風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

忠臣蔵の視点

2018-12-14 05:55:16 | 歴史・民俗






「上野介!この間の遺恨、覚えたるか!」



松の廊下で浅野内匠頭はこう叫びながら、吉良上野介に斬りかかりました。



この「遺恨」とは具体的にどういうことなのかわからない。事件後内匠頭は「遺恨」について一切語らぬままその日の内に切腹と相成り、上野介は身に覚えがないの一点張り。


これが後々まで大きな「禍根」を残すことになるのです。




この刃傷事件が起きた3月14日は、江戸城にて朝廷よりの勅使、院使をご接待申し上げる日でした。吉良上野介と浅野内匠頭はその接待役という大役を仰せつかっていたのです。

よりによってその接待役が事件を起こしてしまった。しかもこの日は朝廷より、将軍綱吉の母桂昌院に正一位の官位が下されるという大変な名誉を与えられる日でもあったのです。

正一位というのは普通、稲荷神などの神様に与えられる官位で、生きている人間に与えられることはめったにないことなのです。それだけに綱吉の喜びたるや大変な者でした。


その大事な日に起きてしまった不祥事。綱吉は当然ながら激怒します。怒りに任せて内匠頭には即日切腹の命を下し、赤穂藩改易の決定を下してしまう。



一方上野介の方には、手向かいしなかったことが神妙であるとして一切御咎めなし。後日将軍よりお見舞いの言葉を頂戴するという気の使いよう。



この余りにも差のあり過ぎる裁定が大きな物議を醸すことになるのです。


それは武士の間だけではなく、広く一般庶民に間にまで及び、そこからやがて、「仇討ち待望論」が世間の間に広がっていくことになるのです。



幕府の立場からすれば、殿中にて刀をぬいてはならないという御定法があり、それを破った内匠頭が処罰されるのは当然であり、しかも内匠頭より上野介へ一方的に振るわれた暴力であって「喧嘩両成敗」は成立しない。

なにより将軍の逆鱗に触れてしまったのだから致し方なしとしておきたいところだったでしょう。



しかし世間は納得しません。遺恨があるというのだから上野介側にも不手際があったはず、それをきちんと調べもせずその日のうちに刑を執行するなど余りに早計に過ぎるし、これでは内匠頭が可哀そうだ。

もっと時間をかけて調べればあるいは内匠頭も心を開き、真相を話したかもしれないのに、その機会を永遠に奪ってしまったのが悔やまれる。お上のこの度の御裁定はどうにも納得がいかない。そのような風聞が世間一般に流れるようになっていく。



元々上野介は江戸ではあまり評判がよくなかったらしい。傲慢な人物で訪れた屋敷でなにか良い品を見つけると勝手に持っていってしまう。だから上野介が訪れる屋敷では貴重品を隠すようにしていた、なんて話が広まっていたようです。


そんな人物だから、きっと内匠頭にも傲慢でひどい仕打ちをしたに違いない。そんな噂がさも真実であるかのように広まっていったのでしょう。




世間一般が納得しない。しかし一番納得出来なかったのは、大石内蔵助を筆頭とする赤穂藩士だったでしょう。藩主は即日切腹、藩は即刻改易。相手方の吉良は一切御咎めなし。

こんな差のあり過ぎる裁定、納得できるはずがない。



吉良に対する激しい怒りも覚えたでしょうが、それ以上にその怒りの矛先は、寧ろ幕府に向けられたのではないでしょうか。


こんなに簡単に命を奪い、こんなに簡単に何千人もの藩士とその家族を路頭に迷わせる。


幕府は我々武士を、その家族を


なんだと思っているのだ!




