風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

会津藩家訓十五ヶ条

2013-01-29 22:59:52 | 会津藩
山崎闇斎という神道家は、吉川神道の創始者吉川惟足の弟子です。
吉川神道とは、簡単にいうと神道の精神を儒学によって体系化したもの、とでも言えばよろしいでしょうか。「神儒一致」などとも言われますが、必ずしも神道と儒教を同格とはしていません。あくまでも万教の根本は神道であるとし、その神道の精神の根本に忠臣の道を置いたところに特徴がある、といえるようです。国体の護持と忠臣の道こそが神道の本質である、これが吉川神道の根本理念のようです。
また、天地万物を主宰する神の神性は、すべての人間の心に内在する…とも説いています。

山崎闇斎はこの吉川神道をさらに発展させた垂加神道を創始します。
闇斎の提唱する神道は、「天日一体の皇祖神、天照大神の子孫である天皇陛下を輔翼して臣子の分を尽くす」信仰であると断じ、天皇崇拝、皇室の絶対化を主張、国学や水戸学の原流となり、幕末の尊王討幕運動や王政復古運動の思想的原動力となりました。
詳しくはこちらをご参照ください。
http://1gen.jp/1GEN/NAN/J5.HTM

保科正之はこの山崎闇斎を師事しており、垂加神道の奥義を伝授された、とも伝えられています。
自分を取り立ててくれた徳川宗家に対する恩義と、この垂加神道とが組み合わされたものが、正之の思想行動の根本原理となった。徳川宗家への忠臣としての道を尽くすことが、ひいては天皇陛下の御為であり、天下国家のためとなる。正之の中では、徳川宗家への忠節と、天下万民の平穏な生活とは同列だった、と考えて良いのではないでしょうか。そしてなにより、天下国家の中心には天皇がおわします。徳川宗家への忠節と万民の平穏へ尽くすことこそが、尊王へと繋がって行くのだ、と、強烈に信じていた。正之の行動原理はここにあったのだ。

会津藩主に代々伝えられた神道奥秘「四弓再奥伝秘」。武備の在り方を弓に例え、一の伝、二の伝、三の伝、奥秘の伝の四つの弓の教えがあります。
一の伝「座陣弓」。兵を動かさずに天下を治めるために備える弓。
二の伝「発向弓」。逆賊があらわれた場合に直ちに発動する弓。
三の伝「護持弓」。治安を良くするための弓。
奥秘の伝「治世弓」。座陣弓、発向弓、護持弓が混然一体となったとき、平和な治世を確定するために出現する弓。
保科正之は、まさにこの「治世弓」の人だった、と言えるのではないでしょうか。

この垂加神道や「四弓再奥伝秘」を根本理念として書かれたものが、『会津藩家訓』です。ここに会津武士道の神髄が込められており、幕末の会津の悲劇の基ともなったわけです。

では、『会津藩家訓』十五ヶ条を見ていきましょう。



【会津藩家訓】

一、大君の義、一心大切に忠勤を存ずべく列国の例を以て自ら処るべからず 
  若し二心を懐かば、即ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず


一、武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。上下の分、乱るべからず

一、兄を敬い、弟を愛すべし

一、婦人女子の言、一切聞くべからず

一、主を重んじ、法を畏るべし

一、家中は風儀を励むべし

一、賄を行い、媚を求むべからず

一、面々、依怙贔屓(えこひいき)すべからず

一、士を選ぶに便僻便侫(べんぺきべんねい)の者を取るべからず

一、賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位のものあらば、これを厳格にすべし

一、近侍の者をして、人の善悪を告げしむるべからず

一、政事は利害を以て道理を枉ぐべからず。詮議は私意を挟みて人言を拒むべからず
  思う所を蔵せず、以てこれを争うべし。甚だ相争うと雖も我意を介すべからず

一、法を犯す者は宥すべからず

一、社倉は民のためにこれを置き、永く利せんとするものなり。歳餓うれば即ち発出してこれを済うべし
  これを他用すべからず

一、若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、士民をしてその所を失わしめば、
  即ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表して蟄居すべし

   右十五件の旨、堅くこれを相守り似往もって同職の者に申し伝うべきものなり

寛文八年戌申四月十一日 会津中将

                            家老中




第一条の大君とは徳川宗家のことですが、先述したようにその先には天下万民が居り、さらにその先には天皇がおわす。徳川宗家への忠臣の道が皇国を守ることになるとして、これをすべての家臣子々孫々に至るまで徹底させ、守らない者は我が子孫ではないので従うなとまで言い切っています。他藩がどのような行動をとろうとも、我が会津藩はひたすら徳川宗家に忠節を尽くす。
幕末の会津藩の行動原理が、ここにあるといっていいでしょう。

第四条は女性蔑視的にもとれますし、やはり時代的な背景は大いにあるでしょう。ただこれには伏線があります。
正之の側室から継室となった於万の方が、他の側室の産んだ姫の嫁ぎ先に嫉妬して、その姫の毒殺を図ります。しかし誤って自分が産んだ姫を殺めてしまったという事件があったのです。以来女性が政治に口出しすること等を極度に嫌うようになったらしいですね。なにやら於万の方が哀れですが…。

第六条の風儀とは、マナー、礼儀ですね。

第九条の「便僻便侫の者」とは、要するにロクでもない奴ということです。コネなんかで取り立てず、相応しい人、正しい人を取り立てよ、ということです。

第十一条は聖徳太子の十七条憲法「和をもって貴しとなす」と同様の意味を語っています。政治にしろ論争にしろ、我を挟まずに道理をもってあたれば、治まるべき所へ治まる、ということです。


この十五の条文が、会津藩のいわば憲法となって、藩士達の生き方を規定していく。後に述べる「什の掟」もこの家訓をもとにして作られました。

忘れてならないのは、この家訓の根底には、神道の精神と尊王思想が流れているということです。会津藩士達は、骨の髄まで尊王だった、と言っていい。

このような方達が、何故朝敵などに成り得ましょうや?



