風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

靖国神社と「東武皇帝」

2014-10-31 20:02:50 | 会津藩
  



幕末、戊辰戦争の折ー。


旧幕府より江戸市中の警備を担わされていた彰義隊が、上野にて新政府軍と激突。彰義隊は上野寛永寺に立てこもり、寛永寺門跡であった、仁孝天皇の猶子・輪王寺宮公現法親王に新政府側との仲介に立ってもらいますが、結局交渉は決裂、彰義隊が敗れた後、輪王寺宮は東北に逃れ、仙台で奥羽越列藩同盟の盟主となります。

仁孝天皇は先帝、孝明天皇の御父君にあらせられる。つまり血の繋がりはないものの、輪王寺宮は孝明天皇の御弟君にあたるわけです。

その御方が盟主となって、京都の新政府に対抗するという構図。これは見方によっては大変な意味を持ちます。

そうです、これは、

「南北朝の争乱」第二章ともなりうる事態だったのです。





実際、この時輪王寺宮が「東武皇帝」あるいは「東武天皇」として即位したとする研究者もおります。もっともこの説に関しては確たる証拠に乏しく、また輪王寺宮の御発言の中に「幼帝(明治天皇は当時15歳)を誑かす君側の奸薩長」を排除するという意味の御発言があり、これは新帝に即位した御方の御発言としては、いささか矛盾するものを感じます。明治帝をミカドとして認めておられるわけですから。


少なくとも宮御自身には、そのような「東武皇帝」などに即位するつもりはサラサラ無かったのではないかと思われますね。ただ、宮の周囲にいる者達の中に、そのような先走ったことを話したり、あるいは実際に画策した者がいたであろう可能性は、否定できないと思われます。

まだ将軍だったころの徳川慶喜に対し、フランス公使ロッシュが「幕府に味方するための軍隊を派遣する用意がある」と話したところ、慶喜は「内政干渉はおことわり申し上げる」と退けた経緯があったとか。外国勢力が、奥羽越列藩同盟の行動に注目していたことは確かでしょうし、あるいは某かの裏工作があったかもしれません。

わかりませんけどね。





そのような憶測話はともかく、列藩同盟としては、皇族を盟主として迎えたことで、一応の正当性を主張できる立場を得られたわけです。特に会津藩にとっては、亡き先帝・孝明天皇の御意志を継いでいるのは我らであるという主張ができるようになったわけですから、大いに士気も上がったでしょう。


孝明天皇は強硬な攘夷主義者ではありましたが、基本的には公武合体派であり、討幕の意志などはまったくなかったのです。だから討幕派の長州藩の強引なやり方は孝明天皇としては到底勤王などとは思えず、その傍若無人なる長州を京より排除するため、頼みとする会津藩と薩摩藩に託したのが「8月18日の政変」です。会津藩はあくまでも天皇の御意志に忠実に従ったまで、むしろこれを不服とした長州藩がおこした「禁門の変」においては、長州藩の軍勢はよりによって御所に向けて発砲しました。これに激怒した孝明天皇が、長州藩を「賊」と断じて追討の命を下したのも当然の成り行きだったのです。

会津藩としては、ただただ先帝の御意志を忠実に守っているに過ぎない。どこにも「逆賊」の要素などはないと、胸を張って言えた。

長州藩や、新たに長州藩と手を組んだ薩摩藩にとっては、孝明天皇ははっきりいって「邪魔」な存在だった。

そんな矢先の、孝明天皇の突然の崩御…。

さらに、新たにに即位された明治天皇にも、あるウワサがありますね…。

そのことについては、私などよりも詳しい方はたくさんおられるでしょうし、私はここで、その件についてくどくどと書くつもりはありません。

ただ、明治帝としては、御自身が即位することによって、「またしても」南北朝の争乱まがいの事が起こる可能性がでてきたことに、なにを思われたでしょう?

この「因縁」は、自らの手で絶たねばならぬ。

そう、思われたかもしれません。










突然ですが、靖国神社のルーツを御存じですか?

元々は、長州藩による私的な慰霊顕彰施設でした。

長州藩士の中で勤王活動を行って命を落とした方々を慰霊顕彰する「招魂場」が元になっているのです。

それが曲折を経て、国家的な施設へと発展していくわけですが、その過程には、「明治天皇の篤い思し召し」があったと伝えられていますね。

勿論それは、新国家建設の過程で命を落とした方々を、純粋に慰霊顕彰したいという思し召しでもあったでしょう。

しかし私には、それとは別の御意志も感じられるのです。

明治天皇の下、日本が、日本人が一つとなって邁進していく、その象徴としての

靖国神社という位置づけ。


その思し召しの底に、「東武皇帝」のことがあったのではあるまいか。

日本を二度と分裂させないための象徴としての

靖国神社だったのではないでしょうか。






「禁門の変」で戦死した会津兵が靖国神社に祀られたのは、大正天皇の御代になってからのこと。明治帝の御代に実現することはありませんでした。

「禁門の変」の際の会津藩は完全なる「官軍」です。ですから靖国に祀られる資格は十分にあったにも関わらず、です。

それは、元長州藩士であった元老どもによる強硬な反対があったからこそではありますが、明治帝の御代に実現しなかったというところに、なにか象徴めいたものを感じるのです。



もとより、私のようなものが明治帝の大御心を忖度するなどもっての外!所詮は私の妄想です。

どうか笑ってお流し下さい。












私が言いたいことは変わりません。

会津藩は決して「逆賊」などではない。彼らもまた「勤王」であったのだ。

皇室に刃をむけようなどという輩は何処にもいなかったのだ。

何処にも。

そのことだけは、誰がなんと言おうと主張し続ける。

「誰」が「何」と言おうと、です。







輪王寺宮は、戊辰戦争の後、謹慎を命じられますがほどなく解かれ、明治帝より「北白河宮能久親王」の名を賜ります。

能久親王はロンドンに留学した後陸軍に入隊し、師団長として台湾に赴任。かの地で病死します。

その数奇な一生は日本武尊にも比定されたといいます。

ここにもまた、時代の波に翻弄され、歴史に埋もれて行った方がおられます。

どうかこの記事をお読みになった方だけでも、

その数奇な一生に想いを寄せてあげていただきたい。

有安杏果研究序説 まとめ ~ももクロにおける有安杏果の存在意義について~

2014-10-28 19:37:22 | ももクロ
  



                      




                      




今年(2014)、ももクロの国立競技場ライヴの初日、3月15日は、有安杏果の19歳の誕生日でした。

同じく今年の夏の西武ドームライヴ「桃神祭」2Daysの初日、7月26日は、杏果がももクロに加入した日です。



また、10月18日に熊本のライヴハウスで行われたももクロのライヴ「ちびっ子祭」は中学生以上で身長は男性159㎝、女性155㎝以下の方しか入場できない限定ライヴでしたが、企画したのは、我らが有安杏果でした。



