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『昭和残侠伝』 高倉健
縄文人はイレズミをしていたのか否か!?明治以降、歴史学者の間でそのような議論が行われていたそうです。
かの「魏志倭人伝」に、倭人はイレズミをしていると記述もあり、縄文時代の土偶にも、イレズミを表しているかのような線が刻まれている。古墳時代の埴輪などにも、イレズミと思われる線刻が確認されるのだそうです。
このような古代日本人のイレズミを研究した学者さんによると、縄文時代には、男女を問わずイレズミを入れていた。これが弥生時代になると、男性のみが入れるようになり、古墳時代には、狩猟、漁労民などの非農耕民のみがイレズミを入れるようになり、一般の農耕民はイレズミを入れなくなった、つまり、農耕民と非農耕民とを「区別」する一つの指標になっていったのだそうです。
「日本人は農耕民族」とはよく言われることです。
まあ確かに、その通りではあるでしょう。しかし、日本人の中にも、農耕が生活手段の中心ではない人々も確実にいたわけです。
そうした人々は、一般の農耕民から差別されやすい環境にあったわけです。しかし一方で、その不可思議性が「畏れ」と「恐れ」をも呼び、ある時は崇められもし、またある時は蔑まれもするようになっていく。
山に生きる者たちや、海に生きる者たち。農業を主体としない人々は、このようにして「畏れ」られ、「恐れ」られ、また蔑まれた。それは一般の農耕民のルール、社会秩序に属さない「アウトロー」とも見做された、ということでしょう。
やがてそうした「非農耕民」の間でも、イレズミの風習は廃れていく。イレズミをしていることが、「差別」の目印となるのなら、それはしないほうがいいに決まっていますからね。
しかし、イレズミが「アウトロー」の象徴である、という観念は後々まで残った。
やがてイレズミは、社会的秩序からはみ出した世界に生きる者たちの、一つのアイコンとなっていく……。
イレズミの歴史というものを、ざっと見てみると、こんな感じでしょうか。
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『御存じ!いれずみ判官』 片岡千恵蔵
アウトローというのは、一般庶民にとっては厄介な存在であるはずなのですが。
しかしながら、社会秩序や法秩序から外れた存在である彼らを、一般人は実に上手く「使って」来たとも言えます。
およそこの世の事象は陰と陽の表裏一体。社会にも表と裏がある。
表ではできないこと、解決できないことを、裏側で解決させる。そのためには、時に一般庶民も、アウトローに頼った。
「ヤクザ」と呼ばれ「凶状持」と言われ、一方で「侠客」などとも呼び慣わし、時と場合によって蔑みもし、時と場合によっては崇め奉る。
そのようにして一般庶民とアウトローは、持ちつ持たれつの関係でやってきた。
そのような事実が社会の側面として、あったわけですね。
それを象徴するヒーローこそ、いわゆる「遠山の金さん」ではないでしょうか。
遊び人の金さんとして市井の人々と触れ合い、時には片肌脱いでその背に刻んだ桜吹雪をさらけ出し、庶民の為に戦う。
しかしてその正体は、悪を裁く体制側の長、江戸町奉行遠山金四郎であった。
これほどしょみんにとって、「都合のいい」ヒーローはいませんね。アウトローとしての正義の執行者であり、且つまた体制側の正義の執行者でもある。時代劇のヒーローにはままあるパターンではりますが、イレズミを入れた御奉行様ということで、体制側と反体制側という、庶民にとってはどちらも必要な正義の両義性を見事に象徴しているヒーローなわけです。
そりゃ、人気も出ますわな。
「畏れ」と「恐れ」、「尊崇」と「蔑視」は、実は表裏なんじゃないか、と私は考えています。
そしてイレズミは、その両義性のアイコンである、そんな気がします。
この観念は表面的なかたちを形を変えながらも、現代まで連綿と続いて来たのではないでしょうか。
日本社会の側面を知る上で、イレズミの孕む意味を考えてみるのも、一興ではないでしょうか。
勘違いしないでほしいのですが、私はイレズミやアウトローたちのことを、決して肯定しているわけではありません。
表と裏、陰陽はこの世の常とはいえ、好き好んで薄暗い裏街道を歩く必要などありません。人はやはり、真っ当な道、表街道を堂々と行くべきです。
ただ、これまでの日本社会はそうした裏側に隠れた者達をも、上手く利用してきた側面があった、ということは、知っておいていい。
でもこれからはどうなるか、わかりませんよ。
これまでは闇に隠れていたものが、これからは白日の下に曝されていく。隠れることができなくなっていく。
そんな時代になっている気がしませんか?
これからは、アウトローは不必要な時代に入って行くでしょうね、多分。
時代は変わり、社会も変わる。
変わらなきゃいけません。
アウトローなど、どんなにかっこよく見えても
所詮、悲しい存在ですから。
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『関東テキヤ一家』 菅原文太
参考文献
「アイヌ学入門」
瀬川拓郎著
講談社現代新書