仇討とは武士の存在をかけた行動である。というようなことを以前に書いたかと思いますが、この赤穂事件とはまさに、武士という存在の意味を幕府に問うた、命がけの抗議だったのではないかと私は思う。


それには幕府に直接攻撃を仕掛けても意味はない。寧ろ幕府が許した吉良上野介を討ちとり、世間から拍手喝采を浴びることで、幕府の方向性を変えさせるように持って行く。



赤穂浪士たちは吉良をとおしてその向こう側にいる、幕府に刃を向けていた。



まっ、これは一つの視点です。それも私好みの相当ドラマチックな視点だといってよく、これが絶対正しいなどと云うつもりはありません。



この視点でいくと吉良上野介もまた被害者だったことになりますね。それも一番割に合わない被害者だ。こういう視点で時代劇一本作れないものかなと、思いますねえ。




ところで、吉良の屋敷は元々江戸城外堀の内側にある呉服橋内にあったのですが、事件後隠居した吉良に対し幕府は屋敷変えを命じ、本所松坂町に移転させます。

現在の丸の内辺りから寂しげな本所松坂町へわざわざ移転させたのはなぜか。江戸城の堀の内側に屋敷があるよりははるかに討ち入りがしやすい土地へ移転させているところから、実は幕府は討ち入りをさせたがっていたのではないか、という説を唱える方もおられるようです。「幕府陰謀説」ですね。


これも一つの視点。この視点を基にして、またまた時代劇一本撮れないものかと思いますねえ。



忠臣蔵は実に奥が深い。








刃傷松の廊下

昭和36年の東映映画『赤穂浪士』より。浅野内匠頭を演じるのは大川橋蔵。吉良上野介は東映悪役スター月形龍之介。

月形さんのこの憎々しさね、これぞ定番の吉良上野介ですねえ。素晴らしい。

でも一番カッコイイというか美味しい役は、中村錦之助が演じた脇坂淡路守でしょうね。扇子で上野介をパーンと殴りつける。これで観客のうっ憤が晴れるわけですよ。出番は少ないけど美味しい役だ。

脇坂淡路守、好きな役ですねえ。


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本当の仇は誰?

2018-12-13 15:49:34 | 歴史・民俗






忠臣蔵(赤穂事件)は本当に仇討と云えるものなのだろうか?




江戸城松の廊下での刃傷事件。これは浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけ、手傷を負わせたもの。その際吉良上野介は一切て向かう事なく斬りつけられるにまかせた。


吉良上野介を「仇」というけれども、少なくとも上野介は内匠頭を傷つけてはいないし、ましてや殺してもいないのです。


これは「法的」にいうところの仇とはなり得ない。



それに上野介は無抵抗だったのであって、つまりは内匠頭の一方的な乱暴狼藉ということになり、「喧嘩」とはなり難い。つまり「喧嘩両成敗」も成立しないということになります。



にも拘わらず仇討は実行された。しかし「本当」の仇は吉良上野介ではありません。だって上野介は内匠頭を肉体的には傷つけていない、殺してはいないのだから。



では本当の仇は誰か?内匠頭の命を実際に奪ったのはだれか。



はいそうですね、それは



「幕府」ですね。



原因を作ったのは吉良上野介かもしれない。しかし直接的に浅野内匠頭の命を奪い、何千人という赤穂藩士とその家族を路頭に迷わせたのは幕府なのです。




四十七士の刃は、吉良上野介をとおして幕府へ向けられていた。




赤穂事件とは、仇討の形をとった、幕府への命がけの抗議行動、反逆行為だったのだろう。




だからこそ慎重の上にも慎重を期して、確実なる成功を目指したのだ。




そう考えるとまた、忠臣蔵の別の面の面白さが見えてきますね。

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仇討の定義

2018-12-10 10:54:50 | 歴史・民俗






いつの時代も「人殺し」は重大な犯罪です。


但し、「正当な理由」さえあれば、特別に許されるという時代が長らく続いていたことも確かです。



殺人に正当な理由?その点については色々意見はあるでしょう。しかしその議論はここでは致しません。ともかく、そういう時代が長らく続いた、ということは間違いない事実でしょう。



