風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

野の信仰

2014-11-30 13:25:27 | 歴史・民俗
 




車で田舎道を走っておりますと、道端に墓石のようなものが列を成している光景にぶつかり、ギョッとすることがあります。

あれは墓石ではなく、「板碑」と呼ばれるものなんです。

本来はあちこちの道端に佇んでいた板碑を、戦後になってから一か所に集めて並べたものなんですね。それがまるで墓石の群のように見えてしまうわけです。




板碑とは仏教信仰の一形態で、主に鎌倉時代から室町時代にかけて広まったものらしいです。

大概は梵字が刻まれており、造立された年月日や、何故立てたのか、といった縁起が刻まれている供養碑です。戦国時代以降急速に衰退して行き、この形態は木製の卒塔婆へと受け継がれていき、現在まで続いているわけです。




それとは別に、主に御神名が刻まれた大きめの板碑もよく見かけます。

「湯殿山大権現」とか「猿田彦大神」なかには「天照」と大きく刻まれた板碑などが、路傍やら田んぼのあぜ道の端っこやらに立っている。その他「馬頭観音」「雷神」「水神」等々、実に様々です。





大自然の中に神仏はおわす。山にも川にも路傍にも、ありとあらゆるところに神仏の顕現がある。だからこその、こうした板碑群なのでしょう。

御神名が刻まれた板碑が、神社の境内に建っていることもままあります。

ある神社には、「伊勢神宮」と刻まれた板碑と、「出雲大社」と刻まれた板碑が並んで建っている光景を見ました。しかも神社名は「春日神社」だったりするという(笑)カオス状態。

もう、なんでもありですね。天津神も国津神も関係ない。神は神。すべて有難い御存在。でもこれが本来の日本的信仰なのだと思います。





西行の歌「なにごとのおわしますかはしらねども…」にあるように、御祭神が何かなんてことは、わからなくていい、知らなくていい。ただただ有難いのだ、という感覚。

これが本来の、日本人の神観念。

天津とか国津とか、この神社の御祭神は○○神だとか、そうしたことは、支配者側の勝手な都合、勝手な理屈で宛がわれたものが殆どでしょう。だから一般庶民の信仰には、ほとんど関係がないんです。本来は単純にその土地の神であり、山の神であり、川の神だったわけで、だから、便宜上の御祭神などは、大した意味を成さない。

神は神。

ただただ、有難い。





http://www.geocities.jp/kawai24jp/index-itabi-touhoku.html




日本の神話には、人を「作る」場面がありません。

「国生み」と「神生み」はあっても、「人生み」がありません。人はいつの間にか、当たり前のようにそこにいる。

旧約聖書などには、神が人を作る場面がありますが、これによって神と人との間には断絶が生まれるわけです。神は人とはまったく違う存在として描かれる。

ところが日本の神話では、人が神に作られるという場面は無く、何となくいつの間にか人は「いる」。これはつまり、神々の連なりの中から、極々自然に人が生まれてきた、ということでしょう。だからわざわざ、人を「作る」必要がなかったんですね。

神々の連なりの中に人は「ある」。

神と人とは一連なりに繋がっているんです。そこに断絶はない。




「氏神」というのは、それぞれの土地の神ですが、地域によっては、その土地を開拓した一族の「氏の長」つまり御先祖様を神として祀っている場合もあるようです。

まあいずれにしろ、人は大自然の神々と一連なりに繋がっているわけで、自分が生まれ育った土地に関わる神々、そしてこの土地に代々暮らしてきた御先祖様はすべて自分に繋がっているわけですね。

その自分と繋がっている土地に生まれたこと、育ててもらったことに感謝する。

氏神の祭りとは、本来そうした意味合いだったのでしょうね。



出征兵士の壮行会なども、氏神社で行われることが多かったです。これなども、これまで育ててもらった感謝と、御国の為に働けるという報告と感謝を、氏神に捧げる為でありましたでしょう。

