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黄金の國【平泉編】~9~平泉の落日と泰衡の首

2013-08-18 23:10:30 | 黄金の國


秀衡没後よりおよそ一年半後、文治5年(1189)、泰衡はおよそ百騎の軍勢を率いて、義経の住む衣川舘を急襲、義経とその郎党は奮戦するも抗しきれず、義経は持仏堂の籠ると妻と二歳になる娘を害し、自ら自害して果てた、と、鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」に記されています。

鎌倉幕府側からの再三の義経引き渡し請求に抗しきれず、自らの手で義経を討てば、許してもらえるのではないかと考えたことからの行動とされていますが、抑々頼朝の狙いは平泉そのもの、義経を差し出したところで、頼朝が手を緩めるはずがないことはわかっていたはず。だからこそ秀衡は、義経を主君とせよ、と遺言したはず。
そんなことも分からないほどに、泰衡は愚か者だったのでしょうか。




ところで、「義経北行伝説」によれば、義経は平泉で討たれることなく、束稲山を越えて東山から水沢、江刺を経て気仙に至り、三陸沿岸沿いを北上し青森県の野辺地から津軽半島の十三湖を経由して三厩へ、さらに北海道に渡り、最終的には大陸にまで渡ったとか。

この伝説、室町時代頃までには原型が出来上がっていたようです。頼朝の元に届けられた義経の首は、死後40日以上経過しており、美酒に漬けられていたいたとはいえ、かなり腐敗が進んでおり、本人かどうかの判別は出来なかったと言われています。そんなことから、その首は義経の首ではなく偽物であり、当の義経本人は生き延びたのだ、という伝説が生まれた。
平家を滅ぼした最大功労者でありながら、兄・頼朝に追われる身となった悲劇のヒーローに対する同情心が生んだ伝説であろう、と、一般的には受け取られています。

さて、この「伝説」によれば、義経が平泉を「逃亡」したのが文治4年(1188)だとされているんです。つまり、
泰衡が義経を討ったとされる時よりも、一年程も前のことになってしまうんです。
泰衡に襲われて、そこから生き延びたのではない。もっと早い時期に、すでに平泉を去っていた。これはどういうことでしょう?これがたんなる同情心から生まれた伝説であるなら、泰衡が攻めたときに逃げたとするのが普通ではないでしょうか。それがなぜ、わざわざ一年近くも前に時期が設定されているのか。

もしこの伝説が本当であったなら、いや本当である「側面」があったと仮定したなら、
泰衡の行動、ひいては平泉滅亡の意味が、まったく違ったものとなるのではないでしょうか。

泰衡は義経の逃亡を知りながら、あるいは自ら逃がして置きながら、まるで義経が平泉に匿われているかのような態を装っていたことになる。

なぜ、そんなことを?



文治年7月、頼朝は28万もの大軍勢を率いて鎌倉を進発します。頼朝は後白河院に対し、再三平泉討伐の宣旨を発するよう申請しますが、後白河院は言を左右にして、なかなか発しようとしない。そんなとき頼朝側の武将・大庭景能(おおばかげよし)が「軍中、将軍の命を聞く、天子の詔を聞かず」兵隊は将軍が命令すれば動く、朝廷の詔勅などいらないと言ってのけた。
これに発奮した頼朝は軍勢を押し進め、後白河院はやむなく後付で宣旨を発することになります。

対する平泉軍は17万騎。しかしこの内、実際には動かなかった軍勢もいたでしょう。奥州一円は平泉を中心とした一枚岩だったわけではなく、これを機に離反した土豪たちも多数いたと思われます。
両軍は阿津賀志山(福島県国見町)で激突、平泉軍の総大将は国衡でした。国衡の軍勢は四日間ほど持ちこたえましたがついに打ち破られ、国衡は戦死します。鞭盾(宮城県仙台市)に陣を敷いていた泰衡は、この報を聞くやただちに兵を引き、平泉では自ら館に火を付けるとさらに逃亡、頼朝に命乞いの書状を送るも、贄柵(秋田県大館市)にて腹心・河田次郎の裏切りにより殺害されてしまう。
泰衡の首はただちに頼朝のもとへ届けられます。泰衡の首をとった河田次郎は、「主人を裏切った不忠者」として処刑され、頼朝は泰衡の首を携えて厨川柵跡(岩手県盛岡市)へ向かいます。

