風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

明治政府に出仕した幕臣について、ちょっとだけ私見を述べてみる

2015-09-19 20:44:46 | 





中津藩士から幕臣に取り立てられ、維新後は在野にあって教育活動に専念した福沢諭吉は、その著書『痩我慢の説』において、勝海舟と榎本武揚を痛切に批判しています。


勝も榎本も、維新後、明治政府に仕えて高位顕職を得ています。福沢はこのことが気に入らなかったようです。

幕臣として幕府の要職につき、幕府のために働いた者は、その幕府への忠節を貫いて隠棲するのが筋である、と説き、勝と榎本を痛烈に批判しているわけです。

福沢はこの著書を勝と榎本に送ったそうです。それに対し、勝は

「ご批判はごもっとも、なれど出処進退は自分で決めるものであり、それについての評価はどうぞご自由に」

と、突き放し、一方の榎本は

「当方近頃は大変忙しく、ご返事はまた後日」

と適当に受け流し、その後の返答は一切なかったといいます。






勝海舟は無役の旗本でしたが、その才を買われて取り立てられ、幕府の要職を歴任し、最終的には西郷隆盛との会談による、江戸城無血開城を成し遂げます。

その後も新政府に乞われ、勝は新政府の要職を歴任、爵位を授与されるまでに至ります。


榎本武揚は幕臣の子として生まれ、昌平坂学問所、海軍伝習所等で学問を学び、その才を買われてオランダに留学、当時最新の学問と技術を習得し、帰国後は幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争の際には幕臣を率いて北海道・函館に上陸し、旧幕臣のための「蝦夷共和国」を名乗り、総裁に就任します。

函館戦争に敗れたあと、敵将黒田清隆に乞われて北海道開拓使に出仕、その後新政府においていくつもの大臣職を歴任するほどまでに出世しました。



実は勝や榎本に限らず、旧幕臣の要職にあったものが、新政府に出仕している例はいくつもあるのです。

明治政府は、決して薩長土肥のみによって、その権益が独占されていたわけではなかったのです。

適材適所、それは旧幕臣であろうとも変わらず対象とされた。


こういうところが、明治維新の特色と言えるのかも知れませんね。



勝にしろ榎本にしろ、自ら猟官運動を行って地位を得たわけではありません。あくまでも、新政府側から「乞われた」のです。

初めは固辞したでしょう。しかしそれでも是非にと乞われれば、断り続けることは困難だったでしょう。

自分の才能を買われているわけですから、悪い気はしないだろうし、それに、自分の持っているものが某かのお役にたてるものならば、

もう一度、「御国」のために働きたい。

そのように思ったのだろうと、想像します。


葛藤はあったろうと思います。榎本などはその責任の下に多くの人命を失わせてもいる。そのことを思えば、果たして自分がのうのうと新政府のために働いてよいものなのか?

その葛藤、苦悩がいかばかりのものであったのか、私には考えも及ばないことです。



福沢の言うことも分かるんですよね。それはそれで、一人の人間の生き方として立派だし、美しさ、崇高さをも感じさせます。

しかし、榎本や旧幕臣達が苦悩の末に新政府へ出仕することを選んだ行為も、これはこれで、

「御国」のために働きたい、己の身を捧げたいという

やはり「崇高」な想いがあったのではないか。


いやいや、糊口をしのぐ手っ取り早い手段だからでしょ?栄達が得られるかもしれないし。

確かにそれもあるでしょう。

そういう方もおられたでしょう。

福沢も、勝や榎本にそういう感を持っていたからこその批判だった。


表面だけを見れば、確かにそのようにも見えますね。


しかし、幕府のためにそれこそ命懸けの働きを示した勝や榎本が、果たして栄達だけのために、新政府に働き口を求めるものでしょうか?

