風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

映画『ゴジラ ファイナルウォーズ』 平成16年(2004)

2014-06-30 15:49:14 | ゴジラ


                     

私はこの作品が嫌いでした。

いや、シリーズの中の一作品ということであれば、こういう毛色の違った作品もたまにはありかな。で終わったでしょう。

しかしこの作品は「ファイナル」と銘打っている。最終話、いわばシリーズすべての総括ということになる。

これのどこが総括なんだ?

基本的なストーリーは、宇宙人の侵略ものに怪獣映画を掛け合わせた、昭和40年代から50年代にかけてのゴジラ映画を現代風に焼き直し、かんとくお得意のアクションを派手に投入して作り上げた“だけ”のもの。

長い長い、広い広い、深い深いゴジラシリーズの、ほんの一片を切り取ったに過ぎない。

もう一度言う、これのどこが総括なんだ?

おそらくは、監督自身の怪獣映画のイメージが、この時代に作られ、この時代で止まったままなのでしょう。この監督は怪獣映画に対して、ゴジラに対して、なんの愛着も関心も持ってはいないのだ。「怪獣映画ってこんなんでしょ?」とばかりに、ちょちょいと作ってしまった。私にはそうとしか思えなかった。

なんでこんな奴(北村龍平さんには大変失礼ですが)に撮らせたんだ!いくら営業的に知名度が高いからって、それだけで選んでんじゃねーよ!プロデューサー!(富山さんゴメンナサイ)。金さえ稼げりゃ、ゴジラがどうなってもいいってのかよ!トチ狂ってんじゃねーよ、バーカ!(スタッフ、関係者の方々、ホンットに申し訳ない)。



もう、荒れましたねえ。大体なんで昭和の怪獣しかでてこねーんだよ!ビオランテとかデストロイアとか、メガギラスとかも出せよ!

原水爆の恐怖はどこいった!?人類の誤った科学信仰への警鐘はどこいったんだよ!?それ無くしてゴジラの総括などと言えるか?いーや言えねえ!

認めねえぞ!俺はぜってー認めねー!

これがファイナル?ふざけんなー!!!!!



……とまあ、こんな感じで荒れた荒れた(笑)。

まあ、今となっては笑い話です。

なぜ笑い話に出来たのか。それは、この作品がもう、「ファイナル」ではないからです。




今年、ハリウッド制作の新作映画「GODZILLA」が全世界で公開されました。

日本でも、7月に愈々公開の運びとなります。

すでにご覧になられた「ゴジラ識者」の方々によれば、日本のゴジラシリーズが持つすべての要素を抽出して、一つの作品の中に綺麗に纏め上げているとか。

日本のゴジラの魂を、キッチリと継承してくれる映画が、ハリウッド製とはいえ出来たのです。

もはや、「ファイナルウォーズ」は「ファイナル」ではなくなりました。

シリーズ中の一編にすぎなくなりましたので、ならばこういう毛色の変わった作品も、ゴジラシリーズの奥深かさの一つという事で、

認めてあげます。




さて、あとは実際に「GODZILLA」を鑑賞して確かめる必要がありますね。

日本のゴジラの精神を、ゴジラの魂をキチンと受け継いでいるのかどうかをね。



それまでは、絶対死ねません(笑)



                      
                      北村一輝演ずる「X星人」
                      この“悪代官”みたいな演技だけは、この作品唯一のお気に入りでした(笑)







『ゴジラ ファイナルウォーズ』
制作 富山省吾
脚本 三村渉
   桐山勲
音楽 キース・エマーソン
ゴジラテーマ 伊福部昭
特殊技術 浅田英一
監督 北村龍平

出演

松岡昌宏
菊川玲
ドン・フライ

水野真紀
ケイン・コスギ
舟木誠勝

國村隼
高杉亘
上田耕一

泉谷しげる
須賀健太

長澤まさみ
大塚ちひろ

四方堂亘
佐野史郎
篠原ともえ
松尾貴史

中尾彬
水野久美

佐原健二

宝田明


北村一輝

平成16年 東宝映画

映画『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』 平成15年(2003)

