風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

うなぎ~!

2018-07-20 14:34:04 | 歴史・民俗






今日は土用の丑の日。


土用というのは季節の変わり目のことで、立夏、立秋、立冬、立春の前のそれぞれ18日間(まては19日間)のことを云うそうな。



丑とは云うまでもなく、十二支の丑です。


今年の夏の土用は7月20日から8月6日まで。その間丑の日は2度あり、これを特に「二の丑」というとか。



今年の夏の土用の丑の日は7月20日と8月1日。



夏の土用の丑の日にうなぎを食べる習慣は、江戸期から盛んになったようですが、その由来は定かではないそうです。平賀源内が広めたというのは俗説で根拠がないそうですよ。



夏バテ防止にうなぎを食べるのは、万葉集にも記述があるそうなので、日本古来からの食習慣ではあるのでしょう。それが一般的になったのが江戸期ということでしょうか。


それだけ江戸庶民は、それなりに「豊か」な生活を送っていたという一つの証左なのかもしれない、などと思いつつ。



皆さんもうなぎを食されるのでしょうか?えっ?私ですか?私は結構です。



うなぎは今一つ苦手で……。







岩手県陸前高田市より、今回の豪雨被害にあった岐阜県関市に支援調査のための人員が派遣されました。聴き取り調査などを行い、必要な支援について調査を行うとのことです。

東日本大震災当時、関市にはひとかたならぬお世話になったそうで、その御返しということもあるのでしょう。陸前高田だとて、まだまだ復興はこれからという状況ですが、経験が少しでもお役に立てるならとう思いからの行動のようです。


ええ話や。







東北地方も梅雨明け。暑さは愈々本格化してきます。

どちら様も、ご自愛の程。
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野分

2018-07-05 05:26:36 | 歴史・民俗





激しく吹く風の事を、昔は「野分」と呼んでいたようです。



野の草花を風が激しく「分け」ながら吹き抜けていく。だから「野分」なのでしょうな。



黒澤明監督の映画『乱』には、本物の台風の中で撮影したシーンがあるのですが、野の草が暴風で激しく揺れる光景は、まさしく「野分」というべきものでした。




「暴風」なんていうと、味もそっけもない、ただただ怖いだけの感じがしますが、「野分」などというと、なにやら趣のようなものを感じさせますね。


実際、激しく風が吹き荒れる光景というのは、なにか心惹かれるものがあります。大自然の猛威の中に、日本人は「なにか」を見、感じていたのかもしれない。


それは「畏怖」でもありまた、「興趣」でもあり。


つまりは「神」でもあり。



相米慎二監督の映画『台風クラブ』などは、そんな自然の猛威に対するある種のワクワク感を映画化したものといっていいかもしれません。もっとも台風は災害を伴うことが多い。能天気にワクワクとばかり言っているわけにはいきませんね。



ただ日本人はこうした自然の猛威の中にさえ、ある種の「興趣」を感じる感性を持っていたのだし、そこは大事にしたいなと思いつつ、



「畏怖」を持って、自然災害には注意をしていかなければなりません。




また新たな台風が発生したとか。気は抜けませんね。




この度の台風被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。




黒澤明『乱』

「野分」が吹いていますね。


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「百姓は生かさぬよう殺さぬよう……」なんて言ってない!?

2018-06-28 09:23:40 | 歴史・民俗





江戸幕藩体制における農民政策を表現した言葉に、


【百姓は生かさぬよう殺さぬよう……】


というのがありますね。


死なない程度に徹底的に搾り取れ!という意味だとして、江戸時代がいかに農民や庶民に対して過酷であったか、江戸時代が暗黒時代であったことを証明する言葉であるとして、折あるごとに取り上げられてきた言葉です。




しかしこれは、本来の意味ではないらしい。








この言葉の元になっているのは、徳川家康の重臣であった本多正信が云ったとされる次の言葉



【百姓は財の余らぬように、不足になきように治むる事道也】


であるようです。



意味としては「贅沢はできないが、日々の暮らしに困らない程度の財は残せるような政策に務めることが、百姓を治めるには最良の道である」ということです。


決して「死なない程度に搾り取れ!」なんて言ってないわけです。




これは華美で贅沢な暮らしを戒め、質素倹約を奨励する、ある種道徳的な意味合いをもった政策で世を治めようというもので、これは農民、庶民に限らず、武士においても例外ではありません。質素倹約は武士においてこそ重要な生活信条として意識されていました。



幕府の重要ポスト、老中や若年寄などの役職を務められるのは、10万石以下の譜代大名に決められており、同じ譜代でも、10万石より多い石高の大身、つまり「金持ち」の大名はこうした役職に就くことは出来ず、外様大名はもちろん、御三家などの親藩大名も幕政に参画することはできませんでした。



幕政に参画できるのは基本、決して金持ちとは言えない10万石以下の譜代大名に限られていたわけです。


これは富と権力が一か所に集中するのを避けるという意味もあったようです。金の無い奴に政治権力を持たせ、金のある奴には政治権力を持たせないように調節していた。これで全体的にある程度のバランスがとれるように配慮をしていたらしいんです。