その「正当な殺人」の一つに、仇討があった。






血族意識が強く「体面」を重んじる武士にとって、自身の血縁の者が正当な故なく殺されることは大変な恥辱でした。



恥辱は雪がねばならぬ!仇討とは単に怨みを晴らすという行為だけではなく、武士という存在の「意味」をかけた行動だったといっていい。




しかしこの仇討を無制限に許していたのでは、世の秩序が保たれなく危険性があります。


武士が台頭し源頼朝によって鎌倉に幕府が開かれ、武士の世が到来します。鎌倉幕府は「御成敗式目」という法令集を作成し、法をもって武士たちを統率しようとするわけですが、



その「御成敗式目」の中では、仇討は明確に「禁止」されているんです。



そりゃあそうです。ヘタに許したりしたら仇討の名の下に、無秩序な殺人が横行してしまう危険がありましたからね。世の秩序を守る立場に立つ武士がそれではいけないわけです。

ですから鎌倉幕府においては、仇討は明確に否定されていた。


しかし人の心というものは、法だけで縛り切れるものではありません。特に子が親の仇を討つなどという話は、多くの人の共感を呼び涙を誘った。「日本三大仇討」の一つとされる「曾我兄弟の仇討」は鎌倉時代に起きた事件で、所領争いから親を殺された二人の兄弟が、親を殺した工藤某という武士の寝所に押し入ってこれを殺したという事件でした。

兄弟のうち兄の方はその場で討取られ、弟の方は逃亡しますが後に捕縛され斬首されます。


この事件、源頼朝ははじめ、二人のことを許そうしますが、法を順守させる立場にある頼朝がそういう態度では困るわけです。ですから最終的には曽我の弟は斬首されるに至るわけです。


曾我兄弟の行動に対し頼朝自身が共感を示したように、仇討は武士にとって、例え法を犯す行為だったとしても、その心情は十分理解できるものとして武士の中に生き続けた。





さて、時代は変わって江戸の頃になりますと、仇討は法制上の一つの手段として限定的に許されることになります。


例えば某藩内で武士同士による殺人事件が起こったとします。普通は役人によって犯人は捕縛されるわけですが、犯人が藩の外に逃亡し藩の警察権が及ばない状態となった場合に、被害者の血族が犯人を追ってこれを殺害することを認めた。つまり警察権の行使の一つの手段として、限定的に仇討が認められたわけです。



仇討を行う場合、まずこれを許すとする免状を藩に発行してもらい、それを持って仇討の相手を追わななければならず、決して勝手に追いかけてはいけません。勝手に行うのは重大な犯罪であり、本人自身が藩から追われる身となりかねません。

仇討が許されるのは基本、子が親の仇を討つなど、尊属の仇を討つ場合であって、親が子の仇を討つなどというような卑属に対する仇討はほぼ認められませんでした。これは「長幼の序」を重んじる儒教的観念から、親より先に死ぬ子は親不孝者であるとする考え方があったからだとされています。

鬼平犯科帳の「寒月六間堀」というエピソードは老武士が息子の仇を討つ話で、鬼平さんはこの世間的には許されない老武士の行動を、自身の身分を明かすことなく手助けするという話でしたね。


それはともかく、こうしてかたきを追い詰め見事本懐成ったあとは、先に藩より発行された免状を地元の役人に示し、仇討であることを証明しなければなりません。これがないと殺人犯として処罰されることになります。


江戸時代に仇討は許されていたとはいえ、このように厳しい規定があったわけです。


仇討は見事本懐が遂げられれば大いなる名誉ともなりますが、遂げられない場合は惨めです。時代劇によくあるように、何年もかたきを追い続けたがついに見つけられず、やがて国元からの送金も途絶え忘れられ見捨てられた存在となり果て、食うに困って用心棒になり果て、ついには金ずくで人を殺す殺し屋にまで落ちてしまう。なんてことにもなり兼ねなかった。


鬼平犯科帳の「暗剣白梅香」などはまさにそんなエピソードでした……また話が逸れた(笑)



ことほど左様に、仇討とは厳しいものでした。たとえかたきであっても、人の命を奪うという事にはそれほどの重みがあったわけです。決して人命が軽んじられていたわけではなかった。




さて、このように仇討というものは血族の仇を討つということがほとんどで、家臣が主君の仇を討つなどということはほとんど行われることはなかった。ですから赤穂事件のような出来事は非常に珍しいものでした。

いや抑々、赤穂事件は「正当」な仇討と云えるものなのだろうか?




