風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

白虎隊総長・山川健次郎(後編)

2013-03-31 23:32:31 | 会津藩
                     
                     〈wikipediaより転載)


明治4年(1871)元旦、汽船ジャパン号は健次郎を乗せ横浜港を出発、同月23日、サンフランシスコに入港します。さらにアメリカ大陸を横断し、ニューヨークの近くのニューブランズウィックに一旦落着き、そこからさらにノールウィッチに移り、その町のハイスクールに入学します。
このハイスクールで基礎を学び、翌明治5年にエール大学付属シェフィールド理学校(現在の理学部)に入学します。

健次郎は17歳まで九九を知らなかったそうです。当時の武士の学問は、四書五経など文系の学問が主流で、数学などの算盤勘定は武士がやるものではないとして、一段下に見られていたんですね。
健次郎は東京にいたころ、旧幕臣の沼間守一という人物に師事し、その沼間のもとで初めて理数系の学問に触れ、分数の計算等で相当頭を悩ませたらしいです。なんだか親近感を感じる…(笑)
そんな健次郎でしたが、大自然の理を知ることが、社会を知り、政治を知り、国を良くしていく基となるとして、自然を知るには自然科学、つまり理数系の学問を身に付けなければならない。そう考え、理数系の学部を選んだわけです。国のためになるには、どのような学問を目指すべきか、という発想から選択しているところに、健次郎の意欲を感じます。
シェフィールド理学校の受験科目は「算術」「代数」「幾何」「三角関数」「英語」「ラテン語」「合衆国の歴史」「地理」等々で、健次郎はラテン語なんてものが存在することすらしらなかったでしょう。合衆国の歴史や地理などわかるわけがない。そこでラテン語の方はなんとか免除してもらって、歴史と地理は問題集を丸暗記。数学と英語はハイスクールの校長に直接指導を受けました。
そうして翌明治5年に理学校を受験、「大体の成績は良かったが、三角法だけ悪かったから、夏休みに勉強するなら入れてやる」との連絡を受け、健次郎は入学します。
それにしても、僅か一年ほどでこれほどの学問を身に着けるとは、どれほどの努力をしたのでしょう。本当に頭が下がりますね。

健次郎は国から学費を援助してもらっていたわけですが、明治7年に至って、突然その学費の援助が停止されてしまいます。
当時アメリカに留学していた官費留学生は約500人。国はこの中から成績優秀者だけを残し、後の者たちは帰国させるという方針に切り替えました。当時の留学生は“コネ”でなったものが多く、成績必ずしも芳しからずな者達が多かった。こんなものに金はかけていられないというわけです。健次郎もこの枠に引っかかってしまい、このままでは帰国する他なくなってしまいました。
そんな時、健次郎はアメリカ人の同級生から、金持ちの伯母を紹介されます。その伯母・ハンドマン夫人は、気の毒だから学費を出してあげてもいい。その代り証文が欲しい。と言います。健次郎は
「私の良心の許す限りなんでも書きます」
と答えました。ハンドマン夫人の求めた証文とは
「あなたが学校を卒業して国に帰ったら、一生懸命国のために尽くすと誓いなさい」
というものでした。
もとより国に尽くすは会津武士道の目指すところ。健次郎に依存あるはずもなく、健次郎は証文を書き、明治8年に無事卒業、バチェラー・オブ・フィロソフィーの学位を得、帰国に至るのです。
このハンドマン夫人というのも、粋な方ですね。

その後の健次郎は東京開成学校(後の東京帝国大学)の教授となり、教育に身を捧げます。明治34年、46歳で東京帝大総長に就任、明治38年に辞任した後、九州帝大総長、大正2年(1913)60歳で再び東京帝大総長に就任。白虎隊に入隊していた経験から「白虎隊総長」と称されました。

健次郎の家には、会津出身者の若者達が、書生として大勢雇われており、健次郎はよく面倒を見てあげました。当時、ある程度成功した会津人は皆、後輩達の面倒をよく見てやったようで、各家に書生がおりました。中でも山川家の書生になることは大変な栄誉だったらしく、「あなたはどちらの家の書生か」と訊ねられると、「山川先生の書生です」と誇らしげに答えたそうです。
会津人は酒好きが多い、書生の一人が家の酒を盗み飲みしていると告げ口されると、
「飲みたい盛りだろうから飲ませておけ」と答えたとか。
その一方では大変厳格な面もあって、特に子供達への教育は厳しかった。健次郎が子供達に常に言い聞かせていたことは、目上の人には従うこと、弱いものをいたわること、そして卑怯なまねをするなということでした。
卑怯なこと、特に反撃する力のないものを攻撃することは、絶対にしてはならない。かつての「什の誓い」会津武士道の継承です。

昭和3年(1928)健次郎75歳の時、松平容保公の孫にあたる勢津子と、秩父宮雍仁親王との婚儀が行われ、会津の人々は、これで朝敵の汚名は晴らされたと喜びました。健次郎はこの時、武蔵高校の校長に就任しており、婚儀の当日には答礼使という大役を果たしています。
武蔵高校の校長室で祝意を述べられた時、健次郎は「ハア」と答えるのみで、あとはただただ机の上に涙を零すばかりだったとか。

奥平謙輔、前原一誠、黒田清隆、ハンドマン夫人と、実に多彩な人々の援助を受けながら歩んだ健次郎の人生は、なんとも数奇なものでした。健次郎の人柄もあるでしょうし、なにより健次郎自身の努力の賜物なのでしょう。それとともに、
御先祖様の助けもあったかな。

目に見えるものたちと、目に見えぬものたちと。多くの援助を受け、教育を通して国に尽くすことで、その恩を返し続けた、そんな人生だったように思います。星亮一氏いわく「聖者のような生涯」でした。

昭和6年(1931)、胃潰瘍を拗らせたのがもとで、同年6月26日、その聖者のごとき生涯を閉じました。
享年78歳。




参考文献
『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫

『山川家の兄弟 浩と健次郎』
中村彰彦著
PHP文庫

『会津維新銘々伝 歴史の敗者が立ち上がる時』
星亮一著
河出書房新社






白虎隊総長・山川健次郎(前編)

2013-03-28 22:00:04 | 会津藩



戊辰戦争後、会津藩士達は東京へと護送されますが、その途上、猪苗代の謹慎所にてしばらく留め置かれることとなります。
その猪苗代にて謹慎する秋月悌次郎のもとに、河井善順と名乗る僧侶が訪ねてきました。
この河井善順、もと長州藩士で、かの禁門の変の際、敗走する長州軍が西本願寺に逃げ込んだため、会津藩は西本願寺を焼き討ちにしようとします。その時に、西本願寺がわの使者として会津藩との交渉にあたったのが、この善順でした。交渉の結果、会津藩は西本願寺焼き討ちを取りやめにしました。