これを見るに、徳川幕府の政治信条は基本、「中庸」にあった、といえるかもしれませんね。



もちろん、この「中庸」がすべて上手く行っていたわけではありません。苛斂誅求とならざるを得ない状況も多々あったであろうし、田沼意次のように、富と権力が一個人に集中した例は少なからずあります。


もっとも田沼意次の場合、貨幣経済を発展させるなど政治的手腕には相当高い者が有り、必ずしも悪徳政治家とは言えない側面もあって、その評価そのものはまた別の話なのですが、


それは置いといて。



ともかくも、徳川幕府には、百姓に対する苛斂誅求をはじめから是とする意図などなかったわけですよ。むしろみんなで一丸となって、質素倹約、慎ましく囁かな生活に務めましょうという、道徳心の強い政策を行おうとしていたことが見えるわけです。



そうした意味合いを持った言葉が、いつの間にか意味合いを曲げられて伝えられてきた。


この、「生かさぬよう殺さぬよう……」云々は、歴史の教科書に載っていました。あたかも江戸時代が暗黒時代であるかのように曲げられた言葉が、教育現場で教えられ、江戸時代の曲げられたイメージというものが国民に植え付けられてきた。



まるで、誰かが「意図」したかのように。



徳川幕藩体制の時代が、暗黒時代であるとした方が都合の良い人たちとは誰でしょうね?そりゃあやっぱり、幕藩体制を潰した人たち


でしょうねえ。




富と権力が一か所に集中するのが当たり前のようにされたのは、明治以降のことです。なるほど、やはり


そういうこと、なんでしょうかねえ。




分かりませんけどね……(笑)
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馬上少年

2018-06-09 14:01:53 | 歴史・民俗





昨夜の月は綺麗な三日月だった……ように私には見えました、が



正確に云えば、三日月とは言えないようです。


旧暦では新月の日を朔(さく、ついたち)とし、その朔から数えて三日目の日の月を「三日月」というのだそうな。

ですから、私が昨夜見た月は、実は三日月ではない……わけですが、まあ、広義の意味では三日月と呼んでも構わないそうですので、じゃあ三日月だったと、言い張ることにします(笑)。









三日月型の前立てを付けた兜といえば伊達政宗。東北の雄、独眼竜などとも云われる、戦国武将です。



その伊達政宗の兜に付けられた三日月の意味は何か?諸説あるようですが、どうやら妙見信仰と関係があるらしい。妙見菩薩のシンボルとして太陽と月が使われることがあるらしいです。




「妙見」とは真理や残悪を見通す目を持つという意味らしい。そこから転じて悪を糺すという軍事的な大義名分と繋がり、武将の信仰を集めるようになったのではないでしょうか。


上杉謙信が信仰した毘沙門天(多聞天)も仏法を守る軍神ですから、やはりこの世の「正義」を守る武将の守護神として信仰されておりましたし、この謙信の跡を継いだ上杉景勝の軍師、直江兼続の兜の前立てに付けられた「愛」の文字は、やはり仏法を守護する愛染明王の「愛」であって、現代的な意味での「愛」ではありません。大河ドラマなどでは、いかにも現代的な意味合いがあるかのように描かれておりましたが、あれはまったくの嘘だと考えていいでしょう。



さて、妙見菩薩は北極星や北斗七星ともかかわりがあるようで、本地垂迹説でいうところの垂迹は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。


伊勢神宮外宮に祀られている神は実はこの、天御中主神だとする説もあり、伊勢でよく見かける「太一(たいいつ)」の旗印は北極星を意味しているとか。



また、白山で祀られている神は実はこの北極星の神、天御中主神だとする説もあるようで、普通白山の神といえばイザナギ、イザナミの夫婦神ですが、そういえば太陽神アマテラスや月神ツクヨミを生んだのはイザナギ神でしたね。




白山信仰は関東から東北にかけて特に強く広がっていたようです。東北の雄たる伊達政宗と北極星である妙見信仰との関係性を、白山信仰から紐解いてみるというのも、



面白いかも。











独眼竜伊達政宗は、生まれてきた時代が遅すぎた、もっと早く生まれていれば、天下を獲れていたかもしれないと云われたほどの名将だそうですが、歴史にタラレバはありません。それに人は、生まれるべき時に生まれてくるものだと、私は思っておりますので、この説には同意しかねます。



それはともかく、正宗に天下獲りの野望があったことだけは確かだったろうと私は思うし、若い頃は随分頑張りもした。


しかし夢はことごとく破れ、気が付けば髪の毛は白髪と化し、もはや老境の身。


それでも晩年の政宗は、晴れ晴れとした気持ちで老後を過ごしていたように思えます。



その証左となるのが、正宗が残した漢詩にあります。






馬上少年過
世平白髪多
残躯天所赦
不楽是如何




馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯天の赦す所
楽しまずして是を如何にせん




戦場を駆け回った青春の日々は遠く過ぎ去り
今や天下は平らかとなり、我が髪の毛も白くなってしまった
こうして戦国の世を生き延びたのも天の赦す所であろう
老後くらい、好き勝手に楽しまずしてどうするのだ!?






