風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

黄金の國【コラム】5 西行のこと

2013-08-05 23:33:47 | 黄金の國


歌人西行は平泉を二度訪れています。

一度目は天養元年(1144)頃のこと。いにしえの能因法師の歌枕の地を訪ねて奥州へ向けて旅立ち、平泉入りしたのが、「山家集」によれば旧暦の10月12日。現在の暦に直せば12月ごろでしょうか。

完封吹き荒ぶ中、西行は平泉に到着早々、その足で前九年合戦の古戦場、衣川柵跡を訪ねます。


        「とりわきて 心もしみて冴えぞわたる 衣河みにきたるけふしも」




西行の俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)。秀郷流藤原氏の流れをくみ、鳥羽院の側近く仕える北面の武士でした。

それがなぜ出家したのか?これには諸説あります。中でもドラマチックなのが、待賢門院璋子とのラブロマンス。鳥羽院の中宮にして崇徳院の母、待賢門院との道ならぬ恋に破れ、世の無常を知り出家したとか。本当のところはわかりませんが。

秀郷流といえば、奥州藤原氏もまた秀郷流。西行とは親戚筋に当たります。その気安さもあったのか、西行は翌年の春ごろまでは平泉に滞在したようです。

西行が訪ねたころは、平泉は二代基衡の治世。平泉の都市整備が着々と進められ、堂塔40余、僧房500余と伝えられる毛越寺が造営の真っ最中でした。
草深き奥羽の地に、人口10万余の、当時としては大都市が建造されていた。
平泉の全盛期とも言える時代の真っ只中に西行はいたのです。

浄土を目指した平泉に、西行はなにをみたのでしょう。



平泉の春、西行は信じられぬ光景を目にします。平泉の町から、北上川を挟んで東側に聳える束稲山(たばしねやま)。その山全体に桜の花が咲き乱れていたのです。

西行は草花を愛でるのが好きだったようです。中でもお気に入りは、奈良の吉野山の桜でした。

「桜の花の下で死にたい」と言わしめるほどの西行でしたが、その西行ですら、束稲山の桜の見事さには感銘を受けざるを得なかった。「こんなの、聞いてねえよー」というくらいに。

その束稲山の桜に感動して読んだ歌が残されています。


       「ききもせず たばしねやまの桜花 よしののほかにかかるべしとは」


現在の束稲山には、当時のような大量の桜の木は植えられておりませんが、当時は吉野山にも引け劣らぬ、いや吉野山以上だったことが、この歌から測ることができますね。


この頃の西行はおよそ28歳くらい。そして2度目に訪れたのが、その42年後、文治2年(1186)でした。



東大寺再建のための砂金勧進と称し、西行は再び平泉を訪ねますが、その直前に西行は、源頼朝と面会しているのです。

頼朝が弓馬の道を西行に尋ねると、西行はそんなものは忘れてしまったといってはぐらかす。頼朝からプレゼントされた銀製の猫を、通りすがりの子供にあげてしまった等の逸話が伝えられていますが、実は西行は、頼朝のスパイだった!なんて説もあるようです。

平家滅亡がこの前年の文治元年(1185)。そして義経の行方が知れなくなったのが、ちょうど文治2年のあたり、そのタイミングで西行が平泉に赴く、しかも頼朝に面会した後に…。

義経の逃亡先の最有力候補は、いわずもがなの奥州平泉。いずれは平泉を滅ぼすことを画策していた頼朝にとっては絶好の好機です。なんとしてでも義経の情報を掴み、平泉討伐の口実としたい。頼朝は確実にそう思っていたはず。

おそらく頼朝は、それとなく西行に依頼したのではないでしょうか。平泉の内情を探り、報告するようにと。

それに対して西行がどう答えたかは、判然としません。しかしながら、頼朝より拝領した銀の猫を子供にあげてしまう行動からみて、少なくとも頼朝に対しては、快く思ってはいなかったでしょう。

世を捨て出家したはずの者をも、己の欲望に利用しようとする人間のあさましさ。西行はそんな乱世になにを思ったでしょうか。



西行が二度目の平泉訪問を終えたその翌年、源義経が平泉に落ち延びてきます。結局西行と義経はすれ違いで、会うことはできませんでした。


文治5年(1189)。奥州藤原氏は、源頼朝によって滅亡します。
その翌年、建久元年(1190)。西行はその生涯を閉じました。享年73歳。

なんだか微妙に、その人生と平泉の発展、滅亡がリンクしているように感じるのは、私だけでしょうか。



        「ねがわくば 花のしたにて春しなむ そのきさらぎの望月のころ」





                   




もうひとつ、西行の歌を


         「衣川 みぎはによりてたつ波は 岸の松が根あらふなりけり」



激しく打ち寄せる波に洗われる松が根とは。

奥州の人々のことか。

奥州が歩んできた道、そしてこれから歩むであろう道。その荒波を受けて、松の根の如くに黙ってじっと耐えてきた奥州の人々。その雄々しさを歌ったものでしょうか。

いや、奥州人に限らず、人は皆、かくあるべきなのでしょう。

西行は奥州平泉に、人のあるべき理想像を見たのだ。

私はそう、読み取りたい。