鬼死骸村の伝説成立過程で、「田村三代記」とそこから派生した「人首丸」伝説が多大な影響を与えていることは、ほぼ間違いないでしょう。たとえそれ以前から何らかの鬼伝説があったとしても、この新たな伝説によって、そのほとんどが駆逐されてしまった感があります。
田村麻呂は大人気を博したスーパーヒーローであり、奥羽の人々もまた、田村麻呂の鬼退治に拍手喝采した。あわよくばその人気にあやかろうとさえした。
鬼と呼ばれたのは本当は「人」であり、我ら奥羽の民の先人であるというのに……。
しかし近年、その感覚は変化してきたようです。
もう10年以上前ですが、テレビの取材で、青森のねぶた祭りの山車の題材に、田村麻呂の鬼退治を扱うか否かで、年配者と若者の間でちょっとした議論になっていました。
田村麻呂はいわば東北の「侵略者」であり、そのような人物を東北の祭りで懸賞するのはおかしいとする若者側と、伝統だからとする年配者と。結論がどうなったのかは知りませんし、「侵略者」というのは少々言い過ぎの感もありますが、そのように東北の歴史を見直そうとする動きが、一般の人々の間でも広がっているのを感じました。
そうして、『鬼滅の刃』です。
鬼死骸の方々は、この『鬼滅』人気にあやかって、鬼死骸の名を全国的にアピールしようとしています。
朽ちていた鬼石の看板を建て直し、新たな案内板を設置し、廃線となったバス停を「観光用」に復活させるなど、なにかと頑張っておられるようです。
流行りモノに乗っかろうとする気持ち。それは今も昔も、基本的には変わらない。
しかし……。
『鬼滅の刃』では、「鬼」は元々「人」であり、鬼となる理由があったのだとされています。
東北の鬼も同じです。中央から「鬼」と呼ばれ、恐れられ蔑まれた人々は、故郷を思い、仲間を思い、
家族を思い、戦った。
その勇猛果敢な戦いぶりは、大和の人々の恐れと憎しみを呼び、
彼らは
「鬼」と呼ばれた。
東北には、かつて「鬼」と呼ばれた人々の無念の思いが眠っています。それを「正しく」伝えていくことは大事です。
大武丸が架空の人物であろうとなかろうと、そんなことは大した問題ではない。かつて「鬼」と呼ばれ、恐れられ蔑まれた人々の思いを後世に伝え、そこから何を学ぶのか。
そのためなら、流行りモノに乗っかることも、また良し。
『鬼滅の刃』の大ヒットは、無念に散った鬼どもの思いを、現代人に「知らせる」、そんな役割があるのかも知れない。
鬼の「復権」は今
「ここから」始まる。
おしまい。
拙ブログの第1回目のタイトルは『鬼の国』でした。
鬼伝説や鬼と付く地名は全国に数々あれど、中でも岩手県は特に多い気がする。なにせ「岩手」という県名そのものが、鬼と関連しているわけですから。
一関市赤荻(あこうぎ)には「鬼吉」という地名があり、これは由来などよくわからない。同じく一関市室根町に聳える霊峰室根山は、往古、「鬼首山」と呼ばれ、この山に棲む鬼のような山男たちが里に降りて悪さをするので、朝廷に頼んで征伐してもらった。
その鬼の首を埋めたことから、鬼首山と呼ばれたそうな。
室根山にご鎮座される室根神社の御祭神は熊野の神。室根山の麓にご鎮座される南流神社には、熊野三神の一柱であられる「ハヤタマオの神」が祀られています。
この南流神社、ヤマトタケルノミコトの東国征伐によって滅ぼされた蝦夷や、戦死した兵士たちの霊を弔う目的で建てられたようです。創建は養老の頃といいますから700年代初期でしょうか。そんな昔から、敵味方の区別なく戦死者を祀る風習が、この奥州にあったことに、何やら感慨深いものがあります。
ハヤタマオの神は出雲系の神とも言われていることから、討伐された鬼とは、あるいは出雲や大和の地を追われた人々、ナガスネヒコ一族にも連なる系譜を持つ人々の末裔かもしれず、蝦夷と呼ばれた人々の深淵が、ほんの一部ですが、垣間見えた気がします。
鬼と呼ばれた人々への討伐行動が数多く行われた、それが多くの鬼伝承を生んだことは確かです。
しかし、鬼と付く地名の由来は、それだけではない気がします。
「鬼死骸」や「鬼首」といった地名、これは元々、「おに」の音に近い地名があって、そこへ後から、「鬼」の字を当てたものではないかと、
思うわけです。