2014-06-29 15:41:27 | ゴジラ
 

                       



前作『ゴジラ×メカゴジラ』の続編。前作では、最前線で戦う戦闘員たちが主体の物語でしたが、本作では機龍=メカゴジラを整備する整備員たちが主体の物語となっています。


いうまでもなく、整備員たちが精魂込めて整備した機体あってこそ、戦闘員たちは戦える。たとえ戦場には出なくとも、彼ら整備員の思いはその機体に乗って、一緒に戦っている。




機龍の整備士、中條義人(金子昇)の祖父、中條信一(小泉博)は言語学者で、昭和33年、南海の孤島インファント島にて、モスラを奉ずる“小美人”と心を通わせた人物。

2004年、そんな中條博士の元へ、モスラに乗って小美人(長澤まさみ・大塚ちひろ)が訪れます。

彼女たちは言います「ゴジラの骨を海に帰してください」

自然を破壊し、死者(=ゴジラ)の眠りをも妨げる。そんなことが許されるはずはない。

中條博士は友人でもある総理大臣・五十嵐隼人(中尾彬)のもとを訪れ、この旨を進言します。

しかし今目の前の危機を考えた時、機龍を簡単に手放すわけにはいかない。国民の生命・財産を預かる総理大臣としては、そう言わざるを得ないでしょう。




機龍の初代メイン・オペレーター、家城茜(釈由美子)は、アメリカへ研修に行くこととなり、機龍と別れることになります。壮行会の夜、会場を抜け出し、一人機龍の格納庫こデッキで佇む義人。

そこへ、やはり会場を抜け出してきた家城がやってきます。

機龍を見上げ、家城がぽつりと言います

「機龍はもう、戦いたくないのかも知れない」

家城は義人に向き直ると、「機龍をよろしく」と言い残して去って行きます。しかし途中で立ち止まり、こちらに背中を向けたまま、なにかを堪えるかのように頭をちょっと下げるんです。

家城は泣いていたんですね。その涙の意味は、ゴジラとの決着がつかないまま離れなければならないくやしさなのか。それとも

戦い続けなければならない、機龍の運命に対してなのか。

いずれにしろ、家城は絶対に人前で涙は見せないんですね。それは彼女の生い立ちからくる矜持なのでしょう。

なんとも意地らしいというか、哀れというか。





手塚監督がこの2作品を通して描きたかったことは、国防の現場で働く人達のカッコよさではなかったか。

怪獣映画というフィクションを通じて、国防の大切さを描きたかったのだと思う。

一方で、人類が大自然に対しておこなってきた数々の過ちというものを、ゴジラやメカゴジラの存在を通して告発している。その大自然側からの告発者がモスラであり小美人なんです。

矛盾だらけの人類の行いですが、それでも

人類は誤りを正しつつも、しっかりと前へ進んで行かなければならない。

手塚監督はそうしたメッセージを、この2作品を通して熱く力強く発信している。私にはそんな風に思えました。





それにしても、11年前の映画ですが、「被災地」などという言葉がでてくるし、機龍の修理に掛ける金なんか後回しにして、その分被災地に金を掛けろ!なんてことを言う「識者」(峰岸徹)なんてのが登場したりします。

被災地にお金を回すのは当然にしても、国防の要である機龍へ掛ける予算を削るわけにはいかないでしょう?こういう困ったことを言いそうな人、現実にもいますよね?(笑)






言語学者、中條信一を演じた小泉博さんは、昭和36年の映画『モスラ』で、同人物を演じています。当時の小美人はザ・ピーナッツでしたが、さすがにこのお二人の御出演は無理ですので、長澤まさみと大塚ちひろの新人二人にお鉢が回ってきたというわけです。



