声、山田康雄。
1970年公開の映画『ダーティ・ハリー』。
マカロニ・ウエスタンで世界的名声を得たクリント・イーストウッドが、ハリウッドに凱旋して撮った作品で、イーストウッドはこの作品で自他ともに認めるハリウッド・スターの仲間入りを果たしました。
演じるハリー・キャラハン刑事はイーストウッドの生涯最大の当たり役となり、シリーズ化もされて5作品が製作されています。
サンフランシスコ市警察のハリー・キャラハン刑事(クリント・イーストウッド)は、悪党を捕まえるためなら法を破ることも辞さない男。そのため署内でも鼻つまみ者でした。
折しも、「さそり」を名乗る猟奇殺人犯による連続殺人事件が発生。ハリーは苦労の末犯人(アンディ・ロビンソン)を捕まえますが、逮捕の仕方が法に則っていないということで釈放されてしまう。犯人の人権擁護を語る判事に、「同じことを被害者の家族に言えるのか⁉」と詰め寄るハリー。
「さそり」はずる賢く立ち回り、なかなかシッポを出さない。そんな「さそり」を執拗に確実に追い詰めるハリー。
追い詰められた「さそり」は、幼稚園バスをジャックして逃走を図りますが、そんな「さそり」をハリーは静かなる怒りと強靭な意思で、確実に追い詰めていく。
ハリーと「さそり」との、最後の対決が迫る!
ハリーという男は、いつも苦虫をかみつぶしたような顔をして、何かうんざりしているような、諦めているような空気を漂わせながら、それでも悪を倒すことを辞めようとしない。
己の中の「正義」と、現代社会における「正義」とのギャップ。もしもハリーが開拓時代のアメリカに生まれたら、さぞや活躍する場もあったであろうに、生まれてきた時代を間違えてしまった男の、ある意味悲劇とも云える、かもしれません。
犯人の「さそり」がベトナム帰還兵であったり、「人権」を巡る考え方の違いなど、当時のアメリカ社会の抱える問題点をさりげなく描きつつ、アメリカの「正義」とはなんなのか?ということを多角的に描いている……なんて屁理屈はさておいて(笑)
とにかく、当時40歳のクリント・イーストウッドがめっちゃカッコイイ‼それに尽きる‼
それでいいじゃん(笑)
カッコイイと言えば、ハリーが使用する拳銃、「44マグナム」ですが、これは狩猟用に開発された拳銃で、普通の拳銃に比べて火薬量が多く、弾が当たった時の衝撃力、破壊力、殺傷力が大きい。ただその分、射手に帰ってくる反動も大きく、下手な撃ち方をすると簡単に腕や肩がいかれてしまう。だから劇中で描かれているような、片手で撃ったり連射したりなど、普通は不可能だと云っていいんです。
ただ、このデカい拳銃を身長約190センチで手足の長いイーストウッドが持つと、実に絵になった。説得力があった。
イーストウッドだったら、片手で撃てるんじゃないか、連射出来るんじゃないかという説得力があったんです。
とにかくねえ、44マグナムを構えてすっくと立つその姿はメチャメチャ絵になった、説得力があった、そしてなにより、
カッコよかった。
このシリーズの人気の秘密を語る上で、この点は絶対外せないでしょうね。
ところで表題のセリフですが、これは映画の冒頭、本筋とは関係がない銀行強盗の犯人に、ハリーが銃を向けながら言うセリフなんです。
まず、自分は5発撃ったのか、6発全部撃ち尽くしたのか数え忘れた、みたいなことを言った後に、表題のセリフへ続くわけです。
要するに、ハリー刑事に向かって銃を撃つか撃たないかを、犯人に選択させているわけです。もし6発全部撃ち尽くしていたら、犯人はハリー刑事を撃って逃げることが出来るかもしれない。しかし5発だったらまだ1発弾が残っているから、ハリー刑事は正当防衛ということで、犯人を撃ち殺すことが出来る。
さあ、どうする?と犯人に究極の選択をさせているわけです。これはハリー刑事の度胸の良さを表すとともに、その犯人の特質をしっかりと見極めながら言っているので、そうした悪人を見る「目」の確かさも同時に表しているわけです。
さらに言えば、犯罪者に対してはこのような意地悪なことを平気でしてのけられるという点で、悪に対する強い怒りや憎しみを感じつつも、ハリーという男のサディスティックな面も透けて見え、ハリーという男がどういう男かということが、このセリフでほぼ見えるようになっている。
観客にハりーという男を一発で理解させる。そういう役割も持った非常に深いセリフでもあるわけです。
単にカッコイイだけじゃない、非常によくできたセリフだと思いますねえ。
さて、このセリフ実は冒頭だけではなくて、ラスト・シーンでも同じセリフが語られるんです。
最後、「さそり」を川っぷちに追い詰めたハリーが、「さそり」に向かって、まったく同じセリフを言うんです。
冒頭の銀行強盗は、ハリーに銃を向けることを諦めました。実はその時、ハリーの銃には弾はのこっていなかったんです。ハリーは相手が撃ってこないことを見越した上でこのセリフを言っているんです。
では「さそり」はどうでしょう?やはり諦めたでしょうか?そしてハリーの銃に、弾は入っていなかったのでしょうか?
答えは……言わなくても分かりますよね(笑)
映画のオープニングとエンディングと両方に全く同じセリフを持ってくる。まさにハリーという男を象徴し、この映画全体を象徴する、
見事なセリフだな、と思いますねえ。
悪を倒す行為はカタルシスを得やすい。人間はそういう風にできているようです。
しかしいくら悪を倒しても、この世から悪はなくならない。
だからハリーは、いつも苦虫をかみつぶしたような顔をしているのかもしれない。自分のしていることに果たして意味はあるのだろうか?
それでも、悪を倒すことを辞めることができない。それがハリー・キャラハン。
ある意味、とても哀しい男、なのかもしれません。