風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

蕎麦

2021-04-12 04:15:53 | 歴史・民俗

 

 

 

 

 

 

大川端に店を構える蕎麦屋、「真田屋」。

その真田屋で毎年正月四日にのみ出される、「真田蕎麦」。

 

ねずみ大根という、信州産の辛口大根を摩り下ろし、これをつゆにたっぷりと混ぜて、蕎麦をつけて食べる。これがとても辛い!

あまりに辛いので江戸っ子の口に合わず、普段は押すな押すなの大盛況のこの店も、この日ばかりは閑古鳥が鳴いている。

 

ある年の正月四日、いつものように客が来ず、早じまいしようと暖簾をしまいかけたとき、

「真田蕎麦を食べさせてください」

と、一人の客が訪ねて来ます。

 

店の主人と同じ、信州出身のその客は、真田蕎麦を懐かしくいとおし気に愛でたあと、たっぷり二杯も平らげます。

それから毎年正月四日に訪れるその客は、自分の名前も素性も明かしたがらない。その客の右腕に掘られた、亀の刺青。店の主人はこの客に好感を覚えていました。

 

しかし、店の主人はひょんなきっかけで、この亀の刺青の客が、盗賊の頭目であることを知り愕然とします。

 

主人の両親は主人が幼い頃、流れ務めの盗賊によって惨殺されていたのでした。主人の心に湧き上がる憎しみ、怒りそして

 

悲しみ。

 

 

 

稀代の時代作家、池波正太郎氏の短編小説、『正月四日の客』。

スペシャルドラマ化もされ、中村吉右衛門版『鬼平犯科帳』にも1エピソードとして組み入れられた傑作短編です。

 

信州の山間部、痩せた土地では米など育たず、蕎麦でさえも、正月などのハレの日にしか食せない御馳走だった。しかし江戸では、蕎麦は武家から町人に至るまで普通の食べ物として毎日のように食されている。このギャップ。

主人が正月四日に真田蕎麦を出すのは、幼い日の思い出、故郷の思い出、そして悲惨な死を遂げた両親への供養の意味が込められていたのです。

 

その江戸で蕎麦屋を開き成功した主人の、蕎麦という一つの食に込められた、悲喜こもごも、哀惜こもごもの半生。

 

好い話です。

 

 

 

奈良平安のころ、痩せた土地でも育つ蕎麦は救荒作物の一つであって、身分の高い方々の食するものとは考えられていなかったようです。

これが江戸の頃には将軍家への献上品となるほどの地位を得ていたのですから、面白いものです。蕎麦が普段に食されるものとして庶民に広まったのは元禄のころ、1600年代後半くらいのようですね。

そうして1700年代も半ばころ(鬼平さんが活躍した時期)には、江戸市中の蕎麦屋は武家も町人も関わりなく、広く利用されるようになっていたようです。

 

鬼平犯科帳では、「かけそば」の是非を巡って、猫殿(沼田爆)と木村忠吾(尾美としのり)が論争するシーンがありますが、この頃の江戸では、蕎麦が一般食として、武家と町人とも別なく定着していた、ということです。

 

しかし同じ時期、信州の山間部では、蕎麦はご馳走だった…。

 

 

蕎麦という食一つにも、このように様々な歴史があります。そうした先人たちの想いに、我が想いを重ねるのも、日本人としての一つの情緒。

 

最近はこの情緒というものがわからぬ日本人が増えているようです、が

これは言っても詮無きこと、か。

 

この先人たちへの想いを、心の隅に置きながら、私は今日も

 

楽しく

美味しく

蕎麦をいただく。

 

今日も滞りなく蕎麦を食せることに、感謝を込めて

 

ありがとうございます。

 

 

いただきまーす!

