そのものを見てませんので。
見たいなあ。
(死を描くのは、生を描くのと同じことかもしれないですね。)
(注:後日追記)私、内田さんの文章を読み間違えて、大きな勘違いをした文章を上に書いている。
だが、コメントとの対応を考えて恥を忍んでそのままにしている。
上の文章は無視して内田さんの文章を読まれたし。
---
『山本浩二の芸術』
画家はどういう理由で、その技法を「具象」と「抽象」に分岐するのか。長い間、それが私にはわからなかった。
漠然と、目の前にある対象を「写生」的に再現することに喜びを見いだす画家と、目の前にある対象を超えたもの、その向こうにあるものを描き取ることに喜びを見いだす画家のあいだには気質の違いのようなものがあるのだろうと考えていた。
私は作家ではないし、美術批評家でもない。だから、私の仮説があたっていようと、はずれていようと、誰からも抗議されるおそれはない。けれども、問題はそれほど簡単ではないということをそのうちに学んだ。
山本浩二の古くからの友人であるひとりの静物画家の展覧会でのことだ。
その画家の静物画からは「死臭」がした。
私は山本君とその画家を前にして、その印象のとおりのことを述べた。
あなたの画からは死臭がします。それがあなたの画に恐ろしいほどの厚みをもたらしている、と。
画家は目をきらめかせて、その通りですと答えた。
彼は葡萄の画を描いていた。最初にテーブルに置かれた葡萄は画家がキャンバスにそれを写しているうちに腐敗して、崩れてゆく。腐った葡萄の粒を画家は取り除き、色とかたちの似た粒を接着剤ではりつける。そのようにして一枚の画を描き終わったときに、最初にテーブルの上にあった葡萄はすべて腐って棄てられた。そして、画布の上にだけみずみずしいその葡萄の「デスマスク」が残されたのである。
では、あなたは静物=死んだ自然を描くことを通じて、それらすべてを含むもの、すなわち「時間」を描いていたのですね、と私は言った。
彼はふたたびその通りだと言った。
造形的にはみずみずしい果実が死臭を発していることで視覚が決して描くことのできないもの、すなわち時間を空間的に表象しているのだ、と。
奇妙な話だが、私はその静物画家の言葉をきいた時に、山本浩二がその抽象的な造形を通じて、何を描き出しているのかを不意に理解した。
彼らは二人とも同じものを相手にしていたのである。
それは空間的表象形式では表象できないもの、すなわち時間である。考えてみれば当然のことだったのだ。芸術家に真の栄光があるとすれば、それはその芸術形式では絶対に表現できないはずのものを表現することに違いないからである。
彼が選んだ表現形式の「限界」を突破すること。真の芸術家ならそのような不可能な夢に取り憑かれているに違いない。
あの才能豊かな静物画家は「死」を、それも「いきいきとした死」を描くことに成功した。「いきいきとした死」というのはまさに「生きているものが死につつあるその状態」のことである。だとすれば、と私は自分に問いかけた。山本浩二はいったい何を、どう描くことで、芸術家たちをそこに釘付けにしている空間的表象形式の限界を突破する気でいるのだろうか。
私には今ならその答えがわかるような気がする。
あの画家が「死」を描こうとしたのとは逆に、彼は「生成」を描こうとしているのである。
何かが生まれる瞬間の、というより直前の、ざわめきや、震えや、ときめきを描こうとしているのである。
彼は「運動」を描こうとしているのである。
静止することを拒否するもの、とどまることに耐えられないものの緊張そのものを描こうとしているのである。
分裂し、増殖し、浮遊し、膨張するものを描こうとしているのである。
一言で言うなら、彼は「生命」を描こうとしているのである。
今まさに生成せんとしているものには、それに固有の図像的な特徴がある。山本浩二が数十年にわたる修行の日々を通じて把握しようとしていたのは、おそらくその「決して空間的に表象されえないものが、空間のうちに予兆として、あるいは痕跡として残す造形的特徴」だったのだと私は思う。それをつかみとるために彼は模写をし、作品の構造分析を行い、終わりない実験を自分に課してきた。
私はその歳月の成果がこの展覧会の作品のうちにはっきりと示されていることを確信している。
彼の画を見たあと、人びとの多くは私のこの言葉に深く同意してくれるはずである。
内田樹
スミちゃんから内田樹サイン本が届く
ありがとう!