時の流と共に、そうした氏神社の中にはすっかり忘れ去られ、廃れてしまった社も多い。

かつてその神社で壮行会を行った英霊方がその廃れてしまった社の光景を見たなら、一体何を思うのでしょう…。




                     
                      http://www.koamijinja.or.jp/




日本の総氏神は伊勢神宮です。

そして伊勢神宮内宮は、皇室の氏神。

つまり皇室はすべての日本人の「御先祖」でもあるわけです。



つまり日本人はそれぞれの土地の氏神参拝、氏神社の祭礼を通じて、伊勢神宮と繋がり、御皇室と繋がり、一連なりに繋がっているわけです。


なんとはなしの、日本人としての共有意識。これは氏神を通しての日々の暮らし、習俗を通じて、日本人の中に連綿と伝えられてきた。

氏神は日本人を日本人たらしめてきた重要なファクターの一つだと言って良いでしょう。




氏神様を、大事にしましょうね。
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カレンダー

2014-11-27 13:35:58 | 日記
  



荒淫……じゃない、光陰矢の如し。失礼。




今年一年間、日々の癒しを与えてくれた、能年ちゃんカレンダーも残り一枚です。早いねー。

来年の分はももクロの日めくりカレンダー、「姫クロ」をすでに購入しておりますが、それはそれとして、能年ちゃんカレンダーも再び購入しようかと、財布の中身と相談しながら計画しておる次第。映画『海月姫』近日公開でーす。よろしく(笑)








昔はカレンダーなんて買わなかったものです。もらい物のカレンダーがたくさんありますので、有難く使わせて頂いていたものです。

それがどうでしょう。いつの間にかカレンダーを買うのが当たり前になってしまった。私も贅沢になったもんです。

カレンダーを買える身分にも、感謝しなくちゃね。





ニール・セダカ 「カレンダー・ガール」









それにしても、時の流れは日に日に早くなってきているのを如実に感じますねえ。この間正月を迎えたばかりと思ったら、もう次の正月が間近ですよ。早いねー。

この間国立の舞台に立ったばかりなのに、あっという間に桃神祭も過ぎて、もうももクリですよ、早いねー(笑)

祝、三年連続紅白出場!あかりんとの共演成るか!?今年の大みそかも楽しみだ。気が早い?(笑)
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映画『用心棒』

2014-11-25 19:51:45 | 時代劇
 



                 




いやあ、見事な映画です。この一言でおしまいにしたいくらいです。あとはどうぞご自分で御覧なって下さい。…と言いたいところですが、それでは記事の意味がないので(笑)

しょうがねえなあ、なんか書くか…(笑)







とにかくテンポが良い。無駄な表現を廃し、次々から次へと新たな展開が進んで行き観客に考える暇を与えず飽きさせない。それと一人一人なキャラクターが立っている。

登場人物の性格が一発でわかるような演出をしているんですね。そのルックスやセリフ、動き等で、どういうキャラなのかがすぐにわかる。キャラの立て方がある意味マンガ的だといっていい。

ストーリーもシンプルで、黒澤作品のなかでも比較的分かり易い展開。黒澤明が娯楽作というものに徹底的に拘るとこうなる、という見本のような映画ですね。



映画には色々なものがあっていい。芸術結構。おおいに芸術映画を作ればいい。でも映画というのは基本は娯楽なんです。観客に楽しんでもらうことが、映画にとって1番大切なこと。



黒澤監督はとにかく、映画的魅力に溢れた、理屈抜きに楽しめる娯楽作を作りたかったんですね。理屈抜きとはいっても、そこは黒澤監督のこと、時代劇としての殺陣の魅力をしっかりと描きつつ、刀で斬ることの怖さの追及も忘れない。東映時代劇には無い、リアルで怖くて、それでいてカッコイイ、魅力溢れる殺陣表現に挑戦し、見事に成功しているといっていいでしょう。それはもちろん、殺陣師の久世竜氏と、なんといっても三船敏郎がいたればこそのことです。

三船さんの殺陣は豪快で素早く、複数の人間をほんの数秒で斬り倒してしまう。しかもこの作品では一人の人間に対し、最低二回、刀を当てているんです。

一度胴を掃って、返す刀で頸動脈を斬る。確実に絶命させているんです。それをほんの数秒、目にも留まらぬ速さでやってのける。

この方がいなければ、成り立たなかった映画だと言っていいでしょうね。







                   







舞台は上州のとある宿場町。

二つのばくち打ち(ヤクザ)勢力が対立する町にふらりとやって来た浪人(三船敏郎)。

浪人は「桑畑三十郎」(明らかな偽名)と名乗り、町から両ヤクザ勢力を一掃しようと画策します。



ふらりとやって来た風来坊が悪者どもをやっつけて、またふらりとどこかへ去って行く。典型的なヒーロー像でしょう。この桑畑某の好敵手となるのが、仲代達矢演じるヤクザ「新田の卯之助」。