 

 

 


高師直のはなし

2021-02-01 12:32:48 | 歴史・民俗

 

 

 

高師直(こうのもろなお)、室町幕府の創始者足利尊氏の側近中の側近として、歴史にその名を残した方です。

「高」は通称で、本当の名前は「高階師直」というのですが、すっかり通称の方が有名になってしまった。

 

「太平記」などでは、非常に粗野、乱暴な人物で、石清水八幡宮を焼き討ちにするなど、信心の欠けらもない人物として描かれています。

特に有名なのは、塩治判官(えんやはんがん)という武将の妻に横恋慕してラブレターを送ったところ、これを塩治判官に咎められ、恨みに思った師直は塩治判官に謀叛の濡れ衣を着せ、夫婦ともに自害に追い込んでしまう。

このエピソードは江戸時代に至って、歌舞伎の演目である「仮名手本忠臣蔵」に引用されることになります。忠臣蔵とはつまりは、徳川幕府の裁定に反抗した人々を讃える話ですから、そのまま上演したのでは御咎めを受ける、そこで時代設定を室町時代とし、浅野内匠頭を塩治判官、吉良上野介を高師直に比定した物語を創作したのでした。

かくして高師直の名は、日本史上稀代の悪役として、その名を流布されるに至るのです。

 

しかし近年の研究では、この塩治判官のエピソードは後世の創作であったことがわかっています。史実の塩治判官は、室町幕府に反旗を翻し、足利尊氏の弟・直義の派遣した軍勢に追い込まれ、自害して果てている。塩治判官は南朝方の縁戚筋であったという研究もあり、謀叛の原因はこの辺りにあったのではないかと思われ、高師直との確執はおそらくなかったし、あったとしても大事に発展するようなことではなかった。

 

高師直という人は、実際には和歌などをよくする教養人であり、多くの寺社を建立し、寄進も行っているようで、決して信心の欠けらもない人物ではなかったようです。石清水八幡宮焼き討ちにしても、1ヶ月近く逡巡したうえでの決行だったようです。

抑々、寺社等の焼き討ちは、戦略としては師直以前から行なわれていたようですし、やっていいことではないけれど、絶対的タブーというわけではなかった。

大河ドラマ『麒麟がくる』では、松永久秀(吉田鋼太郎)が織田信長(染谷将太)の比叡山焼き討ちを批判していましたが、史実の久秀は大仏殿を焼き討ちにしており、「お前が言うか!」ていう話なんですよね、あれは。

抑々比叡山自体、信長以前から何度か焼き討ちにあっており、信長だけ執拗にあげつらわれるのは理不尽とする意見もある。

理不尽かどうかはともかく、巷間伝えられていることと史実との間には

ズレがある。

 

高師直という人は政治軍事ともに有能な人物だったようです。であるが故の妬み嫉みが、あることないこと、風聞悪評を呼んだのかも

 

しれません。

高師直は足利尊氏の弟で事実上の幕府最高権力者、足利直義との間に確執が生じ、兵を上げますが破れて捕らえられ、護送途中で暗殺されてしまいます。

 

 

1991年に放送された大河ドラマ『太平記』では、柄本明さんが高師直を演じており、欲望の赴くままに行動し堕ちていく男を、哀れさと滑稽さとを滲ませつつ見事に演じておりました。

あの師直もよかったですが、あくまでドラマだということを忘れてはなりません。真実の高師直がああいう人物だったわけではない。

 

ドラマはドラマとして、楽しみましょう。

 

 

 

ドラマといえば大河ドラマ『麒麟がくる』来週2月7日(日)放送分で愈々最終回!本能寺の変へ向かって最高の盛り上がりを見せていますね。

良きバディだったはずの光秀と信長との間に、埋めることのできない溝が拡がっていく悲劇。おそらくは今まで見たことのないような、涙涙の本能寺の変となることでしょう。

 

ドラマはドラマです。ドラマとして楽しみましょう。

野暮は言いっこなし(笑)

 

『麒麟がくる』最終回は15分拡大版。期待して待て!