さて、この次の作品を持って、ゴジラは一応のファイナルを迎えることになります。

果たして、ファイナルと呼ぶに相応しい作品なのかどうか。

なんとも……。



左から、ゴジラ、中尾彬、金子昇、小泉博、機龍(メカゴジラ)








『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』
制作 富山省吾
脚本 横谷昌宏
   手塚昌明
音楽 大島ミチル
 
挿入歌「モスラの歌」
作詞 田中友幸
   関沢新一
   本田猪四郎
作曲 古関裕而
編曲 大島ミチル
歌  長澤まさみ
   大塚ちひろ

特殊技術 浅田英一
監督 手塚昌明

出演

金子昇
吉岡美穂
虎牙光輝

高杉亘
益岡徹
中原丈雄

上田耕一
清水紘治
山田辰夫

峰岸徹
飯星景子
升毅

六平直政
友井雄亮
彦麻呂

釈由美子

長澤まさみ
大塚ちひろ

喜多川務
大垣宏文

小泉博

中尾彬

平成15年 東宝映画

映画『ゴジラ×メカゴジラ』 平成14年(2002)

2014-06-26 20:13:53 | ゴジラ


                      



メカゴジラ4度目の登場です。



昭和29年のゴジラ初上陸以降、日本には度々巨大生物が現れるようになります(モスラ、ガイラ等)。

日本政府は対怪獣政策として1966年、対特殊生物自衛隊、通称「特生自衛隊」を設立、殺獣光線車メーサーなどの新兵器を開発、怪獣出現に備えます。




1999年、激しい台風の中ついに2代目ゴジラが千葉・館山に上陸します。特生自衛隊三尉・家城茜(釈由美子)もメーサー車に乗り込み出撃、ゴジラに攻撃を仕掛けますが、嵐の為効力が半減し効かない。

ゴジラの吹く放射能熱線を避けるため、急いでメーサー車を後退させる家城。しかし一瞬の恐怖感が後方確認を怠らせ、他の自衛隊車両に衝突してしまう。

衝突された車両は崖下に落下、ゴジラに踏み潰され、乗っていた隊員・葉山(森末慎二)が殉職してしまいます。



葉山殉職の責任を取るかたちで、家城は文書係へ転属。それを口惜しげに見送る上官、富樫二佐(高杉亘)。



時の総理大臣・柘植真智子(水野久美)は、対ゴジラ用究極兵器開発に着手、マスコミが軍事大国化の懸念を叫ぶ中、続々と集められる“知”の精鋭たち。

科学技術庁長官・五十嵐隼人(中尾彬)の指揮の下、初代ゴジラの骨からDNAを抽出し、そのDNAとコンピューターを繋げることで、生物並の敏捷性と判断力をもったロボット兵器を開発します。

MFS-3機龍または3式機龍。通称「メカゴジラ」の誕生です。




機龍隊の隊長に抜擢された富樫は、家城を機龍隊メンバーに招集します。再び最前線に戻った家城。しかし機龍隊には葉山の弟(友井雄亮)も配属されており、過去のいきさつから、家城は機龍隊の中で孤立してしまいます。





……とまあ、こんな感じで始まるわけですが、釈由美子がとにかくカッコイイです!釈ちゃんを観るためだけにでも、この作品を観る価値はあると思いますね、ホントに。

釈由美子演じる家城茜は、両親がいない環境で育ったようで、ずっと自分は“いらない命”だというコンプレックスを持っていたようです。そして自分をつまはじきにした世間すべてと戦ってきた。どこにも帰る場所はなく、自衛隊以外にいる場所はない。

機龍=メカゴジラもまた、ゴジラのDNAから生まれた“望まれざる命”。ゴジラと戦う意外に存在理由のない、本来ならいらない命。

家城は機龍との間に、何か運命のようなものを感じていたのかも知れない。



                  




そんな家城が出会った少女、湯原沙羅(小野寺華那)。機龍製作チームの科学者、湯原徳光(宅麻伸)の娘である彼女は、幼い時に母を亡くし、命というものに敏感になっていました。彼女は言います。