冷酷非情で頭も切れる。時代劇なのになぜか首にスカーフを巻き付け、どこから入手したのか、6連発の拳銃を持ち歩き、何かというと拳銃を見せびらかしてはぶっ放す。こうして書いてみると無茶苦茶なキャラのように思えますが、これが黒澤監督が演出すると、時代劇の枠の中で、違和感なく生きて存在しているんです。不思議ですねえ。

その他、志村喬、藤原鎌足、山田五十鈴、土屋嘉男、加東大介、司葉子、東野英治郎といった豪華名優たちが脇を固め、作品の質を上げることに貢献してます。さすが黒澤映画、凄い俳優陣揃い踏みです。



『用心棒』は海外の作品にも多大な影響を与えています。一番有名なのは、セルジオ・レオーネ監督、クリント・イーストウッド主演のマカロニウエスタン『荒野の用心棒(Fistfull Of Dollars)』でしょう。ストーリーも基本的キャラクターもソックリで、もろパクリだというのが分かる。実際、東宝が著作権侵害で訴訟を起こしましたからね。最終的には示談となったようですが。

その他、ブルース・ウイリス主演『ラストマン・スタンディング』という作品も、この用心棒をギャング映画に翻案して制作されたものなんですね。それと、ケビン・コスナー主演の『ボディ・ガード』。ストーリー自体は違いますが、劇中で主人公が観ている映画がこの『用心棒』なんです。抑々この『ボディ・ガード』というタイトル自体、『用心棒』のアメリカ公開時のタイトルだったとか。実はケビン・コスナーが『用心棒』の大ファンなのだそうです。



黒澤明監督作品は、海外の映画に多大な影響を与えています。中でも『七人の侍』と、この『用心棒』は特に影響力が大きい。

まさに日本が誇るべき映画の一本だと言って良い。






             [
『用心棒』予告編。

本編の微妙に画が違う部分があるんです。予告編用に新たに撮り直した物や、NGテイクも混じっているかも知れませんね。





クライマックス・シーンに、『荒野の用心棒』のサウンド・トラック(作曲・エンニオ・モリコーネ)の音楽を被せたもの。
面白いですね。でもやっぱり、佐藤勝の音楽の方が合ってる(笑)




カッコイイっしょ?是非オリジナルを、一度は観て欲しいものです。時代劇の魅力を再発見出来るかも知れません。

私のおススメ。













『用心棒』
制作 田中友幸
   菊島隆三
脚本 菊島隆三
   黒澤明
撮影 宮川一夫
音楽 佐藤勝
監督 黒澤明

出演

三船敏郎

仲代達矢

河津清三郎
山茶花究
加東大介
太刀川寛

沢村いき雄
渡辺篤

土屋嘉男
司葉子

山田五十鈴

天本英世
ジェリー藤尾
羅生門網五郎

志村喬
藤原鎌足
加藤武
西村晃

藤田進

東野英治郎

昭和36年 東宝映画
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凶悪

2014-11-24 15:03:22 | つぶやき
 




車の運転を成される方は、あるいは分かるかも知れませんが。

自転車数代が横一列になって、車道を塞ぐかのようにして走っていることが往々にしてありますね。

あれって、腹立ちません?こぉら、学生ども!危ねえじゃねえか!死にてえのか、てめえ!



……じゃなくて、こらこら学生さん、危ないですよ。お亡くなりになりたいですか?なんなら私が、あの世まで送ってさしあげましょうか?


……余計に怖いね(笑)




まあ、冗談はさておき、数年前までの私は、そういう状況を見かけるとワザと自転車すれすれのところを車で通り過ぎていました。

自分としては「危ないんだよ、君たち」と教えてやっているつもりでしたが、私の方がとんでもなく危ない行為を行っていたわけです。




人の中には、凶悪なるものが潜んでます。そいつはちょっとしたことで、表に出てくる。

早く気が付かないと、とんでもないことになるかもよ。



普段から出来る限り、自分を客観的に見つめられるように、日頃からの習慣って

必要だね。



他人に見える凶悪は、実は自分の中の凶悪かもしれない。



あの人はあーだこーだ言ってるあなた。

あなたが一番

危ないかもよ…。










                   
                    IRON MAIDEN-The Evil That Men Do







えっ?今はどうなのって?