 

 

結局、『麒麟がくる』の話かーい!(笑)


クマ

2020-10-18 13:28:48 | 歴史・民俗

 

 

 

 

市の消防本部からの情報が、私のスマホには即座に入ってきます。

どここで火事があった。交通事故が発生した。

熱中症に注意、不審電話に注意などなど、まあ実に、様々な情報が飛び込んできます。

 

それらの情報の中でも、年間を通して特に多いのが

熊の出没情報です。

 

目撃情報から痕跡の発見に至るまで、在の方から市の中心部に近いところまで、広範囲にわたる出没情報が飛び込んでくる。

 

私は幸いにして、熊に出会ったことはないけれど、いつか出くわすかもしれない。なにやら怖いような

 

ワクワクするような。

 

 

 

 

日本の古い地名には、神と書いて「クマ」と読ませるところがあります。往古、カミとクマは同義だった。

球磨川とか阿武隈川なんてのは、神の川という意味でしょうか。熊野は文字通り神の土地。

熊襲はクマ族とオソ族を併せたものとも言われますが、その名の通り神の一族、大変尊い一族だったのかもしれない。

熊笹は神の笹?お熊婆さんは…。

 

映画監督の神代辰巳さんは「くましろ たつみ」と読みます。「かみしろ」でも「かみよ」でも「しんだい」でもありません。

 

クマと付く地名、人名は日本中に沢山ありますが、これを動物の熊ではなく、神という意味として捉えると、途端に視野が広がりますね。

 

 

昔懐かし漫画、アニメ『機動警察パトレイバー』に、熊耳武緒(くまがみ たけお)という名の女性警官が登場します。

熊の耳と書いて「くまがみ」と読む。これはおそらく「熊が耳(くまがみみ)」が詰まって「くまがみ」となったと考えられますが、

 

それにしても、くまがみ、熊神ですよ、字を変えたら神神、神々ですよ!

考えようによっては、とてつもなく尊い名前です。

 

何か深い由来があるのかも。

 

 

 

 

 

熊による被害も、全国にて報告されております。

 

どちら様も、荒ぶるクマ(カミ)の怒りに触れぬよう

 

御用心御用心。

 

 

 

『機動警察パトレイバー』より、熊耳武緒巡査部長。(声:横沢啓子)

 

 

 

 

 


あつもり

2020-07-06 08:58:17 | 歴史・民俗

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「幸若舞」は鎌倉時代から室町時代にかけて、武家の嗜みとされた芸能のひとつ。

能や歌舞伎の原型とされていますが、舞というより「歩いている」ようにしか見えない(失礼!)これが原型なんですねえ。

 

面白いです。

 

幸若舞で特に有名な演目が「敦盛」です。一の谷の合戦の際、源氏方であった熊谷次郎直実は、平清盛の甥にあたる16歳の美少年、平敦盛を討ち取ります。

子供をも殺さねばならぬいくさというものに無常を感じた直実は武士を捨て、出家して法然の弟子となり、僧・蓮生となります。

 

その直実、蓮生の心情を謡い舞ったのが『敦盛』なんです。

 

 

織田信長が好んで舞ったと伝えられる敦盛。中でも特に好んだとされるのが

 

【人間五十年  化天のうちをくらぶれば  夢幻の如く也

ひとたび生を受けて  滅せぬもののあるべきか】

の一節とか。

 

この中の「人間」とはヒューマンのことではありません、「人の世」という意味です。つまり「人間五十年」は人の寿命のことではありません。

「化天」とは仏教でいう六道のうち、「天」に属する「六欲天」の第五位、「世化楽天」のことです。六欲天は天界でも人間界に近く、未だ欲望が残る世界。因みに信長が名乗ったとされる「第六天魔王」とはこの六欲天からきているわけですね。

 

化天の一日は人間界の800日にあたるとか、そうしたことからこの一節の意味は

 

【人の世の五十年は化天に比べたらほんの一瞬、夢か幻の如きもの。この世に生まれたもので滅びぬものなどあるものか】

 

さらに信長は【死のうは一定】という言葉も好んだ。皆等しく死にゆくもの。

 

ここに信長の死生観、世界観が表れていますね。

 

ここから透けて見えてくる信長の人物像、あなたはどう見ますか?

