風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

ブラックジャックは東北人 ~大槻という人々~

2013-08-31 22:39:20 | 岩手・東北


『歴史の愉しみ方』という本を読んでいます。

静岡文化芸術大学准教授・磯田道史氏の書かれた本で、この方、忍者の研究をしておられるとか。

私の大学時代のゼミの先生は
「忍者の研究など、歴史学ではない」
と無碍に切り捨てておりました。その歴史学でないものを、歴史学として研究しておられる。

これは面白い。早速購入し、現在読みふけっておる次第です。

とはいえ、別に忍者のことだけを書かれているわけではない、実に幅が広い。

その一節に、漫画家手塚治虫氏の御先祖のことが書かれておりました。

いや、ここで書きたいのは手塚先生の御先祖のことではなく、
そのお弟子さんのことですが。



大槻俊斎(1804~1862)という医師がおりました。陸奥国桃生郡赤井村(現在の宮城県東松島市)出身で、江戸に出て苦学をしていたところ、二代目手塚良仙(1801~1862)という医師の目に留まります。
三才年下の俊斎の真面目な勉学ぶりに感心した良仙は、俊斎を弟子にし、ついには大金を持たせ長崎へ留学させます。やがて青年は立派な医師、蘭学者として江戸に戻ってきます。

おわかりでしょうか。この二代目良仙が、手塚治虫氏の高祖父にあたられる方なんです。二代目良仙は自分の娘と俊斎を娶せ、秋葉原で開業させます。
さてこの大槻俊斎、日本ではじめて本格的な外科手術を導入した方で、体内の破断血管を糸で結紮する止血手術や、弾丸で破砕された手足の裁断手術まで手掛けます。まさに幕末の天才外科医「ブラックジャック」。

手塚先生の家系の中に、このような天才外科医がいたことを、はたして手塚先生はご存じだったのだろうか。著者の磯田氏も言及されていますが、手塚先生の作品にみられる生命への深い眼差しというものの、根っこの深さを感じます。人の縁とは、なんとも不思議なものです。


ところで、大槻俊斎は東北出身ということで思い出すのが、大槻玄沢、磐渓、文彦のいわゆる「大槻三賢人」のことです。

俊斎と三賢人との間に、なんらかの血縁関係があったのかというと、これがまったくないらしいんです。な~んだ、関係ないのかあと、ちょっとがっかりしましたが、しかしその事績たるや、日本の歴史の中で堂々と胸をはるにふさわしいものがあるので、ついでですから紹介しちゃいましょう。




                   

                       大槻玄沢胸像
                    岩手県一関市の一関駅前にある大槻三賢人像より


大槻玄沢(1757~1827)。陸奥国磐井郡中里村(現在の岩手県一関市中里)出身。『解体新書』の翻訳で有名な杉田玄白、前野良沢の弟子で、玄沢の名は両師匠から一字づつ貰い受けたもの。
蘭学の入門書『蘭学階梯』を著し、『解体新書』の改訂版『重訂解体新書』を手掛ける。
江戸に私塾・芝蘭堂を開き、多くの医者、蘭学者を育て、日本の医学発展に大いに寄与した人物。


                  
                     大槻磐渓
                    

大槻磐渓(1801~1878)。江戸生まれ。大槻玄沢の六男。
玄沢が蘭学を漢語に訳させたいということで漢学を学ぶ。仙台藩の藩校・養賢堂の学頭となり、黒船来航の際には堂々と開国論を唱え、戊辰戦争の際には新政府の行動の欺瞞を喝破し、主戦論を唱え、奥羽越列藩同盟の理論的支柱となる。
江戸の生まれ育ちでも、反骨の東北魂の持ち主。


                   
                      大槻文彦


大槻文彦(1847~1928)。江戸生まれ。大槻磐渓の三男。鳥羽伏見の戦の際には、仙台藩の密偵として敵弾の飛び交う戦場を駆け抜けた。
文部省入省後、日本の近代化には国語の統一が必須ということで、上司より日本語辞書の編纂を命じられ、日本初の近代的国語辞書『言海』の編纂者となる。
宮城師範学校(現・宮城教育大学)、宮城県尋常中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)校長、国語調査委員会主査委員などを歴任。
英語の文法を日本語に当てはめた為、批判も多くあるが、国語学の泰斗としての業績は大きい。
後に『言海』の改訂版『大言海』編纂を手掛けるも、完成を見ないまま他界。兄の如電が後を引き継いだ。




話は戻りますが、先に挙げた大槻俊斎と二代目手塚良仙の娘との間に生まれた子に、大槻玄俊という者がおりました。蘭方医でしたが反骨の人で、新政府に反発し、戊辰戦争の際には榎本武楊率いる艦隊に乗り込み、函館五稜郭に立てこもってしまった。
大槻の邸宅は秋葉原にありましたので、これを譲り受けたのが、二代目良仙の弟・三代目良仙。この三代目が手塚治虫氏の曽祖父にあたります。

手塚先生に繋がる人物が、アニメの聖地“アキバ”に邸宅を構えていたという事実。妙な因縁があって、面白いですねえ。



ところで、この大槻玄俊。大槻磐渓あるいは文彦あたりと、なんらかの交際はなかったのだろうか、なんてことを妄想してみたくなります。どちらも江戸生まれだし時代も重なる。同じ大槻姓でしかも共に奥州にルーツを持つ医者の家系です。どこかでなんらかの接点があったとしても、おかしくないような気がするんです。特に玄俊が新政府に反発して榎本軍に参加する下りなどは、磐渓から多大な影響を受けたからではないか、なんてことを空想してみたくなりますね。
こんなことを考えてみるのも、“歴史の愉しみ”ですかね(笑)



いずれにせよ、江戸から明治にかけて、日本の近代化に東北人が深く関わっていたという事実。

なんだか、痛快です(笑)。


歴史って、愉しいよ。



『歴史の愉しみ方』
磯田道史 著
中公新書

 



黄金の國【コラム】7 平泉文化の広がりと白山

2013-08-28 21:32:29 | 黄金の國


鎌倉幕府の官選史書『吾妻鏡』によると、奥州藤原氏初代・藤原清衡は

「奥羽一万ヵ村の村ごとに伽藍を建立し仏聖灯油田を寄進した」
(『吾妻鏡』文治五・九・二三)

といいます。福島県いわき市の願成寺・白水阿弥陀堂は、藤原秀衡の妹徳尼による創建と伝えられ、「白水」とは、平泉の「泉」の字を二つに分解したもの(「白」+「水」=「泉」)なのだそうです。また、茨城県常陸太田市の西光寺薬師如来坐像は、当地の豪族だった佐竹昌義に嫁した清衡の娘による造像と伝えられています。