「大人は命は大切だと言うけれど、誰もこの子(機龍)をかわいそうだと言わないじゃない!この子だって生きてるんだよ!」

原水爆でゴジラを生み出し、今度はそのゴジラのDNAからメカゴジラを生み出す。彼女の言葉は、そんな大人たちの欺瞞を告発しているかのようです。




いったいいつまで大自然を弄べば気が済むのか。

こんなことを続けていれば、大自然は黙っちゃいない。



さらに沙羅は言います。「いらない命などない」と。

この言葉に家城は衝撃を受けます。「いらない命などない」

家城の中で、なにかが融けていきます。




戦う以外の道を知らない家城と機龍。

己の存在理由を掛けた戦いが始まる。





この映画、一度や二度観たくらいでは、その深さが分からないかもしれません。

噛めば噛むほど味が出る。スルメみたいな映画です。

出来得れば、三度、四度、五度と繰り返し御覧になることをお勧めします。

最初は見えなかったものが、段々見えてくるかもしれませんよ。





以前私は、怪獣に敬礼を捧げたのは『ガメラ2』と『ゴジラ モスラ キングギドラ大怪獣総攻撃』の2作品だけ、という意味のことを書きました。

訂正します、もう一作品存在しました。




我が戦友に敬意を込めて








『ゴジラ×メカゴジラ』
制作 富山省吾
脚本 三村渉
音楽 大島ミチル
特殊技術 菊池雄一
監督 手塚昌明

出演

釈由美子
宅麻伸
小野寺華那

高杉亘
友井雄亮
渡辺哲
中原丈雄

上田耕一
臼井晃
六平直政
萩尾みどり

吹越満
江藤潤
北原佐和子
田中実

森末慎二
柳沢慎吾
杉作J太郎
藤山直美

村田雄浩
永島敏行
田中美里
谷原章介

喜多川務
石垣広文

松井秀喜

中村嘉葎雄
水野久美

中尾彬

平成14年 東宝映画

縄文武士道 その5 反骨の縄文士道

2014-06-24 15:31:44 | 歴史・民俗


                       
                       映画『椿三十郎』より、椿三十郎(三船敏郎)


                       
                       ドラマ『御家人斬九郎』より、松平残九郎(渡辺謙)





前九年合戦、後三年合戦の顛末を著した文書、「陸奥話記」には、源氏の暴虐非道なふるまいが描かれており、対する安倍一族は勇猛果敢で正々堂々とした戦いぶりで描かれています。

書いた人物が源氏嫌いだったかも知れず、ある程度割り引いて読むべきとはいえ、ここに描かれている源氏の姿に、後々我々が思う所の「武士道」は一片も感じられない。

唯一武士道らしさが感じられるとするなら、それは衣川柵が陥落し逃走する安倍貞任に向かって、源義家が「衣の舘はほころびにけり」と呼びかけると、貞任がすかさず「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を返した。これに感銘を受けた義家が追撃を止めたというくらいでしょうか。

ともかく、この頃の武家の棟梁源氏には、今日我々が思うところの「武士道」なるものはほとんどなかった。と私は感じています。






                        
                        ドラマ『長七郎江戸日記』より、松平長七郎(里見浩太朗)




蝦夷の戦い方は基本ゲリラ戦にならざるを得ません。数で押す朝廷軍に対抗するにはそれしかないからです。

しかし決して必要以上に相手をいたぶり、残虐に殺すようなことはほとんどなかったと思われます。対する源氏は
明らかに殺すことそのもの、それも出来るだけ相手を苦しませて殺すことに異常なまでの快感を覚えている場面が多数描かれているのです。

一体どちらが、武士らしいのか、ということですね。




後三年合戦終結後、生き延びた清原清衡(後の藤原清衡)は奥州の中心、平泉に拠を移し、奥州平泉藤原氏100年の栄華の基礎を築きます。

清衡は平泉に中尊寺を建立します。その供養願文において清衡は、敵と味方との区別なく、奥州における戦で亡くなった“すべて”の人々の御霊と、毛羽鱗介(鳥、獣、魚その他すべての生き物)の御霊が成仏することを願っています。