続きます。
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村八分

2018-11-26 04:50:05 | 歴史・民俗






人間と云うのは100%社会的な動物ですから、自分の所属する社会、共同体を維持しようとする本能が働きます。


ですから、その社会、共同体の決まりを破ったものに対しては、容赦なく排除し、時に攻撃を与えることもある。



いわゆる「村八分」という奴です。




村八分に「認定」されるのは上記のように、共同体の決まり、掟を破った場合などのことが挙げられますが、実際にはそんな厳格なものではなく、ほんの些細な、ちょっとしたことでも、共同体にとって「危険」「不要」と決めつけられてしまい、村八分にされてしまうこともよくあったようです。された本人からすれば、それこそ想像の付かない、些細なことで。


つまりは村八分というのは、行う側の勝手な「都合」で行われることがよくあったわけです。


現代のいじめなどもこれと全く同じですね。いじめる側の都合、「気分」で、いじめは行われる。




そこがなんとも、怖いところ。



村八分にはそれを先導する「長」がいて、その長の「都合」「気分」によって、村八分認定は行われると云って、ほぼ間違いはないでしょう。その共同体に所属する者たちは、共同体の中で生き残っていくために、

あるいは、自身も「楽しむ」ために、


長に従う。



集団的ないじめもまた、やはり先導する「長」がいて、皆自分がいじめのターゲットにされたくないから、長に従うわけだ。



同じですね。











村「十分」ではなく「八分」だというのは、葬式と火事のときだけは村全体で協力し合うからだ、と云われていますが、これは後世に作られた話で、八分とは「はじく」つまり「排除」するという意味で、実際には葬式だろうが火事だろうが協力はなかった、完全に弾かれていたというのが実態のようです。


こうしたことは、親戚縁者などの間でもしばしば見受けられますね。

親戚縁者も、一つの共同体ですから。



現代において、果たしてこの「村八分」は根絶されたのでしょうか?


いいえ、そんなことはありません。というか、


「あり得ません」というべきか。









学校や会社のような小さな共同体ではしばしば、集団的「いじめ」というべき現象が発生します。



特定の人物を集団で排除し、ときに攻撃を加える。この「いじめ」に参加している人たちのなかには必ずしも積極的に参加しているわけではない人もます。そういう人たちはこの集団的いじめに参加することによって、共同体の中での自分の所在位置を確保しようとしているわけです。

その共同体のなかで生き残っていくために。


共同体の中、あるいは外でもいいですが、共通の「敵」を作り、その敵を皆と一緒になって排除、攻撃するという行為は、自分がその共同体の一員であろうとする欲求を満足させるのに十二分な要素を持っています。ですから、いじめや差別、村落的規模で云う村八分に積極的に参加することで、その欲求を満たそうとする人たちもでてくるわけです。



もちろんこれにはそれぞれの共同体、あるいは個人によって大きな差があります。みんな一律にこうだというわけじゃない。


しかし現実にこうしたいじめや差別は未だになくならず、一定の規模で残り続けている。学校や会社がそうなのですから、これが村落共同体や民区などの小規模自治体などで撲滅された、などとは、


あり得ない、と申せましょう。




ネット上では、現代に残る村八分の実態報告などが散見され、どこまでホントかはわからないものの、未だ村八分が行われている共同体が存在するということは事実でしょう。


これが社会の実態です。そういう意味では嫌な世の中ですが、


その社会の中で我々は生きていかなけりゃなりません。



いつかそうしたことがなくなることを夢見つつ


しなやかに、したたかに



生きていくしかない。


唇に微笑みを、心に感謝を持って。














♪土手の柳は風まかせ~♪

高田浩吉『大江戸出世子唄』






※おことわり

ブログ開設時より公言している通り、私は政治と恋愛の話はしないし、人生相談は一切行いません。そのようなコメントはどうか他所でお願いいたします。

また、「あなたの夢はなんですか?」などの個人的な質問もNGです。その点一つ、どうかよろしく。
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転び