今はそんなことしませんよ。今そういう自転車の列に出くわしたら、ゆっくりと

後ろから、プレッシャー掛けてやります。




…って、ウソウソ(笑)
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映画『夕陽のガンマン』(For A Few Dollars More)

2014-11-23 15:44:00 | 映画
 



                      




何度も何度も繰り返して観る映画というのがあります。

この『夕陽のガンマン』(原題、For A Few Dollars More)などは、ホントに何度観たか分からないくらい、繰り返し観ています。

なにがそんなに好きなんだかねえ…。



オープニング・シークエンス







イタリア製西武劇いわゆる「マカロニ・ウェスタン」隆盛の元を作ったのは、セルジオ・レオーネ監督が1963年に制作した『荒野の用心棒』(原題、Fistfull Of Dollars)であることは間違いありません。

マカロニ・ウエスタン前史のようなものは、この『荒野の用心棒』以前から連綿と続いていたのですが、煩雑なのですっ飛ばします(笑)。とにかくこの『荒野の用心棒』の世界的成功によって、マカロニ・ウエスタンは量産されるに至ったわけです。

ロケ地は大概スペインあたりの荒涼たる大地。キャストはイタリアやスペイン、西ドイツ(当時)などからかき集めました。そうなるとラテン系の顔立ちの人達が多くなってしまうので、舞台設定はアメリカ・メキシコ国境付近、悪人はメキシコ人という設定が多くなる。でも主役はアングロ・サクソン系がいいということで、セルジオ・レオーネ監督は当時アメリカで燻っていた売れない俳優、クリント・イーストウッドをイタリアに招聘し、主役に大抜擢。こうして制作された『荒野の用心棒』は世界的ヒットを記録。イーストウッドは一躍大スターの座を射止めたわけです。

『夕陽のガンマン』はこのセルジオ・レオーネ監督とクリント・イーストウッドが再びタッグを組み、さらにアメリカ映画界の「斬られ役(撃たれ役?)」リー・ヴァン・クリーフを新たに招聘して制作されたものなのです。




本場アメリカの西部劇の主人公というのは、大概清廉潔白な人物で、内容も勧善懲悪なものが多い。日本で言えば往年の東映時代劇みたいなものです。

一方のマカロニ・ウエスタン(以下、マカロニ)は、主人公も大概は「悪いヤツ」なんですね。この悪いヤツがもっと悪いヤツをやっつける、アンチ・ヒーロー的なストーリーが多い。

『夕陽のガンマン』はそうした一連のマカロニ群の中で、最もうまくいった作品だと思う。

マカロニは画的にも「乾いて」います。どこまでも荒涼たる大地が続き、その荒涼たる風景の中にポツンと町が点在する。その乾いた世界で、些かマンガチックな男どもの闘争が行われる。

それがマカロニ・ウエスタンなのです。

本場アメリカ物なら広大な川や森、野生動物たちが画面に潤いを与えるのですが、マカロニにはそれがないんですね。まるで登場人物たちの心象風景を表しているかのようです。







                     
                      リー・ヴァン・クリーフ




                     
                      ジャン・マリア・ボロンテ




ストーリーは、クリント・イーストウッドとリー・ヴァン・クリーフ演じる賞金稼ぎが、ジャン・マリア・ボロンテ演ずる“賞金首”インディオを追うというもの。

イーストウッドとクリーフそれぞれの“獲物”の狩り方や、二人が共闘するに至るキッカケとなるマンガチックな「銃技」の応酬シーンなど、見どころは多々ありますが、私が一番好きなのは、登場人物たちの「顔」なんです。



それはもちろん、イーストウッドやクリーフの顔も好きですが、やはり悪役陣の顔立ちがなんとも味わいの深い、「イイ顔」なんですよ。

よくぞこれだけ「悪役面」を揃えたものだと思います。レオーネ監督はその一人一人の悪役面を実に丁寧にアップで抜いて行くんです。

これが他の映画だったら、ほとんど写っているかいないか分からないような方々ですよ。その方々一人一人の顔を、まるで慈しむかのように丁寧に見せていくんです。

こういう風に撮ってもらえたら、役者さんたちも発奮するでしょう。『荒野の用心棒』もそうでしたが、私はこういう撮り方の中に、ある種の「反骨精神」のようなものを感じるんです。

本場アメリカの西部劇に比べれば一段下、イロモノ的な扱いをされ易いマカロニですが、そんな扱いになんか負けねえぞ!俺たちは本場物にはない、面白いものを作ってるんだ、いや本場物をもいずれは越えて行くんだという心意気。

悪役さんたちの「イイ顔」がずらりと居並ぶ光景を見る度、私にはそのような「反骨精神」が感じられるのです。

あの顔この顔、皆人生の荒波を乗り越えてきた「良い顔」です。

好きだなあ、あの「顔」たち。




リー・ヴァン・クリーフ、射撃シーン。銃器の描写が鮮やか。撃たれる悪役の「顔」がいいでしょ(笑)




