義経については以前にも記事にしましたので、なるべく重複は避けるようにしたいですが、平泉を語るにおいては、やはり義経に触れないわけにはいきません。
義経を平泉に迎え入れるにおいて、秀衡はどのように考えていたのでしょう。当時は平家の勢力は全盛で、平清盛は絶大な権力を握っていました。そんな折にわざわざ源氏の御曹司を預かったのは何故か。
ある種の「保険」とでも捉えていたのではないでしょうか。いかに平家の権勢が絶大だといっても、天下はまだ治まっておらず、いつ形勢が逆転し源氏が台頭するか知れない。その時のためを考え、源氏の御曹司を匿っていたことは、源氏に恩を売ることになる。あるいはもしもこのまま平家の世が盤石なものとなり、源氏台頭の芽がなくなったときは、源氏の御曹司を“手土産”として平家に差し出せば良い。
世がどちらに転んだとしても、平泉の平和を守り切る。そのためには、冷酷非情ともとれる措置も厭わない。
政治家として、為政者として。奥州の民を守るため、秀衡はそう考えたのでしょう。
その義経が、兄・頼朝挙兵の報を聞いて平泉を出ることを決意した時、秀衡はどう思ったのでしょう。大事な駒に逃げられる!とでも思ったでしょうか。
それもあったかも知れませんが、それ以上に秀衡は、義経のことが心配でならなかったのではないでしょうか。長年義経のことを見ているうちに、秀衡は義経に対し息子のような感情を抱いていたのではないかと思う。平泉一の武者、佐藤継信・忠信兄弟を従者に付けて送り出したところに、それが現れていると私は思う。
義経は武者としての武術や軍略に秀でていた。おそらくは平泉にいたころから、その才を発揮していたことでしょう。とはいえ、平和な平泉でぬくぬくと育ち、世間というものを知らない。そんな若造が百戦錬磨の源氏勢に加わって、うまくやっていけるだろうか?利用するだけ利用されて、用がなくなればポイと捨てられる、なんてことにもなりかねない。佐藤兄弟を従けてやったのは、そんな義経を守ってやって欲しい、という思いからだった。
もちろん、義経の「監視役」という側面もあったでしょうが。
そして状況は、秀衡が危惧した通り、いやそれ以上に悪い方向へと進んでいきました。
兄・頼朝に疎まれ、追われる身となった義経が平泉に帰ってきたのは、文治3年(1187)のこと。もはや頼る所は、実の子の如くに育ててくれた秀衡の下しかなかった。
頼朝にも当然、それはわかっていることでした。行き場を失った義経が行き着く先は平泉以外にない。
武門による武門のための政権を目指す頼朝にとって、鎌倉の背後に当たる奥州に、もうひとつの武門政権が存在することは、はなはだ目障りなことだった。
それに奥州は、父祖頼義以来の宿縁の地。奥州を取ることは源氏重代の悲願。これを機に、一挙に平泉を落とす!
折しも、秀衡は病に斃れます。秀衡は病床に嫡男・国衡と後継・泰衡を呼び寄せると、義経を主君となし、国衡、泰衡ともに融和して義経に仕えよ、と遺言します。
国衡は先妻の子、泰衡は現妻の子。その泰衡の母は、元陸奥守で平泉の政治顧問・藤原基成の娘でした。嫡男国衡を差し置いて泰衡が後継者となったのは、そうした「血筋」によるところも少なからずあったかもしれず、そのため両者の関係には、微妙なものがあったのではないでしょうか。
今はまだ秀衡がいる。秀衡が重石となって押さえている。しかし秀衡亡き後は?
秀衡にとって、そこが最大の気がかりだったのでしょう。国衡に自分の妻を娶らせ、仲違いせぬよう誓約書まで書かせたといいます。そうして軍略の天才義経をあえてトップに据えることで、来たるべき頼朝軍との決戦に備えさせようとしたのです。
国衡と泰衡のどちらかをトップに据えたのでは、やはり不満が生じる恐れがある。それに軍略の天才義経のネームヴァリューは、それだけで頼朝軍へプレッシャーを与えることになる。瀕死の床にあって、秀衡が思い続けたのはただ一点。
平泉を守ること。
文治3年(1187)10月29日。藤原秀衡逝去。享年66歳。脊椎カリエスによるものとされています。
「北の王者」の死、それは平泉の運命をも急転させていくのです。
【続く】
【参考資料】
『東北 不屈の歴史をひもとく』
岡本公樹 著
講談社
『日高見の時代 古代東北のエミシたち』
野村哲郎 著
河北新報出版センター
『平泉と奥州藤原四代のひみつ』
歴史読本編集部編
新人物往来社