2018-11-04 10:04:01 | 歴史・民俗






江戸時代、特に3代将軍家光の治世には、キリスト教に対する弾圧は過酷を極めていました。


キリスト教徒、いわゆる「キリシタン」を改宗させるため、かなり残酷な拷問が行われた。その中の一つに「俵責め」と云われるものがあります。


人間を俵に押し込め、首だけを出させてこれを蹴り飛ばし、転がし、あるいは鞭を打つなどの責め苦を与えるものです。これに耐えられず俵から転がり出て棄教してしまう。


キリシタンであることを棄てた者たちを「転びキリシタン」というのは、この拷問からきている、とも云われているようです。



人間というものは、一定の条件さえそろえば、案外平気で、他人に対して残酷な仕打ちができるもの、なのかもしれないね。



それは日本人だからとかそうでないとか、〇〇人だからということではなく、人間すべて、

あなたにも、私にも



すべての人間に、ある意味「平等」に与えられた資質なのだと、私は思う。


それを表に出すも出さないも、自分次第。






さて、



キリスト教を棄教した者のなかには、日本にキリスト教を布教するためにやってきた、ポルトガル人などの外国人宣教師もおりました。このものたちのことは特に、「転びバテレン」と呼んでいたようです。


この転びバテレンのなかで有名な人物に、クリストヴァン・フェレイラという人物がおります。


日本名沢野忠庵。棄教後は宗門改方の顧問となり、隠れキリシタンを摘発する側に回った。後にはキリスト教を否定する内容の書物を出版もしている人物ですが、その胸の内は、


本当はどのような想いだったのでしょうね。


SF作家・平井和正の小説『新・幻魔大戦』ではクリストファー・フェレイラという名前で登場し、キリスト教を憎み、悪魔主義者となって黒ミサなどの黒魔術を使う人物として描かれておりますが、果たして本物はどうであったのか。


遠藤周作氏の小説『沈黙』では、また違う視点から描かれているようですが、こちらは実際にお読みになった方がよろしいでしょう。この作品はマーティン・スコセッシ監督により数年前に映画化もされております。興味がおありの方は御覧になればよろしい。



自分の命とも思い、信じていたものを棄て、それを裏切る形で、まったく逆のことをしなければならない。その心の内とはどのようなものか、私なぞには到底想像もつきませんが、


なにやらとても、


やるせない、気が致します。







『眠狂四郎』




転びバテレンが黒ミサの儀式において大目付の娘に身籠らせた子。

それが、眠狂四郎。


人の愛も情も棄て、およそあらゆる人の幸せに背を向けて生きる男。

それが、眠狂四郎。


柴田錬三郎原作による、ニヒリズムにダンディズム、エロティシズムが交錯するハードボイルド時代劇。

それが、『眠狂四郎』



現在、時代劇専門チャンネルにおいて、懐かしの田村正和版『眠狂四郎』が絶賛放映中です。


眠狂四郎といえば市川雷蔵というのが一般的かも知れませんが、私が生まれて初めてみた眠狂四郎は田村正和が演じているドラマでした。ですから私にとっては正和版の眠狂四郎の方が馴染み深い。

田村正和の妖艶といって良い色気には、さすがの本家・雷蔵先生も敵わないと思います。田村正和版『眠狂四郎』良いですよ~。



その「円月殺法」に魅せられるが良い。





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人形供養

2018-10-15 06:57:31 | 歴史・民俗





本日10月15日は「人形の日」なのだそうです。



何故今日なのかはよくわかりません。とにかく今日は「人形の日」ということで、この日にちなんで合同の「人形供養」を行う寺社などがあるようです。


私らが子供の頃には、髪の毛が伸びる人形だとか、捨てたはずの人形がいつの間にか戻ってきていた、だとか、人形に纏わる怖い話を随分と聴いたものです。まあ、そこまで怖い話ではなくとも、人形には魂が籠っているから、大切にしなけりゃいけない、みたいな話はよく聞いたものです。