クリント・イーストウッドvsリー・ヴァン・クリーフ。音楽が効果音のように使われています。これは日本の歌舞伎やマンガに近い発想ですね。ババーン、みたいな(笑)




その「顔」たちの中には、西ドイツ(当時)の名優、クラウス・キンスキーも混じっています。

この方、実生活でも相当アブナイ人だったらしいです。そのアブナイ顔を生かした凶悪極まりない役を、見事に演じておられます。



                    
                     クラウス・キンスキー






<クラウス・キンスキーの凶悪顔いいでしょ(笑)





音楽はエンニオ・モリコーネ。音楽と役者の演技とが連動した独特の演出は、歌舞伎の効果音のようでもあり、そのような日本的な「ケレン」が随所に見られる作品でもあり、この「ケレン味」が日本人に受けた側面もあったのではないか、などとも読めますね。





賞金首インディオと手下どもを倒し、大金を得た二人。

リー・ヴァン・クリーフ演じるモーティマー“大佐”は賞金を全部イーストウッドに譲ります。モーティ―マー大佐の目的は、妹の仇であるインディオを殺すことにあって、賞金ではなかったんですね。

ラストシーン。インディオと手下どもの死体を積んだ馬車を駆るイーストウッド。一方のクリーフは一人馬を駆って、夕陽に向かって駆けて行く。

映画としてはこれでおしまい。しかしその後の二人の運命は、決してハッピーエンドとは行くまい。

因果応報、“ツケ”は必ず払わされるよ。






 
緊迫の決闘シーン。エンニオ・モリコーネの音楽との連動効果に注目しながらご覧ください。
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正論

2014-11-20 10:39:44 | つぶやき
  



正論を翳しただけですべてが収まるなら、世の中とっくの昔に良くなってる。

そうはいかないのが人間なんだよね。

これはそうなんだから仕方がないんだよ。

結局、本人が気が付くのを待つしかないんだ。

静観するしかないのさ。



難儀だけどね。






                
                 村治佳織 「ニューシネマパラダイス」






働き掛けるのも愛情なら、静観するのもまた、愛情。

最悪なのは無視すること。

見つめていきましょう。




寄り添っていきましょう。
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嗚呼

2014-11-18 21:40:49 | 日記
  



                     





最後の映画スターが逝きました。これで本当に、一つの時代が終わった。

ありがとう。他に言葉はありません。本当にありがとうございました。お疲れ様でした。




感謝と敬愛と、哀惜を込めて

合掌。
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ホラーとウルトラマン

2014-11-17 19:22:37 | つぶやき
     



                      




90年代頃でしたか、テレビの低予算ホラー番組で、「本当にあった怖い話」というのがありましたね。

私、結構この番組が好きで、よく見ていたし、レンタルビデオで借りたりもしていました。

この番組で、脚本と映像技術を担当していた小中千昭氏の提唱した「小中理論」は、90年代以降のJ-ホラーの隆盛に大きく貢献します。




【幽霊は何もせずに、ただボーっと立っているのが一番怖い。】

【霊能者等の特殊能力者は登場させない】

【幽霊目線の画は原則禁止。あくまでも人間の視点から恐怖を描くこと】

等々、この小中理論を踏襲した一連のホラー作品は人気を集め、やがて歴史的傑作ホラーを生むに至ります。

そう「リング」です。





                        





さて、この小中氏、「ウルトラマンティガ」と「ウルトラマンガイア」の脚本も担当しています。

ガイアに至っては、シリーズ構成という、物語全体の流れを統括する重要な役目をになっておりました。

ティガとガイアの両作品、個人的には平成以降のウルトラシリーズの中では最高傑作だと思っています。この2作品において小中氏は、随所にホラー・テイストを織り交ぜながら、最後には「光」が勝つのだということを、高らかに謳い上げています。それは見事という他なく、小中脚本無しに平成ウルトラは語れないと思わせるほどの素晴らしさです。




面白いですね、ホラーといえばどちらかというと「闇」の世界を描くものでしょう。ずっと「闇」を描くことに没頭していた方が、実は「光」を描くことに長けていたという事実。