つまり、鬼死骸村は元々「おにしがい」に近い音を持った地名だったのであり、後々「鬼死骸」の字が当てられたのでしょう。
往古、「桜野壮」と言われていたとありましたが、「壮」はおそらく「荘」の意で、つまりは京の貴族の荘園だったと思われ、荘園であった時期だけ桜野壮と呼ばれたのだと思う。
荘園としての機能を失って後、再び「おにしがい」に戻ったのでしょう。
「アイヌ語地名」とよく言いますね。東北の地名で意味が分からないものは、みなアイヌ語で解けるとか。
しかし私は最近、このアイヌ語地名には懐疑的になっています。アイヌ民族の成立は鎌倉から室町期、その成立には北方民族の侵入が関与しているとか。ならばその言語にも、北方民族の影響がかなりあると思われ、
そのような言語が、鎌倉時代より遥か以前よりあると思われる地名と関わりがあるとは、
少々思い難い。
アイヌ語というよりは、古代縄文語とか、東北方言とか
そのように考えた方がいいのではないか。
そんな風に思っています。
もちろん、鬼の棲む国。「鬼の国」だからこそ、「鬼」の字が当てられたということはあるでしょう。地名を記録するのは役人の仕事であり、その役人は大概中央から派遣されてきた者たち。
彼らは多かれ少なかれ、奥州を蔑視していた。鬼よ、鬼の棲む国よ、と、蔑む気持ちがあった。
その気持ちが、元々あった地名に「鬼」の字を多く当てる行為となって現れた……。
考え過ぎ、かな?
では、当の「鬼」の字を当てられた側の人々はどうしたか。長いこと鬼と名の付く村で暮らしていたのですから、別段どうということもなく、普通に暮らしていたことでしょう。
そこへ現れた、奥州一番の流行りモノ、「田村三代記」と、そこから派生した「人首丸伝説」。
その流行りモノ、人首丸伝説によれば、大武丸は栗原の地で死んだとか。
栗原は鬼死骸村の隣。ならば、
【おらほの村さ死骸さ埋めだっつー話も、あり得るんでねーべが?】
こうして鬼死骸村伝説は生まれた。
つまり鬼死骸村伝説とは、流行りモノへの便乗だった!?
近年「鬼滅の刃」が大流行し、老いも若きも流行りモノに便乗する人たちの、なんと多いことか。
今も昔も同じです。みんな流行りモノには乗っかりたいのだ。
これが結論?うーん、しかしこれだけでは、
なんだか
寂しい……。
もう少し、話を続けたい。
つづく。
坂上田村麻呂は古浄瑠璃などの語りもの芸能の世界で、鬼退治の英雄として描かれていきます。『鈴鹿の草子』『田村の草子』などの語りものが紡がれ、その影響を受けた『田村三代記』が、江戸時代に生み出されるに至ります。
田村三代記を語り伝えたのは、「奥浄瑠璃」の語り部たち。奥浄瑠璃とは主に仙台藩領内で派生した芸能で、琵琶や三味線を奏する盲人たちによって、奥羽各地に広められ、その影響は遠く九州にまで及んだといいます。
田村三代記に登場する田村麻呂は、観音菩薩の化身であり、日の本を魔の巣窟にせんとする鬼どもを退治するスーパーヒーローです。この演目は大変な人気だったようで、多くの神社仏閣がその創建縁起に田村麻呂伝説を取り入れたようです。その為、「田村麻呂による創建」と伝える寺社が一挙に増えたらしい(笑)。
田村三代記の影響は大変なもので、新たな地方伝承を生み出すに至ります。
その伝承の一つ、「人首丸伝説」。
岩手県奥州市江刺区米里は、かつて江刺郡米里村であり、さらにその前は「人首村」と呼ばれていました。これは悪路王の甥に由来するとか。
地域の伝承によれば、坂上田村麻呂の征討によって悪路王は磐井(岩手県一関市及び平泉町)にて敗死し、その弟の大武丸は栗原(宮城県栗原市)の地で敗死します。
大武丸の息子・人首丸は江刺に逃れ抵抗を続けますが、ついには討たれ、その地に葬られたといいます。
田村三代記の絶大な影響力が、新たな地名伝承を生み出すに至ったわけです。ところで、
磐井郡と栗原郡は隣同士、岩手県と宮城県の県境で隣合っています。
そうして、かの鬼死骸村は、まさしく県境、栗原の地と隣合ったところ。
どうやら、繋がってきましたね。
つづく。
「ひとかべまる」と読みます。
岩手県奥州市江刺区に、かつてあったとされる、「人首村(ひとこうべむら)」の由来となった「鬼」です。
明日以降の記事に、たぶん出てくると思います。今日は予告編~。
しっかし、めっちゃカッコええ曲やな!これぞヘヴィ・メタルや!!!