このように平泉文化の広がりの痕跡は各地に残されているのですが、なかでも際立っていると思われるのが、北陸の霊峰・白山に伝わる「秀衡伝説」です。




白山は加賀、美濃、越前に跨って聳え立つ霊山で、三峰それぞれが神格化され本地仏が祀られていました。『白山之記』によると、秀衡によって白山山頂に金銅仏が、御前峰には金銅十一面観音像、大汝峰には金銅阿弥陀如来像、別山には金銅聖観音像がそれぞれ寄進されたとあり、秀衡の白山にたいする信仰心の篤さが感じられます。
この寄進より400年後、天正13年(1585)に、この別山の本地仏・聖観音像が盗難に会い、鋳つぶされるという事件が起きます。これは奥州藤原氏の寄進だから、純金製であるに違いないと勝手に思い込んだ盗賊が鋳つぶしてしまったもので、奥州の黄金伝説は、国内においてもかなり大きく喧伝されていたものと思われますね。

白山周辺には他にも秀衡の伝説が伝えられています。

岐阜県郡上市石徹白(いとしろ)の白山中居神社には、秀衡の寄進による銅像の虚空蔵菩薩坐像が祀られていましたが、明治維新の後、神仏分離令によって河原に捨てられてしまった。これを里人が救い、観音堂を建てて安置され、現在も大切に祀られています。

この石徹白に伝わる伝説が面白い。この石徹白の上杉家に伝わる『上杉系図』によれば、秀衡が二体の金銅仏を造らせ、三男忠衡を名代とし、桜井平四郎と上杉武右衛門に命じて、白山の上神殿(石徹白の白山中居神社)と下神殿(伊野原)にそれぞれ一体ずつ奉納させました。
その後、上杉武右衛門はそのまま石徹白に住みつき、一族郎党は白山社の社人となり、その子孫は「上村十二人衆」として代々この像を護持し続けてきたのだそうです。
白山の麓で、奥州藤原氏の家臣の末裔たちが、秀衡の命を受け継ぎ代々守り続けて来たとは、なにやらロマンですねえ(笑)
ちなみに伊野原の下神殿に祀られていた仏像は、現在、平泉寺塔頭顕海寺に祀られている銅像阿弥陀如来坐像である可能性が高いそうです。

その他、石川県白山市の白山比メ神社の阿形の獅子と吽形の狛犬は、秀衡による寄進と伝えられるもので、国指定重要文化財とされています。また、白山市の林西寺に伝わる金銅十一面観音像も、秀衡による寄進との伝承があるそうです。



秀衡の白山への想いの深さ。そこに政治的なものを見る研究者もおられるようです。素人の私にはわかりませんが、秀衡の白山への篤い信仰心というものを、もっと素直に認めても良いような気がしますね。
自ら「東夷の酋長」を名乗り、蝦夷であることにアイデンティティを見い出していた奥州藤原氏です。その蝦夷達、原日本人ともいうべき人々が信仰していたであろう白山神を大切にしたいという思いを、私は秀衡の行動から見い出したい。もちろんこの時代は源平争乱の時代、源氏と平氏両者との、なんらかの政治的駆け引きというものも、裏側にはあったのかも知れませんが。



「秀衡伝説」は東北を越えて関東や紀州熊野にまで残されています。また、京都市上京区の大報恩寺(千本釈迦堂)は秀衡の孫・義空上人による建立と伝えられています。京においても「秀衡」の名がある種の「ブランド」のように扱われている。「秀衡ブランド」は奥州黄金伝説とセットとなって、一時期大いにこの国を席巻したように見受けられます。




平泉に関しては、紹介し切れていないことがまだまだ沢山あります。そのことは今後も機会がある度に書き連ねていきたいと思います。ですから【黄金の國】シリーズは不定期ながらまだまだ続くということで、

よろしくお願いします。



【参考資料】
『平泉藤原氏』
工藤雅樹 著
無明舎

『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社

黄金の國【コラム】6 ジパング伝説と平泉

2013-08-25 19:09:08 | 黄金の國


天平勝宝元年(749)、陸奥国小田郡、現在の宮城県涌谷町黄金迫で、日本初の金が産出されました。

この黄金を巡って、奥州では様々な攻防が繰り返されることになります。東北の古代史、争乱の影には、ほぼ必ず、この黄金の管理権を巡る攻防があった、と言って過言ではないでしょう。

古代日本においては、金に貨幣的な価値はありませんでした。金は仏像に鍍金するためのものであり、それ以外には使い道がほとんどなかった。しかし、海外との関係においては、金は多大な価値を発揮します。
遣唐使は奥州産の金を持参して、これを貨幣代わりに使用しました。また平清盛などが熱心に行った宋との貿易においても、奥州金は大いに活躍しました。「宋史 日本国」には、「東の奥州に黄金を産し、西の別島(対馬)に白銀を出だし、もって貢賦と為す」と書かれています。

平清盛の長男で奥州を知行していた平重盛が、気仙郡より献上された砂金1300両を宋の商人に託し、1000両を宋皇帝に献上し、200両を阿育王寺の僧侶に寄進して、阿育王寺に自分の菩提を弔う小堂を建立して欲しい、と願います。宋皇帝は重盛の志を喜び、御堂を建て500町の供米田を寄進したといいます。

また藤原秀衡は元暦元年(1184)、平氏に焼かれた東大寺大仏殿再建のため、5000両(約185㎏)の金を寄進しています。1両は約37gですから、これを現在の価格、1g4千円として計算すると7億4千万円に上ります。
この様な事実の積み重ね、そして皆金色の阿弥陀堂・金色堂の存在は、黄金の都平泉のイメージを内外に広めることに、多大な貢献を果たしたことでしょう。
黄金といえば奥州、奥州といえば黄金だったのです。




当時の金の採掘方法は、主に砂金の採集に頼っていました。自然石から分離し川水に流れ出した金を、土砂の中から採取する。その他に奥州では、古代の川が干上がった跡に堆積した土砂から砂金を採取する「芝金」という方法もとられていたようです。
坑道を掘って金鉱石を採取するような大規模な技術は、この当時にはありませんでした。これは逆に言えば、普通の農民、一般庶民でも川に入って土砂を水洗いすれば、少量ながらも金が採れたわけですね。
中央における造寺、造仏の急増は金の需要に拍車を掛けます。奥州の金は益々重要性を増してくる。
その利権を欲しがる者達が出てくるわけです。




さて、マルコ・ポーロ(1254~1324)です。

ヴェネチア領コルチェラ島(現クロアチア)生まれの商人にして旅行家。17歳の時に父や叔父とともに陸路東方へ向かい、中央アジアや西域を経、元(モンゴル帝国)の首都・大都(北京)に到達、皇帝クビライに仕えながら各地を旅行し、見聞を広めていきます。
帰国したのはマルコが42歳の頃、その後海戦に巻き込まれジェノヴァに捕われの身となり、その獄中で語った旅行の話を、ピサの著作家ラスティケッロが書きとめたのが『東方見聞録』です。