今年のももクロのライヴは、杏果の存在がなにげに重要なキーだったなと思いますね。






                     




                      





思えば、ももクロにおける杏果の歩みは、決して平坦な道ではありませんでした。

加入時の紆余曲折、加入後の他のメンバーとの間にできた「壁」。

その壁を克服したあとも、無理な発声を繰り返していた為に声帯を痛めてしまい、2013年の正月からおよそ3ヶ月間、声をだすことを禁じられます。

その間も仕事はひっきりなしに続きます。ライヴでは歌を歌わずダンスだけで参加し、トーク・イベントではスケッチブックを用意して様々なコメントを予め書き込み、また現場で臨機応変にコメントを書き込むなどして、必死にトークについて行きました。

杏果といえば「努力」、「努力」といえば杏果というくらい、杏果はその自らの苦闘をファンの前にさらけ出してきた。

普通タレントというものは、ここまで己の苦闘をさらけ出さないものではないでしょうか?努力や苦労を見せずに、さらりとやってのけるのがカッコイイ。浪花節じゃないんだから、苦労を売りものにするべきではない。

でも杏果の場合はそれを売りものにしているわけではありません。ただ「隠せない」だけなのです。

「嘘をつくのが嫌い」と、普段から杏果は公言しておりますが、杏果の場合、嘘を「つかない」のではなく、嘘が「つけない」のです。

苦労を「隠さない」のではなく、「隠せない」のです。

結果、ファンは杏果の生身の「悲しみ」「苦しみ」「喜び」すべてを見ることになる。

そして杏果は、苦闘しながら自らの問題を自らの手で克服し続けている。

その「過程」を我々ファンは見せつけられているのです。


杏果推しのモノノフは、こうした「人間」有安杏果を応援せずにはいられない者たちだといっていいでしょう。



                  
                   2011女祭りライヴ。体調不良でフラフラの杏果、それでもステージに立ち続ける杏果。そこへ観客から「杏果がんばれー!」の声が…。


                  
                   2011女祭ライヴ総集編。すべてのモノノフにとって、これは伝説的なライヴでしょう。消さないで欲しいなあ…。



プロなら体調管理は当然で、本番で体調を崩すなどもっての外!

それは確かにそうですが、なってしまったものは仕方がない。我々ファンが惹かれるのは、それでもライヴを続けた、ステージに立ち続けた杏果の「意志」です。

フラフラで、声も出なくなった身体で、それでも杏果は3時間以上のライヴを休むことなく続けた。

ステージに穴を開けるわけにはいかない。メンバーに迷惑はかけられないし、折角観に来てくれたファンに申し訳が立たない。

そしてなにより、自分自身が納得できない。

これが泣かずにおらりょーか!?我々杏果推しは皆、この「人間」有安杏果が好きなのです。

無骨なほどに不器用な杏果という少女に、強く強く惹かれるのです。










杏果が「別世界」に感じたというように、杏果以外の他のメンバーは、虚と実の区別が非常にあいまいです。

何処までが「素」で、どこからが「演技」なのかよくわからない。楽屋からまったく変わらないテンションのままで現場へ入って行く。

リーダー百田夏菜子は、太陽のように屈託のない明るさで、あらゆる人の垣根を取っ払い、己のテリトリーへと引きずり込んでいく。総合的なタレント性という点では、ももクロの中でも抜きんでた存在です。



あーりんこと佐々木彩夏の面白さは、「あーりん」という「虚像」を、佐々木彩夏という少女が「演じて」いるのだということを周知させることによって、逆に「なんでもアリ」な状況を作りだしたことです。

あーりんという「虚像」は佐々木彩夏本人をも取り込み、虚と実の境は益々曖昧模糊となっていく。




高城れにのボヘミアンな破壊力は、一歩間違えばマイナスの方向に倒れて、ヤバいことになりそうですが、ももクロに出会った御蔭で、プラスの方向に爆発することができました。というより、ももクロという「場」が、プラスにしている、というべきか。

繊細な方でもありますので、悩みの多さでは杏果と共感するところもあるようですが、杏果に比べてどこか地に足がついていない危うさがあるように思えます。

この方もやはり、「別世界」の人と言うべきか。




しおりんこと玉井詩織。私はこの方が一番「わからない」。

ある意味この方はももクロそのもの、そこにいるだけでいい、そこにいるだけで、この方はももクロなんです。

この方もこの方なりの努力を続けているのでしょうが、その片鱗すら私には垣間見えない。ある意味「完璧」なのです。

「完璧」なる別世界の人。努力が丸見えの杏果とは対極の人だといっていい。






杏果という人は、常に目の前にあることを一生懸命にやる方です。

その為、遠い未来のことは考えられないのだそうです。

2020年の東京オリンピックが決まり、みんなが「その時、ももクロはなにしてるんだろうね」と盛り上がっていたとき、杏果だけ、「私、まだ続けているのかな…」とボソリと言ったとか。

それはネガティブなわけではなく、そんな先のことは考えられないのだそうです。

杏果はまた、死んだあとのことは分からないとも言います。信じる信じないではなく、分からないというのです。

分からないのだから、考えても意味はないと。

極めて真っ当な、現実界に足を付けた発言ですね。




ももクロという別世界、「夢」の世界のメンバーでありながら、杏果は常に、我々ファンの住む現実界にしっかりと足をつけている。


有安杏果という方は、この現実界と、夢の別世界とを繋ぐ、橋渡し的な役割を果たしているのかも知れません。

だからすべてのモノノフは、誰推しであろうとも、杏果のことを無視することは出来ない、気に成らざるを得ないのです。



無骨で不器用で、どこまでも我々ファンのことを考える、心優しき苦労人。「人間」有安杏果を、

私は推します。







「灰とダイヤモンド」

感極まった杏果が泣いています。この方はよく泣くんです。

良い顔してるね。








参考資料
『クイックジャパンspecial issue ももいろクローバーZ~compass of the dream~2013-2014』
『クイックジャパンVOL116有安杏果特集』
「川上アキラ著『ももクロ流~5人に教えたこと 5人から教わったこと~』」
「ももクロペディア私家版http://momoiro-clover.ldblog.jp/archives/22660852.html」


これにておしまい…で、ありやす。

有安杏果研究序説 その3~「米子の夜」~

2014-10-25 21:24:37 | ももクロ
  



                     



2012年6月30日。ももクロの全国ツアー米子大会が行われた日の夜。

ももクロメンバー間で、ある重要な話し合いが行われました。

正確には、杏果と他の4人との間の話し合いです。






********************

(杏果)きっかけは夏のツアーの米子大会の夜(6月30日)ですね。ライヴが終わったあと、みんなで凄い話し合いをしたんですよ。

(インタビュアー)はい、それは前号に登場してくれた、あーりんも話してくれました。

(杏果)それがきっかけで、あの夜を境に、自分の皮を、まるでゆで卵の薄皮を剥ぐようにすこしづつポロポロと剥きはじめて……自分的にはだいぶ剥がせたかなって思うんですよ。

(インタビュアー)差し支えなければ、そのときどんな話がきっかけになったのか、教えてもらえますか?