ここにはもう、叶えられなかった夢への未練など微塵も感じられません。ただただ、残りの人生を楽しもうという明るさだけがある。


ある意味、理想の老境といえるかも知れません。



若き日々を本当に命がけで生き抜いたからこその老境なのでしょうか。できれば、このような境地に至りたいものですが。




さあて、今のままでは、どうなることやら……。






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氏姓あれこれ

2018-03-25 22:25:08 | 歴史・民俗





時代劇専門チャンネルにて、映画『超高速参勤交代リターンズ』が放送されておりまして、見ることもなく見ていたのですが、

まあコメディということで、あまり細かいことを指摘するのはどうかとも思ったのですが、どうにも拭えない強烈な違和感を感じたものですから、その点をちょっとばかり指摘してみたいと思います。









映画の中では、陣内孝則演じる幕府老中が極悪人として登場するのですが、この老中に酷い目に遭わされる小藩の家老、これを佐々木蔵之介さんが演じているわけですが、この家老が、陣内老中の「本名」を呼び捨てにするという、およそあり得ないシーンが何度も出てくるんです。

また、将軍吉宗公のおそらくは家臣にあたる人物が、やはり「徳川吉宗様」と、本名を呼ぶシーンが出てくるのですが、これもあり得ないことです。




身分の高い人物を、その本名で呼ぶことは大変な失礼にあたりました。ですからいかににっくき極悪人であろうとも、本名を呼び捨てにするなど武家のマナーに反することであり、恥ずべきことでありました。ですから当然将軍様の本名を呼ぶなどと云うことも

あり得ません。



老中ほどの人物ともなれば、なんらかの官職を賜っているはず。たとえば伊豆守とか大和守、越前守などを賜っていたなら、それを呼ぶのが常識、間違っても本名など呼ぶはずはずがない。


「おのれ伊豆め!」ならわかります。「おのれ○○め!」と本名で云うなど、何度でもくりかえしますが、



あり得ません。




最近こうしたことが多いです。去年公開された映画『関ケ原』でも、岡田准一演じる石田三成のことを、「おのれ三成!」と本名で呼び捨てにするシーンが何度も出てくる。何度もいいますが、



あり得ません。



石田三成は「治部少輔」という官職を賜っております。したがって「治部少」あるいは「治部」と呼ばれるのが常識、「おのれ治部!」ならあり得ますが、「おのれ三成!」など、しつこいですが、



あり得ません。




また、役所広司演じる徳川家康を、加藤清正などの格下の武将が「家康様」と呼びかける。これもないな。


当時家康は内大臣の官職を賜っておりましたので、「内府様」と呼ばれるのが常識。間違っても本名で呼ばれるなど



あり得ません。



いかに加藤清正、福島正則などの武断派であったとしても、そこまで武家のマナーを知らぬ「うつけもの」であるはずがないです。



何度でも何度でも、な~んどでも云います。



あり得ません。





ひと昔、ふた昔前くらいの時代劇、大河ドラマなどでは、この辺はしっかりと描かれていたのですが、最近すっかりいい加減になってしまっていますね、これは良くない。




当時の日本人、当時の武家のマナーを知ることで、日本人の伝統的「美意識」を学ぶことができると思われ、こうした部分は大切に伝えていかなければならない。

それもまた、エンタテインメントの使命と考えます。







さて、それでは日本人の「名前」の成り立ちについて、ちょこっと考察してみましょう。







源朝臣徳川次郎三郎家康(みなもとのあそんとくがわじろうさぶろういえやす)



これ徳川家康の正式名称です。細かく検証してみましょう。



まずは「源(みなもと)」。これを「氏(うじ)」と云います。



氏は天皇から直接に賜ったもの。源や平(たいら)、藤原(ふじわら)、橘(たちばな)など、いわゆる源平藤橘(げんぺいとうきつ)が特に有名ですね。

つまり徳川将軍家は源氏であるということを示しているわけですね。




次の「朝臣(あそん)」。これを「姓(かばね)」と云います。


姓は家の家格を表すもの。天武天皇が制定された「八色の姓(やくさのかばね)」が特に有名ですね。皇室に近い家柄から順に、「真人(まひと)」「朝臣(あそん、あそみ)」「宿禰(すくね)」「忌寸(いみき)」「道師(みちのし)」「臣(おみ)」「連(むらじ)」「稲置(いなぎ)」という八つの家格に分けて、当時乱れつつあった身分秩序を整理仕直そうとなされた。

