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黄金の國【コラム】6 ジパング伝説と平泉

2013-08-25 19:09:08 | 黄金の國


天平勝宝元年(749)、陸奥国小田郡、現在の宮城県涌谷町黄金迫で、日本初の金が産出されました。

この黄金を巡って、奥州では様々な攻防が繰り返されることになります。東北の古代史、争乱の影には、ほぼ必ず、この黄金の管理権を巡る攻防があった、と言って過言ではないでしょう。

古代日本においては、金に貨幣的な価値はありませんでした。金は仏像に鍍金するためのものであり、それ以外には使い道がほとんどなかった。しかし、海外との関係においては、金は多大な価値を発揮します。
遣唐使は奥州産の金を持参して、これを貨幣代わりに使用しました。また平清盛などが熱心に行った宋との貿易においても、奥州金は大いに活躍しました。「宋史 日本国」には、「東の奥州に黄金を産し、西の別島(対馬)に白銀を出だし、もって貢賦と為す」と書かれています。

平清盛の長男で奥州を知行していた平重盛が、気仙郡より献上された砂金1300両を宋の商人に託し、1000両を宋皇帝に献上し、200両を阿育王寺の僧侶に寄進して、阿育王寺に自分の菩提を弔う小堂を建立して欲しい、と願います。宋皇帝は重盛の志を喜び、御堂を建て500町の供米田を寄進したといいます。

また藤原秀衡は元暦元年(1184)、平氏に焼かれた東大寺大仏殿再建のため、5000両(約185㎏)の金を寄進しています。1両は約37gですから、これを現在の価格、1g4千円として計算すると7億4千万円に上ります。
この様な事実の積み重ね、そして皆金色の阿弥陀堂・金色堂の存在は、黄金の都平泉のイメージを内外に広めることに、多大な貢献を果たしたことでしょう。
黄金といえば奥州、奥州といえば黄金だったのです。




当時の金の採掘方法は、主に砂金の採集に頼っていました。自然石から分離し川水に流れ出した金を、土砂の中から採取する。その他に奥州では、古代の川が干上がった跡に堆積した土砂から砂金を採取する「芝金」という方法もとられていたようです。
坑道を掘って金鉱石を採取するような大規模な技術は、この当時にはありませんでした。これは逆に言えば、普通の農民、一般庶民でも川に入って土砂を水洗いすれば、少量ながらも金が採れたわけですね。
中央における造寺、造仏の急増は金の需要に拍車を掛けます。奥州の金は益々重要性を増してくる。
その利権を欲しがる者達が出てくるわけです。




さて、マルコ・ポーロ(1254~1324)です。

ヴェネチア領コルチェラ島(現クロアチア)生まれの商人にして旅行家。17歳の時に父や叔父とともに陸路東方へ向かい、中央アジアや西域を経、元(モンゴル帝国)の首都・大都(北京)に到達、皇帝クビライに仕えながら各地を旅行し、見聞を広めていきます。
帰国したのはマルコが42歳の頃、その後海戦に巻き込まれジェノヴァに捕われの身となり、その獄中で語った旅行の話を、ピサの著作家ラスティケッロが書きとめたのが『東方見聞録』です。

マルコ・ポーロが元にいた丁度その頃、二度に渡るいわゆる「元寇」が行われました。マルコが直接クビライと会話できたのかどうか、わかりませんが、『東方見聞録』によれば、クビライが日本を攻めようとした動機として、黄金のことがあったからだ、と記されています。

「ジパングは大陸から東方1500マイル離れた大きな島で、住民は色白で礼儀正しく、偶像礼拝者である。独立国でどこの国からも支配を受けておらずこの島には莫大な量の金があるが、商人はほとんどこないので、金で溢れている。
君主の宮殿は、我々キリスト教国が鉛で屋根を葺くように、屋根を純金で葺いているので、その価値は計り知れない。床は指二本分の厚い金の板を敷き詰め、窓も同様だから、宮殿全体ではだれも想像することができないほどの価値がある。大きな真珠や宝石も豊富に産する」
(大矢邦宣著「平泉 浄土をめざしたみちのくの都」文中より抜粋)

この話を聞いたクビライが、ジパングを征服しようと戦争をしかけますが、日本側の言う「神風」によって軍船ことごとく難破し、失敗に終わったというところまで記述されているようです。
これはまさしく、日本のことを言っているとしか思えませんね。マルコ・ポーロが元にいた時代よりおよそ100年前に平泉は滅びています。100年も経てば噂話に尾ひれがついて、大きな話になってしまうことはあるでしょう。それに外国人にとっては、奥州も日本も同じ「日本」であることには変わりなく、区別などつくはずもない。一地方の話が日本全土の話に拡大してしまうのも有りがちなことです。
ならばここで言われている黄金の宮殿とは当然、中尊寺金色堂以外には有り得ない。え?京都の金閣寺?いいえ、有り得ません。何故なら金閣寺の建立はマルコ・ポーロの時代より100年も後のことですから。

そうです、ジパング伝説の発信源は、紛れもなく平泉なんです。自明の理です。間違いなしです。

まあ、クビライの動機が本当に黄金だったのかどうか、この辺はマルコ・ポーロの想像であったかも知れず、抑々この伝説自体、マルコ・ポーロが退屈まぎれに面白おかしく話を作り上げたのかも知れない。いずれにしろその元ネタが奥州の産金にあったことだけは、間違いないでしょう。



マルコ・ポーロより200年の後、1492年、ジェノヴァ生まれのコロンブスがスペインより大西洋に漕ぎ出しました。香辛料と金を求めてインディアス(アジア)を目指し、到達したのがバハマ諸島のサン・サルバドル島。コロンブスはここをインディアス(アジア)だと信じて疑わず。島民をインディオと呼んだ。
そのコロンブスの航海日誌には、黄金に関する記述が多数あり、「ジパング」について8回も言及しているそうです。「ジパング伝説」がコロンブスの冒険心を突き動かしたのであろうことは、明らかでしょう。コロンブスの行動は西洋における大航海時代の幕開けとなり、新大陸発見へと繋がっていく。西洋史を大きく動かしたその大元に、平泉があったのです。



平泉の黄金文化の原点は、初代・清衡による恒久平和の思想でした。この世に浄土を築く、そこに世俗的な欲望はなどは、あまりなかったといって良い。以前にも書きましたが、平泉における皆金色の建造物は金色堂以外には存在しなかったのです。浄土世界の象徴である金色堂だけが、黄金の輝きを放っていた。ジパング伝説にあるよに自らの宮殿を黄金で飾り付けるようなマネはしなかった。その点が正しく西洋にまで伝わらなかったのは残念ですが、仕方がないでしょう。




「黄金の國ジパング」。ここから想起されるものは何でしょう。それはやはり、世俗的富に溢れた世界でしょうか。
しかし日本における黄金とは、元々仏像等に鍍金する以外に使い道はなかった。それは仏の光、浄土の光を表すためのものだった。そしてまた、日出る太陽の光、黄金色に輝く日の出の光をも表していたでしょう。その黄金の源泉、平泉の思想は、奥羽に此土浄土を築くことだった、恒久平和の理想郷を。

このことの意味を、我々はもっとよく考えてみるべきではないでしょうか。

真の意味で「黄金の國 ニッポン」となるために。



【参考資料】
『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社

『東北 不屈の歴史をひもとく』
岡本公樹 著
講談社

『平泉と奥州藤原四代のひみつ』
歴史読本編集部編
新人物往来社