まだまだ、続きます。



参考文献
『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫

『日本人の魂と新島八重』
櫻井よしこ著
小学館101新書




会津松平家初代当主・保科正之 ~3~

2013-01-28 23:28:22 | 会津藩
三代将軍・徳川家光が臨終を迎えた時、後を継ぐ家綱はまだ11歳。後見が必要と考えた家光は、床に伏したまま正之の手を取り、涙ながらに家綱を頼むと遺言しました。
二代・秀忠が将軍を拝命した時は、大御所・家康が存命だったし、家光の時は秀忠がいてくれた。だが家綱には誰もいない。後を託せるのは、”至誠の人"保科正之しかいないと、家光は考えたのです。家綱は言わば“孤児”、その孤児を託すというのが将軍の遺命だった。
会津ではこれを「託孤の遺命」といいます。
大命を拝した正光は、そのまま家綱の住む江戸城西の丸へ走って行きました。以後、正之は将軍を輔弼する後見役として、幕政に大きく関与していきます。そうなると、会津にはそうそう帰ることは出来なくなる。事実正之はこれより以後23年間、会津へ帰ることはありませんでした。
その間の藩政は、高遠以来の家老、家臣たちが、正之の意志を守ってしっかりと支えていたようです。

では正之の事績を見て行きましょう。
正之の最初の大事業は、玉川上水の掘削です。当時の江戸は水の便が非常に悪かった。元々海だったところを埋め立てて造った町ですから、井戸を掘っても塩分を含んだ水が出てくる。しかも将軍家お膝元ということで、各地より人が押し寄せ、人口が爆発的に増えてくる。水問題の解決は必至でした。
玉川上水は現在の東京都羽村市を流れる多摩川を水源として、新宿区四谷までの約43キロを結ぶものです。当時はまだ戦国の気風が残っておりましたので、そんなものを作ったら、敵がそれを利用して逆上ってくるのではないか?と時代錯誤なことを言う幕閣もいました。これに対し、正之はこう反論します。
「一国一郡の小城は堅固なるを以て主とす。天下府城は万民の便利安居を以て第一とす」(『会津松平家譜』)
つまり、万民が安心して暮らせるようにするのが政治だろ?ってことを言ってるわけですね。敵が来るの来ないの言ってる時代かよ?バーカ!…とまでは言ってないでしょうけど(笑)
玉川上水によって、それまで陸稲しか出来なかった地域で、水田耕作が可能となり、新田が開発されて行きます。関東平野の水田風景は、保科正之の一大事業によって作られたと言っていい。

明暦3年(1657)、江戸市中は大火に見舞われます。明暦の大火いわゆる振袖火事です。
江戸の大半が焼け、焼死者は一説に10万人。炎は江戸城にも達し、本丸、二の丸、三の丸、そして天守閣まで焼失してしまいました。
映画「魔界転生」(昭和版)では、この燃える天守閣の中で、千葉真一演じる柳生十兵衛と、若山富三郎演じる柳生但馬守宗矩との決闘シーンがありました。若山さんの殺陣は素晴らしかった…また話が逸れましたね、こいつは失礼。
話を戻しましょう。この大火でも、正之は見事な危機管理能力を発揮します。あわてふためく幕閣が、将軍を上野寛永寺にお移りいただこうとすると、正之はそれを止め、まだ焼けていない西の丸へ将軍を御動座させます。敵が責めてきたわけでもないのに、将軍が城を逃げ出したのでは、幕府の威厳に傷がつく。将軍を外に出してはいけないと、瞬時に冷静な判断を下したわけです。非常時にあっての冷静な判断力。見事という他はないですね。
この大火時、浅草の近くの蔵前にあった幕府の米蔵にも火が回りそうになっていました。到底消火活動は間に合わず、このままでは米が焼けてしまう。そこで正之は、どうせ焼けるくらいなら、避難民に分けてしまった方がましだと、「蔵前の米蔵の米は取り放題だ!」という触れをだすんです。これによって避難民達に、少しでも食料が回れば良いとの判断でした。これまたお見事!

大火の後、正之は焼け出された町方の者たちに、幕府から救援金として16万両を支出し、旗本・御家人にも作事料を与えようと即断します。非常に大きな支出ですので、幕閣の中には幕府の金蔵が空になってしまうと心配する向きもありましたが、「こういう時に使わなくていつ使うんだ!?」と反論したとか。
その他、火除け地を作ったり、隅田川に新たに両国橋を架け、避難路を確保したりと、防災の面でも活躍。中でも白眉は江戸城天守閣の再建を中止したことです。天守閣などいくさの上では大した意味を持たない。権威を示すことの他には、さほど役にはたたず、そんなものを建てる金があるなら、江戸町民の救済に回すべき、という理由からでした。以来現在に至るまで、江戸城(皇居)に天守閣はありません。
まったく、どこかの国の官僚に聞かせてやりたい話です…(苦笑)

徳川幕府の安泰と天下泰平を築き上げるために、正之は私心を捨てて邁進します。実は明暦の大火の時、正之の長男正頼が風邪を拗らせて亡くなってしまったのですが、葬儀の後正之は、喪に服さなくて良いとする命令を、将軍に出してもらうようお願いするんです。そうしてすぐに、江戸町民救済活動の現場に復帰します。天下国家のため、己を空しゅうして働く。
正之とは、そういう人物でした。