それより驚きはサインをもらってくれた人、山本浩二氏、内田先生の友人、スミちゃんの絵の師匠、凄い画家です、凄い絵です、スミちゃん何者?師匠共々絵を見たいなあ
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» OotaCantaKaz 太田 和廣
内田先生、山本先生、スミちゃん、多くの人の世話になって頂けたんだなあと思うと、よけい嬉しい
タイトル「邪悪なものの鎮め方」も私にピッタリ(笑)
4時間前 お気に入り 返信 削除
(ツイッターより)
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ネット上で小さい大きさしか見れてないけど、山本浩二先生の絵が、私にはとてつもなくヒットなのだ。
ミラノと日本を往復して活躍されてるすごい人だそうだ。
ネットで内田樹先生の書いた、山本浩二先生に関する文章を見つけた。
内田先生は、常々、文章を自由に使ってよいと仰っている。
それどころか、内田先生の言葉を、そのまま、自分の意見として使っていいとまで仰っている。
世界中の人が、内田先生と同じ意見を持つに至れば幸せと考えているからである。
そういうわけで、その文章を、しかし、内田先生のご意見として、書かせていただきます。
私自身は山本先生の絵から、生の躍動を感じ、内田先生の感想と異なるのですが、他ならぬ山本先生自身が内田先生に「その通りです」と答えてるので、この文章の通りなのでしょう。
まあ、私は絵そのものを見てませんので。
見たいなあ。
(死を描くのは、生を描くのと同じことかもしれないですね。)
(注:後日追記)私、内田さんの文章を読み間違えて、大きな勘違いをした文章を上に書いている。
だが、コメントとの対応を考えて恥を忍んでそのままにしている。
上の文章は無視して内田さんの文章を読まれたし。
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『山本浩二の芸術』
画家はどういう理由で、その技法を「具象」と「抽象」に分岐するのか。長い間、それが私にはわからなかった。
漠然と、目の前にある対象を「写生」的に再現することに喜びを見いだす画家と、目の前にある対象を超えたもの、その向こうにあるものを描き取ることに喜びを見いだす画家のあいだには気質の違いのようなものがあるのだろうと考えていた。
私は作家ではないし、美術批評家でもない。だから、私の仮説があたっていようと、はずれていようと、誰からも抗議されるおそれはない。けれども、問題はそれほど簡単ではないということをそのうちに学んだ。
山本浩二の古くからの友人であるひとりの静物画家の展覧会でのことだ。
その画家の静物画からは「死臭」がした。
私は山本君とその画家を前にして、その印象のとおりのことを述べた。
あなたの画からは死臭がします。それがあなたの画に恐ろしいほどの厚みをもたらしている、と。
画家は目をきらめかせて、その通りですと答えた。
彼は葡萄の画を描いていた。最初にテーブルに置かれた葡萄は画家がキャンバスにそれを写しているうちに腐敗して、崩れてゆく。腐った葡萄の粒を画家は取り除き、色とかたちの似た粒を接着剤ではりつける。そのようにして一枚の画を描き終わったときに、最初にテーブルの上にあった葡萄はすべて腐って棄てられた。そして、画布の上にだけみずみずしいその葡萄の「デスマスク」が残されたのである。
では、あなたは静物=死んだ自然を描くことを通じて、それらすべてを含むもの、すなわち「時間」を描いていたのですね、と私は言った。
彼はふたたびその通りだと言った。
造形的にはみずみずしい果実が死臭を発していることで視覚が決して描くことのできないもの、すなわち時間を空間的に表象しているのだ、と。
奇妙な話だが、私はその静物画家の言葉をきいた時に、山本浩二がその抽象的な造形を通じて、何を描き出しているのかを不意に理解した。
彼らは二人とも同じものを相手にしていたのである。
それは空間的表象形式では表象できないもの、すなわち時間である。考えてみれば当然のことだったのだ。芸術家に真の栄光があるとすれば、それはその芸術形式では絶対に表現できないはずのものを表現することに違いないからである。
彼が選んだ表現形式の「限界」を突破すること。真の芸術家ならそのような不可能な夢に取り憑かれているに違いない。
あの才能豊かな静物画家は「死」を、それも「いきいきとした死」を描くことに成功した。「いきいきとした死」というのはまさに「生きているものが死につつあるその状態」のことである。だとすれば、と私は自分に問いかけた。山本浩二はいったい何を、どう描くことで、芸術家たちをそこに釘付けにしている空間的表象形式の限界を突破する気でいるのだろうか。
私には今ならその答えがわかるような気がする。
あの画家が「死」を描こうとしたのとは逆に、彼は「生成」を描こうとしているのである。
何かが生まれる瞬間の、というより直前の、ざわめきや、震えや、ときめきを描こうとしているのである。
彼は「運動」を描こうとしているのである。
静止することを拒否するもの、とどまることに耐えられないものの緊張そのものを描こうとしているのである。
分裂し、増殖し、浮遊し、膨張するものを描こうとしているのである。
一言で言うなら、彼は「生命」を描こうとしているのである。
今まさに生成せんとしているものには、それに固有の図像的な特徴がある。山本浩二が数十年にわたる修行の日々を通じて把握しようとしていたのは、おそらくその「決して空間的に表象されえないものが、空間のうちに予兆として、あるいは痕跡として残す造形的特徴」だったのだと私は思う。それをつかみとるために彼は模写をし、作品の構造分析を行い、終わりない実験を自分に課してきた。
私はその歳月の成果がこの展覧会の作品のうちにはっきりと示されていることを確信している。
彼の画を見たあと、人びとの多くは私のこの言葉に深く同意してくれるはずである。
内田樹