その善順が、秋月悌次郎に会いに来たのです。彼は一通の手紙を携えていました。
それは、長州藩士・奥平謙輔から秋月悌次郎に宛てた手紙でした。
秋月は若い頃、学問修行と称して西国諸藩を遍歴したことがあり、薩摩や長州にも知己の間柄の人物が大勢いました。奥平謙輔もその一人で、その手紙の内容は、「さすがは会津藩、見事な戦いぶりでした」という内容だったようです。
秋月は会津藩への寛大な処置と、容保公の助命嘆願を図るため、猪苗代の謹慎所を脱出、善順とともに奥平のいる越後へ向かいます。
奥平と再会した秋月は先の事案を奥平に申し入れ、奥平からの紹介で前原一誠に会い、前原からさらに広沢真臣、大村益次郎などとも面会して了解を求め、結果会津藩への処置は大分緩やかなものとなったようです。
この時秋月は、奥平に二名の少年を預かってくれるように頼みます。会津の未来を、この有能なる子弟に託したいが、そのためにはまず勉学の機会を与えなければならない。しかし今の会津にはそれができない。そこで奥平にこの少年たちを託そうと思ったのです。
「成る程承知した。いつでもお引取申す」奥平は即断します。

秋月は再び猪苗代へ取って返し、二人の少年、山川健次郎と小川亮(若くして病死)を善順に託して、奥平のいる越後へと向かわせました。

越後から猪苗代へと戻る途次、秋月は一編の漢詩を賦しています。



行くに輿なく帰るに家なし
匡破れて孤城雀鴉乱る
治、功を奏せず戦ひに略なし
微臣罪あり又何を嗟かん
聞くならく天皇元より聖明
我が君の貫日至誠より発す
恩賜の赦書は応に遠きに非ざるなし
幾度か手を額にして京城を望む
之を思ひ之を思へば夕、晨に達す
愁ひは胸臆に満ちて涙は巾を沾す
風は淅瀝として雲は惨憺たり
何れの地に君を置き又親を置かん



後に「北越潜行の詩」と呼ばれる、秋月悌次郎の絶唱です



山川健次郎は父を早くに亡くし、兄の大蔵(維新後、浩と改名、以後浩で通します)が家督を継ぎます。男は浩と健次郎のみで、母、姉妹と女性たちに囲まれて育ちました。
姉妹は皆勝気で、特にに長女の二葉には、「健次郎、男のくせになんですか、しっかりしなさい」と、いつも叱られていたとか。健次郎は幼い頃は病弱で身体も小さく、姉妹からは「青びょうたん」などと呼ばれてからかわれていたようです。
そんな健次郎ですが、藩校日新館の成績は優秀で、会津武士の誇りをしっかりと胸に刻んで成長します。白虎隊にも一時入隊しますが、15歳という年齢とまだ未発達の肉体から除隊させられてしまう。鶴ヶ城籠城戦の際には、母、姉妹共々入城し、健次郎は幼年隊に所属して、主に武器弾薬の供給にあたりました。
兄・浩が軍事総督に就任すると、健次郎も鉄砲を持って城外に出て敵と交戦します。命からがら城へ戻ると、浩に「何故生きて戻ってきた、死んでこい!」と叱責され、これを見かねた母親に「生きてがんばるのです」と慰められた、なんてエピソードもあるようですね。

奮戦むなしく会津藩は降伏します。降伏交渉に奔走した秋月悌次郎は、以前より健次郎の才を見抜き、目に掛けていたようです。会津の将来を託すに足る男であると見込んだのでしょうね。

健次郎と小川亮二名の少年を預かった奥平謙輔は、二人を書生とし、越後の旧家遠藤家に住まわせます。遠藤家の蔵には古今の書物が多量に所蔵されており、それを好きなだけ読ませて勉強させようということでした。健次郎は猛勉強に励みます。
その後、謙輔が同郷の前原一誠に健次郎を紹介したのがきっかけとなり、健次郎は前原一誠の書生に雇われ、東京に移ります。その頃の健次郎は鶴ヶ城での一か月に及ぶ籠城中、ロクなものを食べておらず、栄養不足からひどい鳥目に罹っていました。そのため前原家で名前を呼ばれて、慌てて階段を降りようとしたところ、階段がみえずに二階から転げ落ちたこともありました。

やがて、健次郎にさらなる転機が訪れます。
北海道開拓支庁の長官、薩摩藩士・黒田清隆は、北海道開拓に際し、アメリカ式の大農方式を本格的に取り入れようと考えます。当時の留学生は薩摩や長州にほとんど独占されており、他は閉め出されていました。しかし黒田は、北国の開拓にはむしろ寒さに慣れており、負けじ魂の強い賊徒から選んだ方が懸命であると考えました。当時としては、非常に大胆な政策であったと思われ、細かいことに拘らない黒田の開明性が窺われます。
こうして、庄内藩と会津藩から各一名づつ選ばれることとなり、健次郎が留学生としてアメリカに派遣されることになったのです。

長州人に預けられ、今度は薩摩人に引き立てられた。真に数奇な運命、という他ありません。
(続く)



参考文献
『山川家の兄弟 浩と健次郎』
中村彰彦著
PHP文庫

『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫

『会津維新銘々伝 歴史の敗者が立ち上がる時』
星亮一
河出書房新社








白虎隊士・飯沼貞吉

2013-03-25 22:32:25 | 会津藩
慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いに大敗した会津藩はようやく軍政改革に着手し、西洋式軍制を本格的に導入、それと共に年齢別の部隊編成に切り替えます。
15~17歳を「白虎」、18~35歳を「朱雀」、36~49歳を「青龍」、50歳以上を「玄武」の4隊に編成、さらにそれを身分別に「士中」「寄合」「足軽」の三中隊と複数の小隊に分割しました。
白虎隊の編制ですが、15歳はまだ体格が未発達ということで後に16歳以上と変更されますが、年齢を偽って入隊しようする15歳以下の少年たちが後を絶たなかったそうです。
飯沼貞吉も、そんな少年の一人でした。

飯沼貞吉の家は上士の家柄で、家老・西郷頼母を叔父に、会津藩京都公用方の山川大蔵(浩)を従兄弟とする、会津藩内では名門の血筋と言っていい。貞吉は15歳でしたが、背が高く体格も立派だったため、白虎隊に残されました。同年の山川健次郎(山川大蔵(浩)の弟、後の東大総長)は小さかったため、隊から外されました。