もっとも時代が下るにつれて、この「姓」は本来の意味をなさなくなっていくわけですが。




次の「徳川(とくがわ)」。これを「名字(みょうじ)」と云います。


平安時代、「墾田永年私財法」という法律が作られ、自ら開墾した土地は永遠にその人物およびその血縁の者達の私有財産であることを認められました。これにより武士たちはこぞって新田開発などに勤しみ、開墾した土地を子々孫々に伝えて行くため、その土地の名称を名乗るようになります。

当時、開墾された土地のことを名(みょう)と呼んでいたんですね。そこから「名字」というものが出来たわけです。

たとえば「足利」という土地を開墾した源氏は足利を名乗り、同様に新田、佐々木、徳川(得川)等々、多くの一族が源氏から派生していったわけです。




次の「次郎三郎(じろうさぶろう)」。これを「通称(つうしょう)」と云います。


通称は極親しい者たちだけが使うことを許された。もっとも家康ほどの高い身分ともなれば、気軽に通称で呼ばれることなど、めったになかったでしょうね。

たとえば鬼平こと長谷川平蔵。この方、本名は「信為(のぶため)」といい、平蔵は通称なんです。本名で呼ばれることなどついぞあり得ず、通称の平蔵でさえ、家族以外では、岸井左馬之助のような若いころから親しくしていた人物でなければ、「平蔵殿」などと気安く呼ぶことはできなかった。大概の人は「長谷川様」あるいは「長谷川殿」と呼び、火付盗賊改配下の者らは「おかしら」と呼んだ。

間違っても、本名の信為で呼ばれることはあり得ませんでした。




そしてさいごの「家康(いえやす)」。これを「諱(いみな」と云います。

諱とはつまり、本名です。


本名とは本来、身分の高い者ほど秘される傾向にあったのではないでしょうか。本名を知られると呪いをかけられるかもしれない。昔の日本人はそれを恐れたのではないかと思われます。

アイヌの人々の古い習俗では、生まれたばかりの幼子に「汚い」名前をわざと与えることで、悪霊などが寄ってこないようにまじないをかけたそうです。それとそのまま同じかどうか分かりませんが、古くから本名を知られることを怖れる意識が、日本人の中にはあったのかも知れません。




いずれにしろ、日本人には相手の本名を気安く呼ぶことを控える傾向があって、それは現代までも続いていると思われますね。そうした日本人の伝統的な嗜みは、なるべく大事にしていきたいし、特に時代劇においては、そうした部分はしっかりと守って欲しいと思う、今日この頃であります。





日本人の名前については、もう少し触れてみたい点もありますが、それはいずれ、またの機会に。




今日はここまで。





大河ドラマ『真田丸』より、石田治部少輔三成(山本耕史)

出来れば「治部殿」とお呼びしましょう。なんつって(笑)、
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日本人は神の子か

2018-01-13 11:27:27 | 歴史・民俗





皇室の御先祖様は天照大神とされています。神の子孫であられるから、特別に尊いのでしょうか?



「古事記」や「日本書紀」には、皇室以外にも、数多くの氏族の祖先を遡っていけば、そのほとんどがなんらかの神様に繋がっているのが記載されています。


皇室以外にも天照大神の子孫はおられる。例えば第二代綏靖天皇の兄、カムヤイミミノミコトから分かれた氏族などは、これやはり天照大神の子孫に当たります。


その他、スサノオノミコトや大国主命など、日本の氏族のほとんどは様々な神を始祖としています。これら氏族は我々日本人の御先祖といってよく、自分自身の系譜を遡っていけば、どこかでこれら氏族にぶつかるだろうし、そういう意味では、私もあなたも、ほとんどの日本人は神の子ということになります。



ところで、人と神の違いはなんでしょうか。それはどうやら、寿命があるかないか、ということらしい。


人はいつか必ず死ぬけれども、神は基本的に死にません。大火傷を負ったりなど不測の事故にでも遭わない限り、基本的に神は死なないことになっていますね。


日本神話には人間がどのようにして生まれたかという記述は特に見当たりません。イザナギ、イザナミの国生み、神生みの過程で、極自然に大地に満ちたものでしょう。そして人間に寿命が与えられるキッカケとなったのが、イザナギとイザナミによる、黄泉の国での「騒動」なんです。


イザナミが「あなたの国の人々を毎日千人縊り殺す」と宣言したのに対し、イザナギが「ならば毎日千五百人の人を誕生させよう」と返した。この時以来、人は必ず死ぬようになった。



また、天照大神は孫神であられる邇邇芸命に、葦原の中つ国(日本列島)を統治するように命じ、天下らせます。邇邇芸命は国津神であられる大山祇神の娘であるコノハナサクヤヒメ(桜の精霊)に一目ぼれし、これを妻とします。大山祇神はこれに姉であるイワナガヒメ(岩の精霊)も一緒に嫁がせようとしますが、イワナガヒメはあまりルックスがよろしくなく、邇邇芸命はこれを追い返してしまう。



戻ってきたイワナガヒメを見た大山祇神は嘆きました。「イワナガヒメを妻とすれば、命は岩の如くに永遠の生命を得られたであろうに、これで桜の如くに儚く散る運命となってしまった」