(杏果)私、それまでメンバーとの間に微妙な壁をつくっていたんですよ。それをみんなに指摘されたんです。

(インタビュアー)それは本当にぶっちゃけた話し合いですね。そもそも、有安さんが積極的に絡んでいけなかったのは何故なんでしょう?途中からももクロに参加したという遠慮みたいなものがどこかにあったんですか?

(杏果)私からすると、別世界に見えたんですよ。みんなオンもオフもないじゃないですか?楽屋でキャッキャ騒いだまま、ステージへ向かっていく、みたいな。それを見て「あっ私はこのノリは苦手かも」って、決めつけちゃったんですよね。だったら、楽屋では一歩、引いておこうって。

(インタビュアー)別に仲が悪いとかいうわけではなく、ほかの四人と、有安さんの、ライフスタイルが違い過ぎたんですね。有安さんはオンとオフとをしっかりと分けたいタイプだった、と。アイドルに限らず、グループでは、ステージ上だけバシッと決めればいいとプライベートでは距離を置く人も多いですし。

(杏果)ずっーとオンではいられないタイプだと思い込んでいたんですよ、私。なんだろうなあ……素直になれないっていうか、話の輪の中に「えっ、なになになに?」と入っていくことに抵抗があったっていうか。

(インタビュアー)ただ、ほかのメンバーからしてみたら、輪の中に入ってきてほしかったんですね。

(杏果)それを米子で指摘されたんです。最初に言われたときは、みんなの気持ちが痛いほど伝わってきたから、とにかく言葉が心に刺さりましたね。本当に痛かった。でも、この状態を放っておいたらダメだなって思ったし、みんながこんなにも私のことを考えたり、思ってくれているんだったら、自分、変わんなきゃダメじゃんって。

(インタビュアー)……。

(杏果)でも、人ってそんなに簡単に変われないじゃないですか?だから、ゆで卵の皮みたいに、ゆっくり少しづつ剥いていったんです。それは大変なことではなくて、いままで無理だと思い込んでいただけで、実際にみんなの輪の中に入ってみたら、全然、違った!自分でできないって決めつけていただけで、本当に楽しいんだって。

〈中略〉

(インタビュアー)夏のツアーではお約束として、メンバーが順番に「私が一番かわいい」って言い出して、最後に有安さんが残ってしまい、どんなリアクションをするのかを楽しむ、みたいな流れがあったじゃないですか?あれを見て藤井編集長が「有安は本当に嫌がっているんじゃないか。杏果がかわいそうだよ」って、言ったんですよ。

(杏果)えっ、本当ですか?じつは米子でこんな話になったのは、それが原因だったんですよ。

(インタビュアー)えっ?

(杏果)米子であまりにもそのネタを私が嫌がり過ぎたんです。最終的に「私が一番かわいい」って言わないで終わらせちゃった。私としては、毎回嫌がりながら言うんじゃなくて、最後まで言わないっていう新しいパターンを作ったつもりだったんですけど、メンバー的にはやってほしかったみたいで……「どうしてやってくれないの?」という話からはじまって、最後は「私たちの輪の中に入ってきてほしい」って。

(インタビュアー)そうだったんですね。でも、そういう話をするきっかけができたという意味では、良かったですね。

(杏果)たしかに米子の夜がなかったら、いまごろどうなっていたんだろう、と思うと怖いですよね。みんな目が腫れるまで泣いて、声が枯れるほど話あって……そのあと、泊まったところがはじめての五人部屋で、みんなでいつまでも話していましたね。本当に女子高生の友達同士みたいに。考えてみたら、そういう機会もいままでなかったし、それで気持ちが楽になったのかもしれない。

(『クイックジャパンspecial issue ももいろクローバーZ~compass of the dream~2013-2014』より抜粋しました)

********************




生真面目な方ですから、自分がももクロに入った意味とか、ももクロの中での「立ち位置」みたいなものとか、色々と悩んだのでしょうね。

おそらくは歌やダンスも、自分が求めるレベルに到達していないとか、そうしたことの悩みやら焦りやら、色々と溜まってもいたのでしょう。もう自分のことばかりで精一杯だった。

それが気が付かない内に、ほかのメンバーとの間に壁を作ってしまっていた。

でも、杏果は自分は素直じゃないといってましたけど、充分素直だと思いますよ。

素直だからこそ、みんなの話を直に聞けたのだし、素直だからこそ、みんなの気持ちを直に受け止められたのだと思うんです。



話というのは、話す側より聞く側の問題、受け取る側の問題が大きいと思うんです。受け取る側の器量によっては、話の中身を捻じ曲げて受け取ってしまい、余計にややこしくなる、傷が広がるといったことにも成りかねませんでしょ?

でも杏果は真っ直ぐに受け止めた。それを自分自身の問題だとしっかり自覚して、自分で努力して克服していったんです。

決してほかのメンバーのせいにすることはなかった。

もしも杏果がこんな素直な子じゃなかったら、この「米子の夜」の出来事は、それこそももクロ分裂の危機の原因となっていたかもしれない。

このインタビューを書き写してみて、改めて思いました。

2012といえば、杏果はまだ17歳です。なんてしっかりした、大人びた子だろう。

凄いですよ、ホント。

凄いです。









杏果以外の4人がわちゃわちゃ騒いでいるときに、杏果だけ一人別の事をしているという光景は、今でも変わらず、よく見かける光景だそうです。

以前なら両者の間には、微妙な空気が流れていたそうですが、今はまったく無くなったとか。

杏果が4人の輪に入りたいときは、いつでも自由に入っていけるようになったようです。

もはやそこには、なんの気兼ねも遠慮もありません。



それでいいんです。杏果は杏果なんだから、無理して全部変えてしまう必要はない。

杏果は杏果のままでいい。

それでいい。



それにしても、何故杏果は、こんな重大な話をぶっちゃけてしまったのでしょう?

普通なら、表に出すべき話ではないように思えますが、何故?