8月22日、会津城下に敵軍が迫り、貞吉出陣の時が来ました。父と兄はすでに戦場に出ており、貞吉は母に見送られ戦場に向かいます。母親・文子は「いよいよお前が君公に身命を捧げる時がきました。一度家の門を出たからは、おめおめと生きて帰るような、卑怯な振舞をしてはなりませぬ」と叱咤し、はなむけに一首の歌を送りました。

梓弓 むかう矢先はしげくとも ひきなかえりそ 武士(もののふ)の道

午後1時、栗毛の馬に騎乗した容保公が、鶴ヶ城太鼓門より出陣、白虎隊は共に本陣のある滝沢峠に向かいます。本陣に到着するや先発の敢死隊より援軍要請があり、貞吉の所属する白虎隊二番士中隊、隊長以下42名が出動します。
折しも、激しい雨が降っていました。
雨合羽もなければ食料の用意もない。こんな出動は初めから無謀でした。冷たい雨が容赦なく肌を刺し、寒さに震えながら目的地の大野原に着いたのは22日の夕方でした。しかし時すでに遅く、敵は十六橋を占領、大野原の前方に陣を敷いていました。白虎隊は小高い菰槌山に陣を敷きます。
夜になり、隊長の日向内記が隊を離れます。これについては、食料を調達しにいったまま敵前逃亡した、との話が流布されていますが、実際には軍議に参加するために隊を離れたのであって、途中で敵と遭遇し道に迷い、隊に戻ることが出来ず、やむなく城に入ったというのが真相のようです。内記は城中にあって、別の白虎隊を指揮して戦闘に参加しており決して逃亡したわけではないのです。しかし一度付いた疑惑は拭えず、維新後、内記は喜多方に逼塞、ひっそりと暮らしました。しかしそのような生活の中、斗南に食料や金銭を送り続けていたといいます。
黙して語らず。内記もまた、典型的な会津人だったと言えるでしょう。

話を戻します。隊長が戻らず、寒さと空腹の中で待ちくたびれた彼らは、朝になって進撃を開始した敵に向かって不用意に発砲、これで位置を知られる結果となり、猛烈な反撃を受けます。副長の篠田儀三郎以下、隊士達はあわてて後退、けが人の手を引いて飯盛山へ向かいます。隊士の数は20名になっていました。
隧道を抜け、飯盛山にようやくたどり着いた隊士たちが見た光景。
激しく燃え盛る炎。間断なく響く砲声。
「城が燃えている」
誰かが叫びます。実際に燃えていたのは街中で、城は燃え落ちていませんでした。しかし寒さと空腹と疲労で冷静な判断力を失っていた隊士達20名は、すでに容保公も切腹したに違いないと思い込み、絶望した彼らは自刃することを決断してしまいます。
世に言う「白虎隊の悲劇」です。

飯沼貞吉も他の隊士達同様、刃を自らの首に突き立てました。しかし死にきれず、苦しんでいるところを、足軽の妻・印出ハツに助けられ蘇生します。翌日には長岡藩の藩医に傷の手当を受け、その後塩川、喜多方などを転々としながら傷を癒し、10月のはじめ頃に猪苗代の謹慎所に出頭し、父や他の藩士達と再会しています。
しかし、自刃に失敗し自分一人だけ生き残った自責の念は、貞吉を相当苦しめたようです。藩士達の中にも、彼を白い目で見る者もいたことでしょう。死にぞこないの卑怯者。
彼は謹慎所の中で孤立していったものと思われます。
彼ら会津藩士達は東京へ護送されますが、その時の護送隊長が、長州藩士・楢崎頼三でした。
楢崎は孤立する貞吉のことを不憫に思ったものか、貞吉を連れて故郷の長州美祢(山口県美祢市)に凱旋します。帰還祝いの席上、貞吉の境遇を知った村人が「生きててよかったな」と語りかけると、貞吉は顔色を変え、部屋を飛び出し自刃しようとします。楢崎がこれを止め、新しい生き方を諭すと、貞吉に勉強する場を与えました。

会津藩の子弟には、長州や土佐など、敵側だった人々の援助を受けて大成した者が意外と多い。山川健次郎しかり、柴五郎しかり、出羽重遠しかり。
飯沼貞吉もその一人でした。楢崎が兵部省の命令でフランスに留学すると、貞吉も伴われて上京し、静岡の塾で学んだ後、電信修技校に入学、電信技士になります。当時の最新技術を身に着けた貞吉は、主に西日本で電信技士として働き、その技術が買われて日清戦争に従軍します。
戦場では危険を顧みず電信施設の建設に尽力します。貞吉は戦場にあっても銃を携帯せず、その点を指摘されると、「私は白虎隊で一度死んだ身ですから」と笑いながら答えたそうです。

自刃に失敗し一人生き残った身で、しかも仇である長州人の恩義を受けて育った。そのことがあってか、貞吉は生前、会津に帰ることは一度もなかったようです。晩年を仙台で過ごし、その数奇な生涯を閉じました。遺品として、自身の髪の毛と抜けた歯を残しました。「若し自分の遺品を会津に葬りたいという話があったら、これをやれ」と遺言して。
やはり、帰りたかったのでしょうね。

貞吉は白虎隊のことを、一部の史家以外には話しませんでした。多くを語らない会津人気質が、ここにも見受けられます。

白虎隊士・飯沼貞吉を育てたのは長州人でした。長州人・楢崎頼三によって、貞吉の人生は変わったと言って良い。会津と長州は悲惨な戦争を繰り広げましたが、それでも個人のレベルでは、会津人に情けを掛けた長州人は存外多かった。私はここに、一抹の希望を見ます。

遺恨は残り、未だ消え去ることが無い。それでもやはり日本人は、決して捨てたものではない。
私はそう思う。

さて次回は、柴五郎か山川健次郎か、山川浩か、その辺の誰かを取り上げてみたいと思います。
はたして誰になるかな?それは気分次第~♪(笑)




参考文献
『会津維新銘々伝 歴史の敗者が立ち上がる時
星亮一著

『戊辰戦争を歩く 幕末維新歴史探訪の旅』
星亮一+戊辰戦争研究会・編










2013-03-22 22:34:06 | 岩手・東北

                      

上の写真は岩手県奥州市衣川区川東地区、「衣の関道(ころものせきみち)」と呼ばれる古道です。
平安時代末期、奥州平泉に拠点お置く平泉藤原氏が開いた道路、「奥大道(おくのおおみち)」の一部ではないか、とされているようです。
車一台通るのがやっとの道ですが、これでも昔は主要街道だったわけですね。現在はただの田舎道。それも途中で途切れており、かつて白河から外ヶ浜まで通じていた街道の面影はありません。当時は市が立てられ、大変にぎやかな通りだったようで、七日市場という地名として残っています。近くには「宿」という地名もあり、これは藤原氏よりも古い、安倍氏時代の宿場跡だと伝えられており、少なくとも平安時代中期頃には拠点としての役割を果たしていたのでしょう。

