5月12日、大雨の中行われた147回目の「火曜行動」です。
先週は府庁もお休みだったため、私たちもお休みをしましたが、今日は大雨の予想が出ていました。
それで、地下鉄に乗って府庁前に向かったのですが11時50分ごろ雨はまだポツポツでした。
ところが丁度、正午、「火曜行動」が始まるとなんと急に雨が降り出したのです。
長崎さんが、今日も先頭を切ってアピールを始めて下さいました。昨日行われた「加害の歴史に向きあい、東アジアの人々と平和な未来を作ろう!」という市民集会についてや、おばぁ様のお話など胸打つ話を30分以上してくださいました。
いつもご夫婦で「火曜行動」を支えて下さっている長崎さん。
伊藤さん、井上さんに齋藤さん、雨の中おつかれさまです。
エミさん、カンスさんもお疲れ様です。
「火曜バンド」は雨が降っても槍が降っても健在です。いつも元気を下さって有難うございます。
みんなで心からの拍手を送りました。
雨が降りしきる中傘もささずカッパを着たまま1時間もの間、立ちつづけてくださった館山さん、ありがとうございます。弱気になった日もあなたの後ろ姿はいつも力を下さいました。
いつもの仲間たち!目と目が合えば、それだけで力が湧いてきます。
降りしきる雨も皆さんの明るい笑顔には負けています。
無人のこの白い車は1時間私たちの前にのさばっていましたが、こんなのは違法では無いのですか?
警察もガードマンも知らん顔です。
「火曜バンド」のサンシン奏者森本さんが今日は久々にアピールをしてくださいました。
朝鮮学校に子供さんを送っていらっしゃるエミさんも今日はマイクを持ちました。
「朝鮮学校がどんな学校というより、朝鮮学校に対する仕打ちは、権力者による差別にすぎません。その事に憤りを感じるばかりです。」と力を込めて話されました。
大村さんご夫婦も元気なお姿を今日も見せて下さいました。
私も今日はマイクアピールをさせていただきました。昨日「加害の歴史に向きあい、東アジアの人々と平和な未来を作ろう!」という市民集会に私も参加したのですが、日本の方々がいろんな角度で現在の日本の状況について危惧されていると感じたこと、また空襲で被害を受けられた方が戦後70年がたっても何の保証も受けていないことに言及された時、その空襲で左足を失くした祖父のことを思いだしたこと、その祖父を探して私の父が渡日したこと、父が渡日することに依り母と巡り合い、兄が生まれ私が生まれたことなどをお話しました。
日本で生まれ育ったことが決して偶然ではないこと、自分の意思とは関係なく日本の植民地支配の産物として私が今日この地にいることを改めて話し、その子供や孫たちを差別し助成金までカットすることはありえないし、許せないと主張しました。
最後のシメはやはり長崎さんです。
みんなで「この坂を上れば」を合唱して雨の中帰りました。来週は晴れますように・・・
先週は府庁もお休みだったため、私たちもお休みをしましたが、今日は大雨の予想が出ていました。
それで、地下鉄に乗って府庁前に向かったのですが11時50分ごろ雨はまだポツポツでした。
ところが丁度、正午、「火曜行動」が始まるとなんと急に雨が降り出したのです。
長崎さんが、今日も先頭を切ってアピールを始めて下さいました。昨日行われた「加害の歴史に向きあい、東アジアの人々と平和な未来を作ろう!」という市民集会についてや、おばぁ様のお話など胸打つ話を30分以上してくださいました。
いつもご夫婦で「火曜行動」を支えて下さっている長崎さん。
伊藤さん、井上さんに齋藤さん、雨の中おつかれさまです。
エミさん、カンスさんもお疲れ様です。
「火曜バンド」は雨が降っても槍が降っても健在です。いつも元気を下さって有難うございます。
みんなで心からの拍手を送りました。
雨が降りしきる中傘もささずカッパを着たまま1時間もの間、立ちつづけてくださった館山さん、ありがとうございます。弱気になった日もあなたの後ろ姿はいつも力を下さいました。
いつもの仲間たち!目と目が合えば、それだけで力が湧いてきます。
降りしきる雨も皆さんの明るい笑顔には負けています。
無人のこの白い車は1時間私たちの前にのさばっていましたが、こんなのは違法では無いのですか?
警察もガードマンも知らん顔です。
「火曜バンド」のサンシン奏者森本さんが今日は久々にアピールをしてくださいました。
朝鮮学校に子供さんを送っていらっしゃるエミさんも今日はマイクを持ちました。
「朝鮮学校がどんな学校というより、朝鮮学校に対する仕打ちは、権力者による差別にすぎません。その事に憤りを感じるばかりです。」と力を込めて話されました。
大村さんご夫婦も元気なお姿を今日も見せて下さいました。
私も今日はマイクアピールをさせていただきました。昨日「加害の歴史に向きあい、東アジアの人々と平和な未来を作ろう!」という市民集会に私も参加したのですが、日本の方々がいろんな角度で現在の日本の状況について危惧されていると感じたこと、また空襲で被害を受けられた方が戦後70年がたっても何の保証も受けていないことに言及された時、その空襲で左足を失くした祖父のことを思いだしたこと、その祖父を探して私の父が渡日したこと、父が渡日することに依り母と巡り合い、兄が生まれ私が生まれたことなどをお話しました。
日本で生まれ育ったことが決して偶然ではないこと、自分の意思とは関係なく日本の植民地支配の産物として私が今日この地にいることを改めて話し、その子供や孫たちを差別し助成金までカットすることはありえないし、許せないと主張しました。
最後のシメはやはり長崎さんです。
みんなで「この坂を上れば」を合唱して雨の中帰りました。来週は晴れますように・・・