マルコ・ポーロが元にいた丁度その頃、二度に渡るいわゆる「元寇」が行われました。マルコが直接クビライと会話できたのかどうか、わかりませんが、『東方見聞録』によれば、クビライが日本を攻めようとした動機として、黄金のことがあったからだ、と記されています。

「ジパングは大陸から東方1500マイル離れた大きな島で、住民は色白で礼儀正しく、偶像礼拝者である。独立国でどこの国からも支配を受けておらずこの島には莫大な量の金があるが、商人はほとんどこないので、金で溢れている。
君主の宮殿は、我々キリスト教国が鉛で屋根を葺くように、屋根を純金で葺いているので、その価値は計り知れない。床は指二本分の厚い金の板を敷き詰め、窓も同様だから、宮殿全体ではだれも想像することができないほどの価値がある。大きな真珠や宝石も豊富に産する」
(大矢邦宣著「平泉 浄土をめざしたみちのくの都」文中より抜粋)

この話を聞いたクビライが、ジパングを征服しようと戦争をしかけますが、日本側の言う「神風」によって軍船ことごとく難破し、失敗に終わったというところまで記述されているようです。
これはまさしく、日本のことを言っているとしか思えませんね。マルコ・ポーロが元にいた時代よりおよそ100年前に平泉は滅びています。100年も経てば噂話に尾ひれがついて、大きな話になってしまうことはあるでしょう。それに外国人にとっては、奥州も日本も同じ「日本」であることには変わりなく、区別などつくはずもない。一地方の話が日本全土の話に拡大してしまうのも有りがちなことです。
ならばここで言われている黄金の宮殿とは当然、中尊寺金色堂以外には有り得ない。え?京都の金閣寺?いいえ、有り得ません。何故なら金閣寺の建立はマルコ・ポーロの時代より100年も後のことですから。

そうです、ジパング伝説の発信源は、紛れもなく平泉なんです。自明の理です。間違いなしです。

まあ、クビライの動機が本当に黄金だったのかどうか、この辺はマルコ・ポーロの想像であったかも知れず、抑々この伝説自体、マルコ・ポーロが退屈まぎれに面白おかしく話を作り上げたのかも知れない。いずれにしろその元ネタが奥州の産金にあったことだけは、間違いないでしょう。



マルコ・ポーロより200年の後、1492年、ジェノヴァ生まれのコロンブスがスペインより大西洋に漕ぎ出しました。香辛料と金を求めてインディアス(アジア)を目指し、到達したのがバハマ諸島のサン・サルバドル島。コロンブスはここをインディアス(アジア)だと信じて疑わず。島民をインディオと呼んだ。
そのコロンブスの航海日誌には、黄金に関する記述が多数あり、「ジパング」について8回も言及しているそうです。「ジパング伝説」がコロンブスの冒険心を突き動かしたのであろうことは、明らかでしょう。コロンブスの行動は西洋における大航海時代の幕開けとなり、新大陸発見へと繋がっていく。西洋史を大きく動かしたその大元に、平泉があったのです。



平泉の黄金文化の原点は、初代・清衡による恒久平和の思想でした。この世に浄土を築く、そこに世俗的な欲望はなどは、あまりなかったといって良い。以前にも書きましたが、平泉における皆金色の建造物は金色堂以外には存在しなかったのです。浄土世界の象徴である金色堂だけが、黄金の輝きを放っていた。ジパング伝説にあるよに自らの宮殿を黄金で飾り付けるようなマネはしなかった。その点が正しく西洋にまで伝わらなかったのは残念ですが、仕方がないでしょう。




「黄金の國ジパング」。ここから想起されるものは何でしょう。それはやはり、世俗的富に溢れた世界でしょうか。
しかし日本における黄金とは、元々仏像等に鍍金する以外に使い道はなかった。それは仏の光、浄土の光を表すためのものだった。そしてまた、日出る太陽の光、黄金色に輝く日の出の光をも表していたでしょう。その黄金の源泉、平泉の思想は、奥羽に此土浄土を築くことだった、恒久平和の理想郷を。

このことの意味を、我々はもっとよく考えてみるべきではないでしょうか。

真の意味で「黄金の國 ニッポン」となるために。



【参考資料】
『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社

『東北 不屈の歴史をひもとく』
岡本公樹 著
講談社

『平泉と奥州藤原四代のひみつ』
歴史読本編集部編
新人物往来社







感謝と哀悼を込めて

2013-08-24 22:45:13 | 日記


広いここさん、一度だけ、コメントを寄せて下さいましたよね。

残念ながらその記事は、諸事情により削除してしまい、今はコメントを読むことが出来ないようです。
 
ごめんね、こんなことになるなら、削除するんじゃなかった…。



よくがんばりました。どうか心安らかに。

心残りもおありでしょうが…。



広いここさんを、生かして頂いて、ありがとう御座位ます。

感謝と哀悼を込めて、合掌。

黄金の國【平泉編】~10~その後の平泉

2013-08-21 22:24:49 | 黄金の國


奥州藤原氏の滅亡によって、北方政権、辺境に独自の花を咲かせた行政拠点としての平泉はその役割を終えました。


頼朝は平泉における税制や寺領等を、藤原氏時代のまま据え置くように指示します。無用の混乱を避けるためもあるでしょうが、その際に頼朝は、「奥州は“神国”であるから…」そのままにしておくように、と下知したとか。

この場合の「神国」とはなにを指すのでしょう?当時は神仏習合でしたから、仏教の都である平泉を神国と表現したのか、それとも奥州全土を「神の住まう国」と認識していたのか。

頼朝は、一体なにを言いたかったのでしょうねえ…。



平泉を含む磐井郡と、胆沢郡、江刺郡、気仙郡、牡鹿郡の五郡は葛西清重に与えられ、清重は奥州総奉行となって平泉に館を構えたそうですが、館の跡は特定されていません。葛西氏も平泉に残された諸寺院の保護に務めたのでしょうが、やはり藤原氏時代のようなわけにはいかず、諸寺院は急速に衰退していったようです。

嘉祥2年(1226)には毛越寺が焼失し、無量光院も鎌倉時代末期頃には焼失したようです。毛越寺の本堂が本格的に再建されたのは大正時代になってから、無量光院は再建されることなく、田んぼの下に埋もれて長い眠りについていました。
南北朝時代の建武4年(1337)には、中尊寺が焼失、金色堂と経蔵以外のほぼすべての堂宇と僧房が焼け落ちました。ですから藤原氏時代の建築物は、金色堂と中尊寺経蔵以外には残っていないんです。
また戦国期の元亀4年(1573)には、戦乱に巻き込まれ、毛越寺南大門と観自在王院が焼け落ちたと伝えられています。
江戸時代に入ると、平泉は仙台(伊達)藩の領地となり、伊達正宗は平泉を巡検すると寺領を安堵します。これには豊臣秀吉の後押しもあったのではないか、なんて話もありますね。黄金好きの秀吉のことですから、中尊寺金色堂には並々ならぬ関心があったかもしれません。この秀吉が、中尊寺に納められていた「紺地金銀字一切経」を持ち出させたのではないか、なんて話もあります。
「紺紙金銀字一切経」とは、紺色の紙の上に、金色と銀色の文字で一行づつ書かれた経文のことです。一切経というくらいですから、釈迦が残した(とされる)経文をすべて、金と銀の文字で書写したもので、全5千巻以上、完成まで8年かかった労作です。これを豊臣秀吉が、権力を笠に着て持ち出しちゃった。だから中尊寺には、あまり残っていない、現存するもののほとんどは、高野山金剛峰寺に残されていて、国の重文に指定されています。中尊寺に返せばいいのに、そうもいかないのですかねえ。