決まっています、それは

ファンのため、モノノフのためです。

杏果とほかのメンバーとの仲が悪いんじゃないか?と心配しているファンのために「もう大丈夫、心配ないよ」と伝えたかったのでしょう。

どこまでもファンのこと、モノノフのことを第一に考える。いかにも、ももクロメンバーらしい気遣いです。

ホント、良い子だ。





                   




杏果研究、まだまだつづくでありやす。










参考文献
『クイックジャパンspecial issue ももいろクローバーZ~compass of the dream~2013-2014』
『クイックジャパンVOL116有安杏果特集』

有安杏果研究序説 その2~「ももいろクローバー」から「ももいろクローバーZ」へ

2014-10-24 22:35:42 | ももクロ




                   



2008年11月、有安杏果(以下、杏果)はスターダスト・プロモーションに移籍します。

移籍後、アイドル・ユニット「POWER AGE」(P-A)のメンバーに選ばれますが、P-Aは10人の大所帯で、全メンバーが揃って活動することが一度もないまま、翌2009年5月に解散してしまいます。



その頃、2008年に結成された「ももいろクローバー」は、複雑なメンバーの変遷を経ながら、地道に路上ライヴ等を続けていました。2009年頃までにはメンバーも固定化していたようです。

百田夏菜子、玉井詩織、早見あかり、佐々木彩夏、高城れにの5人による「ももいろクローバー」(以後、ももクロ)は、夏休みには川上アキラマネージャーの運転する車で車中泊をしながら、全国のヤマダ電器を回るツアーを行うなど、苛酷で地道な活動が功を奏し、2009年の夏に、インディーズ・レーベルからシングルCDを発売することが決定していました。

レコーディングも終わり、発売を待つばかりでしたが、この5人のままでは今一つ弱いと感じていた川上マネージャーは、歌もダンスもイケている子がいるとの話を聞きつけ、さっそくその子に面会、ももクロへの加入を打診します。

その子こそ、有安杏果でした。



すでに「空気」が出来上がっている中に、新たに入って行くことは、結構緊張を強いられることだと思います。

「ももクロのメンバーは今と変わらず、暖かく迎えてくれて、有難かった」と杏果は語っています。そこに嘘はないでしょう。ただ、杏果の側に、後から入ったということに関して、なにか負い目というか、拘りのようなものが心の中に出来上がっていたのかも知れません。

その話は後日。





杏果の加入がファンの前で正式発表されたのは、2009年7月26日。本当はその頃までに、デビュー・シングル、「ももいろパンチ」が発売されているはずでした。しかしトラブルが発生し、シングル発売は8月5日に延期されていたのです。

デビュー・シングル発売前の突然の新メンバー発表に、一部のファンが納得せず、ライヴ後の握手会で杏果との握手を拒否したり、川上マネージャーがファンに取り囲まれるなどのことがあったようです。

当時のももクロファンは、地道に路上で活動している頃から、ももクロがまったく無名だったころから応援し続けてきた筋金入りのファンが多く、「俺たちが応援し続けたこの5人に、なんで今更新メンバーなんか入れるんだ?それも待望のデビュー・シングル発売直前に!?」という気持ちだったのでしょう。

川上マネージャーは、杏果の加入はももクロにとって絶対プラスになるから信じてくれと、そう言うしかなかったでしょう。

見ていれば絶対納得できるからと。

事実、同年11月に、メジャー・レーベルに移籍して発売されたセカンド・シングル、「未来へススメ!」発売後の握手会では、かつて杏果との握手を拒否したファンが集まり、「ももクロに入ってくれてありがとう」と感謝されたのです。杏果は号泣しました。

色々曲折はあったものの、杏果の実力が筋金入りのファン(当時は「モノノフ」という言葉はありません)をも納得させたのです。





ももいろパンチ

杏果がいませんね。曲もその辺の凡百のアイドルの曲とあまり変わらないような印象を受けます。後年のももクロらしさは、少なくとも私にはほとんど感じられません。
このままでは、一生注目することは無かったかも。






未来へススメ!

能をイメージした振付を用いるなど、面白みはあるものの、やはり定石通りのアイドル・ソングという感じ。ももクロらしさにはまだ遠い。あともう一歩か。





そして2010年5月、歴史的名曲と言って過言ではない、「行くぜっ!怪盗少女」が発表されます。


行くぜっ!怪盗少女

トリッキーだけれども、全体的にはポップで受け入れられやすい。随所にアクロバットを取り入れた独特のパフォーマンスもこの曲から始まりました。
ももクロのイメージ、方向性を決定付けた曲といって良いでしょう。


このPVに、杏果は複雑な思いを抱いてしまいます。

「私の出番が少ない…」

同じ思いを高城れにも抱いたようで、この件をきっかけに二人は意気投合し、頻繁に連絡しあい、励まし合うようになります。

後にユニット「事務所に推され隊」を結成する二人ですが、その萌芽は、この時からすでにあったのですねえ。

それにしても、そんなに出番が少ないですかね?私が見る分には、お二人とも結構目立っているように思うのですが。

やはり御本人でなければわからない、思い入れがあるのでしょう。

しかし、高城れにはももクロ結成時からの言わば生え抜きです。後から入った自分とはやはり違う…。

杏果の中に、無意識の内にそのような想いがあったかも知れません。

私の想像ですが、杏果は気が付かぬうちに、自分で自分をある種の孤立感、疎外感で染め上げようと仕かけてけていたのかもしれません。

その話は、また後日。






ピンキージョーンズ

インド音階からケチャに至るまで、それはカオスのようで有りながら絶妙なバランスに彩られた稀有な曲。曲とパフォーマンスの激しさは前作「怪盗少女」をも凌ぐ。





ミライボウル

唐突に曲調が変化するところに、思わず「IRON MAIDEN かっ!」とツッコミを入れてしまった(笑)ももクロのメタル趣味はこの時からすでにあったのね……とは、私の勝手な想像ですが(笑)








東日本大震災の記憶も生々しい、2011年4月。

ももクロの精神的支柱でもあったサブリーダー、早見あかりが脱退します。

自分自身の「アイドルとしての資質」を鑑み、夢であった女優への道を歩むため。



これを契機として、「ももいろクローバー」は、「ももいろクローバーZ」へと改名します。

ももクロの快進撃の始まりです。





                  
                    逆ももかくど


つづくでありやす。








参考資料
「クイックジャパンVOL116有安杏果特集」
「クイックジャパン特別編集 ももいろクローバーZ特集号」
「川上アキラ著『ももクロ流~5人に教えたこと 5人から教わったこと~』」
「ももクロペディア私家版http://momoiro-clover.ldblog.jp/archives/22660852.html」

有安杏果研究序説 その1~子役時代の栄光と挫折~

2014-10-21 19:47:21 | ももクロ



                     