往時の面影はいまや無く、ただただ田舎の農村の風景が広がっているのみ。それはそれで、長閑で良いものですが。

つわものどもが夢の跡…か。

                    



道は時代によって変わります。
古代の奥州街道は、いや、奥州街道に限らず、古代の地方街道には橋が無かった。橋のない川を渡るには、船を使う手もありますが、もっと手っ取り早いのは川底が浅い、浅瀬を渡ることです。つまり源流により近い上流、山際を通るわけです。
ですから、現在では辺鄙な田舎としか思えないような在地に、かつては町場が多く作られ、活況を呈していた。戦国時代あたりまでの遺跡って、在地に集中してることが多いでしょ?それはそういうわけなんです。

道が移れば、それに従って拠点も移ります。特に経済拠点はそれが顕著で、現在でも同じですね。郊外型の大型店舗が増えることによって、駅前など、かつての中心的商店街は活気を失っていく。俗に言うシャッター通りが増えて行く。これはある意味、歴史の必然とも言えます。この世の事象はすべて移ろい行くもの。うたかたの泡と消えゆくもの。不変のものなど一切無いのです。

道は人によって作られ、人によって棄てられる。かつて多くの人々が行き交い、多くの文物が移動し、多くの“想い”が通り過ぎて行った道。そのかつての主要街道は歴史の塵に埋もれ、もはや詳細を知る術はない。坂上田村麻呂が、西行が、源義経が通ったであろう、何処とも知れぬ道。それは確実に、“ここ”にあったのだ。彼らは何を思い、この道を通ったのだろう。

古錆びた田舎道に佇みながら、そんなことを考えていました。

この世の事象はうたかたの泡。移ろい消えゆくもの。それは人も同じ。永遠不変の人など一人もいない。

私はどのように移ろっていくのだろう?どんな道を歩いていくのだろう?

まあ、なんにせよ、自分の道は自分にしか選べない。自分の足でしか歩けない。

歩きましょう、自分の道を。

                      

                        



映画「バルトの楽園(がくえん)」に見る会津武士道

2013-03-22 01:09:55 | 会津藩

                      

第一次世界大戦で、日本とドイツは敵同士でした。日本軍はドイツが租借する中国の青島(チンタオ)を攻略、約5千人のドイツ人俘虜を日本各地の俘虜収容所に送り込みました。
その内の約千人が、徳島県鳴門市の坂東俘虜収容所に送られました。
坂東俘虜収容所においては、他の収容所では考えられない、“自由”がありました。収容所の中にはサッカー場あり、ホッケー場あり、俘虜達手作りのヨットを浮かべる池もあり、時には外出して、監視付きではあれ海水浴も許されました。
俘虜達は劇団や楽団を作り、新聞の発行も許され、精肉店やパン屋を開き、町の人々がその店(収容所内)を訪れることによって交流が生まれ、俘虜達は町の人達にソーセージの作り方を、パンの作り方を伝授する。

戦争が終わり、彼らドイツ人達は国へ帰ります。彼らが残した言葉。
「世界のどこに、バンドーのような俘虜収容所があったか。世界のどこに、マツエ大佐のような収容所長がいたか」

所長の名前は松江豊寿、父親は会津若松市の警察官でした。

父・松江久平は、斗南帰りの元会津藩士、豊寿はその父の遺訓を受けて育ちました。

映画の中で描かれていた斗南の状況は、正直?なところもあり(笑)会津の悲劇をいささか扇情的に描き過ぎです。まるで斗南が“強制収容所”ででもあったかのような描き方で、ある種の対比として描いたのかもしれませんが、明らかに史実と異なる描写があるのはいただけない。

それはともかく、豊寿の俘虜に対する人道的配慮は、陸軍内部の不興を買い、豊寿はしばしば陸軍省に呼び出されます。その度、豊寿は言いました。
「彼らは犯罪者ではない。国のために戦った愛国者である。英雄にはそれ相応に接しなければならない」

陸軍省は坂東俘虜収容所の予算削減を決定、豊寿はそれに対抗するかのように、収容所近くの山を買い、俘虜達に木を伐らせてそれを売り、収容所予算の穴埋めに回します。なぜそこまでして、俘虜達の自由を守ろうとしたのか。

戊辰の戦に敗れ、敗者の憂き目を見た会津。会津人に対する“差別”的扱いは至る所でみられたようです。
それでも、会津武士達は誇りを失うことはなかった。恥じ入ることはなにもないのだから。

「卑怯なまねをしてはなりませぬ」「弱いものをいじめてはなりませぬ」

それは一言で言えば、それが【会津武士道】だから。

戦の勝敗は時の運。互いに誇りを持って、名誉を賭けて、国のために戦った。その武人同士なればこそ、相手の誇りを、名誉を重んじ、傷つけぬよう配慮しなければならぬ。
それが「武士の情け」というもの。

西郷隆盛は戊辰戦争に敗れた庄内藩に対し、その降伏調印式の際、庄内藩士達に帯刀を許し、逆に新政府軍の兵には一切の武器をもたせずに、警備にあたらせました。これは庄内藩を信頼しているというメッセージであり、庄内武士を虜囚ではなく、あくまで武士として扱ったということ。庄内藩士達はこれに甚く感激し、たちまち西郷の信奉者になったとか。

残念ながら会津藩士には、そのような丁重な扱いはありませんでした。

人は信頼されれば、それに応えようとするもの。武士道というのは、戦っているときもそうですが、寧ろ戦いが終わった後にこそ、その本領を発揮するものなのかも知れない。

信頼するためには、憎しみがあってはいけない。

しかし、憎しみを持たずに戦うのは、難しい。

それ故の

会津の悲劇…。




父より聞かされたであろう、会津の悲劇。その父より叩きこまれたであろう会津武士道。
豊寿はその武士道を貫いた。

会津武士道を貫いたのです。




ドイツ人俘虜により結成された楽団が、豊寿への、町の人々への感謝を込めて演奏したのが、ベートーヴェンの“第九”です。日本で“第九”が初めて演奏されたのがこの収容所だそうです。
以来、日本人にとって第九は、もっとも親しみあるクラシック曲となりました。

映画の中で演奏された第九ですが、素人の兵隊さん達の演奏にしては上手すぎる(笑)。ヘタでも感動は得られるのにね。「スィング・ガールズ」観てないのかよ(笑)