闇を見続けた者ほど光を知る。光の有難さを識る。

光と闇は表裏一体。この世の事象はすべて相対的。

そんなことを感じますね。





                  
                   ウルトラマンティガvsキリエロイドⅡ ティガを救う為、人々が「光」を持ち寄る感動的なシーン




                  
                  ウルトラマンティガvsガタノゾーア 世界中の子供達が「光」となって集結。涙なくしては語れぬ感動の最終話





「闇」というものを知るからこそ、「光」もまた描ける。ホラーに嵌り過ぎるのは考え物だとはいえ、完全否定するのも、また違うような気がします。

ホラーにはホラーなりの、「役割」というものがあるのかもね。

およそこの世に「不必要なもの」は存在しない。




私はそう思う。



      

                 
                 ウルトラマンティガ主題歌 V6-Take Me Higher 














……まあ、私はもう、ホラーは観ませんけどね、必要ないですから(爆笑)     
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カリスマギタリスト、リッチー・ブラックモアの「運」

2014-11-16 19:16:01 | 雑感




私はどうも、「癖」のある人が好きみたいです。

トップにいる人よりも、2番手3番手、4番手5番手あたりをウロウロしている人の方に興味を惹かれる。

ももクロのメンバーの中で、私が有安杏果を推す理由の一つにも、彼女は決して、ももクロの一番手ではない、ということもあるのは事実です。

これは杏果自身が語っていたことなのですが、ももクロのトップ、百田夏菜子は「運」だけでここまでやってこれたように「見える」。本当は努力しているのだろうけれど、そうしたところを全く見せないのだそうです。

杏果やあーりん(佐々木彩夏)は幼い頃から芸能界にいて、大人達に囲まれた中でかなり苦労してきましたから、この二人からみると、夏菜子は「運」が良いように見えるようです。

「運」も実力のうちとは、よくいいますが、百田夏菜子という人は、そういう意味ではやはり「天才」なのでありましょう。

それが「エース」というものなのかも知れない。


私は基本、箱推しからの杏果推しですから、夏菜子の天才性も好きだし、認めています。でもやっぱり、

ももクロというグループの中では決してトップに立つことのない杏果を、推したくなるんですねえ。







            



                  






ロック・ギタリスト、リッチー・ブラックモア。

70年代初頭、ハード・ロック・バンド「ディープ・パープル」のメンバーとして人気を博し、その後1975年、自身のバンド「レインボー」を結成して活動後、1984年に再結成ディープ・パープルに参加、そしてまた脱退と、紆余曲折を繰り返し、現在は26歳年下の奥さん、キャンディス・ナイトと「ブラックモアズ・ナイト」というユニットを結成し、主にルネッサンス音楽をベースとした、クラシカルなような、民族音楽のような、それでいて現代的なサウンドを展開させています。



                 
                 DEEP PURPLE-Smoke On The Water 1972日本武道館

途中、影響を受けたミュージシャンたちのインタビューが入っています。



                 
                 RAINBOW-Spotlight Kid  1984日本武道館

ヴォーカルのジョー・リン・ターナーが二日酔いだったのが気に入らなかったリッチーは、いつもよりもワザと速いテンポで曲をスタートさせ、ジョーにイジワルを仕掛けたのだとか。いかにも仕事に厳しい、リッチーらしいエピソード。



数々の奇行が語られ、変人の名を恣にするリッチーではありますが、かなり節制した生活を続けており、酒は適度な量以上は飲まず、ドラッグ等には手を出したことはないようです。

そういう性格の為か、いわゆるロックンローラー的な生活を嫌っており、RAINBOWのドラマーだったコージー・パウエルが食べ過ぎで太ったことがきっかけで言い争いとなり、これが大ゲンカに発展。コージー脱退の原因を作った…かどうかは分かりませんが、

ちょっと面倒臭い人かもしれません(笑)




黒いステージ衣装に身を包み、クラシカルなギター・フレーズと、ギター・クラッシュなどの派手なステージ・パフォーマンス。そしてなにより、その全身から立ち上る「静かなる狂気」といった佇まいは、観る者をして惹きつけずには置きません。

フェンダー・ストラトキャスターを抱えてステージにすっくと立つそのシルエットは、それだけで一幅の絵のようです。これほどストラトキャスターが似合う方はなかなかいません。メチャメチャ格好よくて、ある種の威厳すら漂わせている。こんなギタリストを、寡聞にして私は他に知りません。




多くのギター・プレーヤーに影響を与えたリッチーですが、ギタリスト全体の中での評価はさほどに高くない。エリック・クラプトンやジミー・ペイジに比べて、随分と格下扱いされている感が強く、それは、影響を及ぼしたのが主に、ハード・ロック、ヘヴィ・メタルシーンに限定されており、クラプトンやペイジ、ベックなどに比べるといかにも狭い、というのがあるのでしょう。

