「高い鼻筋は幸いに残っている。額も広く秀でていて、秀衡法師と頼朝が書状に記した入道頭を、はっきりと見せている。下ぶくれの大きなマスクである」
「北方の王者にふさわしい威厳のある顔立ちと称してはばからない。牛若丸から元服したばかりの義経に、ほほえみもし、やさしく話しかけもした顔が、これであった。
作家・大仏次郎(おさらぎじろう)は、昭和25年の藤原氏四代御遺体調査の際、秀衡棺の開棺に立ち会い、上記の感想を記しています。
大仏次郎が「北方の王者」と呼んだ秀衡は、調査の結果貴族的で理知的な顔立ちをしており、アイヌ民族ではなく、和人的な特徴を強く持っていた。
当時、蝦夷はアイヌか否かということが論争になっていましたので、この調査結果は論争の大きな進展に貢献しました。
蝦夷とは単に東北に住む人々の呼称に過ぎず、明確な民族的差異などなかった。ましてや奥州藤原氏は、京の藤原摂関家の血筋。にもかかわらず奥州に住んでいるというだけで、蝦夷と呼ばれ、蔑まれた。
それに対し、奥州藤原氏は自ら「東夷の酋長」「蝦夷の族長」を名乗り、蝦夷であること、奥州人であることに積極的にアイデンティティを持った。
その蔑まれし奥州に此土浄土を築こうとした心理の根底に、ある種の「復讐心」はなかっただろうか・「傲慢」はなかっただろうか。
奥州藤原氏は本気で浄土を築くつもりだった。それは間違いない。でも最近、なにか「曲がってる」よなあ、という気がするのですよ。なんとなくね。
でもそれもまた、人間臭くて好きだったりするのですが。
秀衡が三代目を襲ったのは保元2年(1157)。秀衡36歳のときでした。
その二年後、平治元年(1159)に「平治の乱」が勃発。平清盛と源義朝の抗争は清盛の圧倒的勝利に終わり、義朝は討たれ、義朝の長男・悪源太義平は斬首。13歳の頼朝も処刑されるはずでしたが、清盛の母親の助命嘆願により助けられ、伊豆に流されます。義朝と常盤御前との間に生まれた牛若(後の義経)らは、常盤が清盛の愛妾となることで、後々出家することを条件に命を救われます。
清盛によって助けられた二人、頼朝と義経が、清盛の一代で築き上げた栄華を海の藻屑と消し去るとは…。
清盛とその一門の栄華は天下に並ぶものもなく、八年後の仁安2年(1167)、清盛は従一位太政大臣にまで上り詰め、政治権力をその一手に握ります。
「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われた清盛と平家一門の天下には、当然不満を持つ者達が多かった。中央の情勢がにわかにきな臭さを帯びて行く中、遥か奥州にあって、秀衡は天下の情勢を見極めていたのです。
中央の流れに呑まれることなく、いかに奥州の平和と独自性を保つか。そしてその潜在的「国力」をいかに示し続けるか。
黄金と名馬をもって中央とのパイプを保持し、平泉にあっては浄土都市建設完成へ向けて邁進し続ける。京の宇治平等院鳳凰堂を模しつつ、それを上回る規模の無量光院を建立します。
嘉応2年(1170)には、秀衡は朝廷より、従五位下、鎮守府将軍に任命されます。それまで秀衡は、陸奥出羽押領使の職を拝命しておりましたが、実質的には鎮守府将軍並の軍事的統制力を保有しておりました。ですから改めての鎮守府将軍任命は、秀衡の持つ潜在的政治力が、公的に認められたことになります。
この任命の裏には、清盛の思惑が働いていたと言われています。つまり、いざというときは平家に味方してくれというサインですね。
秀衡も当然わかっていたでしょう。しかし秀衡は、あえて知らないふりをしたようです。安易に平家に擦り寄るようなまねはしなかった。
天下の情勢はどちらに転ぶかわからない。平泉の興廃は秀衡の思惑次第、平泉の生き死にはその双肩に掛かっていたのです。
【続く】
【参考資料】
『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社
『日高見の時代 古代東北のエミシたち』
野村哲郎 著
河北新報出版センター