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黄金の國【コラム】7 平泉文化の広がりと白山

2013-08-28 21:32:29 | 黄金の國


鎌倉幕府の官選史書『吾妻鏡』によると、奥州藤原氏初代・藤原清衡は

「奥羽一万ヵ村の村ごとに伽藍を建立し仏聖灯油田を寄進した」
(『吾妻鏡』文治五・九・二三)

といいます。福島県いわき市の願成寺・白水阿弥陀堂は、藤原秀衡の妹徳尼による創建と伝えられ、「白水」とは、平泉の「泉」の字を二つに分解したもの(「白」+「水」=「泉」)なのだそうです。また、茨城県常陸太田市の西光寺薬師如来坐像は、当地の豪族だった佐竹昌義に嫁した清衡の娘による造像と伝えられています。

このように平泉文化の広がりの痕跡は各地に残されているのですが、なかでも際立っていると思われるのが、北陸の霊峰・白山に伝わる「秀衡伝説」です。




白山は加賀、美濃、越前に跨って聳え立つ霊山で、三峰それぞれが神格化され本地仏が祀られていました。『白山之記』によると、秀衡によって白山山頂に金銅仏が、御前峰には金銅十一面観音像、大汝峰には金銅阿弥陀如来像、別山には金銅聖観音像がそれぞれ寄進されたとあり、秀衡の白山にたいする信仰心の篤さが感じられます。
この寄進より400年後、天正13年(1585)に、この別山の本地仏・聖観音像が盗難に会い、鋳つぶされるという事件が起きます。これは奥州藤原氏の寄進だから、純金製であるに違いないと勝手に思い込んだ盗賊が鋳つぶしてしまったもので、奥州の黄金伝説は、国内においてもかなり大きく喧伝されていたものと思われますね。

白山周辺には他にも秀衡の伝説が伝えられています。

岐阜県郡上市石徹白(いとしろ)の白山中居神社には、秀衡の寄進による銅像の虚空蔵菩薩坐像が祀られていましたが、明治維新の後、神仏分離令によって河原に捨てられてしまった。これを里人が救い、観音堂を建てて安置され、現在も大切に祀られています。

この石徹白に伝わる伝説が面白い。この石徹白の上杉家に伝わる『上杉系図』によれば、秀衡が二体の金銅仏を造らせ、三男忠衡を名代とし、桜井平四郎と上杉武右衛門に命じて、白山の上神殿(石徹白の白山中居神社)と下神殿(伊野原)にそれぞれ一体ずつ奉納させました。
その後、上杉武右衛門はそのまま石徹白に住みつき、一族郎党は白山社の社人となり、その子孫は「上村十二人衆」として代々この像を護持し続けてきたのだそうです。
白山の麓で、奥州藤原氏の家臣の末裔たちが、秀衡の命を受け継ぎ代々守り続けて来たとは、なにやらロマンですねえ(笑)
ちなみに伊野原の下神殿に祀られていた仏像は、現在、平泉寺塔頭顕海寺に祀られている銅像阿弥陀如来坐像である可能性が高いそうです。

その他、石川県白山市の白山比メ神社の阿形の獅子と吽形の狛犬は、秀衡による寄進と伝えられるもので、国指定重要文化財とされています。また、白山市の林西寺に伝わる金銅十一面観音像も、秀衡による寄進との伝承があるそうです。



秀衡の白山への想いの深さ。そこに政治的なものを見る研究者もおられるようです。素人の私にはわかりませんが、秀衡の白山への篤い信仰心というものを、もっと素直に認めても良いような気がしますね。
自ら「東夷の酋長」を名乗り、蝦夷であることにアイデンティティを見い出していた奥州藤原氏です。その蝦夷達、原日本人ともいうべき人々が信仰していたであろう白山神を大切にしたいという思いを、私は秀衡の行動から見い出したい。もちろんこの時代は源平争乱の時代、源氏と平氏両者との、なんらかの政治的駆け引きというものも、裏側にはあったのかも知れませんが。



「秀衡伝説」は東北を越えて関東や紀州熊野にまで残されています。また、京都市上京区の大報恩寺(千本釈迦堂)は秀衡の孫・義空上人による建立と伝えられています。京においても「秀衡」の名がある種の「ブランド」のように扱われている。「秀衡ブランド」は奥州黄金伝説とセットとなって、一時期大いにこの国を席巻したように見受けられます。




平泉に関しては、紹介し切れていないことがまだまだ沢山あります。そのことは今後も機会がある度に書き連ねていきたいと思います。ですから【黄金の國】シリーズは不定期ながらまだまだ続くということで、

よろしくお願いします。



【参考資料】
『平泉藤原氏』
工藤雅樹 著
無明舎

『平泉 浄土をめざしたみちのくの都』
大矢邦宣 著
河出書房新社