 

 

 

最近「あつもり」なるものが流行っているとか。そちらの「あつもり」もいいですが、こちらの「敦盛」に興味を持ってみるのも

 

一興、かと。

 

 


日本人が尊ぶ「こころ」の美 【鬼平犯科帳 『血頭の丹兵衛』編】

2020-06-10 12:14:10 | 歴史・民俗

 

 

 

 

 

さて、今回は1989年にフジテレビ系列にて放送された、『鬼平犯科帳』第一シリーズ第4話「血頭の丹兵衛」から、語ってみましょう。

 

 

 

その頃江戸市中には、恐悪な盗賊の一団が横行し、江戸市民を震え上がらせていました。

 

押し入った店の者達を皆殺しにし、「血頭の丹兵衛」と書かれた札を置いていく。この神出鬼没の強盗には、火付盗賊改も手を焼いておりました。

 

ある日、伝馬町の牢に入っている、小房の粂八(蟹江敬三)なる男が、血頭の丹兵衛について話したいことがあると言っているという旨の連絡があり、長谷川平蔵(中村吉右衛門)はこの粂八を役宅に呼び、話をきいてみることにしました。

 

粂八は言います。あれは血頭の丹兵衛のお盗め(おつとめ)ではない、と。

 

 

「本格派」の盗賊が決して行わないこと。これは「盗賊三ヶ条」などとも云われ

1.人を殺さず

2.女を犯さず

3.貧しき者からは盗らず

 

この三ヶ条を厳格に守る者こそが本物の盗賊と言われ、これを守らないお盗めは「急ぎ働き」「外道働き」などと言われ、本格派がもっとも忌み嫌うものでした。

 

小房の粂八はかつて、血頭の丹兵衛の子分でした。粂八の知る血頭の丹兵衛は、一つのお盗めに数年もの時間をかけ、しっかりとした下調べをしたうえで、三ヶ条を厳格に守ったお盗めを行う本格派でした。だから今市中に横行する「血頭の丹兵衛」は偽物である。

自分はこの偽物を捕まえ、尊敬する血頭の丹兵衛おかしらの汚名を雪ぎたい。

だから、自分に探索させてくれ。粂八はそう懇願するのです。

 

平蔵は直感的に、この男は信用できると感じ、粂八を解き放ったのでした。

 

 

粂八は東海道筋の宿場町に潜んでいるのではないかと踏んで、探索を開始します。そんな折、江戸でまたしても「血頭の丹兵衛」による犯行が!

しかし今回は今までとその犯行の中身が違っていました。この丹兵衛は、忍び入った店の主人の枕元から金を盗み、誰にも気づかれることなく忍び出て行った。そうしてその翌日には、再び忍び入ってきて、金を返し、またしても誰にも気づかれることなく出て行った。

現場には「血頭の丹兵衛」と書かれた札が残されていました。

 

この鮮やかな犯行、これを聞いた粂八はこれこそ血頭のおかしらのお盗めだ!と喜ぶのでした。

 

 

粂八は東海道・島田宿にて、ついに血頭の丹兵衛(日下武史)と再会します。しかし、丹兵衛はかつて粂八が知っていた丹兵衛とはまったく人が変わってしまっていました。

 

「今時古臭え掟なんざ守っていられるかい!皆殺しにするのが一番さ。おい粂、おめえも好きなだけ女犯していいんだぜ」と嘯く丹兵衛に、粂八は愕然とするのでした。

 

粂八からの連絡に、盗賊改はついに丹兵衛を捕縛します。

「粂!てめえイヌ(密偵)だったのか!」

詰る丹兵衛、粂八はそんな丹兵衛を「外道!」と叫びながら殴りつけます。

 

その目には、涙が光っていました。

 

 

 

 

 

粂八を伴って江戸への帰路につく平蔵。平蔵は粂八に、俺の下で働かないかと誘いますが、粂八は決断しかねていました。

 

その途上、粂八は旧知の老人と再会します。老人の名は蓑火の喜之助(島田正吾)。今は引退したかつての大盗賊でした。

喜之助老は言います。今どきのお盗めは急ぎ働きばかりで、本物がいなくなっちまったと嘆き、本当のお盗めはこうだと示すために、江戸でイタズラをしてきたと告白します。

 