参考文献
『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫

『会津のこころ』
中村彰彦著
PHP文庫

映画「バルトの楽園(がくえん)」
監督・出目昌伸
脚本・古田求
出演・松平健
   阿部寛
   高島礼子
   大後寿々花

   ブルーノ・ガンツ
東映株式会社
   

斗南藩のこと

2013-03-18 23:18:12 | 会津藩
斗南藩立藩に関しては、一藩丸ごと流罪に処したのだ、との話がまことしやかに伝えられていますが、本当にそうなのか?この問題は、会津の方々が未だに薩長を赦せない気持ちでいる大きな原因の一つであり、とても重要なことなので、素人ながら私なりに掘り下げてみたい。

会津戦争の敗北を受けて会津藩は滅藩処分を受け、藩主・松平容保は永預け(預けとは謹慎、永は無期限という意味ですから、今でいうところの無期懲役です。後に解除され、自由の身となりますが)藩士たちは数グループに分けられて、集められ、やはり謹慎処分となりました。
しかし翌明治2年(1869)容保の側室に嫡男・慶三郎が生まれたことから、この慶三郎に会津松平家の家名を相続させることが許され、奥羽のいずれかの地に、新たに三万石の領地が与えられることになります。
翌明治3年には、新領地候補として元会津藩領の猪苗代か、元南部・盛岡藩領の北東部(現・青森県東部)の地か、いずれかの選択をするよう沙汰されます。結果、元南部藩領が選ばれました。
この、後に「斗南」と呼ばれる地を選んだのは、他ならぬ元会津藩士なんです。これに関しては、明治政府が強制的に斗南に流したのだ、と思われている節があり、かくいう私も数年前まではそう信じていました。しかし様々な資料をみて総合的に判断すれば、強制移住はあり得ない。斗南を選んだのは、ほかならぬ会津藩士自身です。

ちなみにこの「斗南」という地名は、「北斗以南皆帝州」つまり北斗星より南はすべて帝の治める州であるという漢詩文に由来すると言われており、北の果てでも北極星よりは南、天皇の治め奉る国の中であることには変わりない、という意味が込められているとか。

さて、三万石と言われた斗南の地ですが、明治3年、実際に入植してみると三万石など真っ赤なウソで、実高は7千石程度、会津は騙された、薩長は会津を騙したのだ、ということで会津側の薩長に対する怨みの念は益々強まって行く。
しかし考えてみれば、斗南を選んだのは会津側だし、もう一つの選択肢猪苗代を選ぶ手だってあったはず。猪苗代は元々会津藩領でしたから、どのような地か、よく知っているはず。実際、猪苗代移住を主張する一派もおり、鬼佐川と謳われた猛将・佐川官兵衛もその一人で、官兵衛は斗南に移りませんでした。なぜ猪苗代を選ばなかったのでしょう?
猪苗代は新政府の拠点東京に近いので、監視されているようで嫌だとか、幕末期に庶民に対し過酷な税を課していたので、一揆を起こされては困るとか、色々理由はあったようです。
しかしそれ以上に大きな決め手となったのが、元会津藩京都公用方の広沢安任の意見だったのではないか。というのも、広沢安任はかつて文久年間の頃、所要でこの斗南の地を訪れたことがあり、その時見聞した地勢人情等から、新天地として開墾するに相応しい土地だと判断していたんです。この安任の意見に、安任に近しい山川浩や梶原平馬といった影響力の強い者たちが同調した結果として、斗南が選ばられたらしいのです。
つまり、斗南がどういう所なのか、ある程度は予め知られていた、という推論が成り立つのではないでしょうか。

斗南藩領となったのは三戸・五戸付近と、北へ跳んで下北半島北端部、現在のむつ市周辺や大湊などの辺り。それと北海道の道南地域の一部です。この内三戸・五戸付近は戦国時代、南部氏が本拠地としていた所で、古くから開けた土地ですから、そんなに痩せ地ばかりだったとは考え難い。隣接の八戸藩は二万石ですが、実高は五万四千石あったといいますから、単純計算で見積もっても、7千石という数字は少々低すぎるような気がします。
下北半島の北端だとて、農業にこだわらず林業などに力を入れれば、まだ開発の余地はあった。実際、斗南藩権大参事として藩士達を率いた山川浩は、後にそう述懐しています。

石高と人口とはほぼ同数というのが常識的なのだそうで、三万石であったならば、適正人口は約三万人ということになります。この三万という数字は、武士だけでなく他の一般庶民も含めての話、この当時武士は全人口の数パーセント程度を占めるのが常態でしたから、三万石なら三千人以下、せいぜい二千人前後くらいが適正な数字でしょう。ところが旧会津藩士の入植者数は戸数にして二千、人口にして一万人だったといいますから、これは多過ぎます。いきなり一万もの入植者が入って、十分に賄えるような土地ではなかった、と考えられます。
元々会津藩は23万石でしたから、その数字に見合うだけの藩士達がいたわけで、それが三万石に減らされた。20万石も減らされたのです。そんな土地へいきなり約半数以上の藩士達が大挙移住したとして、賄い切れるわけがないんです。旧会津藩、斗南藩上層部は、その辺の読みが甘すぎた。すぐに開墾できると思っていたのでしょう。しかし寒冷地の開墾開発は、そんなに甘いものではなかった。
もっとも、寒冷地開発の甘い見積もりは、彼らだけのものでもありませんでした。明治政府も北海道開発を甘くみていたようで、後に痛いほど思い知らされます。幕末には坂本龍馬が蝦夷地開発に夢を抱き、榎本武揚の艦隊が北海道を目指したのも、蝦夷地を開拓して旧幕臣達による国を作る夢を抱いたからでした。北方開拓は、時代の共有した夢だったと言えます。

斗南藩の失敗は明治政府の策謀などではなく、藩士達自身の見通しの甘さにあった、といえるのではないでしょうか。

しかし当の藩士達にしてみれば、選択肢に斗南を入れた新政府が悪い。あのれ薩長いまに見よ!と怨みを募らせたのもまた人情。無理からぬことであったでしょう。

こうして見てみますと、この斗南藩の件に関しては、誤解と勘違いが恨みつらみを呼んだケースであることが見えてきます。誤解は早々に解かねばなりません。

後続の研究を待ちたいと思います。会津と薩長

両方の和解を推進する契機とするために。



参考文献
『山川家の兄弟 浩と健次郎』
中村彰彦著
人物文庫

『会津の悲劇に異議あり』
八幡和郎著
晋遊舎新書

容保公のこと

2013-03-15 23:51:37 | 会津藩
松平容保公については様々な評価があります。
名君という評価から、酷いのになると「バカ殿」なんてものまで、ホントに様々だ。
まあ、「バカ殿」は論外にしても、「名君」と言い切ってしまうのも、私はちょっと違うような気がする。まあ、いずれであるにせよ、

私は人間として、この方を尊敬します。


【志には虚邪無く、行いは必ず正直にす。游居するには常あり、必ず有徳に就く】(原漢文)

