東北よもやま話、秋田編ということで。
今年の大河ドラマは面白いですね!ホント、脚本がよくできてる。
それぞれのキャラクターがちゃんと立つように計算されていて、どのキャラクターにもそれぞれの言い分があり、正義がある。
どの人物の悪いところ、良いところを丁寧に描いて、それが物語の中で有機的に繋がるように、上手く組み立てられているんですね。だから面白いのなんの。大概は知っているはずの話なのですが、毎回ハラハラドキドキしながら観てしまう。
三谷マジック、完全にハマってますね(笑)
もうすぐ関ケ原編です。愈々三成の最後が迫ってきました。
一応の「史実」によれば、石田三成は合戦後逃亡し、再起を図って身を隠しておりましたが遂に捕らえられ、慶長5年(1600)、10月1日、京都三条河原にて処刑された、となっております。
柿の実の逸話など印象的な話が伝えられておりますが、この三成、本当は捕まらずに、逃亡に成功していた!?
という伝説が、秋田には伝わっているんです。
伝承によれば、関ケ原合戦敗戦の後、三成は侍従3人を連れて伊吹山から脱出、百姓姿に身を窶し、近江から北国へ逃れ、会津に至ります。
その後さらに出羽へ向かい、慶長7年、佐竹義宣を頼り秋田入りしたのだとか。
佐竹氏は源義家の弟、新羅三郎義光を祖とする源氏の嫡流、甲斐武田氏と同族の名門です。
常陸国を領する大大名でしたが、以前より石田三成とは入魂の間柄で、関ケ原合戦の際には、お家を守るため東軍(家康側)についたものの、日頃の恩顧を慮り、西軍(三成側)に攻撃を仕掛けず、中立を保ったままでした。
この非常に律儀な性格のため、佐竹義宣は家康の不興を買い、江戸に近い常陸へ置いておくのは危険と判断され、秋田へと国替えをさせられてしまいます。
「律儀なのは良いが、律儀すぎるのも困りものじゃ」と家康はつぶやいたとか、つぶやかないとか。
その義宣を頼って、三成は秋田へ。
義宣はこの逃亡者、天下の謀反人を手厚く迎え入れ、八幡村(現・秋田市)に広大な寺を構えて、これを三成の住まいにあてたそうです。
現在の帰命寺がこれにあたるそうな。
三成が秋田の地で没したのは、伝承によれば寛永10年(1633)とのこと。享年は74歳。当時としては結構な長生きをしています。秋田の暮らしがよほど充実していたのでしょうかね。
帰命寺には石田三成の墓が伝えられておりますが、その墓は実は三成の弟で、僧侶だった者の墓だという話もあり、どうもよくわからない。
あるいは三成を憐れんだものたちによる、「判官びいき」的な物語なのかも。
石田三成(山本耕史)
一方の真田信繁(通称「幸村」)ですが、こちらは元和元年(1615)、大阪夏の陣で家康に死を覚悟させたほどまでに追い込みましたが、直前で力尽き、戦場にて命を散らしたと伝えられています。
が、この信繁もまた本当は死んでおらず、やはり秋田へ逃れたとか。
郎党らとともに、己の甲冑を敵兵の死体に着せて死んだと思いこませ、大阪落城の混乱に乗じて戦場を脱出、その1ヶ月後、島津氏を頼って鹿児島を訪れますが、島津氏が徳川に恭順を示したため鹿児島を去り、信州にいる兄、真田信之(信幸)を頼ります。
信之は優しく迎えてくれますが、長居しては兄に迷惑がかかると兄の元を出奔、流浪の旅を続け、寛永2年(1625)、秋田藩領の大舘に流れ着きます。
大阪夏の陣より、実に10年の月日が流れておりました。
信繁は大舘郊外の岩神山に茅屋を建て、妻と息子夫婦、二人の郎党とともに百姓となって生活したそうです。
息子、大助は父の遺命に従って武士を諦め、家伝の「真田紐」を売る商人となって大成功を治めたとか。
大館市の一心院(浄土宗)には、信繁と大助の伝承墓があるそうです。
いずれもどこまで本当の話なのか、それはわかりません。
いずれにしろ、中央を追われた逃亡者たちは、なぜか東北を目指すようです。
源義経しかり、蜂子皇子しかり、物部一族しかり、ナガスネヒコの一族も東北に逃れ(あるいは流刑にされ)という伝承がありますし、奥州安倍氏はその祖に、ナガスネヒコの兄安日彦を挙げており、その安日(アビ)がアベに転訛したのだとか。
さらにさらに、ある神話によれば、国土神たる国常立太神が、悪神たちの企みによって隠棲させられた地もまた、丑寅の方角、つまりは東北だとする説もあるようで。
その神代からの因縁が、東北に逃亡者たちを招き寄せているのかも、
なんてね。
まあ実際には、東北だけじゃなく、色々な所へ逃げているのでしょうけどね、ちゃんちゃん(笑)
『真田太平記』の真田「幸村」(草刈正雄)。
参考文献
『あなたの知らない秋田県の歴史』
山本博文監修
洋泉社新書