魂があるかないかはともかく、人の形をしたものというのは、なんとなくぞんざいにはあつかえないものですね。日本人は針でさえ供養するのだから、人に近い形の人形を供養しようとする発想は、ある意味当然なのでしょう。




人形供養についてはネット上でも散見されます。大体1000円~2000円前後の費用で、宅配便でお金と一緒に送ればハイOKみたいな、なんともお手軽。



イマドキだなあという、感じがしますが、



まあ、悪いことではないか。



私の部屋にも、ゴジラやらウルトラマンやらが何人かおりますので(笑)、供養には出しませんが、埃くらいは拭いてやろうかなと、思っております。





ものは大切に。




日本では古来より、大切にされず無下に捨てられた鍋、釜、茶碗などの類いが「付喪神」という妖怪となって、夜な夜な百鬼夜行するとか。ましてや人形の場合



大切にしないと



こんな風に、なっちゃうかもよ。













お気をつけあれ。
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うなぎ~!

2018-07-20 14:34:04 | 歴史・民俗






今日は土用の丑の日。


土用というのは季節の変わり目のことで、立夏、立秋、立冬、立春の前のそれぞれ18日間(まては19日間)のことを云うそうな。



丑とは云うまでもなく、十二支の丑です。


今年の夏の土用は7月20日から8月6日まで。その間丑の日は2度あり、これを特に「二の丑」というとか。



今年の夏の土用の丑の日は7月20日と8月1日。



夏の土用の丑の日にうなぎを食べる習慣は、江戸期から盛んになったようですが、その由来は定かではないそうです。平賀源内が広めたというのは俗説で根拠がないそうですよ。



夏バテ防止にうなぎを食べるのは、万葉集にも記述があるそうなので、日本古来からの食習慣ではあるのでしょう。それが一般的になったのが江戸期ということでしょうか。


それだけ江戸庶民は、それなりに「豊か」な生活を送っていたという一つの証左なのかもしれない、などと思いつつ。



皆さんもうなぎを食されるのでしょうか?えっ?私ですか?私は結構です。



うなぎは今一つ苦手で……。







岩手県陸前高田市より、今回の豪雨被害にあった岐阜県関市に支援調査のための人員が派遣されました。聴き取り調査などを行い、必要な支援について調査を行うとのことです。

東日本大震災当時、関市にはひとかたならぬお世話になったそうで、その御返しということもあるのでしょう。陸前高田だとて、まだまだ復興はこれからという状況ですが、経験が少しでもお役に立てるならとう思いからの行動のようです。


ええ話や。







東北地方も梅雨明け。暑さは愈々本格化してきます。

どちら様も、ご自愛の程。
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野分

2018-07-05 05:26:36 | 歴史・民俗





激しく吹く風の事を、昔は「野分」と呼んでいたようです。



野の草花を風が激しく「分け」ながら吹き抜けていく。だから「野分」なのでしょうな。



黒澤明監督の映画『乱』には、本物の台風の中で撮影したシーンがあるのですが、野の草が暴風で激しく揺れる光景は、まさしく「野分」というべきものでした。




「暴風」なんていうと、味もそっけもない、ただただ怖いだけの感じがしますが、「野分」などというと、なにやら趣のようなものを感じさせますね。


実際、激しく風が吹き荒れる光景というのは、なにか心惹かれるものがあります。大自然の猛威の中に、日本人は「なにか」を見、感じていたのかもしれない。


それは「畏怖」でもありまた、「興趣」でもあり。


つまりは「神」でもあり。



相米慎二監督の映画『台風クラブ』などは、そんな自然の猛威に対するある種のワクワク感を映画化したものといっていいかもしれません。もっとも台風は災害を伴うことが多い。能天気にワクワクとばかり言っているわけにはいきませんね。



ただ日本人はこうした自然の猛威の中にさえ、ある種の「興趣」を感じる感性を持っていたのだし、そこは大事にしたいなと思いつつ、



「畏怖」を持って、自然災害には注意をしていかなければなりません。




また新たな台風が発生したとか。気は抜けませんね。




この度の台風被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。




黒澤明『乱』

「野分」が吹いていますね。


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「百姓は生かさぬよう殺さぬよう……」なんて言ってない!?