容保公が起居した京都黒谷の金戒光明寺に遺した墨書です。意味としては「志には虚(いつわり)や邪(よこしま)なこころがなく、行いは必ず正しく真っ直ぐにして、外出した時も家にいる時もその言行が一定のきまりに従っており、必ず徳の高い人(孝明天皇)に就き従う」(星亮一氏訳)というものです。
天皇のため身命を賭して忠節を尽くす。容保公のこころざしであり、本当にこの通りに生きた。

会津藩の藩是は徳川幕府に忠節を尽くすこと。しかし会津藩主は代々神道を学んでおり、当然天皇をこの国の頂点と捉えます。幕府に忠節を尽くすことはイコールで天皇に忠節を尽くすことになる。容保公はこれを真っ直ぐに信じた。真っ直ぐに貫こうとした。その真摯な姿勢が孝明天皇の心を打ち、御宸翰(天皇直筆の書状)を賜るという栄に浴する。容保公は身が打ち震えるほどの感激を味わったことでしょう。

この正直さが、容保公を苦しめることになる。なんともやるせない話ではありますが、容保公がもうすこし融通の利く、ある程度処世術をわかっている人物であったなら、幕末の会津藩の悲劇は、無かったとは言わないまでも、もう少し様相は違ったものになっていたかも知れない。そういう意味で、名君とまでは言い切れないものが、私の中にはあるのです。

しかし、こういう人物だったからこそ、会津武士道は、会津の“こころ”は、後世にまで語り伝えられたのだ、とも言えます。この藩主だったからこそ、会津藩士たちは武士らしく生き、武士らしく死ねたのだ。彼ら藩士達は満足だったと思います。

会津藩は、容保公は、賊軍の汚名を晴らすため、そしてなにより天皇の為に、君側の奸薩長を排除するため、戊辰戦争を戦いました。なによりも天皇のために戦ったのです。ただ戦争回避の道もなかったわけではない、もしこの時容保公の側に、冷静に和平を解く側近がいたなら、あるいは展開は違っていたものになっていたかも知れない。しかし山本覚馬は薩摩藩に幽閉されており、秋月悌次郎は主戦派でした。側近中の側近、神保修理は徳川慶喜の“敵前逃亡”を促したという汚名を着せられ、切腹して果ててしまった。容保公の周りには、積極的に和平を唱える者がいなかった。
いるべき時に、いるべき人がいない。幕末会津藩の悲劇は、こんな不幸な偶然の積み重ねが続いた故であるとも言え、またなんとも、やるせない話です。
神保修理のことも、容保公は慶喜に従って、一緒に“敵前逃亡”してしまったという負い目があって、助命を強く言い出せなかった。容保公にはこうした「弱さ」があった。いや、弱いというのは酷かな。でも藩主にしては優しすぎる方ではあった。その優しさと正直さという、人間としては間違いない「徳」故に、悲劇が起こるやるせなさ。

そういう時代だった。と言ってしまえばそれまでですが。

会津藩は、容保公は天皇のために戦った。しかし情勢はもはや薩長こそ官軍。このままでは賊軍の汚名を着せられたまま、会津藩は滅びてしまう。それは懸命ではない。
米沢藩の使者はこう諭して、会津藩に降伏を促します。これ以上戦うことは、むしろ若き天皇(明治天皇)に反逆することに繋がる。それは会津藩の本意とするところではない。
こうして容保公は降伏を決意します。会津藩は、容保公は天皇のために戦い。
天皇のために降伏した。
どこまでも、天皇に忠節を尽くそうとした。
尊皇を貫いたのです。

悲しいくらい、真っ直ぐに。


維新後、容保公は日光東照宮の宮司となりました。容保公の側には、かつて容保公と悉く意見が対立し、ついには城を追放された元筆頭家老・西郷頼母が付き従っていました。この西郷頼母のことも、いずれ書きたいと思います。
容保公の頭には、常に会津戦争のことがあったようです。夜中にうなされて、二度三度と飛び起きることもあったとか。はからずも三千人以上の犠牲者を出してしまったことに、強い責任を感じていたのでしょう。そんな容保公の唯一の心の支え。
それは、孝明天皇より賜った御宸翰と、2首の御製。
自分は孝明天皇の篤い信頼を、有難くも畏れ多くも頂戴させていただいていたのだ。自分は尊皇を尽くしたのだ。
誰が何と言おうと、
自分は奸賊などではない。
それだけを支えに、容保公は生きた。

「往時は茫々として何も覚えてはおらぬ」

維新のことも、御宸翰のことも、何一つ語る事なく、明治26年(1893)容保公はその生涯を閉じました。
享年59歳。



容保公の逝去より35年後、昭和3年(1928)
容保公の孫娘、松平勢津子が、秩父宮妃殿下として皇室に入りました。これにより、晴れて会津藩は、賊軍の汚名を雪ぐことが出来た、と解釈されました。
「多年の雲霧、ここに晴れたり」
当時の新聞の見出しが、会津の人々の喜びを今に伝えています。

容保公は名君ではなかったかもしれない。しかし、この無骨なまでに、悲しいまでに真っ直ぐに、真摯に、誠実に生きようとする姿に、
日本の武士道の美しさを、いや、かつての日本人が持っていたであろう美しさを見るのは、
私だけではないはず。

私は容保公を尊敬します。
誰が何と言おうと。




参考文献
『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫

『会津のこころ』
中村彰彦著
PHP文庫

『山川家の兄弟 浩と健次郎』
中村彰彦著
人物文庫

『会津維新銘々伝
    歴史の敗者が立ち上がる時』
星亮一著
河出書房新社

 


会津藩士列伝・山本覚馬(結)

2013-03-12 23:12:42 | 会津藩
覚馬の弟・三郎は鳥羽伏見の戦いで重傷を負い、帰還する船の中で死亡。これと共に、覚馬は薩摩に捕えられ、薩摩によって処刑された、という風聞が会津には届いていました。

慶応4年(明治元年・1868)8月、会津戦争は籠城戦に突入します。覚馬の妹・八重は断髪し、戦死した弟・三郎の軍装を身に着けて鶴ヶ城に入城。愛用のスペンサー銃を手に、獅子奮迅の活躍をします。スペンサー銃は覚馬が八重に送ったもので、当時の会津にはわずか数丁しかない最新式のライフルでした。
このスペンサー銃で敵の将兵を精確に撃ち倒していく八重。父・権八も戦死し、この時の八重の心情いかばかりであったか。
籠城戦は1ヶ月に及びましたが、ついに刀折れ、矢尽き、会津藩は降伏します。会津側の戦死者およそ3千。その遺体は埋葬することを許されず、山野に、街中に放置されたまま朽ちていきました。
この時の新政府軍の指揮官の一人、土佐藩士板垣退助と八重は、後に新島襄の仲介で面会しています。八重は目にいっぱいの涙を溜めながら。
「埋葬を許さなかったのはあなたの差し金か!」
と問いただしました。その時板垣は負傷療養中でしたが、傷の痛みも顧みず
「あれは長州の意見じゃった。申し訳なかった!」
と土下座したとか。土佐は大政奉還を建白した藩でもあり、元々穏健派でしたから、会津戦争には忸怩たる思いがあったのかもしれません。