私にはそちらの方が、よほど信じがたいように思えます。




勝や榎本が本当はなにを思っていたのか、それは御本人以外には誰にも分からないことです。

しかし私は、新国家建設に邁進する日本国にあって、己の出来ることをしたい、御国のために役立ちたい。

そのような想いがあったからこそではなかったか。



私はそう、信じたいですねえ。

それは、旧幕臣であったからこその、

「誇り」だったのかも知れません。



YOSHIKIの涙

2014-07-20 14:06:25 | 
 


                       
                        YOSHIKI


                       
                         HIDE
 


                        
                         PATA


                        
                         TAIJI




Toshi






X Japan






Xを初めて観たのは、「天才たけしの元気がでるテレビ」でした。

“ヘビメタの帝王”の異名を取る男、「ゲイリーよしき」という触れ込みで、バラエティ番組に登場する、もうそれだけで、速攻嫌いになりましたね(笑)

御昼どきの定食屋さんで、「喰えーっ!」とか叫んでいるToshi、カメラに向かってポーズをとるHIDE。

ああ、ダメだ。日本のヘヴィ・メタルは終わった…と本気で落ち込みましたよ(笑)



それから数年後の89年、有線から流れてきた「紅~KURENAI~」を聴いた時、それまでのXに対する認識が180°ひっくり返ってしまった。途轍もないバンドが出てきた!と思いました。

これで日本のロックシーンは変わる。そう確信しました。

私は音楽に詳しいわけでもなんでもないので、音楽的なことはなにも語れません。それでもXがいかに型破りなバンドであったか、というのは分かります。

ロックとはこうだ、パンクとはこうだ、ヘヴィ・メタルとはこうだ。そんな固定観念をぶち壊し、パンクともメタルともつかない奇妙奇天烈な髪型とファッションでともかく目立ち、名を売るためならバラエティ番組出演も厭わない貪欲さ。

そして肝心要の音楽、曲のレベルもメチャメチャ高い。YOSHIKIの持つクラシックの素養とロックの融合は、他のバンドにはない特色を生み出します。

よくは知りませんが、レコード会社等との契約内容も、それまでは考えられなかったものだったらしいです。X以降、バンドの意志が通り易い契約内容に、業界全体の方向性が変わって行ったという話はよく聞きます。

とにかく、あらゆる意味で「規格外」のバンドだったようです。

それもこれも、バンドメンバー、とりわけリーダーYOSHIKIの、なにがなんでもプロになる!という執念の賜物でしょう。

しかもその執念は、プロになるために音楽性を妥協するという方向ではなく、あくまで自分達のやりたい音楽をやり続けながらプロになる、というものでした。

その部分では、一切妥協を許さなかった。

諸先輩方や業界の方々が積み上げてきた“しきたり”をガラガラとぶち壊しぶち壊しぶち壊して、彼らXは栄光を掴んだ。

まさにXは、日本のロックを変えたといっていい。







YOSHIKIの曲はいつも泣いています。

どんなにどんなに、激しい曲を書いても、それでもYOSHIKIは、いつも泣いています。

それはまさに「号泣」といってよいもので、あまりの激しい悲しみ故に、己が肉体をも破壊せんとするかのごとく、そのドラミングは激しさを増して行く。

実際、その余りに激しいドラミング故に頸椎を痛め、何度も手術を繰り返しているようです。



私は御本人ではないので、その悲しみの源泉がどこにあるのかは分かりません。

幼い頃に父親を亡くしたりだとか、つらい思いを経験しているようですが、本当のところは私には分からない。

音楽だけが、その悲しみを発散させる唯一の拠り所だったのかも知れません。



私がXの音楽で一番惹かれたのも、この悲しみでした。

そのファッションだとか、表面的な過激さだとか、そんなものはどうでもよかった。私がXに惹かれた一番の理由は、その悲しみの深さでした、

あまりに、あまりに悲しすぎるが故に、その深き悲しみは怒りとなって爆発する。あたかもスサノオがその涙で山々の木々を枯らした如くに、悲しみは怒りの嵐となって吹き荒れるのです。



Xの、とりわけYOSHIKIの書いた曲はいつも泣いています。

そして、それは今でも、基本的には変わらない。私にはそう思われます。





98年にはHIDE、11年にはTAIJIと、かつてバンドで苦楽を共にした仲間を次々と亡くし、ただでさえ傷つきやすいYOSHIKIの心は相当な悲嘆に暮れたことでしょう。

一時期は、表舞台に立つことを止めようと思った時期もあったようです。

そんなYOSHIKIが表に立ち続けるキッカケの一つとなったのが、1999年の「天皇陛下在位十周年をお祝いする国民祝典」における奉祝曲の作曲の以来でした。

「Anniversary」と名付けられたこの曲は、当初20分近くある曲でしたが、天皇・皇后両陛下が起立されてご鑑賞あそばされるということを聞き、急遽8分弱に短縮したそうです。