延暦20年(801)、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、時の桓武天皇の命を受け、未だ抵抗を続ける蝦夷を征伐するため、奥州胆沢の地(岩手県奥州市)に進軍します。
田村麻呂は武威を持って力押しにすることをせず、大和の「力」を見せつけていきます。森を伐り開き、巨大な城(胆沢城)を建築し豊かな経済力を見せつけ、また多くの寺社を建立し人心慰撫に努め、大和に抵抗することの無意味さを、蝦夷たちに実感させていきました。
翌延暦21年、抵抗蝦夷の長・阿弖流為(アテルイ)と腹心の母礼(モレ)が投降。田村麻呂は二人を都に連れていき、二人の助命嘆願を申請します。
殺すよりも、今後の蝦夷政策に役立てた方が良いとの考えでしたが、朝廷側はこれを却下します。
阿弖流為と母礼は、河内杜山にて処刑されます。
この様に、田村麻呂は阿弖流為を討ってはおらず、むしろ助けようとしたのですが、後世、田村麻呂のイメージは、都に仇成す悪辣なる蝦夷を討ち破った武門の英雄として神格化されていきます。
一方阿弖流為は、悪人のイメージが肥大化していき、そのイメージはやがて、京の都に攻め上らんとする「鬼」の如き存在、「悪路王」を生み出します。
悪路王は架空の存在ながら、悪しき蝦夷の象徴的存在となり、多くの説話、物語に登場し、田村麻呂をはじめとする英雄たちに倒される存在として描かれていきます。
常陸国一之宮、鹿島神宮には悪路王の首を模したとされる木像が保存されています。鹿島神宮の御祭神はタケミカヅチノ神。武門の神であり、武人であった田村麻呂が篤く信仰していたと伝えられ、討ち取った悪路王の首を、鹿島神宮に奉納したとする言い伝えがあるのです。
悪路王は架空の存在だし、田村麻呂は阿弖流為らを討ち取ってはいないのですが、伝説は新たな伝説を呼ぶということでしょう。江戸時代にこの首像を彫り奉納した人物がいたのです。
悪路王首像(常陸国一之宮鹿島神宮蔵)
悪役面してますねえ(笑)こういうイメージだったのですね。
さて、英雄田村麻呂のイメージは江戸期に至り、更なる飛躍を見せるのですが、
それはまた、次回。
つづく。
『復刻版 真瀧村誌』より
往古、吾勝郷桜野壮ト云ヒ、延暦20年、坂上田村麻呂、大武丸ノ賊従ヲ退治シ、其死骸ヲ埋メ置キタル。
ヨク鬼死骸トイフ
つまり、往古は吾勝郷の桜野壮と言われていた村でしたが、坂上田村麻呂によって退治された賊徒、大武丸の死骸を埋めたところから、鬼死骸と言われるようになった。
桜野壮なんて雅な村名から、鬼死骸なんて、凄い落差です。大武丸という賊徒=鬼の死骸を埋め、その上に置いたとされる大石は鬼石と言われ、今でもその堂々たる姿を見ることができます。
この鬼石の延長線上の丘の上に見えるのは、田村麻呂による創建と伝えられる鹿嶋神社の鳥居。
この構図、私には鹿嶋の神が、この鬼石を見張っているかのように感じられ、田村麻呂による鬼封じの痕跡なのだろうか、なんてことを想像してしまいます。
さて、この言い伝えの背景について、もうちょっと掘り下げてみたいと思いますが、それはまた、次回。
つづく。
岩手県一関市真柴地区には、かつて「鬼死骸村」という名の村がありました。
明治以降、市町村合併等によりこの村名は廃され、住所録などには記載されておりませんが、現在でも通称として普通に使われています。
なんだか横溝正史の小説に出てきそうな村名ですが(笑)、本当にあったんですよね。
この「鬼死骸村」に関する伝説など、私なりに少しだけ、
繙いてみたい。
さて、この鬼死骸村のあったあたり、古代においては「吾勝郷(あかつごう)」と言われていたらしい。
岩手県一関市萩荘地区の奥、芦の口という地に鎮座される「吾勝神社」。
ヤマトタケルノミコトによる創建と伝えられる神社で、御祭神は吾勝大神、少名彦名大神、白鳥大神の三柱の神が祀られております。
白鳥大神とは創建者と伝えられるヤマトタケルノミコトのことです。ミコトが岩手県にまで来たとする伝承は、古事記にも日本書紀も記載されておりませんが、やはり一関市中里に鎮座される「配志和神社」もまた、ヤマトタケルノミコトによる創建と伝えられ、ミコトは白鳥大神の御神名で祀られています。