あれは蓑火のおかしらのお盗めだったのか。納得する粂八でした。

 

 

今ではすっかり好々爺と化したかつての大盗賊・蓑火の喜之助。そんな喜之助を平蔵は捕まえることなく、黙って行かせます。

 

そんな平蔵の人となりを見、粂八はこの方の下で働くことを決意するのでした。

 

ー終-

 

 

 

鬼平さんは言います。「人が横道に逸れるのは、それなりのわけがあるものだ」

 

鬼平さんは、その人の表向きの行いだけではなく、その人の「心根」を見ているんです。例え元盗賊であろうとも、その心根に「まこと」があるか「美しさ」があるか。

だからこそ鬼平さんは、密偵たちにも分け隔てなく接し、密偵たちはそんな鬼平さんに感激し、このお方のためなら命をかけると思う。

 

『鬼平犯科帳』のファンはみな、そんな鬼平さんが好きなんです。

 

 

盗賊三ヶ条なるものが本当にあったのか、私には分かりません。あるいは原作者・池波正太郎氏の創作だったかも知れない。

 

でも、ありそうだなと思ってしまいますね。盗賊には盗賊なりの「仁義」がある。そう思ってしまうのは

日本人ならでは

 

なのだろうか。

 

 

 

 

小房の粂八(蟹江敬三)


日本人が尊ぶ「こころ」の美 【忠臣蔵 『大石東下り』】編

2020-06-09 11:49:06 | 歴史・民俗

 

 

 

 

 

元赤穂藩城代家老・大石内蔵助は、亡き御主君・浅野内匠頭の御無念をお晴らし申し上げるため、元禄15年10月、京山科より江戸へ向けて下向します。

 

討ち入りに必要な武具類を運ぶため、大石一行は「日野家用人・垣見五郎兵衛」の一行と称し、隊列を組んで江戸へと下っていくのですが……。

 

その途上、本物の垣見五郎兵衛一行と出くわしてしまう。

 

本物の垣見五郎兵衛は単身、大石のもとへ乗り込み、どういうつもりかと詰問しますが、大石は自分こそが本物であると言って譲らない。

 

ここから先の展開は、作品によって違うのですが、代表的な例を挙げますと

 

本物の垣見五郎兵衛が、大石に、「本物ならば日野家より賜った目録があるはず」と、それを見せるよう要求します。

大石は文箱より恭しく一巻の巻物を取り出すと、これを五郎兵衛に渡します。

 

しかしその巻物には、なにも書かれてはいない。まったくの白紙だったのです。

 

この時、五郎兵衛はあることに気が付きます。この巻物が納められていた文箱に刻まれた家紋。

 

「丸に違い鷹の羽」の家紋、しかもその羽には渦が描かれている。

これはまさしく「浅野違い鷹の羽」の家紋、ということは、この目の前にいる武士は……。

 

 

「浅野違い鷹の羽」

 

 

すべてを悟った五郎兵衛は態度を改め、「それがしこそ偽物にござる」と非礼を詫び、「御用の向き、滞りなくあい務めまするよう、お祈り申し上げる」と言葉を掛け、去って行ったのでした。

 

 

これぞ「武士の情け」。大石は垣見五郎兵衛の温情に深く首を垂れるのでした。

 

 

 

 

 

なんだか【勧進帳】に似ていますね。それもそのはず、このエピソードは勧進帳をヒントとして創作されたものなのです。

つまりは、これもフィクション。

 

でもフィクションであるからこそ、そこには日本人の思う理想の「武士像」というものがあるように思われます。

 

赤穂義士の仇討は、幕府の裁定に意義を唱えるもの。これは幕府への反逆であり、テロ行為です。これをほう助することは、やはり幕府への反逆と受け取られても仕方がないのです。

 

それでも五郎兵衛は大石を助けた。武士の「まこと」を貫かんとする「こころ」の美しさに、同じ武士として、感じるところがあったからこそでしょう。

 