有安杏果(ありやすももか)
平成7年(1995)3月15日生まれ。出身地・東京(ただし生まれたのは京都で、一時期埼玉に暮らしその後東京へ転居。資料によっては埼玉出身とある)。
うお座。A型。
身長・148㎝。(非公式記録として149㎝)
所属・ももいろクローバーZ。イメージカラー・緑。
キャッチフレーズ・「ももクロのちょっぴりおバカな小さな巨人」
愛称・有安、有安さん、杏果、ももか、ももちゃん、ありちゃん(主に夏菜子)、やっさん(主にれに)など多数。なお、高城れにによって命名された「ケバブ」は、意味がわからないせいか、現在ではほとんど使用されません。




ももクロのメンバーの中でも、その歌唱力とダンス・パフォーマンスで一目置かれる存在。元メンバー・早見あかりによれば、有安杏果(以後、杏果で統一)の加入以降、ももクロのダンス・パフォーマンスは劇的な変化を遂げたといいます。杏果加入以前は、ツー・ステップばかりの簡単な振り付けだったとか。




さて、杏果命名の由来ですが、当時放送されていたドラマ「ダブル・キッチン」の中で、山口智子演じる若い主婦が、お腹の中の赤ちゃんに「ももちゃん」と話しかけていたことに影響されたとか。

その母親が、生まれたばかりの愛娘・杏果があんまり可愛いものだから、読者モデルに応募してみようと思い立ち、オーディションに参加したのがきっかけで、子役専門の事務所に所属するようになります。

最初の一年程は、母親以外の人に抱かれるとすぐにぐずってしまい、なかなか仕事がつかなかったそうですが、それでも少しづつ仕事が増えて行き、数々のCMやドラマ、映画、「ポンキッキーズ」のレギュラー等、多くの仕事をこなすようになっていきます。













CMの仕事でアメリカに行ったとき、飛行機の座席はいきなりビジネスクラスだったそうです。それが当たり前だと思っていたら、ももクロの仕事で飛行機に乗ったときの座席は…。そのとき杏果は、世間の厳しさというものを知ったに違いありません。

この頃の杏果は、子役タレントとして栄光の絶頂にありました。


仕事が増え、ポンキッキーズなどのレギュラー番組が付くにつれて、杏果自身も仕事が楽しくなってくる。やがて杏果は、当時人気があったBoAのような、歌って踊れる歌手になりたいという夢を持ち始めるのです。





小学校5年生のとき、EXILEの事務所が主催するダンス&ヴォーカルスクール「EXPG」にも所属するようになります。母親が月謝が払えないというので、特待生になれば月謝が免除されることを知った杏果は、必死に勉強・練習して見事特待生に合格します。

とにかく杏果という人は頑張り屋さんで、これだけ忙しく芸能の仕事をこなしながら、学校の勉強も決しておろそかにはしませんでした。成績は優秀だったそうで、夏休みの宿題なども、きっちりと計画を立てて早めに終わらせていたそうです。

ただし、ニュースや新聞はほとんど見ないし、本もあまり読む方ではなかったようで、一般常識というものが致命的なくらいに、無い!

キャッチ・フレーズの「“ちょっぴり”おバカ」の意味は、この一般常識の致命的欠如にあるのです。

まあとにかく、生真面目な頑張り屋さんで、夢の実現へ向かって一途に進み続ける。その意志の強さ、純粋さには敬服せざるを得ません。

EXPGでもすぐに頭角を現し、EXILEのバックで踊るキッズダンサー4人の中に選ばれるなど、小学生時代の杏果の芸能活動は、まさに順風満帆でした。

小学校6年生で、ドラマ「がきんちょ~リターンキッズ~」に出演。アイドルに憧れるイジワルな少女を熱演します。このドラマは今でも人気があるそうですね。私は知りませんでしたが。








中学に進学した辺りから、事情が変わって行きます。

中学生を演じるにしては幼すぎ、小学生を演じるにも、もっと可愛くて演技の上手い子に役を取られてしまい、杏果の仕事は徐々に減って行きます。EXPGでも、キッズダンサーは小学生までという決まりがあったため、中学に上がった途端、ダンサーを降ろされ旗振りなどの役に回されてしまう。

これは自分のやりたいことじゃない。自分のやりたいことが出来ない苛立ち。

杏果のそれまでの人生にはなかった、大きな挫折でした。



母親はこの時点で、もう辞めてもいいのではないか、と思っていたようです。

元々、記念のつもりで参加したオーディションから始まったこと、母親としては、いつ辞めてもいいんだくらいに思っていたでしょう。でも本人にやる気がある限りは続けさせるし、出来る限りの協力も惜しみませんでした。

子役の現場に同行するのは、マネージャーではなく親の場合が圧倒的に多いそうです。

杏果は母親を仕事のパートナーとして続けてきました。この、良い意味で「放任主義」の母親の御蔭で、杏果は小さい頃から自立心を育てたようです。

杏果は母親に「勉強しろ!」と言われたことは一度もないそうです。それでも杏果は自発的に学校の勉強を欠かさなかった。

EXPGにしても、自分で決めて、自分でチャレンジして、見事合格しています。

放任主義が必ずしも良いとは限りません。ヘタな放任主義のせいでダメになってしまう子供は沢山います。

杏果がそうならなかったのは、仕事のパートナーとして、また家庭の母親としての母の愛情をしっかりと感じられていたからでしょう。

いつでも見守ってくれている母親の愛情を、しっかりと感じとっていたから。

それとやはり、杏果自身が持っていた、「資質」もあるのでしょうね。



……うーん、こうしてみてくると、父親の存在が薄いですねえ……。

父親はあくまでも、蔭から見守る存在ということか……。









子役の仕事が無くなり、悩んでいた杏果でしたが、中学2年生の時に転機が訪れます。

友達と訪れた渋谷で、大手芸能プロダクション、スターダスト・プロモーションのスカウトマンに、杏果がスカウトされたのです。

スターダスト・プロモーションはとにかく大手。所属タレントの数も多く、そこへ入れば自分は間違いなく埋もれてしまうだろう。杏果はそう思ったそうです。

埋もれたっていい。それでも、自分が本当にやりたいことができるなら。



杏果は事務所を移籍することを決意します。杏果のチャレンジ精神に、再び火が付いたようです。



有安杏果、ももいろクローバーZ加入への第一歩でした。





                      
                        ももかくど


つづく…で、ありやす。





参考文献
「クイック・ジャパンVOL116有安杏果特集」
「クイック・ジャパン特別編集 ももいろクローバーZ特集号」
「川上アキラ著『ももクロ流~5人に伝えたこと 5人から教わったこと~』日経BP社」