                 

                   紺紙金銀字一切経



えーと、どこまで話しましたっけ?そうそう、伊達正宗でしたね。

伊達家はその後も寺領等の保護に努め、中尊寺月見坂に杉並木を植林したり、いくつもの保護政策を実施しています。

中尊寺、毛越寺とも、その衰退は激しかったものの、それぞれに支院が残っており、一山の僧侶達は世襲を繰り返しながら、堂宇の保護と仏道の発展に努め続けました。また地元農民達の強力も大きかったようです。彼ら農民達による経済的援助と、神事祭礼への貢献は、両寺の独自性と伝統を保持するには必要不可欠なものでした。
また江戸時代には、松尾芭蕉や菅江真澄などの著名人達が平泉を訪れ、往時を偲びました。

明治以降、神仏分離令が出され、伝統的祭礼が廃れかかる危機もあったようですが、金色堂が国宝第一号に指定されるなどの様々な保護を受けながら、紆余曲折を経て今日に至っています。




昭和35年、金色堂建立850年記念として、宮澤賢治の詩碑「中尊寺」が建てられました。


            


                  七重の舎利の小塔に
                  蓋なすや緑の燐光

                  大盗は銀のかたびら
                  おろがむとまづ膝だてば
                  赭のまなこただつぶらにて
                  もろの肘映えかがやけり

                  手触れ得ぬ舎利の寶塔
                  大盗は禮して没ゆる




盗みを働こうとして忍び入った盗賊が、その金色の目映い光の美しさと迫力に圧倒され、盗むことが出来ずに去ってゆく。ここで謳われている「大盗」とは、源頼朝のことであると言われています。
古代東北における、蝦夷と大和の争いを語った詩かとも思われますが、果たしてそれだけでしょうか。
古来より奥羽の富を狙い、争いを仕掛けた者達は多い。しかしそれは、ある意味現代でも同じなのかもしれない。
平泉に、金色堂に訪れる方々は、皆金色堂の輝きに目を奪われ、その経済力に思いを馳せる。しかし彼ら奥州藤原氏が真に目指した此土浄土。恒久の平和を奥羽に打ち立てんとしたその悲願のほどに思いをよせる方々が、一体どれほどいるというのだろう。
出来得れば、金色の輝きに畏れを抱いて平伏した盗人の如く、そこに物質的富以上のものを感じて欲しい。往時の人々の魂を、そこに見出して欲しい。

そんなおこがましいことを思う、この頃です。



さて、「黄金の國」と銘打ったからには、マルコ・ポーロの言う「黄金の國ジパング」伝説に触れないわけにはいきますまい。それは次章以降にて。



【参考資料】

『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社

『日高見の時代 古代東北のエミシたち』
野村哲郎 著
河北新報出版センター




 










黄金の國【平泉編】~9~平泉の落日と泰衡の首

2013-08-18 23:10:30 | 黄金の國


秀衡没後よりおよそ一年半後、文治5年(1189)、泰衡はおよそ百騎の軍勢を率いて、義経の住む衣川舘を急襲、義経とその郎党は奮戦するも抗しきれず、義経は持仏堂の籠ると妻と二歳になる娘を害し、自ら自害して果てた、と、鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」に記されています。

鎌倉幕府側からの再三の義経引き渡し請求に抗しきれず、自らの手で義経を討てば、許してもらえるのではないかと考えたことからの行動とされていますが、抑々頼朝の狙いは平泉そのもの、義経を差し出したところで、頼朝が手を緩めるはずがないことはわかっていたはず。だからこそ秀衡は、義経を主君とせよ、と遺言したはず。
そんなことも分からないほどに、泰衡は愚か者だったのでしょうか。




ところで、「義経北行伝説」によれば、義経は平泉で討たれることなく、束稲山を越えて東山から水沢、江刺を経て気仙に至り、三陸沿岸沿いを北上し青森県の野辺地から津軽半島の十三湖を経由して三厩へ、さらに北海道に渡り、最終的には大陸にまで渡ったとか。

この伝説、室町時代頃までには原型が出来上がっていたようです。頼朝の元に届けられた義経の首は、死後40日以上経過しており、美酒に漬けられていたいたとはいえ、かなり腐敗が進んでおり、本人かどうかの判別は出来なかったと言われています。そんなことから、その首は義経の首ではなく偽物であり、当の義経本人は生き延びたのだ、という伝説が生まれた。
平家を滅ぼした最大功労者でありながら、兄・頼朝に追われる身となった悲劇のヒーローに対する同情心が生んだ伝説であろう、と、一般的には受け取られています。

さて、この「伝説」によれば、義経が平泉を「逃亡」したのが文治4年(1188)だとされているんです。つまり、
泰衡が義経を討ったとされる時よりも、一年程も前のことになってしまうんです。
泰衡に襲われて、そこから生き延びたのではない。もっと早い時期に、すでに平泉を去っていた。これはどういうことでしょう?これがたんなる同情心から生まれた伝説であるなら、泰衡が攻めたときに逃げたとするのが普通ではないでしょうか。それがなぜ、わざわざ一年近くも前に時期が設定されているのか。

もしこの伝説が本当であったなら、いや本当である「側面」があったと仮定したなら、
泰衡の行動、ひいては平泉滅亡の意味が、まったく違ったものとなるのではないでしょうか。

泰衡は義経の逃亡を知りながら、あるいは自ら逃がして置きながら、まるで義経が平泉に匿われているかのような態を装っていたことになる。

なぜ、そんなことを?



