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黄金の國【平泉編】~10~その後の平泉

2013-08-21 22:24:49 | 黄金の國


奥州藤原氏の滅亡によって、北方政権、辺境に独自の花を咲かせた行政拠点としての平泉はその役割を終えました。


頼朝は平泉における税制や寺領等を、藤原氏時代のまま据え置くように指示します。無用の混乱を避けるためもあるでしょうが、その際に頼朝は、「奥州は“神国”であるから…」そのままにしておくように、と下知したとか。

この場合の「神国」とはなにを指すのでしょう?当時は神仏習合でしたから、仏教の都である平泉を神国と表現したのか、それとも奥州全土を「神の住まう国」と認識していたのか。

頼朝は、一体なにを言いたかったのでしょうねえ…。



平泉を含む磐井郡と、胆沢郡、江刺郡、気仙郡、牡鹿郡の五郡は葛西清重に与えられ、清重は奥州総奉行となって平泉に館を構えたそうですが、館の跡は特定されていません。葛西氏も平泉に残された諸寺院の保護に務めたのでしょうが、やはり藤原氏時代のようなわけにはいかず、諸寺院は急速に衰退していったようです。

嘉祥2年(1226)には毛越寺が焼失し、無量光院も鎌倉時代末期頃には焼失したようです。毛越寺の本堂が本格的に再建されたのは大正時代になってから、無量光院は再建されることなく、田んぼの下に埋もれて長い眠りについていました。
南北朝時代の建武4年(1337)には、中尊寺が焼失、金色堂と経蔵以外のほぼすべての堂宇と僧房が焼け落ちました。ですから藤原氏時代の建築物は、金色堂と中尊寺経蔵以外には残っていないんです。
また戦国期の元亀4年(1573)には、戦乱に巻き込まれ、毛越寺南大門と観自在王院が焼け落ちたと伝えられています。
江戸時代に入ると、平泉は仙台(伊達)藩の領地となり、伊達正宗は平泉を巡検すると寺領を安堵します。これには豊臣秀吉の後押しもあったのではないか、なんて話もありますね。黄金好きの秀吉のことですから、中尊寺金色堂には並々ならぬ関心があったかもしれません。この秀吉が、中尊寺に納められていた「紺地金銀字一切経」を持ち出させたのではないか、なんて話もあります。
「紺紙金銀字一切経」とは、紺色の紙の上に、金色と銀色の文字で一行づつ書かれた経文のことです。一切経というくらいですから、釈迦が残した(とされる)経文をすべて、金と銀の文字で書写したもので、全5千巻以上、完成まで8年かかった労作です。これを豊臣秀吉が、権力を笠に着て持ち出しちゃった。だから中尊寺には、あまり残っていない、現存するもののほとんどは、高野山金剛峰寺に残されていて、国の重文に指定されています。中尊寺に返せばいいのに、そうもいかないのですかねえ。


                 

                   紺紙金銀字一切経



えーと、どこまで話しましたっけ?そうそう、伊達正宗でしたね。

伊達家はその後も寺領等の保護に努め、中尊寺月見坂に杉並木を植林したり、いくつもの保護政策を実施しています。

中尊寺、毛越寺とも、その衰退は激しかったものの、それぞれに支院が残っており、一山の僧侶達は世襲を繰り返しながら、堂宇の保護と仏道の発展に努め続けました。また地元農民達の強力も大きかったようです。彼ら農民達による経済的援助と、神事祭礼への貢献は、両寺の独自性と伝統を保持するには必要不可欠なものでした。
また江戸時代には、松尾芭蕉や菅江真澄などの著名人達が平泉を訪れ、往時を偲びました。

明治以降、神仏分離令が出され、伝統的祭礼が廃れかかる危機もあったようですが、金色堂が国宝第一号に指定されるなどの様々な保護を受けながら、紆余曲折を経て今日に至っています。




昭和35年、金色堂建立850年記念として、宮澤賢治の詩碑「中尊寺」が建てられました。


            


                  七重の舎利の小塔に
                  蓋なすや緑の燐光

                  大盗は銀のかたびら
                  おろがむとまづ膝だてば
                  赭のまなこただつぶらにて
                  もろの肘映えかがやけり

                  手触れ得ぬ舎利の寶塔
                  大盗は禮して没ゆる




盗みを働こうとして忍び入った盗賊が、その金色の目映い光の美しさと迫力に圧倒され、盗むことが出来ずに去ってゆく。ここで謳われている「大盗」とは、源頼朝のことであると言われています。
古代東北における、蝦夷と大和の争いを語った詩かとも思われますが、果たしてそれだけでしょうか。
古来より奥羽の富を狙い、争いを仕掛けた者達は多い。しかしそれは、ある意味現代でも同じなのかもしれない。
平泉に、金色堂に訪れる方々は、皆金色堂の輝きに目を奪われ、その経済力に思いを馳せる。しかし彼ら奥州藤原氏が真に目指した此土浄土。恒久の平和を奥羽に打ち立てんとしたその悲願のほどに思いをよせる方々が、一体どれほどいるというのだろう。
出来得れば、金色の輝きに畏れを抱いて平伏した盗人の如く、そこに物質的富以上のものを感じて欲しい。往時の人々の魂を、そこに見出して欲しい。

そんなおこがましいことを思う、この頃です。



さて、「黄金の國」と銘打ったからには、マルコ・ポーロの言う「黄金の國ジパング」伝説に触れないわけにはいきますまい。それは次章以降にて。



【参考資料】

『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社

『日高見の時代 古代東北のエミシたち』
野村哲郎 著
河北新報出版センター