ここで正之の事績の中でも、特に「三大美事」と言われる政策をご紹介しましょう。
「末期養子の禁止の緩和」末期養子とは、当主が急逝する寸前などに、周囲で慌てて決めた養子をいいます。これが認められないと、後継ぎがいないためその家は取り潰しとなってしまい、大量の浪人が発生してしまい、世の治安の乱れの基となります。事実家光の時代には、軍学者の由井正雪が浪人を集めて反乱を起こそうとした事件が発生しています。そこで正之は、これを当主が50歳までなら末期養子を認めることとしたのです。これによって浪人の大量発生を抑え、また諸大名に浪人達を積極的に雇用するよう促すことによって、浪人の数を減らしたのです。
「大名証人制度の廃止」証人とは要するに人質のことです。大名の妻子は幕府への忠誠の証しとして、江戸に在住させる、これが証人の意味です。この制度では主要35藩の家老の嫡子も、やはり「証人」として江戸在住を義務付けられていました。正之はこの主要35藩…の部分のみを廃止しました。ですから大名の妻子の江戸在住自体は幕末まで継続されたわけですね。これが美事なのか?という疑問も生じますが、徳川幕府の安泰を第一とする正之としては、これが精一杯だったのでしょう。
「殉死の禁止」主君が亡くなった時に、家臣が後を追って追い腹を斬ることを殉死といいます。これの禁止は、まあ当然でしょうね。

では最後に、会津藩における正之の事績を紹介しましょう。一番大きな事績は「社倉制度」でしょうか。これはつまり食料備蓄制度のことで、飢饉などの非常時に備えて米を備蓄しておき、これを貸し出す際には、翌年豊作の場合は2割の利子をつけて返してもらい、翌年凶作の場合は返さなくて良いという制度を作りました。これによって会津では、飢饉の際にもほとんど餓死者は出なかったようです。
その他、90歳を越えた者には、身分に関係なく一人扶持を与えるという福祉政策や、行き倒れの者がいたら必ず助けること、治療費がなければ藩で負担するという救急医療制度ともいうべき法令を発布します。また間引きの禁止や残酷な刑の執行の禁止など、武断政治から文治政治への移行を促し、当時としてはかなり人道主義的ともいうべき政策を実行した人物。
それが会津藩初代藩主・保科正之です。

晩年の正之は視力を失い、職を辞することを願いでましたが、将軍家綱はこれを許さず、城内で輿に乗ることを許し、参内させました。それほどに将軍の信頼を得、必要とされていたということです。その証拠に将軍と同じ色の直垂を着ることを許され、行列の人数も将軍と同じにするよう命じられていました。まさに副将軍の格を与えられていたわけです。
江戸幕藩体制の確立に尽力した保科正之は、寛文12年(1673)江戸は三田の会津藩邸にて永眠します。享年62歳。


正之の思想の根底にある“神儒一致思想”。
そして正之の思想の体系である『家訓15ヶ条』については、次章にて。



参考文献
『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫

『会津の悲劇に異議あり』
八幡和郎著
晋遊舎新書

『日本人の魂と新島八重』
櫻井よしこ著
小学館101新書

会津松平家初代当主・保科正之 ~2~

2013-01-25 21:33:28 | 会津藩
徳川幕府の三代将軍は徳川家光ですが、家光には忠長という弟がおりました。
幼少の頃、忠長は利発でハキハキしており顔立ちも良く、大人受けの良い子供でした。対して家光は普段からぼんやりしており、どもり癖があって大人の質問にもまともに答えられず、愚鈍な子だと思われていたようです。映画「柳生一族の陰謀」では顔に大きな痣があって、皆から少々気味悪がられていたという設定になっておりましたね。
そんなわけですので、三代将軍の座は忠長に継がせようと、秀忠もお江も考えておりました。これに異を唱えたのが家光の乳母・春日局です。局は大御所・徳川家康に直訴し、「家督は長子が継ぐべし」という家康の裁定により、三代将軍の座は家光に決まります。
こうなってしまうと面白くないのは忠長で、将軍になり損ねた鬱憤からか、忠長はどんどん素行が悪くなって行き、夜な夜な辻斬りに出かける、些細なことで家臣を手打ちにする、神社の御神域で猿狩りをする等々の乱暴狼藉を働き、駿河大納言の地位に有るまじき御乱行と甲斐に謹慎を命じられ、終には切腹させられてしまいます。
ここに柳生但馬守とか柳生十兵衛が絡んでくると、映画「柳生一族の陰謀」になってしまいますが(笑)、あれはフィクションです、念のため。

この事件と相前後するあたりに、家光は自分に、もう一人弟がいることを知ったようです。信州高遠藩三万石の藩主・保科正之です。
忠長のことがあった故か、家光は慎重に、この“弟”の人物を見極めようとしたようですね。参勤交代で江戸に上ってくると、じっとその人となりを観察します。すると正之には将軍の御落胤だという驕りのようなものはなく、江戸城内で小大名たちが詰める控えの間でも、後の方に座って静かにしており、決して自分が御落胤だなどいうことは吹聴せず、実に謙虚、神妙な人物であることがわかってきたわけです。
家光にしてみれば、忠長の件では大変後味の悪い思いをしたでしょうから、その忠長と真逆のタイプの弟の存在を知ったことは、望外の喜びだったに違いなく、家光は幕閣と謀り、正之をもっと取り立てることにします。
高遠三万石からまず出羽山形二十万石へ移封、その7年後には会津二十三万石へ再移封。こうして御三家に次ぐ家格を持つ会津松平家が誕生するのです。

ところで、松平家なら何故、保科を名乗るのか?と不思議に思われる方もおられるでしょう。ここが正之の義理堅いところで、自身を育んでくれた保科家の名を捨てるのは忍びないとして、松平を名乗ることを許されたにも関わらず、生涯保科姓を通したわけです。松平姓を名乗るのは、三代藩主・松平正容以降のことです。

会津移封後、将軍家光の死に伴い、正之は幕政に重きを成すようになって行きます。
家光直々の指名によって、正之は四代将軍家綱の後見となり、実質副将軍のような役割を果たしていくことになるのですが、
その事績や、思想的背景等は、次章にて。