それとやはり、ギターを破壊したり、テレビカメラのレンズにギター・ネックを突き刺したり、アンプに火を点けて爆破させるといった、一連の派手なステージ・パフォーマンスの印象が強く、肝心のギタープレイがさほど印象に残っていないのかも知れません。

本当は素晴らしいフレーズをたくさん弾いているのですがね。なんとも惜しいです。




商業的にも大成功を修めたとは言い難い面があって、DEEP PURPLEはともかく、RAINBOWは日本でこそ大人気で、来日するたび武道館でライヴを行っておりましたが、アメリカなどでは精々ホールクラスの会場で行うのが精一杯。ライヴ・ハウス規模の会場でライヴを行うこともよくあったようです。


それでも、そのカリスマ性は多くの奇行伝説とともに時代を越えて語り継がれ、その名前だけは大きく伝えられ、忘れ去られることはありませんでした。

特にこの日本では。

これもある種の「人徳」というべきなんですかね?

まあ、人徳というか、そのプレイ・スタイルやら佇まいやらが、「日本人好み」なのかも知れません。

破壊的なようでどこか品がある。イギリス人特有の重みとでもいうべきか、それがどこか日本人と相通じるところがあったのでしょう。

リッチー自身、日本のファンはちゃんと「音楽」を聴いてくれるということで、好意を寄せているようです。

リッチーと日本のファンとの「蜜月」。このようなファンがついていてくれたリッチーという人は、「運」が良い人なのかもしれない。





             
              ブラックモアズ・ナイト




90年代後半、リッチーは突如ロックから脱却し、ルネッサンス音楽をベースにしたユニットを結成します。

26歳年下の奥さん、キャンディス・ナイトとともに始めたユニットは「ブラックモアズ・ナイト」と名付けられ、伝統的音楽に現代的感覚が融合されたユニークな世界を構築しています。

初めて聴いたとき、「リッチーの「基本」はなにも変わっていない」と私は感じました。

ロック時代からやっていることと、基本は変わらない、ただスタイルが変わっただけだ。私はなんの違和感も無くすんなりと受け入れられましたが、流石の日本のファンも、こればっかりは勝手が違ったようで、フアースト・アルバムが10万枚を超えて以降、アルバム発売ごとに売り上げは激減の一途を辿ったとか。やはり日本のファンは「ロックのカリスマ」としてのリッチーに拘りがあるようで、どうにも受け入れがたいものがあるようです。

私などは、良い音楽を聴かせてくれるんなら、それでいいじゃないかと思うのですがね。私のようなタイプは珍しいのですかね?

日本のファンとの間の蜜月関係に、若干のヒビを入れる結果となxてしまいましたが、幸いにもヨーロッパ方面での受けは比較的良いようです。

ヨーロッパ人のDNAに刻まれた伝統音楽をベースにしているということで、受け入れられやすかったのでしょう。かなり精力的なツアーも行っているようで、リッチーは充実した日々を送っているようです。



こうしてリッチーを見ていると、「なんて運の良い人だろう」と思っちゃいますね。

ずっとやりたいことだけをやって来れた。やりたいことが出来なければバンドを辞めてきたし、気に入らないメンバーがいれば次々とクビにしてきた。

ついにはロックをもあっさりと捨て去り、やりたい音楽そのものの方向性をもシフトさせてしまった。

それでも常に、一定数の支持者は必ず現れる。トップには立てなくても、好きな音楽を好きなように続けられる環境に居続けられた。


本当にこの方は

運が良い。




                 
                  Blackmore's Night-Home Again












それにしても、「運」って一体なんなのでしょう?


何かに「お願い」すれば、付けてもらえるものなのでしょうか?

抑々なにが良い運で、なにが悪い運なのか、わかるものでしょうか?



人生の中で、良いこと悪いことは繰り返し訪れますが、本当はどれが良いことで、どれが悪いことかなんてわからないものです。

良いことだと思っていたら、後々それが原因でひどい目に会うかもしれないし、悪いことだと思っていたら、後々その出来事の御蔭で、思いがけない幸運が舞い込むかもしれない。

結局、ことの善し悪しなど簡単に分かるものではないです。

リッチーは偶々ミュージシャンとして一定の成功を修めたけれども、これが本当に良い運だったのかどうか、実は最後の最後までわからないんですね。今のリッチーの在り様は、今までリッチーが歩んできた道の、一つの結果でありまた、経過に過ぎない。これからどうなって行くのか、それを決めるのは今のリッチーの在り様。

果たして良かったのか悪かったのか、それを決めるのは常に「今」の自分なのだね。



ある意味、生きているという事自体が、一つの「運」なのかもしれない。

生きてるだけで丸儲け。

生きてるだけで、運が良い。

なーんだ、みんな運が良いんじゃないか(笑)

あなたも、あなたも、みんな大丈夫。

みんなみんな、「運」が良い。
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つくづく、歴史は視点

2014-11-13 14:34:10 | 雑感




「狸親父」とも揶揄され、豊臣家から政権を「奪った」とされる徳川家康ですが、実は豊臣家のことをとても尊重していた!?