この時以来、皇室の方々もまた寿命を得、人となった。




これらの神話を見ておりますと、どうも「自我」というものの発達が、神と人とを分けた、、としているように思えて仕方がないのですが、それはともかく。




これを見ても分かるように、天皇や皇室の方々は決して神ではありません。「人」なんです。



帝国憲法や教育勅語などには「皇祖皇宗」という表現が使われますが、この場合の「皇祖」とは天照大神ではありません。神武天皇なんです。そして「皇宗」とは歴代天皇のことです。天皇は代々、人皇初代であられる神武天皇と歴代天皇の御心を心として、国を、民を慈しんできた。


そして民は、そんな天皇を、皇室を敬い、守ってきた。



これが日本の歴史です。だから我々もまた、これを後世に伝えて行かなければならない。








さて、日本神話における神とはなんでしょう。それは要するに



この宇宙、大自然、神羅万象そのものです。



生命というものは抑々が大自然から生まれたもの。その大自然を神とする日本人の発想からすれば、人の先祖を神とするのも、極めて普通であるといえるのではないでしょうか。


人と神の間に断絶はない。それが日本的な発想です。断絶を想定するのはキリスト教などの海外の神観念です。


それと日本の神観念とを一緒にしてはいけない。





だから、神の子孫だからといって、なにも特別なことなどないんです。この世のすべての生命が神である大自然から生まれたのであるなら



命あるものはすべて、



神の子だ。



ですから、日本人は神の子だから他の民族より特別優れているだの、上等だの、そのような驕り高ぶることは明らかな間違い。



驕りは八百万の神々がもっとも嫌うものかもしれません。だからこの国には、専制君主が根付かない。




もしも日本人が他の民族より優れていると思うなら、それは驕り高ぶるためでなく、むしろ世界のために尽くすという使命を帯びているのだと受け止めるべきでしょう。


これは大変な責任を負わされていると思うべきです。それはそれは大変な。



驕ってなどいる暇はもうない。このこと、



肝に命じておくべきかも、知れませんね。
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治らす

2018-01-11 20:02:45 | 歴史・民俗








そうそう、ご飯のお供に……って、違~う!!



コホン、ええと、そうそう。


気を取り直しまして。





初代天皇であられる神武天皇のことを、「ハツクニシラススメラミコト」などと申しますね。


肇て日本の国を統治した天皇(スメラミコト)という意味ですが、



この場合、シラスが「統治する」と意味になり、「治らす」と表記することもあるようです。


この「治らす」。本来は「知らす」つまり「知る」という意味だったとか。



なにを知るのか、決まっています。


それは民の「心」。


国のどこかで災害が起きていないだろうか、事件、事故が起きていないだろうか。

民は苦しんでいないか、貧しい想いをしてはいないか。



それを知り、国ため、民のために祈る。



国平らかなれ。民安かれと祈る。



それが、天皇の統治なのです。


天皇の御心、「大御心」は民の心でもある。それは百姓と書いて「おおみたから」つまり国の宝だとしているところに、如実に表れていると云えます。



天皇は民を慈しみ、民は天皇を御尊崇申し上げてきた。



そこには、対立も断絶もなかったのです。




日本の政治は遥かなる太古より、基本、合議制で行われてきました。


これは神話を見ればわかることです。神話では神々が何か重要な決定をする際には、八百万の神々が天の安河原に集って、合議により決定しています。神話は現実世界の反映ですから、現実の政治によぅても、合議によって動いていたであろうことは、容易に想像がつきます。



日本に於いても専制君主が台頭した時期がなかったわけではありません。しかしこうした専制君主たちは、決して長続きしたことがない。これは日本の歴史上如実に表れている事実です。



日本の風土、もっとはっきり言えば、日本の八百万の神々は、専制君主をお好みではないのかもしれない。





天皇は専制君主ではなかった。これは明治以降に発布された大日本帝国憲法下においても同じでした。


戦前においては、天皇は専制君主であったかのようなことを言う方々がおられますが、これは明らかな間違いです。それは調べればわかること。


それについては、次回以降。





【四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思ふ世になど波風の立ち騒ぐらん】


昭和天皇が愛した、明治大帝の御製です。そこに伺えるのは、戦争回避への強い想い。


それでも、戦争は始まってしまった……。





最後に今上陛下が平成16年の歌会始でお詠みになられた御製をご紹介したいと思います。これぞ天皇のあるべき姿勢が、痛いほどにみえてきます。


お題は「幸」




【人々の幸願いつつ国の内めぐりきたりて十五年経つ】







<参考文献>

『天皇は本当にただの象徴に堕ちたのか ~変わらぬ皇統の重み~』
竹田恒泰著
PHP新書
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時そば

2017-12-27 03:26:28 | 歴史・民俗





暮も押し詰まって参りました。今年もあと3日ほどですよ、早いですねえ。


大晦日には年越しそばを食べる習慣が、すっかり定着しておりますね。この習慣は江戸の頃にはどうやら一般化していたようです。そばは他の麺類に比べて切れやすいことから、今年の悪縁を断ち切るという意味で、年が明ける前に食べるのだそうな。