今後の展開ですが、正之編の後は、会津藩の教育についても書きたいことがあるし、もちろん幕末の会津戦争や容保公の業績を通して、会津は決して賊軍ではなかったことを証明していきたいと思っています。
そしてなにより、会津藩の姿を通して、日本人のあるべき姿を問うてみたい。なんてことを思っております。

まだまだ先は長いです。何卒お付き合いの程。


参考文献
『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫

『会津の悲劇に異議あり』
八幡和郎著
晋遊舎新書

会津松平家初代当主・保科正之 ~1~

2013-01-22 21:09:49 | 会津藩
幕末まで続く会津松平家の初代当主・保科正之の父は、二代将軍・徳川秀忠。母は秀忠の乳母に仕えていた侍女お静。つまり嫡出の子ではないんです。

秀忠の正室お江(お江与)は大変嫉妬深い女性だったらしい。秀忠が側室を持つことを一切許さなかった。もし他所に子が出来たことが知られたら、なにをするかわからない。
お静は泣く泣く、この子を堕胎しました。
しかしことは一度で収まりませんでした。その二年後、お静は再び、秀忠の子を身籠ってしまう。将軍様のお子を二度も流すなど、畏れ多いとして、お静は義弟の下に身を寄せ、秘かに出産します。
秀忠は自分の子であることは認めましたが、のだめ…もとい、お江を恐れてか認知しないという態度をとります。ただ「幸松」という名前は、秀忠自身がこの子に付けてあげたようです。
ことは間もなく、のだめ…じゃない、お江の耳にも入り、のだ…(あっ、もういいですか?)お江は幸松に対し、刺客を放つよう指示したとも伝えられているようです。
秀忠はある女性に、幸松を預かってくれるように内々指示を出します。その女性の名は見性院。武田信玄の異母妹で、大御所・徳川家康とは昵懇の間柄でした。この当時は江戸城内の一角に屋敷を構えさせてもらっていました。このような女性の下にあれば、お江も簡単に手出しは出来ない。見性院は預かることを即決したようです。お江は見性院に文句を言ったようですが、見性院はこれを毅然と跳ね除けた。以後お江は、幸松に手出しすることを諦めました。

見性院は幸松を武門の子として強く育てたいと思いましたが、いかんせん見性院の周りには女性しかおらず、男の子をどう育てたものかわからない。そこで見性院は、立派な武門の家に養子に出すことを考えます。そして、武田家の家来筋に当たる信州高遠藩主・保科正光の下に、幸松の養育を依頼します。主筋である武田の血を引く見性院の頼みということで、正光は秀忠の了解を得たうえで、幸松を養子とすることを承諾するのです。
こうして幸松(後の保科正之)は、現在の長野県、信州は高遠に、その身を移したのです。


ここで時代を少し遡らせましょう。時は戦国、武田信玄の家来に穴山梅雪という武将がおりました。この梅雪、信玄亡き後家督を継いだ武田勝頼を見限り、敵だった徳川家康の下に身を寄せます。当時はこの様な行動はさほど珍しくはなく、恥ずべき行為でもなんでもありませんでした。より良い主君に仕えようとするのは、当時は当たり前のこと、「生きて二君に仕えず」などという武士道が形成されるのは江戸期以降、太平の世が成ってからのことです。
家康は梅雪のことが気に入っていたのか、行動を共にすることが多かったようです。かの本能寺の変の際にも、家康と梅雪は共に堺にいてこの変の報を聞き及び、巻き込まれてはかなわぬと堺を脱出、領国へと向かいます。二人は途中で別れ、梅雪は自身の城へ向かいますが、その途上、武装蜂起した土豪の集団に襲われ、殺されてしまう。
この穴山梅雪の正室こそ、先述した武田信玄の異母妹、見性院だったのです。
家康はこうした家臣の家族に対して面倒見が良かったようです。特に見性院は名門武田家の血を引くということもあって、名門好きの家康は見性院を丁重に扱ったようです。そのような経緯で、見性院は江戸城内に屋敷を与えられていたわけです。

さて、高遠ですが、信玄が没した前後の頃の高遠城は武田家の城で、守っていたのは信玄の異母弟、つまりは見性院の異母弟でもある仁科五郎守信という武将でした。
天正10年、織田・徳川連合軍は長篠にて武田勝頼率いる軍勢を殲滅。武田の勢力下にあった武将たちは次々に寝返ります。信州高遠方面には信長の長男・信忠が5万の軍勢を率いて押し寄せる。武田側の城は次々と陥落し、兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去りますが、高遠城は徹底抗戦の構えを示し、戦闘時には男ばかりではなく、女子供も戦闘に参加したようです。織田軍5万に対し高遠城の守勢はわずか3千。死を覚悟している兵たちほど手強いものはない。戦闘は凄まじく、高遠側の戦死者は3千のうち2千5百80。実に86パーセント以上、ほぼ全滅です。一方の織田軍は5万のうち戦死者が2千7百50。つまり死者数だけをみると、織田軍の方が高遠軍を上回っているんです。一人一殺どころの話ではありませんね。
この高遠城主・仁科守信は自害して果てましたが、その副将格に保科正直という武将がおりました。この正直、高遠落城の際には偶々城を留守にしており無事でした。高遠城攻防戦より三か月後、本能寺の変により信長が討たれると、正直は混乱に乗じて手薄になった高遠城の奪還に成功します。以来、保科家が高遠城主となり、徳川の世を迎えることとなるのです。
ちなみに幸松を養子に迎えた保科正光は、この正直の子息です。

この高遠城攻防戦の凄まじさ、何かを連想しませんか?そうです、幕末、戊辰戦争の会津城攻防戦に相通じるものを感じますね。

会津武士道の根は、信州高遠にあり。ということでしょうか。

(続く)


参考文献
『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫 



反骨

2013-01-20 22:34:29 | 雑感


私はギターが弾けません。なのにどういうわけか、ギターのフィギュアを持っています。
上の写真は54年型フェンダー・ストラトキャスターの1/8モデル。この塗装はサンバーストといわれる塗装で、私はこの塗装が大好きなんです。なんか、かっこいいでしょ。



これはフェンダー・テレキャスターの、同じく1/8モデル。テレキャスは人気がありますね。ストラトは持ち主を選ぶところがあって、似合う似合わないの差が激しい。特に日本人はサマにならない場合が多いのですが、その点テレキャスは誰が持ってもサマになる。
私はストラトの方が好きですけどね。



これはオベイションというメーカーのエレアコ1/8モデルです。普通っぽくていいですね。

で、どこが反骨なのかって?