厨川柵はかつて、源頼義・義家親子が安倍氏を滅ぼした場所。頼義は、安倍貞任らの首を五寸釘で柱に打ち付け、さらし者にしました。頼朝はその故事に倣い、泰衡の首をやはり五寸釘で打ち付け、さらしたのです。

源氏と奥州の因縁は、この頼義の代から始まっています。以来奥州を取ることは源氏重代の悲願でした。
頼朝はその悲願を果たした。頼朝は頼義の故事に倣うことで、先祖に礼を尽くしつつ、そのことを高らかに宣言したのでしょう。




この泰衡の首が、実は中尊寺金色堂に納められているんです。
三代秀衡、つまり泰衡の棺の中に、首桶の中に入れられたかたちで納められていたのです。

いったい誰が、いつ、入れたのでしょう?

先述した通り、金色堂は56億7千万年後の弥勒下生まで、遺体を保存するために建てられた葬堂です。つまり弥勒の世に復活する「資格」を持った人物でなければ、ここに葬られる資格はない。

清衡、基衡、秀衡までの三代は、仏法僧を篤く敬い。此土浄土建設に邁進した。これは十分に資格がある、と考えられたでしょう。
では泰衡はどうか?いたずらに頼朝軍を平泉に入れ、滅亡のキッカケを作ったではないか。

彼は此土浄土建設を潰した張本人ではないか。一体どこに、資格があるというのか。




しかし本当に資格がないのでしょうか?義経北行伝説が本当あるいは本当に近いことだったとするなら、泰衡はなんらかの理由で義経の逃亡の時間稼ぎをしたことになる。

鎌倉の目を惹きつけておいて、その隙に義経を逃がす。もしも露見したことを考えれば、大変危険な行為です。単なる自分勝手な愚か者にできる行為でしょうか。

そうした観点から見て行くと、泰衡がさして戦いもせずに逃亡し、部下に殺されるという末路も、違ったものに見えてきます。

つまり、泰衡らは「わざと」負けてやったのではないかと。

戦をすれば一番に迷惑を被るのは一般民衆です。民衆を守るためにはどうすべきか。泰衡は考えた。
奥州藤原氏初代・藤原清衡は、奥羽に二度と戦が起こらないことを願った。二代基衡、三代秀衡も、その初代の意志を継いで平泉建設に邁進し続けた。
泰衡だとて当然、その意志の薫陶は受けていたはず。泰衡の心の中にも、初代よりの想いは受け継がれていた。
しかし頼朝は、確実に平泉を取りに来る。
ならばどうする?どうすれば、なるべく小さな戦で終わらせることが出来る?

泰衡は思いました。いや、あるいは秀衡の真の遺言だったかも知れない、いずれにしろ、泰衡は選択したのです。
自ら、滅びる道を。

自らが滅びることで、奥羽の民を守る道を。




腹を空かした虎に自らの身を挺するがごとく、頼朝に“食われて”やったのだ。仏道を貫いたのだ。
だから泰衡は、金色堂に葬られる資格がある。そう考えた誰かが、せめて首だけでも、金色堂に納めてあげようと思った。




昭和25年、奥州藤原氏の御遺体調査が行われた際、泰衡の首桶の中からハスの種が発見されました。この種はながらく保存されておりましたが、平成10年に至って花を咲かせることに成功し、そのハスの花は中尊寺内をはじめいくつか株分けされて、盛岡などでも見られるそうです。

都市としての平泉は滅びました。しかし800年の時を経て咲いたハスの花に、平泉の「精神」を見たように感じたのは、私だけでしょうか。いや、平泉の精神というより、「東北魂」と言うものかもしれない。

時を越え世代を越え、いかなる逆境をも越えて、いつか花を咲かせる東北の魂。

いやあ、東北だけではありません。人は皆、かくあるべしと、ハスの花に言われているような気がします。

今この時代に蘇るべき、平泉の平和主義、不屈の東北魂。人のあるべき姿。

我が故郷から、学ぶべきことは多いです。