さて、そばで思い出すのが、落語の演目の一つ、「時そば」です。



江戸の町には、深夜にも関わらずそばの屋台が営業しておりました。そば一杯が16文であったことから「二八そば」といわれておりました。

2×8=16だから、二八そばというわけです。


この落語を理解するには、江戸時代の時刻の数え方を知っておくとよいでしょう。そこで、






コチラの表を頭に入れて置いていただきたい。








今で云う深夜0時ごろ、当時の云い方では九つのころ、二八そばの屋台に一人の客が訪れます。


その客は割り箸に始まり、汁、麺、どんぶりに至るまでやたらと褒めちぎります。


さて、勘定を払う段になると、その客がそば屋に言いました。


客「生憎と細けえ銭しか持ってねえんだ、落としちゃいけねえ。手エ出してくんな」


そういうと、そば屋の手のひらに一文づつ銭を置いていきます。

客「一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、五(いつ)、六(むう)、七(なな)、八(やあ)、ところで今、何時(なんどき)でえ?」

そば屋「へえ。九(ここのつ)で」

客「十、十一。十二、十三、十四、十五、十六。御馳走さん!」


言うや否や、その客は素早く立ち去っていきました。


わかりましたか?つまりその客は、勘定を一文ごまかしたわけです。


ところで、この出来事を陰から見ていた男がおりました。この技にえらく感激したその男は、自分もやってみようとします。翌日の夜に早速試してみようとしますが、待ちきれなかったのか、九つよりも早い時間に二八そばの屋台を訪ねます。


昨日見た通り、まずは割り箸から褒めようとしますが、前の客の使い古しを出され褒めるに褒められない。さらに汁はやたらと辛く、麺は伸びており、おまけにどんぶりは欠けている。どこにも褒めるところがない。


仕方がないので、とっとと勘定をごまかそうと、男は昨日見た通り、そば屋の手のひらに一枚づつ銭を置いていきます。


客「一、二、三、四、五、六、七、八、ところで今、何時でえ?」

そば屋「へえ、四(よつ)で」

客「五、六、七、八……」


不味いそばを食わされた上に、余計に勘定を払ってしまうという御噺。おあとがよろしいようで。







この噺、江戸時代の時刻の数え方がわからないと、なにが可笑しいのかわからない噺ですね。上の表を観ればわかる通りで、当時、午前零時頃は九つと云い、その前の時刻午後10時頃は四つと云ったわけです。

ですからこの勘定ごまかし行為は、その時刻に合わせて行わなければ意味がない。男はその一番肝心なところを誤った。しかも四つと九つでは、五つも開きがあるわけで、そこを間違えたためにえらく損をしてしまうという可笑しさなわけですね。





非常に有名な噺なので、皆さんもどこかで聞いたことはあるでしょう。だからなんとなくは噺の中身も分かっていたでしょう。しかし、ちょっとした知識があったならより深く楽しめるようになる。



知識というのは、ないよりはあった方がいい。


こうした古典などに親しみながら、楽しんだ結果として、いつの間にか知識が増えているというかたちが、理想的かもしれませんね。


なんてことを思いつつ




♪テトン、テトシャン♪「信州信濃の新そばよりも、あたしゃあなたのそばがよい」


どこのどいつだ。これは都々逸だ!



てなわけで、今日はこれにてお開き。




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忍者について、サラッと

2017-12-06 04:31:35 | 歴史・民俗





隠密とか忍者とか忍びの者とか、間者、素破(すっぱ)落破(らっぱ)、草、かまり者等々、様々な呼び名がありますが、これ全部忍者のことです。



忍者というのは早い話が諜報部員です。日本中あらゆるところに忍び込み潜伏し、あらゆる情報の収集に努める。だから必ずしも不思議な技を使うのがメインではないんです。ただ当然危険の伴う任務だし、ときには攪乱や暗殺などを請け負うこともあったでしょうから、武術の方も当然マスターしていたでしょう。


江戸町奉行所には隠密廻同心という部署がありました。これは奉行所の役人であるという身分を隠し、市井の中に潜伏しては、江戸市民の意識調査や様々な生活実態を探り、また犯罪者の情報収集も務めた、奉行所の諜報部員なんです。


江戸町奉行所は現代でいうところの東京都庁であり、警視庁であり最高裁判所でもあった。町の行政と司法を預かる性格上、江戸市民のありとあらゆる情報を集める必要があったわけです。



隠密同心なんていうと、昔『大江戸捜査網』という時代劇があって、「隠密同心心得の状……死して屍拾う者無し」なんてナレーションを思い出しますが、実際の隠密廻同心はもっと地味でなおかつ危険な任務だったのでしょうね。