ギターって、なんか、“反骨の楽器”って感じがしませんか?

しませんかあ…そうですかあ…。まあいいや(笑)



守りたいものがあって、それを貫くために、あえて大勢に逆らうことを反骨というのなら、幕末の薩長も反骨だったし、会津も反骨だった。彼らが守りたかったものって、究極的には“同じもの”だったのじゃないかって、最近思うんです。もしそうなら
悲劇、ですね。
日本が、日本人が守るべきもの。そのもののために、彼らは戦ったのだ。究極的な想いは、同じだったのだな、きっと。

会津のことですが、まずは初代藩主・保科正之から繙いていかないと、その像はみえてこない感じです。というわけで会津特集第一回目は保科正之でいきます。うーん、長くなりそうな予感…。


義経 ~最終章~ 義経を考える

2013-01-16 22:21:09 | 義経
日本の歴史の中で、東北とはどのような“位置”にあったのか、どんな役割を果たしてきたのか。ずっと考えていました。

私が思う東北の歴史とは、一言でいえば「反骨」です。それは単純な反権力とか反社会とかいうことではないし、ましてや反天皇でもない。いや寧ろ東北は、中央などよりももっと純粋に、親天皇だったのではないかと思っています。これは理屈ではなく、そう考えなければ、自分の中でしっくりこないのです。うまく言えませんが。

反骨とは、理不尽なるものに対して断固立ち向かう態度です。東北とは常に、“真っ直ぐ”在ろうとする者達の、最後の砦だったような気がする。それはすなわち、艮金神が隠棲せられた地、その霊的磁場がなせる技か。

義経はただただ父の徒を討つため、ただただ兄の助けになるため、それだけを考えて突っ走ったと考えていいでしょう。まあ、御本人に直接お会いしたわけではないので(笑)わかりませんが、おそらくはそれ以上の野心など、持っていなかったのではないでしょうか。ただただ父のため兄のため、源氏のために戦い続けた。それなのに…。
義経の悲劇は、その真っ直ぐさ故の悲劇だった。あるいは鞍馬の魔物どもも、その悲劇に加担したかもしれませんが。

そういう意味で義経は、極めて”東北的”であるといえる。義経の中には“東北魂”が根付いていたわけです。

東北魂とは本来、すべての日本人のDNAに深く刻み込まれているものです。原日本人ともいうべき人々の血を強く受け継いでいる東北人には、特にそれが顕著に現れやすいということだと思います。義経の場合、最も多感な時期を平泉で過ごした日々が、その東北魂、つまりは日本魂を強く呼び起させたのではないでしょうか。
だからこそ、義経は多くの日本の人々の共感と同情を呼んだ。それは世代を超え時代を越え、長く長く語り伝えられてきたのでしょう。

判官贔屓とは、日本魂の伝承でもあったのだ。




こんな感じでどうでしょう?物凄く短めにまとめてみましたので、あるいは分かり難いところがあるかもしれませんが、そこはご了承下さい。

真っ直ぐ在ろうとした東北人ということで、次は「ならぬものは、ならぬものです」幕末の会津藩を、少し取り上げてみましょうかね。

次と言っても、本当にこの次とは限りませんが…(笑)

義経 ~その5~ 平泉の滅亡と義経北行伝説

2013-01-15 16:42:56 | 義経
平泉100年の栄華の礎を築きあげた藤原清衡の父は、京の藤原摂関家に繋がる秀郷流の名門、藤原経清。母は奥州安倍氏の長、安倍頼時の娘、安倍貞任の妹にあたります。
安倍貞任は前九年合戦で討死しますが、その弟・安倍宗任は捕えられ、西国に護送されます。その途上、京に立ち寄った際、宗任の籠に梅の花を手にした京人がよってきて、宗任にこう尋ねた。
「この花はなんという花か?」
野蛮人の蝦夷に、梅の花の雅などわかるまいという、嘲りですね。これに対して宗任は

我が国の 梅の花とはみたれども
大宮人は いかがいうらん

私の国奥州では、梅の花と言いますが、はて?京の都の方々は何と呼ぶのですかな?と、静かに歌で返しました。その京人は大いに面目を失くしたという、痛快な話が伝えられてます。
この安倍宗任の子孫が、現内閣総理大臣、安倍晋三氏だとか。ま、どこまで信憑性があるのかはわかりませんけどね。

それはともかく、藤原清衡は前九年合戦、後三年合戦と数多の戦を経験し、多くの人々、多くの命が無残に消えて行くのを見続けていた。父は残酷な手法で処刑され、自身の妻子も弟に殺されるという悲劇を経験している。だからこそ、恒久平和の世界を築かねばならぬ、という思いが強かったようです。
その手段の一つが、仏教でした。
清衡が建立した中尊寺。その供養願文で清衡は、敵味方の区別なく、毛羽鱗介すべての命が成仏することを願うという意味のことを書いているとか。奥州に此土浄土を建設する。その中心となるのが中尊寺でした。
奥州の平和こそを第一とし、中央に進出しようなどという野心は、微塵も持っていなかったようです。あくまでも奥州にあって、京の朝廷から与えられた権限を基として、奥州の支配権を確立した地方政権、それが平泉です。決して独立国家というようなものではなく、朝廷から与えられた官位官職なしには、その政権は維持できませんでした。この点、鎌倉幕府のあり方によく似ていますね。頼朝は平泉を参考にして鎌倉に幕府を立てた、という説もあるようです。