そしてこれを鑑賞する観客(日本人)もまた、この理想の「武士像」に、深い感銘を受けるのです。

 

やはり日本人は、表向きの善悪、正否よりも、(勿論それだって大事なんです、大事)心根の「美しさ」をこそ、

 

大事に思うようです。

 

 

 

 

このシリーズ、もうしばらく続きます。

 

 

 

 

 

 

『大石東下り』大石内蔵助:里見浩太朗。垣見五郎兵衛:西田敏行。


日本人が尊ぶ「こころ」の美 【勧進帳】編

2020-06-07 14:36:56 | 歴史・民俗

 

 

 

 

 

【勧進帳】は歌舞伎の演目の一つで、非常に人気が高い演目です。

 

兄・源頼朝に疎まれ、鎌倉を追われた源義経公とその配下・武蔵坊弁慶らの一行。一行は山伏姿に身を窶し、北陸路を通って奥州平泉を目指します。

その途中、どうしても通らずに行かない、加賀の国は安宅の関。関守は富樫左衛門。

 

 

一行は東大寺再建の勧進(寄付を募る行為)を行っているとして、関所を通ろうとします。富樫はこれを怪しみ、勧進ならば東大寺より賜った「勧進帳」があるはず、これを見せよ、と要求します。

 

これに弁慶、勧進帳はみだりに見せるものではないと拒否しますが、ならば読んで聞かせよ、と譲らない。

 

すると弁慶は、やにわに一巻の巻物を取り出し、これをするすると広げながら、朗々と読みはじめるのです。

 

この巻物、実はなにも書かれていない、白紙なのです。しかし弁慶は、いかにもそこに書かれていることを読むかの如くに、一切の澱みなく読み上げるのです。

 

さらに富樫は、山伏の心得や呪文などを尋ねますが、これも躊躇することなく答える弁慶、これ以上の詮議は無意味と、一行は関所を出て行こうとします。

 

しかし、この一行の中の一人の山伏(実は義経公!)に不審を抱き、富樫はこれを呼び止めます。

 

これに弁慶、「おのれのせいで不審を抱かれたわ!」と、手にした六尺棒で義経公を激しく打ち据え続けます。

 

このままで打ち据え続ければ死んでしまう。見かねた富樫はこれを止め、もはや不審はなくなったと、一行を通してあげるのでした。

 

 

関を後にし、弁慶は泣きながら義経公に詫びを入れ、いかに主君を逃がすためとはいえ、これを打ち据えるなど大罪、どうか我を討ちそうらえと、義経公に懇願します。

しかし義経公は、弁慶の気持ちを慮り、鷹揚にこれを赦したのです。

 

 

 

観客が感動するのは、義経公と弁慶との麗しき「主従愛」ですね。いかに主君を逃がすためとはいえ、これを棒で打ち据えるなど、当時(初上演は江戸時代)の価値観からすれば絶対にあってはならぬこと、これを敢えて行ったという事は、弁慶は己の命を捨てて事に当たったということなのです。

己の命を捨ててでも、主君を逃がそうとする。この弁慶の「純」なる想い。義経公のまた、この弁慶の想いが分かっているからこそ、弁慶からの打擲を甘んじて受け、黙って痛みに耐え、そうして弁慶を赦した。

 

お互いがお互いを思い遣る、なんと麗しき、なんと「美しき」師弟愛か!

 

 

 

もう一つ重要なのが、関守・富樫の行動です。

 

富樫は単純に騙されたわけではありません。実は富樫は分かっていました。この一行が源義経とその臣下の一行であることを。

 

分かっていながら、これを逃がした。何故か?