忍者の起源はよくわかっていませんが、一説には聖徳太子が使ったのが最初だとも云われているようです。なんとなくありそうな気もしますね。古くは全国を遊行して歩く、傀儡などの芸能者集団を雇うなどして、情報を収集していたのかもしれません。やがてそうした人々の中から、諜報活動を専門とするものたちが出てくるようになった。


忍者、隠密の類いが最も活躍したのはやはり戦国時代でしょう。敵や世の中の情報を得ずして、いくさを制することは出来ません。戦国武将たちはこぞって忍者を使った。



では戦国の世が終わるとともに忍者、隠密たちの活躍の場はなくなったのか。いや必ずしもそんなことはないでしょう。太平の世においてもやはり情報を制するものが世界を制するということには変わりありません。正確な記録こそ残っていませんが、やはり隠密を使って全国の大名の動向を探らせるということは、当然に行われていたことでしょうね。


ではそれに対する各大名たちはどうしていたのか。それこそ記録には一切残ってはおりませんが、やはりそれなりの諜報活動は行っていたのではないでしょうか。世の中の動きをできる限り正確に把握しておくことは、いつの世でも必要なことです。



幕末の頃になると、やたらと「脱藩浪士」なる者達の活動が目立つようになります。この脱藩浪士の中には諜報部員も多く含まれていたのではないか、と唱える研究者の方もおられます。長州の伊藤俊輔(伊藤博文)や久坂玄瑞。土佐の坂本龍馬や佐賀の江藤新平などのお歴々は、諜報活動を通して横のつながりを持ち、互いに情報を共有し合いながら協力し、それがついには倒幕へと繋がっていった。ということは十分にあり得ることです。



情報を制する者は世界を制す。そういう点ではやはり薩長には一日の長があったと云えるでしょう。対して会津の容保公などは、おそらく隠密などの裏工作は、性格的にお嫌いだったでしょうね。「策を弄するな!」と常日頃から家臣に訓示していたといいますから、隠密などという、攪乱や暗殺なども含む「策の中の策」はお好みではなかったに違いない。それが結果的に


明暗を分けることになったか……。









情報を制する者は世界を制す。今も昔も、できるだけ正確な情報を得ることは必要です。



できるだけ「正しい」情報の収集に、努めたいですねえ。





『忍法十番勝負』
大阪城の秘密の絵図面を巡って、忍者たちによる忍法を駆使しての死闘が描かれた、十人の漫画家による連作漫画。

参加した十人の漫画家とは、堀江卓。藤子不二雄。松本あきら(松本零士)。古城武司。桑田次郎。一峰大二。白戸三平。小沢さとる。石森章太郎(石ノ森章太郎)。横山光輝。

初版発行が昭和41年。当時忍者漫画がいかに隆盛を極めたかを証明する作品ですねえ。

兄がこの初版本を持っておりまして、私も何度も読ませてもらって、大好きな漫画でした。懐かしいなあ。


当時、忍者は子供たちにとって、一つの憧れであったことは確かでしょう。





忍者とは市井の中に隠れ、忍び入る者。ひょっとしたら、


あなたの隣にいるかもしれませんね……と、ウルトラQ風に終わってみる(笑)
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総理の謝罪

2017-10-07 04:00:36 | 歴史・民俗





1986年か87年か88年(資料によってこの3種類の年代が記載されており、どれが本当かわからず併記しました)頃のこと、丁度今から30年前の話。


山口県萩市から会津若松市に宛てて、あれからもう120年経ったのだから、そろそろ和解しましょうとの打診がありました。

当時の会津若松市長は乗り気だったものの、市民からの意見は「時期尚早」「会津若松は良くても、斗南の方々は許さない」など否定的な意見が相次ぎます。また当時の福島県知事・松平雄勇氏は、戊辰戦争時の会津藩主・松平容保公のお孫さんにあたり、孫がまだご存命の内に和解はない、などの意見もあったようで、この件は流れてしまった。


これに当時の萩市民は、「会津は遺恨があることを利用している」などの批判が相次いだとか。


抑々、勝者の側から敗者の側に和解を持ちかけるなど、虫の良い話ではあります。やった側、勝った側というのは、己の所業をすぐに忘れますが、やられた側、負けた側はなかなか忘れないものです。これは古今東西を問わない事実ではないでしょうか。


例えば、萩市議会なり山口県議会なりが、会津若松市や福島県に対し、正式に謝罪決議を可決するだとか、そのくらいまでの「けじめ」をつけたなら、会津若松市や福島県側もあるいは納得したかもしれませんが、それには山口県民が納得しないでしょう。

勝者には勝者の誇り、プライドがあります。それをむやみに傷つけることは、新たな遺恨を生む火種ともなりかねません。

この謝罪決議というのは、原田伊織氏の意見なのですが、私はここまでのことを求めるのは、酷なことだと思いますね。それこそ「時期尚早」だと思う。


部外者は簡単に「和解しろ!和解しろ!」とはやし立てる。しかし当事者にとっては、そう簡単なことではないようです。




3.11が発生した時、萩市から会津若松市に救援物資が送られてきました。これに会津若松市長は、「遺恨はあるがありがたい」として受け取りました。これを契機として、両市長がお互いの市を訪問し合うなどの交流がスタートし始めたそうです。