義経が身を寄せた時の平泉の御舘は、三代目・藤原秀衡。初代以来の志を引き継ぎ、奥州の平和のためにその卓抜した政治的才能を発揮し、朝廷や平氏とも上手くやってきました。しかし時代は急速に変化していきます。源氏の世となり、その源氏に追われる身となった義経の帰還は、少なからぬ波紋を平泉に齎したことでしょう。

平泉には以前より、義経が現れたら鎌倉方に差し出すように、という布告が、頼朝より送られていたようです。しかし秀衡はこれを黙殺します。頼朝の狙いが最終的には奥州制覇にあることを、見抜いていたのでしょう。そのためには、義経の戦の才能が必要だ。最悪の事態となったとしても、義経の下に奥州武士が一致結束すれば、いかに頼朝だとて簡単に手出しは出来まい、と読んでいたのです。
義経の軍略と、秀衡の政治手腕があれば…しかし事態は平泉にとって、最悪の方向に進んでいきます。
秀衡が病死してしまうのです。

秀衡の死は頼朝の知る所となり、頼朝は平泉四代御舘・泰衡にプレッシャーを掛けます。義経を引き渡さなければ、平泉を討つ!
しかし実際には、等の義経が健在である限り、鎌倉方は手はだせないはずです。義経の軍略の才をよく知り、恐れているのは他ならぬ鎌倉方です。だから義経と協力し、防備を固めることこそが、平泉のやるべきことでした。
しかし、そのようにはなりませんでした。秀衡の死より約1年半後。泰衡は義経の館を急襲。義経は自害して果てます。享年31歳。
泰衡は義経を打ち取ったことによって、頼朝の許しを得ようとしますが、義経亡き後の平泉に怖いものはない。頼朝は朝廷の宣旨を得る前に平泉を攻めます。平泉にも17万騎といわれる精鋭部隊はいたはずですが、百戦錬磨の源氏兵と、100年の平和に興じていた平泉兵とでは、戦の経験に雲泥の差があった。平泉軍は次々と打ち破られ、泰衡は平泉の館に火を点け逃亡。その途上に、家臣の川田次郎に殺害されます。
こうして平泉は滅び、頼朝は「源氏重代の悲願」だった奥州の覇権を手にします。

ところで、義経北行伝説というのを、御存じでしょうか?義経は平泉で死んでおらず、秘かに平泉を脱出し、主に三陸沿岸伝いに北上し、津軽から北海道そして大陸へ渡ったという伝説です。
この伝説をどう評価するかで、平泉の滅亡の意味も違ってきます。
この伝説によると義経は、泰衡が義経の館を襲ったとされる日より、およそ一年程前に、平泉を立っていることになるんです。つまり泰衡は、存在しないはずの義経を襲撃したことになる。
これはどういうことでしょう?泰衡に襲われて辛くも逃げ延びたのではなく、すでにいなかったのです。一年前にすでに義経は旅立っていた、そしてその事実は隠さなければならない。それは平泉にとって、とても大事なことだから。
だから泰衡は、ウソをついた。
では義経が旅立った目的はなんでしょう?
乱歩賞作家の故・中津文彦氏によると、義経は大陸の騎馬民族を引き連れて平泉へ戻ってきて、頼朝軍と戦うために出発した、との持論をお持ちでした。いかにも作家さんらしい壮大な説ですね。結局義経は間に合わなかったらしいですが。
その後の義経はどうなったのでしょう?やはりジンギスカンになったのかな。中津氏はジンギスカン説を否定しておられましたが。
まあ確かに、北行伝説はそのルートがほぼ一定しており、ほとんどブレがない。滞在先の伝承も非常に具体的で真実味がある等々、常識に捕われずに見れば、それなりの真実味を感じさせるもののようです。ジンギスカンはともかく、あるいは本当に、義経は北へ向かっていったのかもしれない。

泰衡という人物の評価は、一般的には非常に低い。平泉を滅亡に導いたといっていいまねをしたわけですから、仕方がないですけどね。ただ泰衡が、義経北行にどのように関わっていたかによって、ただの凡庸な人物か、本当は英邁な人物だったのか、その評価は変わってくるでしょう。ひいては平泉滅亡の意味も。

義経北行伝説が真実だったのか、同情が生んだ物語だったのか、真相は闇の中です。いずれにしろ義経は、いまだに多くの人々を惹きつけて止まないようです。


参考文献
『義経不死伝説』
中津文彦著
PHP文庫


あともう少しだけ、義経のことを考えてみたいと思います。

義経 ~その4~ 再び平泉へ

2013-01-12 16:23:36 | 義経
その後の義経の凋落ぶりは、本当に哀れというほかはないです。

なにがいけなかったのか?といっても、義経の側には特に思い当たることはなかったでしょう。あくまでも頼朝の都合。義経にとっては、理不尽極まりない話。

梶原景時の讒言?それもきっかけのひとつでしょう。後白河法皇の任官を、頼朝の許可を得ずに勝手に受けた?しかしこれは、再三に渡って幕府側に要請が出されていたらしく、朝廷としては功績著しい義経を任官しないわけにはいかず、最終的に独断で義経を任官せざるを得なかったし、義経としても断りきれずに引き受けざるを得ない状況に陥ってしまった。これはずるずると引き延ばしていた幕府、つまりは頼朝に寧ろ責任があると言えます。
つまり頼朝は、こうなることを予め見越して、わざと許可しなかったのではないか、とも考えられますね。
ちなみにこの任官騒動は、一の谷の合戦後の話です。壇ノ浦で平家が滅び、安徳帝の悲劇が起きる以前のことです。この段階で頼朝が、すでに義経に良からぬ思いを抱いていたなら、安徳帝のことをキッカケに頼朝が義経を疎んじたという説は、益々成り立たなくなります。