朱に交われば…

2014-10-18 21:16:09 | つぶやき



怒りの正体はすべて自分の中にある。本当は他人なんか関係ないんだよね。

誰が何を言おうとも、それに反応するのは自分自身。反応しなきゃいいだけの話。

つまり、原因はすべて自分の中にある。

わかっちゃあいるんだけど、ねえ…。


やっぱり、怒っちゃうんだよねえ。




                 
                  笑いながら怒る人





せめて笑顔を。







朱に交われば、修羅醜臭集。




怒りは身を亡ぼす元。

お気を付けて。

「ももクロ春の一大事2014 国立競技場大会」ライヴDVD鑑賞記 ~Day2編~

2014-10-15 12:14:32 | ももクロ




                     


正式タイトルは

「ももクロ春の一大事2014国立競技場大会 ~NEVER ENDING ADVENTURE 夢の向こうへ~」

長い!(笑)

国立は夢の舞台だったわけですが、そこへ立ったからといって、これで終わりではない。

もはや国立も一つの通過点。冒険はまだまだ終わらない。

国立という夢を越えて、さらにその向こう側へ、ももクロとモノノフと、皆で一緒に

歩み続けよう。

皆で歩む、皆で作る「成長物語」。

それがももクロ。



********************



1日目は手堅く収めたという印象でしたが、2日目はこれが最後ということもあって、皆さんキレまくってます。

ももクロメンバーのハイ・テンションに乗って、モノノフさんたちも盛り上がる。これにより、タダでさえ名手揃いの「ダウン・タウン・ももクロ・バンド」の演奏もそのキレを増して行く。

これぞライヴならでは。素晴らしい「気」の循環が巻き起こって行きます。

『サラバ、愛しき悲しみたちよ』では、ギターのお二人による「アドリブ合戦」が展開され実にスリリング!こういう、バンドさんにある程度の自由度が与えられているところも、ももクロのライヴの良さでしょう。



1曲目から13曲目までは前日と同様、シングル曲をリリース順に発表していき、14曲目からはこの日独自のラインナップ。東響コーラスの皆さんによる、「カルミナ・ブラーナ」の大合唱から『Neo STARGATE』へ、そして『BIRTH φ BIRTH』へと流れる展開はこれまた実にスリリング!

『黒い週末』では、広い会場を縦横無尽に動き回りながら、ももクロお得意の小芝居(笑)を加えつつのパフォーマンス。印象に残ったのは、杏果が前に出てくるようになったことです。

前に出てくると言っても、他のメンバーを押しのけてまで自分が自分が、ということではなく、自分が前に出るべき「場」を捕まえられるようになった、ということですかね。

杏果が前に出ることによって、パフォーマンスの充実度はより深さを増しています。杏果は確実に成長してますね。

いや、杏果だけじゃありません。他のメンバーも、パフォーマーとして明らかに成長している。こうした「成長物語」の共有が、モノノフ最大の醍醐味かもしれません。

皆頑張ってるね、お父さんはうれしい…(涙)




名曲『灰とダイヤモンド』で会場をシットリさせた後、一応最後の曲『鋼の意志』へ。ここで曲の作曲者、高見沢俊彦氏がギターを抱えて登場。ももクロのバックで演奏します。

高見沢氏のギター・パフォーマンスがことのほか長く、一瞬「大丈夫か?」と思いましたが、良い頃合いで切り上げてくれたのでホッとする(笑)



アンコールの一曲目は『CONTRADICTION』。いわゆる「アゲアゲ」の曲で、会場は一気にヒート・アップ。『堂々平和宣言』で夏菜子が歌詞を間違えるハプニングが!(笑)。御愛嬌御愛嬌。

『オレンジノート』でトロッコ(?)に乗って、会場をゆっくりと移動しながら歌うメンバー。この曲はもっとじっくり聴かせるべき曲のような気がしますので、この演出は個人的には?でしたが、まあ仕方ないでしょう。

そのままトロッコに乗った状態で次の曲『ももクロのニッポン万歳!』へ。これこそ日本全国を飛び回る歌なので、移動しながら歌うのには相応しい。ここでのももクロのパフォーマンスはほぼアドリブ。例によって小芝居を交えながら、メンバー同士でじゃれ合い、本当に楽しげです。それでもキメるべきところはしっかりとキメながら、ライブそのものが破綻しないようにしっかりと進めて行く。

当たり前ですが、プロだねえ。




本当に最後の曲、『あの空へ向かって』の後、赤々と燃える聖火の前に立つ5人。

一人づつ、「今」の想いを、モノノフたちへ伝えていきます。

台本もなにもない、それぞれの「本当」の想い。

ここで出た、夏菜子の名言。


「“笑顔を届ける”ということにゴールはない」

「私たちは、ここへ天下を取りにきました。
でもそれは、芸能界の天下でも、アイドル界の天下でもありません。
皆に笑顔を届けるという部分で、天下を取りたい、そう思います…」


嘘偽りのない、本当の想い。それは他のメンバーも同じ思いだったでしょう。




ゴールのないゴールへ向かって進み続ける、5つの魂。



その魂の行く末を、いつまでも見守っていたい。



本当に素晴らしく、素敵な

熱いライヴでした。















「ももクロ春の一大事2014 国立競技場大会」Day2
【SET RIST】
OVERTURE~ももいろクローバーZ参上!!~
01.ももいろパンチ
02.未来へススメ!
03.行くぜっ!怪盗少女
04.ピンキージョーンズ
05.ミライボウル
06.Z伝説~終わりなき革命~
07.D'の純情
08.労働讃歌
09.猛烈宇宙交響曲・第七楽章「無限の愛」
10.Z女戦争
11.サラバ、愛しき悲しみたちよ
12.GOUNN
13.泣いてもいいんだよ
14.Neo STARGATE
15.BIRTH φ BIRTH
16.黒い週末
17.Chai Maxx
18.Believe
19.いつか君が
20.灰とダイヤモンド
21.鋼の意志
〈ENCORE〉
22.CONTRADICTION
23.堂々平和宣言
24.オレンジノート
25.ももクロのニッポン万歳!
26.あの空へ向かって




            

「ももクロ春の一大事2014 国立競技場大会」ライヴDVD鑑賞記 ~Day1編~

2014-10-14 14:24:05 | ももクロ
 



                      



ももいろクローバーZの魅力、と一言で言っても色々あるとは思いますが、その一つに

「成長物語の共有」

というのがあると思うのです。




路上ライヴから始まり、紅白出場から国立の舞台に立つまでの彼女達の軌跡は、古くからのファンであろうと新参者であろうと関係なく、大きな感動を覚える。


ももクロというのは、特別歌の才能に長けているわけでもなく、ダンスが図抜けて優れているわけでもない。もっと上手い歌を聴かせてくれる方達はいくらでもいるし、もっと優れて見応えのあるダンスを見せる方々などなんぼでもいる。