私が思うに、この白鳥は文字通り、「白い鳥」のことではないかと。
関東以北では、白鳥や白鷺などの白い鳥を、神として祀る風習があったと聞き及びます。この風習に、ミコトが死後白鳥になったとする伝説が融合されたのではないかと、
そんな風に想像します。
少名彦名大神は養蚕の神ですね。この辺りでは養蚕が盛んでしたから、その関係でしょうか。
で、肝心の吾勝大神、こちらはニニギノミコトの父神であられる、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)です。神武天皇はこちらの神の玄孫にあたられるわけです。
この吾勝神社があったから「吾勝郷」の名がついたのか、それとも「あかつごう」の地名が先にあって、後付けで吾勝大神が祀られたのか。
おそらくは後者だと、私は思う。
抑々、「あかつごう」なる名称が大和言葉なのかどうかもわからない。元々地元の方々が使っていた、この土地の言葉だった可能性は否定できないと思う。
岩手県一関市立萩荘小学校の西側を流れる久保川に、「赤子橋(あかこばし)」という橋が掛かっています。つまりはその橋周辺の地名がかつて「あかこ」だったということ。また一関市の隣、宮城県栗原市金成には「赤児(あかちこ)」という地名が今も残っており、これらのことから類推するに、意味はわからないけれども、元々「あかつごう」あるいは「あかちこ」「あかこ」など、これらに近い音の地名があって、そこに後々「吾勝郷」の字を大和側が充てたのでしょう。
地元の言葉つまりは、
「蝦夷」の言葉だったのではないかと、考えたい。
ですから、吾勝大神が祀られたのもまた、後付けのこと。私は寧ろ、白鳥大神の「白」が気になりますね。これは果たして、白い鳥ということだけなのだろうか?
蝦夷の土地、吾勝郷にあった鬼死骸村に伝わる伝説。これから少しだけ、繙いてみようと思います。
つづく。
日曜日の朝に放送されている幼児教育番組、「しまじろうのわお」の中で、この曲が使われているそうです。
いかついバンド名だからといって怖い人たちとは限らないよという、「教育」の意味もあるとかないとか。ベネッセも面白いことをしてくれます。
打首獄門同好会、一見ふざけてるようで、哲学的な歌詞を書くバンドですよね。考えるとはなにか?考えるとは?考えるとは?考えるとは?考えるとは?カンガルーとは?
お見事!
ベネッセはいいセンスしてる。好感度爆上がりだね!
打首獄門同好会
スターダスト・プロモーション所属の、関西を拠点として活動するアイドル・グループ「たこやきレインボー」は、5月9日のライブをもって、清井咲希(21)、堀くるみ(21)、根岸可蓮(20)、春名真依(20)、彩木咲良(19)のメンバー5人全員、グループを「卒業」することが発表されました。
個々人の芸能活動は続けつつ、相応の充電期間を置いた後、再び同じ5人での活動を始めるとのことです。
もう一度5人で始める予定があるので「解散」ではないし、さりとて、たこやきレインボーとしての活動を再開するわけでもないので、「休止」でもない。
だから、「卒業」だということだね。なるほど。
結成以来9年。平均年齢12歳で始まったグループも、いまや平均年齢20歳。メンバーとしても色々思うところがあったのでしょうね。
でもいずれ再び5人での活動を再開させる予定だというところが、何か、たこ虹らしさを感じて
面白いというか
喜ばしいというか
まあ、年齢だけで、どうこうというわけではないのでしょうけれどね。年齢だけのことを言うなら、ももクロはどうなるんだ!?ということになりますけどね(笑)。
あの方たちは「バケモノ」ですから、普通のアイドルの基準は通用しません。言うだけ不毛だということを
理解しましょう。
いずれにしろ、たこ虹の選択
尊重しましょう。
『オーバー・ザ・たこやきレインボー』2012
インディーズ時代のデビュー曲かな?当時は6人だったようです。奈良﨑とわちゃんという、赤色担当の子がいたのですが、1年くらいで辞めたらしいです。その後は5人でずっとやってきた。
9年前ですから、メンバーはまだ中学生とか小学生です。あまりに幼くて可愛いらしくて、何だか胸が苦しくなってくる。
こんな頃から、頑張ってきたんだねえ……。