2018-06-28 09:23:40 | 歴史・民俗





江戸幕藩体制における農民政策を表現した言葉に、


【百姓は生かさぬよう殺さぬよう……】


というのがありますね。


死なない程度に徹底的に搾り取れ!という意味だとして、江戸時代がいかに農民や庶民に対して過酷であったか、江戸時代が暗黒時代であったことを証明する言葉であるとして、折あるごとに取り上げられてきた言葉です。




しかしこれは、本来の意味ではないらしい。








この言葉の元になっているのは、徳川家康の重臣であった本多正信が云ったとされる次の言葉



【百姓は財の余らぬように、不足になきように治むる事道也】


であるようです。



意味としては「贅沢はできないが、日々の暮らしに困らない程度の財は残せるような政策に務めることが、百姓を治めるには最良の道である」ということです。


決して「死なない程度に搾り取れ!」なんて言ってないわけです。




これは華美で贅沢な暮らしを戒め、質素倹約を奨励する、ある種道徳的な意味合いをもった政策で世を治めようというもので、これは農民、庶民に限らず、武士においても例外ではありません。質素倹約は武士においてこそ重要な生活信条として意識されていました。



幕府の重要ポスト、老中や若年寄などの役職を務められるのは、10万石以下の譜代大名に決められており、同じ譜代でも、10万石より多い石高の大身、つまり「金持ち」の大名はこうした役職に就くことは出来ず、外様大名はもちろん、御三家などの親藩大名も幕政に参画することはできませんでした。



幕政に参画できるのは基本、決して金持ちとは言えない10万石以下の譜代大名に限られていたわけです。


これは富と権力が一か所に集中するのを避けるという意味もあったようです。金の無い奴に政治権力を持たせ、金のある奴には政治権力を持たせないように調節していた。これで全体的にある程度のバランスがとれるように配慮をしていたらしいんです。


これを見るに、徳川幕府の政治信条は基本、「中庸」にあった、といえるかもしれませんね。



もちろん、この「中庸」がすべて上手く行っていたわけではありません。苛斂誅求とならざるを得ない状況も多々あったであろうし、田沼意次のように、富と権力が一個人に集中した例は少なからずあります。


もっとも田沼意次の場合、貨幣経済を発展させるなど政治的手腕には相当高い者が有り、必ずしも悪徳政治家とは言えない側面もあって、その評価そのものはまた別の話なのですが、


それは置いといて。



ともかくも、徳川幕府には、百姓に対する苛斂誅求をはじめから是とする意図などなかったわけですよ。むしろみんなで一丸となって、質素倹約、慎ましく囁かな生活に務めましょうという、道徳心の強い政策を行おうとしていたことが見えるわけです。



そうした意味合いを持った言葉が、いつの間にか意味合いを曲げられて伝えられてきた。


この、「生かさぬよう殺さぬよう……」云々は、歴史の教科書に載っていました。あたかも江戸時代が暗黒時代であるかのように曲げられた言葉が、教育現場で教えられ、江戸時代の曲げられたイメージというものが国民に植え付けられてきた。