それでもももクロが多くの人を惹きつける理由、それは、

その底抜けの明るさと、何にでも全力でぶつかっていく気迫、そして、

汗。



子供が楽しげに叫びながら駆け回っている姿を眺めるのは、何の理由もなく人を楽しい気分にさせます。明るくさせます。

そんな子供達が、なにか一つのことに一生懸命熱中している姿をみると、「ガンバレ!」と理由もなく応援したくなります。

ももクロを応援する人達の想いとは、そんな大人のような、親のような気持なのでしょう。

あるモノノフの方が上手いことをおっしゃっていました。ももクロを応援するというのは

「甲子園球児を見守り、応援するような気持ち」なのだと。



地方大会を勝ち進んで甲子園の舞台へとやって来た球児たちは、全員が全員優れた野球の才能を持っているわけではありません。

ただただ、持てる限りの精一杯の力を、仲間たちと共に全力で出し切って戦い抜いてきた子供たちです。

己の持てる限りの力を、全力で出し切って戦う、その汗と涙に、人々は感動を覚えるのでしょう。そこにある種の「崇高」なるものさえ感じながら。



ももクロのファン、モノノフたちもまた、それと同じものをももクロに見ている。



日本の美とは、未完成の美。変化し続けるもの、成長し続けるものを愛でる美学なのではないか、と、個人的に私は思っています。

甲子園球児たちに見るものも又同じです。完成されていない子供たちが、完成へと向かって突き進み続けるその姿に、我々は美しきものを感じます。

それと同じものを、モノノフたちはももクロに見ているのです。

だからそこには、性的なものが入り込む余地はほとんどないと言っていい。むしろそのようなものを求める者たちを拒み、憎む風潮すら生まれるのです。

それは「性」を超越した「聖」なるものへの回帰、というべきか。

ももクロは現代に再臨した聖なる「巫女」。アメノウズメです。



********************




ライヴの一曲目はデビュー曲、『ももいろパンチ』。

この一曲目から、シングルのリリース順に曲が披露されていきます。路上ライブからインディーズ・デビュー、メジャー・デビューへと展開していき、紅白出場から国立の舞台に立つまでの、彼女たちの成長物語を改めてモノノフたちに体現してもらおうという構成ですね、非常に上手い構成だと思います。

一曲目から5曲目の『ミライボウル』までがいわゆる「無印」時代。この後VTRが流され衣装チェンジの後、愈々「Z」になってからの曲に入ります。

立木さんの生ナレーション入りの『Z伝説~終わりなき革命~』から13曲目「泣いてもいいんだよ」まで、改めてこうして聴いてみると、初期の2曲以外は実にレベルの高い曲揃いで、ももクロは本当に曲にも恵まれている、と思いましたね。

9曲目『猛烈宇宙交響曲・第七楽章「無限の愛」』の後MCからメンバーの自己紹介へ、ここで有安杏果の自己紹介の時に、会場中のサイリウムの色が緑一色に!この日(3月15日)は、有安杏果19歳の誕生日だったのですね。それをお祝いするために、モノノフたちが一斉にサイリウムを緑一色に統一したのです。

感激して涙ぐむ杏果。それでも自己紹介を止めないところが、杏果一流のプロ意識でしょう。この子は真面目で良い子です。

しかしこの後、百田夏菜子の自己紹介のときに、会場が赤一色に染まるというオチがちゃんとついている(笑)この辺りがももクロらしいところか。

それにしてもこのモノノフさんたちの意思統一は、どのようにして成されたのでしょう?会場入りの時になんらかの「司令」が出されたのかな?是非ともその裏話をお伺いしたいところです。



この「お誕生祝い」はまだまだ続きます。17曲目『Chai Maxx』の後のMCで、川上アキラマネージャーが、その100キロの巨体に天使(?)の衣装を身に着け、リアカーに巨大な誕生日ケーキを乗せて登場。本物の合唱団と会場のモノノフのみなさん、メンバーやスタッフ全員による『ハッピー・バースディ』の大合唱。またもや涙ぐむ杏果。

と、突然、ケーキの中から、やはり天使の恰好をした古屋マネージャーが飛び出します。杏果は驚いて後ろに跳び退り、尻餅をついてしまいます。

さすがの身体能力、図らずも、ももクロのリアクション王、杏果健在をアピールしましたね(笑)



それにしても、モノノフはじめ、みなさん暖かいですねえ。






全26曲。全体的に引き締まった良い構成で、杏果の誕生日のこともあり、暖かさに包まれた良いライヴでした。



さて、次、2日目いってみますか。













「ももクロ春の一大事2014、国立競技場大会 Day1」
【SET RIST】
OVERTURE~ももいろクローバーZ参上!!~
01.ももいろパンチ
02.未来へススメ!
03.いくぜっ!怪盗少女
04.ピンキージョーンズ
05.ミライボウル
06.Z伝説~終わりなき革命~
07.D'の純情
08.労働讃歌
09.猛烈宇宙交響曲・第七楽章「無限の愛」
10.Z女戦争
11.サラバ、愛しき悲しみたちよ
12.GOUNN
13.泣いてもいいんだよ
14.DNA狂詩曲
15.BIONIC CHERRY
16.PUSH
17.Chai Maxx
18.words of the mind-brandnew journey-
19.いつか君が
20.ツヨクツヨク
21.鋼の意志
〈ENCORE〉
22.仮想ディストピア
23.堂々平和宣言
24.月と銀紙飛行船
25.コノウタ
26.走れ!

馬鹿に付ける薬はない?

2014-10-11 20:00:27 | つぶやき




「わたしはもう子供じゃない!」

とか言ってるうちは、まだ子供。

「まだまだわたしは子供だ」

そう思えるようになったとき、初めてその人は「大人の階段」を上り始めるようです。



それと同じで、馬鹿というのは自分が馬鹿であることがわかっていないから、馬鹿なんです。

「私は馬鹿だなあ」と痛感出来た時に、人は初めて馬鹿を抜け出せるとば口に立てるのです。

でも馬鹿の渦中にいる人は、なかなか自分の馬鹿さ加減に気が付かない。困ったもんです。

だからいつまで経っても、永遠の馬鹿ループをグールグルと回り続ける。

…ったく困ったものです。

馬鹿に付ける薬はないとは、よく言ったものです。







薬というのは「外部刺激」ですよね。

つまり、「他人」という外部刺激に頼っている限り、自分の馬鹿には気が付かないということです。

他人のことばかり見て、他人のことばかり気にして、なにか悪い事、嫌なことがあるとすぐに他人のせいにしておしまい。

そうやって、自分の自我を守ることばかりに汲々としているから、いつまで経っても同じところをグルグルグルグルグルグルグルグル……。




他人に感じたこと、他人の中に見たものは、これすべて自分の中のことです。

なぜそう感じたのか、なぜそう見えたのか、それを自分自身に問い続ける。そういう姿勢を続けない限り、自分というものは見えてきません。

自分を見ること。自分の馬鹿さ加減を知ること。馬鹿につける薬はそこにしかないです、きっと。




他人を頼るな。他人を見るな。

他人は鏡、他人の中に自分を見よう。

自分だけを見つめよう。

これぞ、馬鹿を直す特効薬。

お試しあれ。




                    
                     ラヴェル作曲、西本智美指揮。ボレロ






最初の一歩は小さくて弱弱しくても、

やがてそれは大きく、強い足取りとなっていく。

やがてそれは、大きなうねりを起こすかもしれない。

自分の道は自分の中にしかない。あとは勇気だけだ。



勇んで行けよ、自分の道を。

時代劇の灯は本当に消えてしまうのか? ~春日太一著「なぜ時代劇は滅びるのか」を読んで~

2014-10-08 14:22:41 | 
 



                      