 

富樫は鎌倉幕府より任を受けた関守。源義経はその幕府に追捕される「咎人」。これを厳しく取り締まるのが関守の務めのはず。

 

富樫はその、おのれに与えられた任務を、敢えて放棄したわけですから、これは幕府への反逆に等しい。露見すれば死罪は免れない。

 

それでも富樫は、一行を逃がしました。それは富樫もまた、弁慶の命がけの行為に、「こころ」打たれたからなのです。

 

一人の「武士」として、「男」として、「人間」として、

己の目の前で行われた命がけの行為を、無為に帰することが忍びなかった。

 

この純なる思いに、応えたいと思った。

 

相手の命がけの想いに応えるには、こちらも命がけでいくしかない。それが、

 

富樫の行為となって表れた。

 

富樫は幕府の役人ですから、この行為は明らかな職務違反、間違った行為です。

しかしそうした表向きの善悪,正否よりも、日本人はこころの「まこと」とか、「美しさ」とか、そちらの方をこそ大切に思う。

 

日本人は善悪、正否以上に(勿論、それも大事ですが)、美しいか美しくないか(見た目ではなく、心の芯の部分)にこそ、より価値を見出しているように思えます。

 

弁慶の心根の美しさ、これに同等の美しさで応える富樫。観客ここに感動しやんややんやの大喝采を送るわけです。

 

 

これはフィクションです。現実にはこんな上手くはいかないでしょう。

 

しかしフィクションだからこそ、ここには日本人の、人としての「理想像」が描かれているように、思います。

 

 

善悪、正否より「美しさ」を感じるか否か、日本人はそこに、一つの価値基準、判断基準を置いてきた。これは多くの時代劇に見られるし、「忠臣蔵」などは顕著な例だと思います。

 

 

 

 

 

「忠臣蔵」のもつ「美しさ」については、後日また。

 

 

 

 

この記事は、以下の書籍にインスパイアされて書かれたものです。

 

『新しい日本人論』

加瀬英明 ケント・ギルバート 石平

SB新書刊

 

 

 

 

 

平成30年度、10代目松本幸四郎襲名披露公演、「勧進帳」から、延年の舞そして「飛び六方」


喪中正月

2019-12-29 23:17:18 | 歴史・民俗

 

 

 

 

 

父が身罷って半年、一応喪中ということで、「喪中はがき」を方々に出し、「年賀状は遠慮します~」の連絡はし終えている。

 

それと、喪中には慶事を行うべきではないということで、正月のお祝い事も原則禁止。おせちもお屠蘇も食わない、飲まない。

 

もっとも、我が家では元々おせちを食べるという習慣などなかった。餅を食べる以外は、特別普段との違いはなかったので、別にどうということはないし、餅もそんなに好きなわけではないので(笑)食べないところでどうということはない。

 

 

 

玄関先には、しめ縄なども飾らないのが一般的らしい。もつともこれには、喪中であっても「忌中」でなければ、飾ることに問題はないとする意見もあるようです。しかしまあ、飾らないのが一般的ということで、近所の手前もあるし(笑)今年はしめ縄は飾らないことにしました。

 

 

 

しかしながら、神祀りはやはり行いたい。私の住む辺りでは、神棚に、歳神様の依代として、御幣を3本立てます。これだけは、行わないわけにはいきますまい。

 

例えしめ縄を飾らずとも、歳神様のこと、必ずやおいでになりましょう。

 

 

我が家の内々のことです、誰にも文句は言わせない(笑)

 

 

 

そんなわけで、喪中には「おめでとうございます」なども言ってはいけないらしいので(めんどくせ~なあ)、今回のお正月、本ブログにおいては、「あけましておめでとうございます」「賀正」「謹賀新年」「A HAPPY NEW YEAR」等は、一応禁句ね。

 

一応だよ、あくまで一応。

 

「あけおめ」はダメだけど、「ことよろ」はいいんじゃない?いやまあ、細かいことはいいです。どうぞお好きに。

 

 

 

 

ああ、「迎春」というのがあるね。それならいいかも。

 

ではどちら様も、「迎春!」

 

 

なんか変(笑)

 

 

 

 

 

あーめんどくせー!やっぱいいや。「あけおめ」でもなんでも、どうぞご自由に。


「かっぽれ」と「かんかんのう」

2019-02-15 05:03:25 | 歴史・民俗

 

 

 

 

 