やはり頼朝は、義経に嫉妬していたのでしょう。武門の棟梁は二人もいらぬ。義経の戦の才と人を引き付けるカリスマ性。頼朝の地位を脅かすには十分なものでした。
だから、梶原景時の讒言=義経が自分勝手に兵を動かし、頼朝の軍監(監視役)たる景時の言うことも聞かず諸将を翻弄し困らせた等々の告げ口は、頼朝にとっては渡に船だった。軍監は言ってみれば頼朝の代理です。その代理の言を聞かぬとは、頼朝の言を聞かぬのと同じこと。これは武門の棟梁に対する不敬、反逆に値する大罪である…。
政治家としての才は、頼朝の方が遥かに上だったようです。
こうして義経は鎌倉入りを許されず、失意の内に京へ引き上げます。

しかし京雀達の義経人気は凄いものがあったようです。朝廷(後白河法皇)としても、鎌倉に対するけん制として、この人気を利用しない手はないと思ったのでしょう、義経を伊予守に任官します。
そしてついに、頼朝の刺客、土佐坊昌俊率いる軍勢が、京の義経邸を急襲します。義経は辛くもこれを切り抜けますが、両者の亀裂は決定的となり、義経は頼朝追討の宣旨を受け、兵を挙げることを決意します。
父の徒を討つため、兄の助けになるため、ただそれだけを思って平泉を旅立った時、誰がこのような展開を想像し得たでしょう。あまりにも悲しい、運命の皮肉。
いや、あるいは藤原秀衡においては、このような展開も予想し、危惧していたやもしれません。
利用されるだけ利用され、邪魔になれば捨てられる。息子とも思い愛した義経の、そんな行く末を危惧したからこそ、佐藤兄弟を従者として付けてやったのかも…。

義経は畿内で兵を集めようとしますが、その意に反して兵はなかなか集まらない。畿内の諸将達も、頼朝と主従関係を結ぶことによって、所領を安堵してもらうのが得策と考えていたのでしょう。ならば頼朝の影響がまだ及んでいない九州で兵を集めようと、義経は軍勢を率いて海路九州へ向かいますが、嵐に会い、軍勢は散々となってしまいます。
義経とその主従は、なんとか浜へたどり着いたようです。実はここから先、義経一行の消息は記録から消えます。どのようにして平泉へたどり着いたものか、その詳細は一切伝わっていません。
先述した勧進帳は後世の創作です。ですが追われる身である以上、表街道を堂々と渡って行ける筈もなく、ならば山中を行くしかないでしょう。その場合、山を良く知る山伏のネットワークを利用するのが筋。というより、それ以外に山中を遠路平泉までたどり着く方法はなかったと思われます。

再び平泉へ、今や四海に追われる身となった我が身、もはや頼るとすれば平泉の他は無し。義経の心境、いかばかりであったか。

小休止

2013-01-10 23:00:27 | 日記
義経特集はまだ続きます。ただこういう記事は書くのに疲れる(笑)

ここでちょっとインターバル。

毎年5月のゴールデンウィークに、岩手県平泉町で行われる「春の藤原祭り」。
祭りのハイライトは、「源義経公東下り」です。
義経一行に扮した行列が平泉町内を練り歩く。ちなみに去年義経公に扮したのは、タレント溝端淳平。これまで義経公に扮した俳優・タレントさんをざっと挙げると、古くは志垣太郎、国広冨之、川野太郎、村上弘明、新沼健治等々。最近では五十嵐隼士とか、加集俊樹。2005年の滝沢秀明の時は、観光客が25万人も集まったとか。ちょうど大河もやってたし、相乗効果もあるだろうけど、当時のタッキー人気は凄かったですね。

今年の義経公役は、順当にいけば神木龍之介くんでしょうね。まだわからないですけど。
神木くんの義経はとにかく綺麗!品もあって良いのだけれど、少々野性味が足りないのが残念かな。

ところで皆さんは、今義経を演じるのにもっとも相応しい俳優は誰だと思いますか?
私は、佐藤健がよいのではないか、と思いますねえ。

あの身体能力、剣さばき。ときに強く、ときに幼く、ときに悲しげな瞳。義経のイメージにこれほどピッタリくる方はいないのではないか、と思っています。

その他の配役
武蔵坊弁慶:宇梶剛士
源頼朝:市川猿之助
北条政子:寺島しのぶ
静御前:武井咲
藤原泰衡:福山雅治
金売吉次:香川照之
西行:石坂浩二
後白河法皇:岸部一徳
常陸坊海尊:阿部寛
梶原景時:井原剛志
佐藤継信:五十嵐隼士
伊勢三郎:宮川大輔
平清盛:山崎努

藤原秀衡:中村吉右衛門

うーん、なかなか良いキャスティングだ…(笑)

義経 ~その3~ そして壇ノ浦へ

2013-01-08 21:58:39 | 義経
義経のことを語りたがる方々は世にたくさんおられます。かくいう私もその一人。
しかし往々にして、平泉のことを“忘れている”と思われるような発言をされる方が多いと感じるのは、私だけでしょうか。
16歳から22歳までのおよそ6年余。人生の最も多感な時期を過ごした平泉での日々、その日々が義経になんらの影響も与えていないなどあり得ない。寧ろ多大な影響を与えたと考えるのが当然でしょう。にもかかわらず、まるで平泉のことなど意にも介していないような発言をされる方々は、いったいなんなのでしょう?
まあ良いです。人は人、馬は馬。
私は私。