覚馬が釈放されたのは明治2年(1969)になってからのこと、同明治2年、会津藩は松平容保の嫡子・容大(かたはる)による家名存続が許され、下北半島斗南の地に、新たに領地を与えられます。八重とその家族は会津に残ることを選択しますが、八重の夫・川崎尚之助は斗南へ移り、これを機に二人は離縁します。二人の間になにがあったのか、詳細は判然としません。
覚馬は明治3年に入ると、京都府の勧業御用掛に登用されます。かれを登用するよう尽力したのは、当時の京都権大参事で、鳥取藩士の川田佐久馬でした。二人は幕末以来の知り合いだったようです。
当時の京都は、明治政府による東京遷都によって産業が停滞し人口が激減、このままでは千年の古都が寂れてしまう。これを食い止め、再び京都を盛り返すために、覚馬の学識、見識を生かしたいということでした。この背景には、覚馬が建白した「管見」が新政府の上層部に知られていたから、ということがあるでしょう。こうして覚馬は、お雇いというかたちで京都府に採用され、ここから覚馬の第二の人生が始まるのです。
川田はすぐに京都を離れてしまいますが、後を継いだ長州藩士・槇村正直を信頼を受け、覚馬のは京都の勧業政策に邁進していきます。
覚馬とて誇り高き会津藩士、長州者の下で働くことに複雑な思いを抱かなかったと言ったらウソになるでしょう。しかしこの、盲いて自由の利かぬ己が身をもって働けるところがあるなら、国のため公のため、身命を賭して働こうという思いであったに違いなく、それもまた、会津武士の誇り故でありました。
槇村のバックには長州の実力者、かの木戸孝允がついており、木戸と覚馬は後に面会しています。木戸は会津にとって仇敵と言える人物ですが、その頃の覚馬にはそんなこだわりはもはや無かったようです。木戸も覚馬のことを好ましく思ったようで、覚馬という人物の大きさが窺えますね。

覚馬は槇村の下で京都の勧業に尽力します。例えば西陣織の職工をフランスに派遣して最新技術を学ばせ、見事西陣織を復活させるなど、様々な業績を残しています。京都の復活に務めたのが、薩摩人でも長州人でもなく、会津人だったということを知っている人が、一体どれだけいるのでしょうか。

さて、そんな覚馬の消息が会津の八重たちにも伝わり、八重等家族は京都に移ることになりましたが、覚馬の妻・うらは会津に残ることを決意します。実はこの頃、覚馬の傍には、身の回りの世話をする時恵という女性がおり、すでに二人は男女の関係となっていたようです。そのことが影響したのかどうか、詳細が伝わっていないのでわかりませんが、これを機に覚馬とうらは離縁、うらは娘のみねを八重に託し、一人、会津に残ります。その後、覚馬と時恵は結婚します。

明治4年以降、覚馬は毎年のように京都で博覧会を開催し、多くの外国人と接触します。その中にはキリスト教の宣教師も含まれており、彼らを通してキリスト教に触れた覚馬は、その平和主義的な精神にいたく感銘を覚えたようです。そんな折、一人の青年が覚馬のもとを訪ねます。
青年の名は新島襄。元上野国安中藩の藩士で、維新が成る前にアメリカ商船に密航しアメリカの大学で学び、宣教師となって日本に学校を設立すべく帰国した人物でした。
二人は意気投合し学校設立に尽力しますが、これが槇村に気に入られず、ついに覚馬は槇村の下を離れ、襄と共に学校の設立に奔走、明治8年(1875)同志社英学校(後の同志社大学)開校の運びとなるのです。八重はキリスト教の洗礼を受け、襄と結婚します。
新島八重の誕生です。

明治10年(1877)西南戦争勃発。多くの旧会津藩士達が薩軍討伐に参戦します。覚馬はこの戦争によって、「ようやく維新が成る」と冷静な判断を下しますが、一方で西郷隆盛の才を惜しみ、出来れば救い出してやりたいと漏らしたとか。


その後、選挙制度が施行されると、覚馬は京都府議会選に立候補し当選、府議会議長を務めたあと一年で退職すると、その後は京都府商工会議所の会頭を勤めます。思えば藩主・容保に従って京都に上洛して以来、覚馬は一度も会津に帰ることはありませんでした。まさに京都のために、その後半生を捧げ尽くしたと言っていい。

同志社には、多くの会津藩出身者達が、その雷名を頼って入学して来ました。覚馬は彼らの面倒も良く見てやり、自宅に住まわせもしました。時には十名ほども覚馬の家に寄宿していました。
覚馬の家に会津の青年が訪ねてくると、その青年たちに明治維新を語り、時世を論じ、処世術を解き、自宅でも講義を開くほど後進の指導に熱心にあたりました。明日の日本を担う若者を育てる。覚馬の胸の中には、会津藩を救うことが出来なかったという自責の念が、常に渦巻いていたようです。せめてこの若者達には、同じ目に会わせたくはない。同じ思いを、味あわせたくはない。
そんな思いだったかもしれません。

明治25年(1892)12月28日。山本覚馬は母・佐久、妹・八重、娘・久栄(時恵との子)に看取られながら、その波乱に満ちた生涯を静かに閉じました。享年満64歳。京都の近代化に尽力した功績を称え、明治政府より従五位が贈位されました。

敗者、会津藩士であったが故に、その活躍が表だって知られることはほとんどありませんでしたが、その人生には、間違いなくもう一つの維新の真実があった。

山本覚馬の名を、どうか憶えておいてください。

                      

                      〈晩年の山本覚馬
                       wikiより転載〉




参考文献
『山本覚馬 知られざる幕末維新の先覚者』
安藤優一郎著
PHP文庫








311に寄せて

2013-03-12 05:15:53 | つぶやき
                       

今日(3月11日)、氏神様を参拝してきました。
この氏神様の御神木は、二股に分かれた杉の木なんです。さらにはその二股杉の前に、まるで二股杉を守るかのように二本の杉の木が屹立している。まことに見事な並びです。

ところが今日、その二股杉の片側が折れていました。おそらくは前日(3月10日)の強風によるものでしょう。

実はこの杉に以前、雷が落ちたことがあったんです。にもかかわらず、折れることなく立っていた。なんと強い杉かと思われていたのですが、おそらくはこの雷によって相当弱っていたものと思われ、それが強風を受けてついに倒れたものでしょう。

311の前日の強風。あれはある種の“祓い”の風だったのかもしれない。この風に乗って、御神木の魂は去って行ったのだろうか。その意味は、善きにつけ悪しきにつけ、新しきことの始まりを告げるもの?