翌年の皇室主催「春の園遊会」にも招待されたYOSHIKIは、母親と一緒に出席。一介のロック青年が皇室主催の宴に…一人の日本人として、YOSHIKIの感慨たるや如何ばかりであったでしょう。

この「Anniversary」も、私には泣いているように聴こえる。

しかしそれは単に悲しみの涙ではない。その涙を乗り越えて、先へ進もうとする人の姿、光を見い出そうと歩み続ける人の姿が見えるかのように思われる曲となっている。少なくとも私にはそう思われます。

それはあたかも、多くの悲しみを乗り越えて、多くの苦しみを乗り越えて歩み続けてきた日本という国の、日本人の姿に重なり、その日本人を常に見守り、共に歩んできた、代々の皇室の方々のお姿に重なるようです。

それは悲しみの涙でありまた、喜びの涙でもある。



これはあくまで、「今」の私の個人的な感想です。「そんな大した曲じゃねーよ!」とおっしゃる方もおられるでしょう。それはそれで結構。

少なくとも「今」の私にとっては、そう感じられるのです。だからそれでいい。




YOSHIKIは現在アメリカを拠点としながら、精力的に活動を行っているようです。

アメリカ映画のサントラも数本担当しており、アメリカ映画界を代表する映画賞、「ゴールデン・グローブ賞」のテーマ曲も作曲しています。

今年の春には世界規模のソロ・ツアーも敢行。その活動は世界的な広がりを見せ始めています。



己が肉体をも破壊せんとするほどの「狂気」に走った青年が、音楽という翼でどこまで羽ばたいて行けるのか、見守ってあげたい気がします。

善いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、そんな表面的な薄っぺらな評価だけで、私は人間を見たくはない。

間違っていようが、あちこちぶつかって大けがしようが、それでも、少なくともYOSHIKIは「本気」で生きてきたのだ。

YOSHIKIだけじゃない、Xの、X Japanのメンバーは皆本気で生きたのだし、生きているのだ。私はその点で、だれがなんと言おうと彼らを称賛し続けたい。

YOSHIKIはこれからも、「本気」で生き続けるでしょう。泣きながら泣きながら、それでも前を向いて進み続ける。

私はそんなYOSHIKIに、エールを送り続けます。






                              


日本のロック界の「傾奇者」X Japan、そのリーダーYOSHIKIに、同じくアイドル界の「傾奇者」ももクロの曲を依頼するのはどうだろう?

なんか、面白いコラボになりそうな気がするんだけどなあ~。



どう思う?YOSHIKIさん。





             

能年玲奈論

2014-01-31 13:51:00 | 


   



この方は賢い方です。


「かんぽ生命」のイメージキャラクター起用の発表記者会見にて、能年さんは、イメージを大切にしながら、ブレずに行きたい。という趣旨の発言をしたとか。

イメージ、という言葉をさりげなく使っていますが、これは自分が世間にどう見られているのかということをよく理解しており、そこから「ブレる」ことなく、真っ直ぐに進んで行きたい、ということでしょう。



人間には色々な側面があります。

「あまちゃん」で見せたような姿だけが能年さんではない、もっと違った面もたくさん持っていることでしょう。

ありがちなのが、「こんなのは本当の自分じゃない!」とか言って、自ら潰れていくケースですね。そうやって消えていったアイドルの類はたくさんおります。

でも「本当の自分」ってなんなのでしょうね?

そんなもの、最初からあるものなのでしょうか?

自分というものは、あるんじゃなくて、「成って」いくものなのじゃないかなあ。

どんな自分になるのかは、それこそ「自分」次第なんじゃないの?

人間は成りたいようにしかなれないものです。つまり、自分で自分をプロデュースしているんです。

能年さんは、「あまちゃん」で培われた世間のイメージを大切にしたいと思った。アキちゃんのように、自分は変わらないかもしれないけれど、周りの人達を元気付けて変えていけるような、そんな人でありたいと思った。

これはある意味、大変なプレッシャーだと思う。でも能年さんはあえてその道を進もうとしている。

能年さんの言う「イメージ」とは、単なる外見ということではなく、本当にそういうような人でありたい、ということなのだと、私は読ませていただきました。

能年さんはそのように自分をプロデュースしたいのですよ。

この方は「イメージ」という言葉一つで、そうした奥側の意味までをも、さりげなく、しかし確実に表現している。

この方は、賢い方です。


                     



【君子は豹変す】

という言葉があります。

豹変なんていうと、悪い意味に解釈されるかも知れませんが、本当はそうじゃない。

賢い人は、自分を良い方向へ柔軟に変化させていく。でもそれは無節操ということではないんです。

人には変わるべきでない部分、変わってはいけない部分が確実にあります。それとは別に、変わるべき部分、変わっていかなければならない部分というのも確実にあるんです。

そこを見極められるか否かが、君子と凡人の違いですかね?

