楢山佐渡は天保2年(1829)南部盛岡藩の家老・楢山帯刀の庶子として生まれました。名は隆吉、幼名は茂太。通称五左右衛門。
藩主の親戚筋であったことから、9歳のときに藩主の相手役として城に召され、15歳で側役に昇進します。
時の藩主は南部利済。この利済の時代に、南部藩には先述したような悪政の嵐が吹き荒れることになります。
佐渡の父帯刀は、何度も利済を諌めますが、利済は聞く耳をもたず、楢山父子は登城を禁止されてしまいます。
利済の側には「三奸」と呼ばれた側近がおり、この三人が利済の暴政を許し、私欲を貪っていたようです。この三奸に阻まれ、利済への諌言はその耳にすら達せられない。
「この三奸を討ち、殿には御退位いただく他はない!」
若さ故の血気に逸る佐渡。それをひたすらなだめる、帯刀。
先述したように、弘化4年(1847)の大規模な一揆により、利済は藩主から退きましたが、その後も隠然たる権力を握り院政を続けます。その側にはやはり「三奸」が就いておりました。
度重なる凶作で、藩財政は窮乏、領民の暮らしも困窮する中、城の御殿を新たに築造し、奥州街道沿いに遊郭を設けるなどの華奢遊蕩三昧に、領民は塗炭の苦しみを強いられていました。
嘉永6年(1853)、佐渡は22歳で家老職を拝命します。藩主の親戚筋とはいえ、22歳はさすがにまだ若い。しかも一度は退けたことのある者を、何故利済は抜擢したのか、その意図はわかりません。
佐渡が家老職を拝命した同じ年、例の江戸時代最大規模の農民一揆が起こります。
仙台藩からの知らせにより、ようやく事の重大さを理解した利済は、あわてて佐渡を城中に呼び出します。佐渡は白装束姿で、決死の覚悟で殿に諌言申し上げるべく、御前に進みます。
佐渡はこの一揆を集束させたのち、藩を根底から立て直すために、一時的に藩政を自分に一任させて欲しいと申し出ます。もはや他に手立てはない。利済は受け入れる他ありませんでした。
佐渡は早速江戸へ早馬を送り、江戸家老向井大和をして江戸在府中の仙台藩主に対し、幕府への正式な届け出をしばらく猶予してもらうよう頼みいれました。重ねて越境した領民たちには、元々藩の悪政が原因であるからと、全面的に認め、誰ににも罪咎を課さないことを条件として、藩内復帰を呼びかけました。
やがて江戸より、仙台藩主は了承したとの知らせが、佐渡の元に届きます。折しも黒船来航により、日本国の情勢風雲急を告げており、幕府としては奥州の田舎大名のゴタゴタになど関わっている暇はありませんでした。また仙台藩にも、海上警備の沙汰が幕府より出されており、他所の藩の揉め事になど、関わる暇は無かったのです。だからこの佐渡よりの申し出は、渡りに船でした。
無事に一揆を集束させると、佐渡は休むことなく藩政改革に着手します。
まず改革を行うにおいての協力者として、才気煥発の誉れ高い、若干19歳の東次郎(中務)を家老に任命します。
改革は疾風迅雷の速度で行われ、老中首座の老臣・南部土佐を、奸物を信じ藩政を誤ったとして隠居させ、石原汀、田鎖左膳、川島杢右衛門のいわゆる「三奸」には、家禄・家屋敷・家財等没収の上追放の処分を下しました。
それに代わって多くの人材が、門閥に関係なく登用されます。その中には、新渡戸稲造の祖父にあたる新渡戸伝がおり、藩学の教授として新たに登用された那珂通高は、藩校の名を「作人館」とし、その門弟には、後の「平民宰相」原敬がおりました。
産業を奨励し新田開発を行い、利済が建てた新御殿は破却され、奥向き女中の数を300人から250人に減らし、奥州街道沿いの遊郭は廃止。藩主利剛は率先して衣服を木綿とし質素倹約を示しました。
悪政の張本人利済は、南部藩江戸下屋敷に蟄居謹慎し、安政2年(1855)、蟄居のまま病を得て死去します。
藩政改革の見返りとして、幕府から5千両の貸下げがあり、それを足がかりとして、財政の立て直しと、多年の窮乏に苦しむ領民救済へと当てて行きました。しかしながら、長年積もり積もった悪政のつけを払拭することは難しく、どちらかというと「情」をもって行おうとする佐渡と、徹底した「理」をもって改革を進めようとする東との間に、対立と確執が生じて行きます。
一端は東の意見を取り入れ、佐渡は職を辞しましたが、東の果断な改革方針は藩士達の士気を著しく落とします。結果東は失脚、再び佐渡が職に返り咲きます。
初めは協力者であった両名でしたが、やがて「政敵」として、互いをライバル視していくこととなるのです。
さて、黒船来航以来、日本国の情勢は愈々風雲急を告げる展開が加速して行きます。
中央から遠く離れた奥州、盛岡・南部藩も、やがてその大風に大きく翻弄されていくこととなって行くのです。
大政奉還、鳥羽伏見の戦い、そして奥羽越列藩同盟。楢山佐渡の活躍やいかに。
では、また次回、
つづく、で、ありやす。