文治年7月、頼朝は28万もの大軍勢を率いて鎌倉を進発します。頼朝は後白河院に対し、再三平泉討伐の宣旨を発するよう申請しますが、後白河院は言を左右にして、なかなか発しようとしない。そんなとき頼朝側の武将・大庭景能(おおばかげよし)が「軍中、将軍の命を聞く、天子の詔を聞かず」兵隊は将軍が命令すれば動く、朝廷の詔勅などいらないと言ってのけた。
これに発奮した頼朝は軍勢を押し進め、後白河院はやむなく後付で宣旨を発することになります。

対する平泉軍は17万騎。しかしこの内、実際には動かなかった軍勢もいたでしょう。奥州一円は平泉を中心とした一枚岩だったわけではなく、これを機に離反した土豪たちも多数いたと思われます。
両軍は阿津賀志山(福島県国見町)で激突、平泉軍の総大将は国衡でした。国衡の軍勢は四日間ほど持ちこたえましたがついに打ち破られ、国衡は戦死します。鞭盾(宮城県仙台市)に陣を敷いていた泰衡は、この報を聞くやただちに兵を引き、平泉では自ら館に火を付けるとさらに逃亡、頼朝に命乞いの書状を送るも、贄柵(秋田県大館市)にて腹心・河田次郎の裏切りにより殺害されてしまう。
泰衡の首はただちに頼朝のもとへ届けられます。泰衡の首をとった河田次郎は、「主人を裏切った不忠者」として処刑され、頼朝は泰衡の首を携えて厨川柵跡(岩手県盛岡市)へ向かいます。

厨川柵はかつて、源頼義・義家親子が安倍氏を滅ぼした場所。頼義は、安倍貞任らの首を五寸釘で柱に打ち付け、さらし者にしました。頼朝はその故事に倣い、泰衡の首をやはり五寸釘で打ち付け、さらしたのです。

源氏と奥州の因縁は、この頼義の代から始まっています。以来奥州を取ることは源氏重代の悲願でした。
頼朝はその悲願を果たした。頼朝は頼義の故事に倣うことで、先祖に礼を尽くしつつ、そのことを高らかに宣言したのでしょう。




この泰衡の首が、実は中尊寺金色堂に納められているんです。
三代秀衡、つまり泰衡の棺の中に、首桶の中に入れられたかたちで納められていたのです。

いったい誰が、いつ、入れたのでしょう?

先述した通り、金色堂は56億7千万年後の弥勒下生まで、遺体を保存するために建てられた葬堂です。つまり弥勒の世に復活する「資格」を持った人物でなければ、ここに葬られる資格はない。

清衡、基衡、秀衡までの三代は、仏法僧を篤く敬い。此土浄土建設に邁進した。これは十分に資格がある、と考えられたでしょう。
では泰衡はどうか?いたずらに頼朝軍を平泉に入れ、滅亡のキッカケを作ったではないか。

彼は此土浄土建設を潰した張本人ではないか。一体どこに、資格があるというのか。




しかし本当に資格がないのでしょうか?義経北行伝説が本当あるいは本当に近いことだったとするなら、泰衡はなんらかの理由で義経の逃亡の時間稼ぎをしたことになる。

鎌倉の目を惹きつけておいて、その隙に義経を逃がす。もしも露見したことを考えれば、大変危険な行為です。単なる自分勝手な愚か者にできる行為でしょうか。

そうした観点から見て行くと、泰衡がさして戦いもせずに逃亡し、部下に殺されるという末路も、違ったものに見えてきます。

つまり、泰衡らは「わざと」負けてやったのではないかと。

戦をすれば一番に迷惑を被るのは一般民衆です。民衆を守るためにはどうすべきか。泰衡は考えた。
奥州藤原氏初代・藤原清衡は、奥羽に二度と戦が起こらないことを願った。二代基衡、三代秀衡も、その初代の意志を継いで平泉建設に邁進し続けた。
泰衡だとて当然、その意志の薫陶は受けていたはず。泰衡の心の中にも、初代よりの想いは受け継がれていた。
しかし頼朝は、確実に平泉を取りに来る。
ならばどうする?どうすれば、なるべく小さな戦で終わらせることが出来る?

泰衡は思いました。いや、あるいは秀衡の真の遺言だったかも知れない、いずれにしろ、泰衡は選択したのです。
自ら、滅びる道を。

自らが滅びることで、奥羽の民を守る道を。




腹を空かした虎に自らの身を挺するがごとく、頼朝に“食われて”やったのだ。仏道を貫いたのだ。
だから泰衡は、金色堂に葬られる資格がある。そう考えた誰かが、せめて首だけでも、金色堂に納めてあげようと思った。




昭和25年、奥州藤原氏の御遺体調査が行われた際、泰衡の首桶の中からハスの種が発見されました。この種はながらく保存されておりましたが、平成10年に至って花を咲かせることに成功し、そのハスの花は中尊寺内をはじめいくつか株分けされて、盛岡などでも見られるそうです。

都市としての平泉は滅びました。しかし800年の時を経て咲いたハスの花に、平泉の「精神」を見たように感じたのは、私だけでしょうか。いや、平泉の精神というより、「東北魂」と言うものかもしれない。

時を越え世代を越え、いかなる逆境をも越えて、いつか花を咲かせる東北の魂。

いやあ、東北だけではありません。人は皆、かくあるべしと、ハスの花に言われているような気がします。

今この時代に蘇るべき、平泉の平和主義、不屈の東北魂。人のあるべき姿。

我が故郷から、学ぶべきことは多いです。


                   












映画『連合艦隊』

2013-08-15 23:08:47 | 映画


        


高校時代以来、久々の鑑賞でした。


                


松林監督の撮る戦争映画というのは、誰が悪いとかいうことよりも、時代の大きな流れに翻弄された人々の姿を、詩情豊かにじっくりと描いていくタイプの作品が多いように思います。この作品もそうですね。

軍の上層部も一般市民も、みんな何か、得体のしれない大きな波のようなものに翻弄されていく。そんな人々の哀しみを謳い上げた映画というべきでしょう。



真珠湾攻撃やミッドウェイ海戦の特撮シーンは、昭和35年の映画「太平洋の嵐」の特撮シーンをそのまま流用してますね。それと山本五十六長官の乗った戦闘機が撃墜されるシーンは、昭和43年の映画「連合艦隊司令長官 山本五十六」で使用された特撮シーンを流用しています。
いずれも特撮の神様こと、故・円谷英二氏が撮った特撮です。東宝は多くの特撮作品を制作してきましたので、特撮ライブラリーともいうべきフィルムが無数に存在するんですね。それを流用することによって制作費も削減できるわけですが、それにしても、昭和35年当時の映像を昭和56年の映画に流用しても、まったく違和感がない。それどころか映像の見事さに感心するやら感嘆するやらで、円谷さんは本当にスゴイ!とあらためて思い知らされます。



物語は、真珠湾からミッドウェイまでの展開はダイジェスト的で、いまひとつ盛り上がらないのですが、山本機が撃墜されて以降、一挙にドラマ部分が盛り上がっていきます。松林監督の抒情性が発揮されるのはここからですね。

鶴田浩二さんが、大和の沖縄特攻作戦の指揮官を演じているのですが、これが良いんだ。基本、セリフが少ない役なのですが、その背中にどっしりと乗っかった重みみたいなものが、ただ黙っているだけのその姿に、かんじさせるんです。鶴田さんは特攻隊の生き残りでしたから、戦争映画に出演される際は、相当に“重い”ものを背負いながら演じておられたのだと思う。
こういうのって、申し訳ないけど今の役者さんには出せないものですね。べつに昔の役者は凄くて、今はダメだなんて言うつもりはないですが、どうしたって敵わない部分って、やっぱりあると思う。この“重さ”は戦争を知っている人じゃないと出せないんじゃないかな。