なんかねえ、以前の能年さんは、あんな喋り方じゃなかったとかなんだとか、過去の姿を引き合いに出して、能年さんを批判する一部の人たちがいるようですが、そんなことになんの意味があるのでしょう?

人にとって一番大事なのは、常に「今」この時です。

「今」が未来を造るのです。

過去がどうであろうと、能年さんはそこに安住しようとはしなかった。変わろうと思った。だから今がある。

大切なのは、常に「今」と「これから」

能年さんの「今」が、能年さんの「未来」を造るのですよ。

まだ20歳ですか。これから人生、色々なことがあるでしょうね。

なにかあったら思い出してほしい。「あまちゃん」を通して、自分がどう有りたいと思ったのか。

変わるべき部分と、変わってはいけない部分との見極めを誤らないようにね。

大丈夫、「賢い」方だから。


                        


                    

雨ニモマケズ

2013-12-23 15:26:08 | 


私は宮澤賢治という人のことが、よくわかっていませんでした。

良い作品を書いていることはわかるし、好きな言葉もたくさんある。でもなんというか、今一つピンと来ていなかった。

なんだろう?そのピンとこない元凶は、あえていうなら。

リアリティ?

私には宮澤賢治という人は遠すぎる。遠すぎて人間としてのリアリティが感じ難い、ということでしょうか。




ところで、「雨ニモマケズ」という詩がありますね。賢治の数ある作品の中でも特に有名で、世間によく流布されていますが。

その一般によく知られる「雨ニモマケズ」。実は完全版じゃなかった、ということを御存じでしょうか。

ここに、私が思うところの「完全版」を載せさせていただきます。





   昭和六年九月七日、ふたたび東京にて発熱

   南無妙法蓮華経

   雨ニモマケズ
   風ニモマケズ
   雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
   丈夫ナカラダヲモチ

   慾ハナク
   決シテ瞋ラズ
   イツモシヅカニワラッテイル

   一日ニ玄米四合ト
   味噌ト少シノ野菜ヲタベ
   アラユルコトヲ
   ジブンヲカンジョウニ入レズニ
   ヨクミキキシワカリ
   ソシテワスレズ

   野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
   小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
   東ニ病気ノコドモアレバ
   行ッテ看病シテヤリ
   西ニツカレタ母アレバ
   行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
   南ニ死ニソウナ人アレバ
   行ッテコワガラナクテイイトイイ
   北ニケンカヤソショウガアレバ
   ツマラナイカラヤメロトイイ

   ヒデリノトキハナミダヲナガシ
   サムサノナツハオロオロアルキ
   ミンナニデクノボートヨバレ
   ホメラレモセズ
   クニモサレズ
   ソウイウモノニ
   ワタシハナリタイ
 
   
   南無無辺行菩薩 
   南無上行菩薩
   南無多宝如来
 南 無 妙 法 蓮 華 経
   南無釈迦牟尼仏
   南無浄行菩薩
   南無安立行菩薩





御存じの方はご存じだったでしょう。でも私は寡聞にして知らなかった。

こうして完全版をみてみると、随分印象が違ってきます。

自身の病気のことから始まり、さらには詩の前後にお題目と諸仏の名が書かれている。

この詩は賢治のメモ帳に書かれていたもので、果たして発表するつもりで書いたものなのか分からない。それだけに、賢治の生々しい本音が記述されているように思います。

この完全版を読んでみて、私は初めて、賢治という人の一端が見えたような気がしました。



この時賢治は、自身の死期が迫っていることを覚っていたのだ、と思う。

死を目前にして賢治が思ったこと、感じたことを率直に詩というかたちで表したものなのでしょう。

熱心な法華経信者であった賢治がお題目に込めたもの。

それは死への恐怖でしょうか?この世への執着でしょうか?

