延暦20年(801)、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、時の桓武天皇の命を受け、未だ抵抗を続ける蝦夷を征伐するため、奥州胆沢の地(岩手県奥州市)に進軍します。
田村麻呂は武威を持って力押しにすることをせず、大和の「力」を見せつけていきます。森を伐り開き、巨大な城(胆沢城)を建築し豊かな経済力を見せつけ、また多くの寺社を建立し人心慰撫に努め、大和に抵抗することの無意味さを、蝦夷たちに実感させていきました。
翌延暦21年、抵抗蝦夷の長・阿弖流為(アテルイ)と腹心の母礼(モレ)が投降。田村麻呂は二人を都に連れていき、二人の助命嘆願を申請します。
殺すよりも、今後の蝦夷政策に役立てた方が良いとの考えでしたが、朝廷側はこれを却下します。
阿弖流為と母礼は、河内杜山にて処刑されます。
この様に、田村麻呂は阿弖流為を討ってはおらず、むしろ助けようとしたのですが、後世、田村麻呂のイメージは、都に仇成す悪辣なる蝦夷を討ち破った武門の英雄として神格化されていきます。
一方阿弖流為は、悪人のイメージが肥大化していき、そのイメージはやがて、京の都に攻め上らんとする「鬼」の如き存在、「悪路王」を生み出します。
悪路王は架空の存在ながら、悪しき蝦夷の象徴的存在となり、多くの説話、物語に登場し、田村麻呂をはじめとする英雄たちに倒される存在として描かれていきます。
常陸国一之宮、鹿島神宮には悪路王の首を模したとされる木像が保存されています。鹿島神宮の御祭神はタケミカヅチノ神。武門の神であり、武人であった田村麻呂が篤く信仰していたと伝えられ、討ち取った悪路王の首を、鹿島神宮に奉納したとする言い伝えがあるのです。
悪路王は架空の存在だし、田村麻呂は阿弖流為らを討ち取ってはいないのですが、伝説は新たな伝説を呼ぶということでしょう。江戸時代にこの首像を彫り奉納した人物がいたのです。
悪路王首像(常陸国一之宮鹿島神宮蔵)
悪役面してますねえ(笑)こういうイメージだったのですね。
さて、英雄田村麻呂のイメージは江戸期に至り、更なる飛躍を見せるのですが、
それはまた、次回。
つづく。
そうなのですか、鹿島神宮には悪名高い(架空の)悪路王の首像が奉納されているのですね。
鹿島神宮には参拝したことがないのですが、もし訪れる機会がありましたら、悪路王の首像を拝顔してみたい…!?でも興味本位で拝顔してもいけないかもしれませんね。
ありがとうございます。大変勉強になり…ました!!