                  


森繁久彌演じる奈良博物館長には息子が二人いて、長男の永島敏行が官軍士官学校出の戦闘機乗りで、古手川祐子演じる婚約者がいるんだけど、これが戦死しちゃう。彼には金田賢一演じる弟がいて、古手川祐子はこの弟の方と結婚することになるんです。当時としては割とよくあったことなのかも知れません。
ところが、この弟の方も、大和に乗艦して帰らぬ人に。結局古手川さんは未亡人になってしまう。
まあ、なんというか、息子二人を失った森繁御大の悲しみも大きいけれど、古手川さんはホント、踏んだり蹴ったりだねえ。

阿久悠原作、篠田正浩監督の映画「瀬戸内少年野球団」では、夏目雅子演じる主人公の婚約者(郷ひろみ)が終戦になっても復員してこないので、その婚約者の弟(渡辺謙)が夏目さんに惚れちゃって結婚を迫るんです。ところがそこへひょっこり、郷ひろみが帰って来ちゃう。とんびにあぶらげを攫われた格好の渡辺謙さんは、もうすっかりグレちゃった。なんて話がありました。こちらは兄弟二人とも生きていたが故の悲劇。もっとも見方によっては喜劇にもなり得ます。それはやはり、生きていればこそでしょう。
死んでしまっては、ね…。


                 


大和の工作科の班長を演じる財津一郎さんがまた良い。息子の中井貴一は海軍士官学校を主席で卒業したエリートなんだけど、これが特攻隊を志願しちゃう。財津さんは息子を戦死させないために、早く出世できるように士官学校に入学することを勧めたのですが、息子は死する道を選んでしまった。
「親より先に死ぬ馬鹿がどこにおる!」
財津さん渾身の名シーンです。


                   


中野明慶特技監督は、大和の最期を華々しく、美しく描こうとしています。


                  


                    


片道だけの燃料を積んで、沖縄に侵入しようとする大和ですが、これは事実上の特攻です。帝国海軍の技術の粋を集めた巨大戦艦が、ただ死ぬためだけに出撃していく悲劇。中野監督はその悲劇をいかに美しく撮るかにこだわった。

その最たるものが、最後の爆発シーンでしょう。巨大な炎と黒煙が、天高く舞上がるシーンに、それが凝集されていると感じます。
この爆発シーンには「ミニチュアの縮尺と比べて、炎が大きすぎる」という指摘が多く寄せられたとか。まあ、確かにそうかも知れませんね。

でもそんな指摘、はっきり言ってつまらないと思いません?私はつまらないとおもうなあ。

特撮というのは一つの映像表現です。ミニチュアというのはある意味役者なんです。
大和という“役”の哀しみ、苦しみを表現するために、監督が“役者”に演出を施した。それがあの巨大な炎です。
見事な名演出。大和の哀しみを、大和の苦しみを、抒情性豊かに表現した名シーンだと私は思う。

リアルさを求めるのだけが特撮ではありません。時にリアルを越えて、「情感」というものを演出するのも、「映像表現」としての特撮の使命です。


                


                   




終戦の日に臨み、かつて、この国において起きたこと、大きな時代のうねりの中で、この国を守るため、愛する人を守るため、多くの方々が命を散らした。その方々の御蔭で、今日我々の暮らしがある。

良いとか悪いとかじゃない。右とか左とかじゃない。

忘れちゃいけないんです。とにかく、忘れちゃいけない。目をそむけちゃいけない。

明日の子供たちのために、忘れちゃいけないんです。



戦争で命を散らした“すべて”の御霊に、哀悼と感謝を込めて。

合掌。


                 




                  



『連合艦隊』
制作 田中友幸
監督 松林宗恵
脚本 須崎勝弥
音楽 谷村新司、服部克久
主題歌 谷村新司『群青』
特技監督 中野昭慶

出演

小林桂樹
高橋幸治
三橋達也
小沢栄太郎
藤岡琢也
金子信雄
藤田進
平田昭彦
神山繁
佐藤慶
田崎潤
安部徹
佐藤允
永島敏行
金田賢一
中井貴一
財津一郎
長門裕之
中谷一郎
奈良岡朋子
古手川祐子
松尾嘉代
友里千賀子

丹波哲郎
鶴田浩二

森繁久彌

昭和56年 東宝映画














黄金の國【平泉編】~8~秀衡と義経

2013-08-14 21:56:27 | 黄金の國


義経については以前にも記事にしましたので、なるべく重複は避けるようにしたいですが、平泉を語るにおいては、やはり義経に触れないわけにはいきません。



義経を平泉に迎え入れるにおいて、秀衡はどのように考えていたのでしょう。当時は平家の勢力は全盛で、平清盛は絶大な権力を握っていました。そんな折にわざわざ源氏の御曹司を預かったのは何故か。

ある種の「保険」とでも捉えていたのではないでしょうか。いかに平家の権勢が絶大だといっても、天下はまだ治まっておらず、いつ形勢が逆転し源氏が台頭するか知れない。その時のためを考え、源氏の御曹司を匿っていたことは、源氏に恩を売ることになる。あるいはもしもこのまま平家の世が盤石なものとなり、源氏台頭の芽がなくなったときは、源氏の御曹司を“手土産”として平家に差し出せば良い。

世がどちらに転んだとしても、平泉の平和を守り切る。そのためには、冷酷非情ともとれる措置も厭わない。
政治家として、為政者として。奥州の民を守るため、秀衡はそう考えたのでしょう。

その義経が、兄・頼朝挙兵の報を聞いて平泉を出ることを決意した時、秀衡はどう思ったのでしょう。大事な駒に逃げられる!とでも思ったでしょうか。
それもあったかも知れませんが、それ以上に秀衡は、義経のことが心配でならなかったのではないでしょうか。長年義経のことを見ているうちに、秀衡は義経に対し息子のような感情を抱いていたのではないかと思う。平泉一の武者、佐藤継信・忠信兄弟を従者に付けて送り出したところに、それが現れていると私は思う。

義経は武者としての武術や軍略に秀でていた。おそらくは平泉にいたころから、その才を発揮していたことでしょう。とはいえ、平和な平泉でぬくぬくと育ち、世間というものを知らない。そんな若造が百戦錬磨の源氏勢に加わって、うまくやっていけるだろうか?利用するだけ利用されて、用がなくなればポイと捨てられる、なんてことにもなりかねない。佐藤兄弟を従けてやったのは、そんな義経を守ってやって欲しい、という思いからだった。
もちろん、義経の「監視役」という側面もあったでしょうが。


そして状況は、秀衡が危惧した通り、いやそれ以上に悪い方向へと進んでいきました。



兄・頼朝に疎まれ、追われる身となった義経が平泉に帰ってきたのは、文治3年(1187)のこと。もはや頼る所は、実の子の如くに育ててくれた秀衡の下しかなかった。
頼朝にも当然、それはわかっていることでした。行き場を失った義経が行き着く先は平泉以外にない。

武門による武門のための政権を目指す頼朝にとって、鎌倉の背後に当たる奥州に、もうひとつの武門政権が存在することは、はなはだ目障りなことだった。
それに奥州は、父祖頼義以来の宿縁の地。奥州を取ることは源氏重代の悲願。これを機に、一挙に平泉を落とす!