多くの側室を抱えていた豊臣秀吉は、一般的には「女好き」のイメージでとらえられていますが、本当はそうではなく、あくまでも世継ぎを得るための行動だった!?




わかっているのは、徳川家康が豊臣政権の後を継いだという事だし、豊臣秀吉が多くの側室を抱えていたという事実だけ。

ほとんどは俗説によって後世に作られたイメージです。


曰く、直江兼続が徳川家康を痛切に批判したとされる、いわゆる「直江状」は、後世に改竄されたもの!?

曰く、石田三成が黒田長政らに襲われて、徳川家康邸に逃げ込んだというのは嘘!?

曰く、大石内蔵助は「あら楽し 心は晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」なんて辞世の句は詠んでいない!?

曰く、長篠の合戦は織田鉄砲隊と武田騎馬軍団の戦いなどではなく、普通の合戦だった!?




虚虚実実、これだから歴史は面白いともいえます。




歴史の評価というのも時代によって変わります。

賊軍と罵られた会津藩や新撰組は、時代が下るにつれて「武士の鑑」として再評価が成されていき、特に白虎隊の忠義の姿勢は教科書にも取り上げられ、絶賛、称揚されていく。

これが戦後になると、今度は明治以降の政府がいかに非道なことをしていたかという文脈で語られることが多くなる。

まっこと歴史は視点。




価値観も時代によって変わります。

お家の存続こそが至上命題であった大名家などは、後継ぎを得るために側室を抱えるのは常識でした。また、婚姻の年齢も大体15歳位からで、現代の常識からは考えられないことですが、当時の平均年齢は50歳位だったし、産後の肥立ちが悪く、亡くなってしまう女性も多かったし、乳幼児の死亡率も高かった。

だからなるべく若くて健康な内に、一人でも多くの子供を得る必要性があった。現代とはまったく事情が違うので、これを現代にそのまま当てようとするのは、馬鹿の極み。

とても恥ずかしいことだと知りましょう。





歴史的評価など、時代によって変わるし、視点をどこに置くかによってまったく違ってきます。

そういう意味では、歴史もまた相対的なもの。絶対的な歴史など、実はないのではないでしょうか。

確実に言えることは、どの時代の人々も、どの立場の人々も、皆必死に己の「生」をまっとうしようとしただけ。

諸行無常、有為転変、盛者必滅。

死んでしまえば皆仏。結局、絶対正しい人も、絶対間違っている奴もいなかった。

それが日本の死生観。敵の味方の区別なく、森羅万象すべての御霊を供養するという、「中尊寺供養願文」の精神は、正しく日本的です。


「全て」の先人達が積み上げてきた、この「日本」というものの上に、我々は生かされている。

勝者も敗者もない、「全て」の先人達が築き上げたもの、それが歴史。

だからこそ、歴史は多面体なのだし、そのすべての面を、私は大切にしたいと思う。

歴史は人の生きた証し。多面体の歴史すべての面に、人の生きた証しがある。

我々は、そのすべての面に生きた人々が絡み合って築いてきた歴史の上に生かされている。



不必要な歴史などなにもない。不必要な人々など誰もいない。

歴史を築いてきた要素の内、どれか一つが欠けても、今の我々は存在しない。

だから、多面体の歴史一面一面すべてに、私は感謝したい。



みんな必死だったのだ。

それだけだ。







大島ミチル作曲 大河ドラマ「天地人」メインテーマ


大島ミチルさんの音楽は素晴らしかったですが、ドラマとしては今一つでしたね(笑)





まあ、言うは易し、行うは難し。横山やすし「メガネ!メガネ!」

……コホン、私も人間ですから、怒りもするし、どうしても嫌いな奴はいる。そんな綺麗にはいきませんね。

まあ、だからこそ、人間やってるのは面白いんですな。

楽しみましょう。まっとうしましょう。

己の「生」を。
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