まるで、誰かが「意図」したかのように。



徳川幕藩体制の時代が、暗黒時代であるとした方が都合の良い人たちとは誰でしょうね?そりゃあやっぱり、幕藩体制を潰した人たち


でしょうねえ。




富と権力が一か所に集中するのが当たり前のようにされたのは、明治以降のことです。なるほど、やはり


そういうこと、なんでしょうかねえ。




分かりませんけどね……(笑)
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馬上少年

2018-06-09 14:01:53 | 歴史・民俗





昨夜の月は綺麗な三日月だった……ように私には見えました、が



正確に云えば、三日月とは言えないようです。


旧暦では新月の日を朔(さく、ついたち)とし、その朔から数えて三日目の日の月を「三日月」というのだそうな。

ですから、私が昨夜見た月は、実は三日月ではない……わけですが、まあ、広義の意味では三日月と呼んでも構わないそうですので、じゃあ三日月だったと、言い張ることにします(笑)。









三日月型の前立てを付けた兜といえば伊達政宗。東北の雄、独眼竜などとも云われる、戦国武将です。



その伊達政宗の兜に付けられた三日月の意味は何か?諸説あるようですが、どうやら妙見信仰と関係があるらしい。妙見菩薩のシンボルとして太陽と月が使われることがあるらしいです。




「妙見」とは真理や残悪を見通す目を持つという意味らしい。そこから転じて悪を糺すという軍事的な大義名分と繋がり、武将の信仰を集めるようになったのではないでしょうか。


上杉謙信が信仰した毘沙門天(多聞天)も仏法を守る軍神ですから、やはりこの世の「正義」を守る武将の守護神として信仰されておりましたし、この謙信の跡を継いだ上杉景勝の軍師、直江兼続の兜の前立てに付けられた「愛」の文字は、やはり仏法を守護する愛染明王の「愛」であって、現代的な意味での「愛」ではありません。大河ドラマなどでは、いかにも現代的な意味合いがあるかのように描かれておりましたが、あれはまったくの嘘だと考えていいでしょう。



さて、妙見菩薩は北極星や北斗七星ともかかわりがあるようで、本地垂迹説でいうところの垂迹は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。


伊勢神宮外宮に祀られている神は実はこの、天御中主神だとする説もあり、伊勢でよく見かける「太一(たいいつ)」の旗印は北極星を意味しているとか。



また、白山で祀られている神は実はこの北極星の神、天御中主神だとする説もあるようで、普通白山の神といえばイザナギ、イザナミの夫婦神ですが、そういえば太陽神アマテラスや月神ツクヨミを生んだのはイザナギ神でしたね。




白山信仰は関東から東北にかけて特に強く広がっていたようです。東北の雄たる伊達政宗と北極星である妙見信仰との関係性を、白山信仰から紐解いてみるというのも、



面白いかも。











独眼竜伊達政宗は、生まれてきた時代が遅すぎた、もっと早く生まれていれば、天下を獲れていたかもしれないと云われたほどの名将だそうですが、歴史にタラレバはありません。それに人は、生まれるべき時に生まれてくるものだと、私は思っておりますので、この説には同意しかねます。



それはともかく、正宗に天下獲りの野望があったことだけは確かだったろうと私は思うし、若い頃は随分頑張りもした。


しかし夢はことごとく破れ、気が付けば髪の毛は白髪と化し、もはや老境の身。


それでも晩年の政宗は、晴れ晴れとした気持ちで老後を過ごしていたように思えます。



その証左となるのが、正宗が残した漢詩にあります。






馬上少年過
世平白髪多
残躯天所赦
不楽是如何




馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯天の赦す所
楽しまずして是を如何にせん




戦場を駆け回った青春の日々は遠く過ぎ去り
今や天下は平らかとなり、我が髪の毛も白くなってしまった
こうして戦国の世を生き延びたのも天の赦す所であろう
老後くらい、好き勝手に楽しまずしてどうするのだ!?






ここにはもう、叶えられなかった夢への未練など微塵も感じられません。ただただ、残りの人生を楽しもうという明るさだけがある。


ある意味、理想の老境といえるかも知れません。



若き日々を本当に命がけで生き抜いたからこその老境なのでしょうか。できれば、このような境地に至りたいものですが。




さあて、今のままでは、どうなることやら……。






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