それもあったでしょう。しかし私が感じるのは、残り少ない生の中で、自分はいかに有りたいのか、いかに生きたいのかということ。

死の直前まで、自分は人のために生きたい、世のために生きたい。

それを自身に架した。自身に誓った。

そのためのお題目だったのではないでしょうか。


身体はどんどん弱ってくる。「丈夫ナカラダ」など持てないし、詩にあるような東奔西走もかなわくなるだろう。

それでも、出来うるかぎり、そうありたいと思った。

そうあらせてくれと願った。

それは死への恐怖というより、生への渇望だったのかも知れない。

自分はまだ、やり残したことがたくさんある。まだまだ生きたい。生きて成し遂げたい。

生きたかったと思う。本当に、生きたかったと思う。

でもそれはかなわない。それを知ったとき、賢治が到達した心境。

それが「イツモシヅカニワラッテイル」

ではないでしょうか。

自身の運命を受け入れつつ、命尽きるそのときまで、出来る限りのことをしよう。

そこにはもう、感謝しかなかった。



この世の四苦八苦を経験しつくした末に到達した境地。この詩は、賢治の生の絶唱です。



私は初めて、賢治を身近に感じることができました。賢治は普通に生きて、市井の中で一生懸命生きて、この心境まで到達し得たひとだったのだな。

はじめからこうだったわけじゃない。一生懸命生きた結果だったのだな。

書かれているお題目をみたときに、そう感じました。

前後のお題目を外しちゃダメですよ。それではこの詩の半分も味わえない。そういう人、世の中に多いんじゃないかな?この詩のことを、ある意味「勘違い」している人が多いのではないかな。




なんだか、ようやく許可が下りたような気がするんです。薫風亭よ、お前もそろそろ、賢治作品を読んでも良いぞってね。

えっ?誰に許可を得たのかって?さあ、誰でしょう?

あえて言うなら、自分自身にかな。





参考文献
『わたしが死について語るなら』
山折哲雄 著
ポプラ新書


野村胡堂の“鷹揚”さ

2012-08-30 20:13:50 | 
今朝の地震にはビビった。1年前の悪夢が一瞬頭をよぎる…。


銭形平次の原作者として知られる野村胡堂は、岩手県紫波郡彦部村(現・紫波町)出身。本名は野村長一。
大正のころ、新聞記者をしていた長一は、記事に署名するペンネームがなかったので、同僚たちに相談したところ

  「何かいいのをつけてくれ」というと、編集の助手達が、「お前は東北の生まれだか
  ら、蛮人はどうだ、強そうで良いぞ」というのである。「蛮人では、可哀そうだ、人
  喰人種みたいじゃないか」というと、「それでは胡堂と付けろ、胡馬北風に依るの胡
  だ。秦を亡ぼすものは胡なりの胡だ。堂という字はそれ、木堂、咢堂、奎堂などとい
  ってみんなエライ人は堂という字をつける。それにきめておけ」と本人の私の意見な
  どを無視して、翌る日の新聞の閑文字から、胡堂という署名が入ったわけである。
  (『随筆銭形平次』旺文社文庫所収「ペンネーム由来記」より抜粋)

蛮人とはまた、ヒドイ言われようですね。私がこんなことを言われたら、怒り狂ったかもしれない。しかし胡堂はそれを鷹揚と受け流している。
スゴイね。

故郷のことをやたらと自慢したり、誇ったりするのは、ある部分コンプレックスの裏返しでもあると言えます。そういう人はちょっとした冗談半分の悪口でも、すぐ怒る、ムキになる。それは自分自身が心のどこかで、故郷を卑下しているから、かもしれません。
なぜそんなことが言えるのかって?簡単ですよ。それは
私がそうだから。

故郷を愛する気持ちと卑下する気持ちと、この相反する感情が心の中に同居している。でもそれを認めたくないんだな。だからちょっとしたことですぐ怒ったり、ムキになったりするのは、自分自身の心の反射なんです。すべては自分自身の中にあることなんです。

胡堂ほどの方ならば、ご自身の故郷がどのような歴史を辿って来たかは当然わかっていたはず。
そのうえでの、この鷹揚ぶり。私なぞとは器が違う。

見習いたいものです。

己の心を見つめましょう。己の心と対峙しましょう。

まずは、そこから。

参考文献:日高見望景 -遥かなるエミシの里の記憶ー
     堀江朋子著
     図書新聞刊