風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

ブラックジャックは東北人 ~大槻という人々~

2013-08-31 22:39:20 | 岩手・東北


『歴史の愉しみ方』という本を読んでいます。

静岡文化芸術大学准教授・磯田道史氏の書かれた本で、この方、忍者の研究をしておられるとか。

私の大学時代のゼミの先生は
「忍者の研究など、歴史学ではない」
と無碍に切り捨てておりました。その歴史学でないものを、歴史学として研究しておられる。

これは面白い。早速購入し、現在読みふけっておる次第です。

とはいえ、別に忍者のことだけを書かれているわけではない、実に幅が広い。

その一節に、漫画家手塚治虫氏の御先祖のことが書かれておりました。

いや、ここで書きたいのは手塚先生の御先祖のことではなく、
そのお弟子さんのことですが。



大槻俊斎(1804~1862)という医師がおりました。陸奥国桃生郡赤井村(現在の宮城県東松島市)出身で、江戸に出て苦学をしていたところ、二代目手塚良仙(1801~1862)という医師の目に留まります。
三才年下の俊斎の真面目な勉学ぶりに感心した良仙は、俊斎を弟子にし、ついには大金を持たせ長崎へ留学させます。やがて青年は立派な医師、蘭学者として江戸に戻ってきます。

おわかりでしょうか。この二代目良仙が、手塚治虫氏の高祖父にあたられる方なんです。二代目良仙は自分の娘と俊斎を娶せ、秋葉原で開業させます。
さてこの大槻俊斎、日本ではじめて本格的な外科手術を導入した方で、体内の破断血管を糸で結紮する止血手術や、弾丸で破砕された手足の裁断手術まで手掛けます。まさに幕末の天才外科医「ブラックジャック」。

手塚先生の家系の中に、このような天才外科医がいたことを、はたして手塚先生はご存じだったのだろうか。著者の磯田氏も言及されていますが、手塚先生の作品にみられる生命への深い眼差しというものの、根っこの深さを感じます。人の縁とは、なんとも不思議なものです。


ところで、大槻俊斎は東北出身ということで思い出すのが、大槻玄沢、磐渓、文彦のいわゆる「大槻三賢人」のことです。

俊斎と三賢人との間に、なんらかの血縁関係があったのかというと、これがまったくないらしいんです。な~んだ、関係ないのかあと、ちょっとがっかりしましたが、しかしその事績たるや、日本の歴史の中で堂々と胸をはるにふさわしいものがあるので、ついでですから紹介しちゃいましょう。




                   

                       大槻玄沢胸像
                    岩手県一関市の一関駅前にある大槻三賢人像より


大槻玄沢(1757~1827)。陸奥国磐井郡中里村(現在の岩手県一関市中里)出身。『解体新書』の翻訳で有名な杉田玄白、前野良沢の弟子で、玄沢の名は両師匠から一字づつ貰い受けたもの。
蘭学の入門書『蘭学階梯』を著し、『解体新書』の改訂版『重訂解体新書』を手掛ける。
江戸に私塾・芝蘭堂を開き、多くの医者、蘭学者を育て、日本の医学発展に大いに寄与した人物。


                  
                     大槻磐渓
                    

大槻磐渓(1801~1878)。江戸生まれ。大槻玄沢の六男。
玄沢が蘭学を漢語に訳させたいということで漢学を学ぶ。仙台藩の藩校・養賢堂の学頭となり、黒船来航の際には堂々と開国論を唱え、戊辰戦争の際には新政府の行動の欺瞞を喝破し、主戦論を唱え、奥羽越列藩同盟の理論的支柱となる。
江戸の生まれ育ちでも、反骨の東北魂の持ち主。


                   
                      大槻文彦


大槻文彦(1847~1928)。江戸生まれ。大槻磐渓の三男。鳥羽伏見の戦の際には、仙台藩の密偵として敵弾の飛び交う戦場を駆け抜けた。
文部省入省後、日本の近代化には国語の統一が必須ということで、上司より日本語辞書の編纂を命じられ、日本初の近代的国語辞書『言海』の編纂者となる。
宮城師範学校(現・宮城教育大学)、宮城県尋常中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)校長、国語調査委員会主査委員などを歴任。
英語の文法を日本語に当てはめた為、批判も多くあるが、国語学の泰斗としての業績は大きい。
後に『言海』の改訂版『大言海』編纂を手掛けるも、完成を見ないまま他界。兄の如電が後を引き継いだ。




話は戻りますが、先に挙げた大槻俊斎と二代目手塚良仙の娘との間に生まれた子に、大槻玄俊という者がおりました。蘭方医でしたが反骨の人で、新政府に反発し、戊辰戦争の際には榎本武楊率いる艦隊に乗り込み、函館五稜郭に立てこもってしまった。
大槻の邸宅は秋葉原にありましたので、これを譲り受けたのが、二代目良仙の弟・三代目良仙。この三代目が手塚治虫氏の曽祖父にあたります。

手塚先生に繋がる人物が、アニメの聖地“アキバ”に邸宅を構えていたという事実。妙な因縁があって、面白いですねえ。



ところで、この大槻玄俊。大槻磐渓あるいは文彦あたりと、なんらかの交際はなかったのだろうか、なんてことを妄想してみたくなります。どちらも江戸生まれだし時代も重なる。同じ大槻姓でしかも共に奥州にルーツを持つ医者の家系です。どこかでなんらかの接点があったとしても、おかしくないような気がするんです。特に玄俊が新政府に反発して榎本軍に参加する下りなどは、磐渓から多大な影響を受けたからではないか、なんてことを空想してみたくなりますね。
こんなことを考えてみるのも、“歴史の愉しみ”ですかね(笑)



いずれにせよ、江戸から明治にかけて、日本の近代化に東北人が深く関わっていたという事実。

なんだか、痛快です(笑)。


歴史って、愉しいよ。



『歴史の愉しみ方』
磯田道史 著
中公新書