我が意を得たり、とはこのことです。


時代劇が何故これほどまでに衰退してしまったのか。時代劇は現在でも年数本単位で制作されており、高い評価を得る作品も無いわけではない。

しかしそれは、個々の作品としての評価、いわば点であり、面的な意味での時代劇全体の隆盛には繋がっていません。

ジャンルというものは、作られ続けなければ「継承」されていきません。これまで積み上げられてきたきた時代劇の様々なノウハウが途絶えてしまう。非常にもったないことです。

時代劇は危機的な状況に陥っている。なぜそうなってしまったのか?私も色々と考えてきました。

この本は、そんな私の取り留めない考えを見事にまとめてくれ、さらに深化させてくれました。

我が意を得たり、とはまさにこのことです。





                






時代劇というと、「水戸黄門」に代表されるような、勧善懲悪のパターン化されたドラマ展開で、複雑なドラマを好まないお年寄りが観るもの、というイメージが強いです。

しかし、少なくとも私が子供の頃、70年代頃の時代劇はそうではありませんでした。

「必殺シリーズ」や「木枯らし紋次郎」「子連れ狼」など、毎回のドラマが非常に濃密で、1時間が長く感じられたものです。大人になってから再放送で拝見して痛感しましたね。

「この頃の時代劇はなんて“深い”んだろう」と。

それが時代の流れとともに変わって行きます。テレビ局や制作会社サイドの経済的事情や、「水戸黄門」が大当たりしてしまったことで、右へ倣えで同パターンを繰り返す時代劇ばかりが量産されるようになっていく。

手っ取り早く視聴率を稼ぐため、「水戸黄門」に倣ってわかりやすい同様のパターンを繰り返すばかりになっていったわけです。

これが結果的に時代劇のドラマとしての質的低下を招きます。感受性の高い若者たちはもっとドラマ性の高い、刺激のあるイマドキのドラマへ流れ、それによる視聴率の低下は製作本数を激減させ、製作費は削られ、それがより作品の劣化を招き、視聴率低迷に拍車をかける。

まさに悪循環です。

70年代頃の時代劇は、当時の若い人たちの心を捕えるだけのドラマ性を持っていました。日常の顔と殺し屋としての非日常の二つの顔を持つ男達を描いた「必殺シリーズ」は、その濃淡の深いドラマで、若者達の支持を集めていたのです。

それが80年代の「必殺仕事人」で、三田村邦彦演じる「錺職人の秀」がアイドル的な人気を得たあたりから変質していきます。

まあ、秀さんばかりのせいとも言えません。時代の流れもあって、必殺はかつての深いドラマ性は蔭を潜めていき、毎週毎週同様のパターンを繰り返す「殺人ショー」へと変質していきました。

それでも、光と影を使ったスタイリッシュな映像はまだ健在でした。むしろパターン化が進んでからの方が、殺しのシーンの映像美は巧緻を極めたと言って良い。

しかし2000年以降の「必殺」は、演技の基礎も出来ていないような「人気者」達ばかりが跋扈する、およそ中身のない空疎なドラマに成り果ててしまった。

最近の「必殺」を私は観ません。少し目にしただけで、怒りと空虚感が湧き上がってきて、なんとも居たたまれない気持ちになる。

「時代劇」が演じられない役者。「時代劇」が演出できない監督。「時代劇」を知らない、作る意欲のないプロデューサー。

時代劇はまさに、風前の灯なのです。




この著者が語るように、時代劇とはいわば「ファンタジー」です。

ファンタジーを嘘くさくなく表現するためには、それなりの説得力をもった表現、演技力が必要になります。

しかし最近の「タレント」はそうした演技の基礎をしっかりと身に着けないまま、「自然体」と称したヘタクソな演技を平気で披露する輩が多い。

現代劇ではそれでもなんとか誤魔化しは効くでしょう。しかし時代劇ではそのような自然体は、ファンタジーを嘘くさく見せてしまう元凶となります。

嘘を嘘に見せないためには、しっかりとした基礎が必要です。しかし最近の若い「タレント」は、そうした基礎を身に着ける暇もないまま現場へと出されてしまう。それに抑々時代劇に興味のない若者が多いわけですから、益々時代劇の演じられない若手が増える。


時代劇には、しっかりとした演技力の他、所作や殺陣等、身に着なければならないことが多い。今の若手には、それを身に着けるだけの時間も機会もない。これでは益々、時代劇は盛り下がって行くだけでしょう。



今や時代劇と言えば役所広司。役所広司といえば時代劇というくらい、時代劇に欠かせない俳優となった役所広司さんですが、若い頃は正直ひどかった(笑)

「三匹が斬る!」に出ていた頃の役所さんは、所作はいい加減だし殺陣はドヘタだし、私はこの人にだけは時代劇をやらせたくないと、本気で思ったものです。

それが今ではどうでしょう。これは御本人の日々の研鑚、努力の賜物に他なりませんね。

今、これほどの研鑚、努力を重ねている役者がどれほどいるでしょう?いるとすれば岡田准一くらいか。他には思いつきませんね。

「るろうに剣心」は確かに素晴らしい作品です。しかしあれは、るろ剣だからこそのもの、あの原作があって、あのスタッフ、キャストがあって、あの監督だったればこそのもの。すべての時代劇にあれを求めるのは筋違いというものです。

るろ剣はあくまで点です。決して面たりえない。

時代劇の危機的状況は、何も変わらない。

益々ひどくなるばかり。




                    






「水戸黄門」の大当たりが、時代劇の落ち込みに拍車をかけ、結果的に「水戸黄門」自体の首を絞める結果となった皮肉。



時代劇は日本人の心、日本の文化、伝統を後世につたえて行く上で格好のエンターテインメント、格好のメディアです。


なんとか、その命脈を残して行きたいものですが。

なんとか成りませんかねえ……。







                






『なぜ時代劇は滅びるのか』
春日太一著
新潮新書