先日紹介した犬塚弘さんと若山富三郎さんが共演したドラマ『放蕩かっぽれ節」。これは落語の演目である『駱駝の葬礼(らくだのそうれん)』を基に脚色されたドラマです。

 

ドラマでは若山富三郎さんが死体役の犬塚弘さんを操って「かっぽれ」という踊りを躍らせるわけですが、基になった落語ではかっぽれではなく、「かんかんのう」という踊りを躍らせるんです。

 

「かっぽれ」も「かんかんのう」も、どちらも江戸時代末期から明治にかけて、大衆の間で流行った俗謡で、勤王の志士たちも花街あたりでよく歌い、踊っていたようです。

 

「かっぽれ」も「かんかんのう」も、時代劇には割とよく出てくる曲です。こういうことを憶えておくと、時代劇を見る楽しみが増えるというものですね。

 

 

 

こちらが「かっぽれ」実に御陽気な曲で踊りもキレキレですね。これを死体に躍らせるとは、なんてシュールなんだ。映像的にもこういう陽気な曲の方が笑えるということなんでしょうね。

 

 

 

こちらは「かんかんのう」。映像は原作・中島らも、監督・津川雅彦による映画『寝ずの番』からのもの。亡くなった落語の師匠(長門裕之)の遺体を、落語の演目そのままに「かんかんのう」を躍らせるシーン。長門さんも上手いですね。

清から長崎を通じて日本に伝わった曲ですので、歌詞は志那語なんです。それをさらに崩して歌っているわけですね。洋楽を聴こえたままに適当に歌うのと同じです。♪レリビー、レリビー♪とか、♪フジュゴンホン、ゴーストバスターズ♪とか、♪がんば~れ田淵♪とか、♪バカダモ~ン♪なんてのと同じです(笑)、

 

「かっぽれ」に「かんかんのう」覚えましたか?時代劇でこの曲が流れてきたら、一緒に歌いましょう

 

かんかんのう きうれんす

きゅうはきゅうれんす

さんしょならえ さあいほう

にいかんさんいんぴんたい

やめあんろ

めんこんふほうて

しいかんさん

もえもんとわえ

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紀元節

2019-02-11 05:33:13 | 歴史・民俗

 

 

 

 

本日2月11日は「建国記念の日」ですね。

「建国記念日」ではなく「建国記念の日」。まっ、色々めんどくさい事情があるようですが、いずれにしろ今日は、初代天皇である神武天皇が即位した日。

 

日本の国が誕生した日ということです。

 

古事記などによると、神武天皇が即位したのは「辛酉(かのととり)年、庚辰(かのえたつ)朔」日付は正月朔日つまり一月一日だとあります。これを江戸時代の国学者である渋川春海が、西暦でいうところの紀元前660年であると算定し、明治の世になってこの説を基に「神武天皇紀元」いわゆる「皇紀」が制定され、色々曲折あったのち、2月11日をもって日本の国の紀元とした、というわけです。

 

 

今年は「皇紀2769年」になるわけですね。

 

 

ところで、紀元前660年頃といえば、従来の説では縄文時代になってしまい、到底現実的ではないとされていたようです。

しかし21世紀以降、最新の学説では弥生時代の始まりはずっと遡り、紀元前1000年頃とされるようになりました。つまり紀元前660年頃は、弥生時代の真っただ中になるわけです。

 

紀元前1000年頃に九州に稲作技術を持った人々が渡ってきた。そうして九州に王朝を築き、これが5~600年くらい経って北上し、大和に政権を置いたとする考えは、決して無理なものではなくなったわけですね。

 

考古学が神話の信ぴょう性を証明したわけです。面白いですねえ。

 

 

 

神話は民族の「記憶」であり、本当か嘘かということよりも、これを民族の共通認識として受け入れることこそ大事。神話を忘れた民族は滅びると云われています。ですから神話教育は当然行われるべきことなわけですが、

この神話が最新の考古学によって、その信ぴょう性が保証された。

 

なんとも心強いことではありますねえ。

 

 

今日は日本の国の紀元、節目の日。

 

「紀元節」、お祝いしましょう。