いずれにせよ、

感謝を捧ぐのみ。

来たりて去りゆくすべての魂に、

感謝を。

会津藩士列伝・山本覚馬(後編)

2013-03-08 23:05:35 | 会津藩
覚馬の視力が急速に衰えて行くのと相呼応するように、会津藩の命運は転変します。
薩摩藩、長州藩を中心とする討幕勢力が勢いを増し、将軍・徳川慶喜は大政奉還を決断、ここに250年続いた徳川幕府は名目上終わりを告げました。もっとも慶喜自身は、これを機に新たな巻き返しを図ろうとしていたようですが、「王政復古の大号令」の発布により、その目論見は外れたようです。
京都の会津藩士は血気にはやり、薩摩討つべし!と声高に主張するものが続出しますが、その中にあって覚馬はあくまでも非戦論を唱え続けます。西欧列強が虎視眈々と日本侵略を狙っている今、薩摩だ長州だ会津だと争っている場合ではない。と、見えにくくなった目をおして懸命に主張しますが、頭に血が上った藩士たちには受け入れられず、覚馬は京都藩邸で孤立していきます。この頃には脊髄を痛め、歩行も困難となっており、介添えを受けながら自由の利かない身体で戦争回避に奔走します。

将軍・慶喜が二条城から大阪城に下がると、それに付き従って藩主・松平容保も大阪に移り、大半の会津藩士たちも京都を離れます。しかしそんな中、覚馬は京都に残り、戦争回避に務めようとします。知人たちは身の危険を心配して転居を勧めますが、覚馬は聞き入れません。逆に
「会津藩士 山本覚馬」
と大書きした表札を、玄関先に堂々と掲げていたそうです。
覚馬という人は大変豪胆な人で、禁門の変の折には、長州軍が陣を敷いた伏見へ敵情視察の為潜入し、長州兵で沸き返る八幡宮に堂々と参拝しています。こういう人ですから、少々の危険など、ものともしていなかったでしょう。

しかし覚馬の願いも空しく鳥羽伏見の戦いが勃発。覚馬は薩摩藩士達に捕えられ、京都の薩摩藩邸に幽閉されます。もっとも待遇は決して悪いものではなく、懇切丁寧に対応してくれたようです。覚馬の名声は、西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀などを通じて薩摩藩内に響き渡っていましたし、おそらくは西郷さんあたりが、粗略に扱わないよう指示していたのではないでしょうか。
幽閉の身でありながらも、覚馬は和平への道を探り、自分を和平交渉の使者として容保公の下に使わしてくれと掛け合いますが、薩摩には和平の意志など最初からなく、この申し出は却下されます。
覚馬が危惧していたことは、もし会津藩が賊軍の汚名を着せられたなら、最後の一兵卒までも玉砕覚悟で戦うであろうし、そうなれば多くの犠牲者を出し、戦費に巨額の費用を投じることとなり、国力の疲弊に繋がるであろう。そこへ外国勢力に付け込まれたら大変なこととなる、ということでした。日本国と会津の両方を救うためにも、戦は避けねばならない。
薩摩としても、覚馬のいうことはわかる。しかし、武力革命の象徴として会津を血祭にあげることは決定事項であり、もはや後戻りは利かなくなっていたのです。

覚馬が悶々とした日々を薩摩藩邸で送る中、戊辰戦争は東北、会津へと展開していきます。

幽閉中に覚馬は、ある建白書を薩摩藩に提出しています。
「管見」と題されたその建白書には、新しい日本の国のグランドデザインというべきものが書かれていました。その項目は「政体」、「議事院」、「学校」、「変制」、「国体」、「建国術」、「製鉄法」、「貨幣」、「衣食」、「女学」、「平均法」、「醸酒法」「条約」、「軍艦国律」、「港制」、「救民」、「髪制」、「変仏法」、「商律」、「時法」、「暦法」、「官医」の22項目から成っており、西欧列強に負けない強い日本を創るため、富国強兵と殖産興業を奨励しています。
政治形態としては、天皇を頂点にいただき三権分立を唱え、大院と小院から構成される二院制の議事院(国会)を置く。大院は公卿や諸大名、小院は藩士から選出する。
国家体制に関しては、藩を廃止し郡県制への移行を提起。幕藩体制は分権制でしたが、それを天皇をトップとする中央集権制への移行を提起したわけです。後の廃藩置県のまさに先取りです。
世襲制の廃止や能力による官吏登用も提起しており、軍隊については徴兵制の採用、それに伴って廃刀も提起しています。
経済面では商工業に重点を置くことを提言しています。国が富めば国民も恩恵を受け、一層稼業に励むようになる。それで益々国が富み、富国強兵が実現されるという論法でした。
また外国に負けない文明国とするため、学校の設立と女子教育に力を入れることを求めています。女子の教育に着目するあたり、教育熱心な会津藩の気風が感じられます。特に覚馬の家庭では、母・佐久が非常に聡明な女性であったことや、妹・八重が女性であるが故に才能が生かせない苦悩を見てきたことも、影響されているかもしれませんね。男女同権は、覚馬の中では極自然のことだったのかもしれません。
このように、覚馬の「管見」は後の明治政府が行った政策にほぼ合致するものが多く、これを覚馬はたった一人で練り上げたわけで、とてつもないとしか言いようがありません。巷では坂本龍馬の「船中八策」が大変有名ですが、はっきり言ってこちらの方が遥かに具体的でより優れています。龍馬も覚馬も、横井小楠という思想家の影響を受けて、これらを書いたわけですが、龍馬より覚馬の方が、オリジナリティとしては上ですね。にもかかわらず世に知られていないのは何故か。
それは敗者だからです。会津は敗者で、土佐は勝者の側だったからです。
理不尽だとは思いませんか?

この「管見」を読んだ西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀達は非常に感銘を受け、覚馬の知見に驚愕の念を覚えます。それがこの後の覚馬の人生に大きな影響を与えるのです。

明治2年(1869)覚馬はようやく幽閉を解かれ、晴れて自由の身となります。


…「後編」と銘打ったものの、やはり終らなかった~っ。もう一章、設けさせていただきますので、まだ続きます。あ~、次のタイトルどうしよ~っ。




参考文献
『山本覚馬 知られざる幕末維新の先覚者』
安藤優一郎著
PHP文庫