ようやく、ここにきてようやく、動き始めています。





会津戦争後、御城下に横たわる会津人の遺体の埋葬を薩長が許可せず、累々たる遺体はおよそ7か月ものあいだ放置され、それはヒドイ状態だった。

これだけではない。薩長、特に長州の兵隊(主に騎兵隊士)が会津領内で行った筆舌に尽くしがたい蛮行など、非道な仕打ちの数々が、会津人の深い遺恨の源泉となっているわけですが、




ついこないだのこと。




会津人約500名の遺体を、戦争終結より1ケ月後に埋葬したことを記載した資料が、新たに発見されたそうです。



つまり、埋葬が許可されなかったということはない、ということです。


ただ、この約500名という数字が、すべての御遺体の内のどのくらいの規模だったのか、ということが気になりますね。いずれにしろすべての御遺体を収容し、埋葬できたというわけではないのではあるまいか。

やがて冬が来る。会津は豪雪地帯ですから、残された御遺体はそのまま雪に埋もれ、春になってまたその無残な姿を晒す。

それを見た会津人の中に、新たに怨みの炎が燃え上がり、いつしか「埋葬が許可されなかった」という話として伝わっていったのかもしれない……。


この新資料の発見は、そうした会津人の怨みの昇華を早め、両者の歩み寄りを加速させるきっかけとなり得るかもしれません。


期待したいです。






2007年4月14日。参院福島補選の応援演説のため、安倍晋三首相が福島県会津若松市を訪れました。そのとき総理は


「私の故郷の先輩がご迷惑をおかけしたことを、お詫びしなければならない」


と発言しました。

山口県出身の総理が会津若松において謝罪したのは、会津戦争の件であることは明白ですね。


総理の立場である人物のこのような発言に、「単なるリップサービス」「軽すぎる」などの批難とともに「よく言ってくれた」という肯定的な意見もあり、賛否は別れました。

この発言自体は、演説の直前に、地元会津選出の自民党国会議員に「謝罪してくれ」と言われ、総理は「分かった」と特に躊躇することなく即答したということが伝えられており、総理ご自身の発案ではなかったようです。

しかし、総理自身にはやはりなにか、「想う」ところがあったのではないでしょうか。



数年前の事、岩手県で「前九年、後三年合戦」を考えるシンポジウムが開かれ、そこへ安倍総理から、シンポジウム開催を祝う書簡が送られました。そこにはご自身の先祖である安倍宗任が西国に流され、その子孫たちが苦難の末に周防の国に辿り着くまでの話がかなり細かく
したためられており、それはとりもなおさず、安倍家の家督に代々伝えられてきた話であって、安倍総理自身が、奥州安倍氏の末裔であること、蝦夷の血を引くことに、それなりのこだわりというか、思い入れを持っていることが察せられる書簡でありました。



安倍晋三氏が初めて総理に就任した時、総理は岩手県奥州市に鎮座される「磐神社」に代理人を送り、御祈祷を受けています。

磐神社は奥州安倍氏が信仰していたとされるアラハバキ神を祀る神社で、御神体は平野の真ん中に鎮座する巨大な岩です。明治以前には鳥居も拝殿もない、ただ岩だけがあって、その岩を直接拝していました。

縄文以来の信仰の形態がほぼそのまま残っていた、蝦夷の聖地とも云うべき神社であったようです。


私は10数年前にこの磐神社を訪れ、御神体の岩に手をかざしたり触ろうとしたり、祝詞を奏上したりとやりたい放題。祝詞奏上時には突風が吹き荒れ、帰り道には4、5メートルはあろうかという巨大な蛇が道を横切っているところに遭遇したりと、「神が来た!」とあの時は喜んだものですが、今から思うに、あれは怒りであったのかもしれず、随分と不敬なことをしたものだと、反省することしきりであります。


それはともかく、遠い先祖が信仰していたとされる神社に、わざわざ代理人を送ってまで御祈祷をさせる。やはり安倍総理は、ご自身の血筋に相当な思い入れがあると思わざるを得ませんね。



ですから、会津でのあの謝罪も、軽いリップサービスと取られることを計算した上で、実は深い思い入れを持った発言だったのではないでしょうか。総理という立場上、そういう方法でしか謝罪の想いを伝えられなかったのだ。


蝦夷の血を引く長州出身者としての深い想い。そんなことを私は感じてしまうのですが


どうでしょうかね?






このような方が総理でいるときに、会津戦争に関する新たな資料が発見されたことに、奇遇のようなものを感じるのは私だけですかね?なんだか、「いい加減に和解せい!」という声が、どこからともなく聞こえてくるような気がします。


それは天津神と和解した国津神の声?



ともかくも、萩市と会津若松市との今後の歩み寄りが促進されることを、


心より願うものであります。





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