折しも、秀衡は病に斃れます。秀衡は病床に嫡男・国衡と後継・泰衡を呼び寄せると、義経を主君となし、国衡、泰衡ともに融和して義経に仕えよ、と遺言します。
国衡は先妻の子、泰衡は現妻の子。その泰衡の母は、元陸奥守で平泉の政治顧問・藤原基成の娘でした。嫡男国衡を差し置いて泰衡が後継者となったのは、そうした「血筋」によるところも少なからずあったかもしれず、そのため両者の関係には、微妙なものがあったのではないでしょうか。
今はまだ秀衡がいる。秀衡が重石となって押さえている。しかし秀衡亡き後は?
秀衡にとって、そこが最大の気がかりだったのでしょう。国衡に自分の妻を娶らせ、仲違いせぬよう誓約書まで書かせたといいます。そうして軍略の天才義経をあえてトップに据えることで、来たるべき頼朝軍との決戦に備えさせようとしたのです。
国衡と泰衡のどちらかをトップに据えたのでは、やはり不満が生じる恐れがある。それに軍略の天才義経のネームヴァリューは、それだけで頼朝軍へプレッシャーを与えることになる。瀕死の床にあって、秀衡が思い続けたのはただ一点。
平泉を守ること。



文治3年(1187)10月29日。藤原秀衡逝去。享年66歳。脊椎カリエスによるものとされています。

「北の王者」の死、それは平泉の運命をも急転させていくのです。

【続く】



【参考資料】
『東北 不屈の歴史をひもとく』
岡本公樹 著
講談社

『日高見の時代 古代東北のエミシたち』
野村哲郎 著
河北新報出版センター

『平泉と奥州藤原四代のひみつ』
歴史読本編集部編
新人物往来社



映画『地球防衛軍』

2013-08-12 12:32:23 | 特撮映画


                    


お盆ということで、今日は昭和32年公開の古~い東宝特撮映画、「地球防衛軍」を取り上げてみます。

え?なんでお盆なんだって?だってこの映画、冒頭が盆踊りのシーンから始まるんです。いや、それだけなんですけどね(笑)




とある田舎の村で催されている盆踊り、皆が興じている中、一人浮かぬ顔の男、宇宙物理学者・白石(平田昭彦)。とそのとき山火事が発生、不審を感じた白石は現場に駆けつけ、そのまま行方不明になってしまう。

数日後、その村が地盤沈下を起こし全滅。放射能が検出されたという不穏な情報に、白石の友人科学者・渥美(佐原健二)も調査団に同行する。

その調査団の目の前に突如現れた謎のロボット・モゲラ。モゲラは近隣の町を破壊し、自衛隊との攻防戦の末、爆破された鉄橋から落下し自重で潰れてしまう。
 
                         


上の画像は平成7年の映画「ゴジラVSスペースゴジラ」に登場したモゲラで、「地球防衛軍」に登場した奴とは微妙にデザインが異なりますが、大体こんな感じです。


この天変地異から謎のロボットの出現、自衛隊との交戦までの展開が実に小気味良い。地盤沈下のシーンなんか、確かにミニチュアだと解りますが、それでも凄まじい迫力で、東宝特撮は自然現象の描写が本当に素晴らしい。


やがて富士山の裾野に巨大なドーム状の建物が出現。中にいる者たちは科学者との面談を希望し、渥美ら五人の科学者がドームの中へと入っていく。行方不明となった白石が研究していたのは彼らのことだったのだ!

10万年前、火星と木星の間に一つの惑星があった。白石がミステロイドと名付けたその星は、星の住民〈ミステリアン〉同士の起こした核戦争によって破壊され、その残骸が小惑星帯として今でも残っている。ミステリアンの一部は火星に移住し、細々と暮らしていたが、放射能による遺伝子異常により、子孫が絶えるのは時間の問題だった。そこでより環境の良い地球へ移住し、地球の女性と婚姻することで、子孫を残そうと考えた。

とりあえずは〈ミステリアン・ドーム〉より半径3キロの範囲内を占有し、地球女性との婚姻を希望する旨を通告するミステリアンたち。しかし実際には、すでに数名の女性を拉致しており、自らは平和主義者と名乗りながら、いきなりモゲラを使って攻撃してくるやり口。
慇懃無礼というか、言ってることとやってることが違う。到底信用できるような輩ではありません。初めは半径3キロと言っていますが、いずれその範囲を拡大するであろうことは明白。まるでどこかの国みたいだ…なーんて、政治的発言は慎みましょう(笑)

対策本部はただちに攻撃を決定。富士の裾野でパノラマ的な戦闘シーンが展開されます。

戦闘機のシーンは、おそらくラジコンの戦闘機を実際に空に飛ばして撮ったシーンと、スタジオ内でピアノ線で釣ったミニチュアを取ったカットとを編集で組み合わせ、実に多角的で迫力あるカットを作り上げています。

戦車も、本物の戦車(自衛隊全面協力)と、ミニチュアの戦車のカットを組み合わせ、蝋で作った戦車に強烈なライトを当てて、熱で蝋製の戦車が融けていくカットに、作画合成で光線を加え、いかにもミステリアンの放った光線で、戦車が融けて行くかのようなカットを作り上げています。こういうミニチュアワーク、ドキドキしませんか?私はドキドキワクワクするなあ。

CGも良いですが、特撮というのは単に本物そっくりの映像であればいいのか?私はそうは思わない。
本物云々よりも、いかに面白い画を、見たことない画を作りあげるか。これはもう、センスの問題ですよ。ミニチュアだとはっきりわかっても、センスの良い画なら私は好きです。円谷監督はそういう意味では最高のセンスを持った監督でした。
センスが良い監督と言えば、スピルバーグなんかいいですね。あの方は金があるだけじゃないですよ(笑)。実に良い画を撮ってくれます。ジョージ・ルーカスはどうかなあ、微妙…。
逆にどんなに凄い技術があっても、監督のセンスが無ければ、たいした画にはなりません。せっかくのCG技術を駆使しながら、結局「スター・ウォーズ」初期三部作の映像を再現したにすぎなかった「●ン○ィ●ン○ン△デイ」とかね…(笑)初期のスターウォーズは、ほとんどアナログだけであれだけのシーンを作り上げていたんです。こっちの方がよっぽどスゴイ!
特撮は技術“だけ”ではありません。センスが一番です。