伊豆に幽閉されていた源頼朝が挙兵したとの報が、いつどのような形で義経に齎されたものか、一切の記録が残されていないのでわかりませんが、義経はこの報せを受け、いてもたってもいられずに平泉を出ようとします。この時の秀衡の心情はどのようなものであったのでしょうか。せっかくの手駒を、ここで手放すのはもったいない、とでも思ったでしょうか。あるいはそれもあったかも知れません。しかし、旅立つ義経に対し、平泉屈指の武将、佐藤継信・忠信兄弟を従者に付けて送り出しているところからみても、そこには親子に近い情愛があった、と読むのは甘いでしょうか。佐藤兄弟は義経に本当によく尽くし、義経のために戦い、討死しています。それはある意味、秀衡の意志の体現でもあった、と私はみたいですね。

ともかくも義経は平泉を旅立ち、黄瀬川の陣で頼朝の軍勢と合流します。頼朝は涙を流してこの異母弟を迎えたといいますから、素直に嬉しかったのでしょう。
この時点では…。

頼朝と義経の合流から僅か半年後、仇敵平清盛があっけなく病死してしまいます。その後源氏勢と平氏勢とはにらみ合いのこう着状態が続き、義経が活躍する機会はなかなか訪れませんでした。それから約二年半後、木曽義仲追討の宣旨を受け、ようやく義経は活躍の機会を得ます。義仲追討を果たした後、義経は怒涛の勢いで一の谷、屋島と平氏勢を追い詰め、ついには壇ノ浦で平氏を滅ぼすに至るわけですが、その転戦の過程で、どうやら頼朝は、義経を疎んじるようになっていったらしい。それは義経の天才的な軍略と、そしてなにより、人を引き付けるそのカリスマ性故であったでしょうか。ヘタをすれば、源氏棟梁の座が脅かされるやもしれぬ、と思ったのかも知れません。
男の嫉妬は怖い、とはよく言いますね。

ところで、一の谷の合戦において、義経は有名な「鵯越の坂落とし」、平氏本陣の背後の崖を、一気に馬で駆け降りるという奇襲攻撃を敢行しています。ここに義経の天才性をみるわけですが、このような奇襲を思いつく背景に、平泉があった、とみるのはどうでしょう?平泉藤原氏初代、藤原清衡の母は安倍貞任の妹です。奥州安倍氏は蝦夷(えみし)と呼ばれた古代東北人に連なる一族と考えられており、蝦夷の戦い方は少数の軍勢でその数倍の大軍を打ち破る、ゲリラ戦術です。アテルイの軍が朝廷軍を打ち破った巣伏の戦いなどはその代表的な例ですが、あるいは義経は平泉において、そのような話を散々聞かされていたのかも知れません。あるいは奥州の山野を駆けまわるうちに、戯れに馬で崖を駆け降りるような遊びをして、自然とそのような技を身に着けていたかも知れない。いずれも記録等は一切残っておらず、私の単なる想像といってしまえばそれまでですが、あり得ない話ではないです。
屋島の合戦においては、嵐の中を渡海して、平氏勢の背後に回り、やはり少数の軍勢でその数倍の平氏勢を打ち破っています。嵐の海を猛然と渡って行く勇猛ぶりは、かつて朝廷軍や源氏の軍勢を相手に、勇猛果敢に戦った蝦夷達を彷彿とさせます。秀衡は少年時代の義経に、この“蝦夷の片鱗”を見い出し、それを愛したのではないでしょうか。それは大都会・平泉に住む人々が忘れかけていた蝦夷魂。その魂を義経の中に見た。平泉に何かあった時、頼りになるのは義経を置いて他にないかもしれぬ。秀衡はそう思っていたことだろうと、想像します。

さて、壇ノ浦の合戦において、ついに平氏は滅亡します。それだけではなく、幼い安徳帝とその母・建礼門院徳子は共に入水、母親が我が子を連れて、自らの意志で海に飛び込んだということです。そして三種の神器の一つ草薙剣もまた道連れに、海に沈んだと伝えられています。
このことを義経のせいであるかのようにおっしゃる方がおられますが、はたしてそうでしょうか?
そもそも平氏はなぜ、幼き帝や女たちを戦場に伴ったのでしょうか?平氏は彦島に陣を敷いており、そこで帝をお守りした方がよほど理にかなうはずです。おんなこどもなど、戦場においては足手纏いになるだけ。なのになぜ、わざわざ戦場に伴ったのか。それに、建礼門院は“自らの意志で”わが子を道連れとしたのであって、これは義経が救う救わないとかいうことではない。もはや初めから死ぬつもりだった。幼帝を道連れにすることが、すなわち平氏のプライド、ということだったのでしょう。
私はここに、平氏の傲慢を見ます。
安徳帝の母・建礼門院徳子は平清盛の娘。つまり安徳帝は清盛の孫にあたる。清盛は天皇の外祖父となった。これはかつての藤原道長が用い、その後藤原摂関家が権力を握る手段としたのと同じ方法です。天皇はいまや平氏の身内。
だから、平氏が滅びるときは、天皇もまた滅びるべき。天皇が滅びるということは、日本が滅びること。
ならば日本も
滅びてしまえ!

これは平氏の傲慢が齎した悲劇です。さすがの義経でも、帝をお救いまいらせることは難しかったでしょう。
義経に責任はない、と断じます。実際この件で、義経が責めを負わされたという形跡はどこにも窺えません。誰もがみな、義経に責任のないことはわかっていたということです。このことをもって、頼朝が天罰を恐れ、義経を追いやったなど、私には到底考えられません。

壇ノ浦の勝利をもって、義経の栄光は頂点に立ったかにみえました。しかしこの後、
義経は、一気に頂点から転がり落ちて行きます。