話がズレちゃいましたね(笑)この後の展開は、ミステリアンの登場を契機に世界中が一致団結し、地球対ミステリアンの対決へと発展。世界中の科学力を結集し新兵器が次々と開発され、最後には人類側の勝利に終わるわけですが、「こんな簡単に新兵器が作れるわけねーだろ!」とか「こんなすぐに世界の国々が団結するわけねーじゃん!」などなど、現代ならそのような容赦ないツッコミに曝されることでしょう。その点この時代、50年代はまだ、このような理想を語ることが許される時代だったのかも。
良い時代でしたねえ。

ところで行方不明になった科学者・白石はどうなったのでしょう?実は彼は、ミステリアンたちと行動をともにしていたんです。
白石は科学万能主義者。科学のみが人類に恒久の平和を齎すと信じていた。だから人類より科学の進んだミステリアンが、人類を滅ぼすようなまねをするはずがないと思った。きっと人類に平和を齎してくれると信じた。
後にそれが間違いであったことを知り、白石は大いに後悔することになります。よりによって、人類を滅ぼそうとする側の片棒を担ぐはめに陥ろうとは…。
白石はドーム内に拉致されていた女性たちを救出すると、ドーム内のあちこちを破壊して回り、自らドームと運命をともにします。現実を知ろうとせず、自らの誤った理想に走った男の悲劇です。
こんな人、今のこの国に多いような気がします。この間の参院選に受かった人の中にも…おっと、政治的話題は自粛と(笑)。




窮地に陥ったミステリアン司令(土屋嘉男)が、即時攻撃を中止しないと報復するぞ!と脅しをかけると、地球軍側の司令が
「よろしい、攻撃を中止しましょう。ただしミステリアンの、即時地球外退去を要求します!」
これです!この毅然たる態度!これこそあるべき姿です。いたずらに争いを起こすべきではありませんが、決して相手に呑まれることなく、毅然とした態度で臨む。
戦争であれ災害であれ、国を護るとは、国民を守るとは、こういうことだと私は思う。



お盆です。終戦記念日も近いです。この国を護るために散っていった英霊の方々も帰ってきておられることでしょう。


今の私たちは、英霊の方々に恥じない生き方をしているだろうか?そんなことを考えながら特撮映画を観ている私って、何?…(笑)




『地球防衛軍』
監督 本多猪四郎
脚本 木村武
音楽 伊福部昭
特技監督 円谷英二

出演

佐原健二
平田昭彦
白川由美
河内桃子
土屋嘉男
藤田進
志村喬

昭和32年 東宝映画

黄金の國【平泉編】~7~三代秀衡とその時代

2013-08-08 22:08:34 | 黄金の國


「高い鼻筋は幸いに残っている。額も広く秀でていて、秀衡法師と頼朝が書状に記した入道頭を、はっきりと見せている。下ぶくれの大きなマスクである」
「北方の王者にふさわしい威厳のある顔立ちと称してはばからない。牛若丸から元服したばかりの義経に、ほほえみもし、やさしく話しかけもした顔が、これであった。

作家・大仏次郎(おさらぎじろう)は、昭和25年の藤原氏四代御遺体調査の際、秀衡棺の開棺に立ち会い、上記の感想を記しています。

大仏次郎が「北方の王者」と呼んだ秀衡は、調査の結果貴族的で理知的な顔立ちをしており、アイヌ民族ではなく、和人的な特徴を強く持っていた。

当時、蝦夷はアイヌか否かということが論争になっていましたので、この調査結果は論争の大きな進展に貢献しました。

蝦夷とは単に東北に住む人々の呼称に過ぎず、明確な民族的差異などなかった。ましてや奥州藤原氏は、京の藤原摂関家の血筋。にもかかわらず奥州に住んでいるというだけで、蝦夷と呼ばれ、蔑まれた。

それに対し、奥州藤原氏は自ら「東夷の酋長」「蝦夷の族長」を名乗り、蝦夷であること、奥州人であることに積極的にアイデンティティを持った。

その蔑まれし奥州に此土浄土を築こうとした心理の根底に、ある種の「復讐心」はなかっただろうか・「傲慢」はなかっただろうか。

奥州藤原氏は本気で浄土を築くつもりだった。それは間違いない。でも最近、なにか「曲がってる」よなあ、という気がするのですよ。なんとなくね。

でもそれもまた、人間臭くて好きだったりするのですが。



秀衡が三代目を襲ったのは保元2年(1157)。秀衡36歳のときでした。

その二年後、平治元年(1159)に「平治の乱」が勃発。平清盛と源義朝の抗争は清盛の圧倒的勝利に終わり、義朝は討たれ、義朝の長男・悪源太義平は斬首。13歳の頼朝も処刑されるはずでしたが、清盛の母親の助命嘆願により助けられ、伊豆に流されます。義朝と常盤御前との間に生まれた牛若(後の義経)らは、常盤が清盛の愛妾となることで、後々出家することを条件に命を救われます。
清盛によって助けられた二人、頼朝と義経が、清盛の一代で築き上げた栄華を海の藻屑と消し去るとは…。

清盛とその一門の栄華は天下に並ぶものもなく、八年後の仁安2年(1167)、清盛は従一位太政大臣にまで上り詰め、政治権力をその一手に握ります。

「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われた清盛と平家一門の天下には、当然不満を持つ者達が多かった。中央の情勢がにわかにきな臭さを帯びて行く中、遥か奥州にあって、秀衡は天下の情勢を見極めていたのです。



中央の流れに呑まれることなく、いかに奥州の平和と独自性を保つか。そしてその潜在的「国力」をいかに示し続けるか。

黄金と名馬をもって中央とのパイプを保持し、平泉にあっては浄土都市建設完成へ向けて邁進し続ける。京の宇治平等院鳳凰堂を模しつつ、それを上回る規模の無量光院を建立します。

嘉応2年(1170)には、秀衡は朝廷より、従五位下、鎮守府将軍に任命されます。それまで秀衡は、陸奥出羽押領使の職を拝命しておりましたが、実質的には鎮守府将軍並の軍事的統制力を保有しておりました。ですから改めての鎮守府将軍任命は、秀衡の持つ潜在的政治力が、公的に認められたことになります。
この任命の裏には、清盛の思惑が働いていたと言われています。つまり、いざというときは平家に味方してくれというサインですね。
秀衡も当然わかっていたでしょう。しかし秀衡は、あえて知らないふりをしたようです。安易に平家に擦り寄るようなまねはしなかった。

天下の情勢はどちらに転ぶかわからない。平泉の興廃は秀衡の思惑次第、平泉の生き死にはその双肩に掛かっていたのです。

【続く】




【参考資料】
『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社

『日高見の時代 古代東北のエミシたち』
野村哲郎 著
河北新報出版センター