敵味方の区別なし。しかもそれだけではない、人間以外のすべての「命」が成仏することを共に願っている。仏教の影響ありとはいえ、私はここに、縄文以来の「和」の精神を感じます。

一方の源氏はどうでしょう。源義家は後三年合戦で得た蝦夷の首をぶらさげて、恩賞を得ようと京へ揚々帰路につきます。

しかし朝廷は、義家が清原氏の内粉に勝手に干渉した私戦であると見做し、朝廷には関係ないとして恩賞をだしませんでした。帰路の途中でそれを知った義家は激怒し、持参した首を道端に投げ捨てたそうです。



倒した敵の成仏をも願う藤原清衡と、敵の遺骸を平気で辱める源義家と

一体どちらが、「武士」なのでしょうね。



                        
                        ドラマ『子連れ狼』より、拝一刀(萬屋錦之介)






これは近世のことですが、江戸時代初期、北海道にてアイヌの首長シャクシャインが中心となった、大規模なアイヌの反乱が起こります。初めは松前藩が対応に当たっていましたが、ついには幕府や東北諸藩の助成を受け、鎮圧行動に出ざるを得なくなってしまいます。

しかしそれでも乱は治まらず、松前藩は謀略を巡らし、和睦と称してシャクシャインをおびき出し、酒を飲ませて寝入ったところを殺してしまいます。首長の死によってアイヌ側は総崩れとなり、要約反乱は鎮まりました。

以前に紹介した九戸政実の例にそっくりですね。北の人間は総じて人が好すぎるようです。

この人の好さは縄文以来のものでしょう。アイヌの人々も沖縄の人々も、遠路遥々訪れてくれた客人を丁重にもてなす風習がありました。これは先に挙げた「客人神」にも繋がるものでしょう。

その歓待ぶりは沖縄人が「ヤマトンチュ」と呼び、アイヌ人が「シャモ」と呼んだ和人(日本本土人)にも変わらず行われた。

これは基本的に、人を信じる気持ちがなければ出来ないことです。人を信じるとは、人の「良心」を信じるということです。

だからシャクシャインは信じた。

シャモの良心を…。




私はこれをもって、和人には良心がなかったなどと断じるつもりはありません。ただあまり綺麗な勝ち方だとは言えないことは確かです。やはりアイヌ側に潔さ、爽やかさを感じざるを得ない。

しかし世界的にみれば、日本人は人が好い方だと言えるでしょう。特に最近は人が好すぎて無防備に過ぎる点が目立ちすぎる。

防備は必要ですよ。もっとも守るべきはなにか。蝦夷たちはその守るべきもののために戦った。

今の日本人に、その気概があるだろうか。




                       
                       ドラマ『鬼平犯科帳』より、長谷川平蔵(中村吉右衛門)






私は反骨という言葉が好きで、よく使います。

ここではっきりさせておきたいことは、「反骨」と「反体制」はまったく違うということです。




例えば徳川光圀。黄門様の愛称で親しまれるこの方は、完全に体制側の方でしたが、「反骨」の人でした。

幕府に対し歯に衣着せぬ批判を行い、特に五代将軍綱吉の「生類憐みの令」には徹底的に反抗し続けました。

徳川幕藩体制を崩そうなどという意図ではなく、寧ろ幕藩体制維持と庶民の生活の安寧を図るため、あえて批判を続けた。

これが反骨です。


 


日本の体制の真の中心はどこにあるのでしょう。

言うまでもなく、それは皇室にあります。

皇室をお守りすることが、日本の国体、日本の文化、伝統、ひいては日本人そのものを守ることに繋がる。


ならば、反体制とはすなわち、皇室を解体するということでしょう。この点をごっちゃにしてはいけない。


 


反骨の士とは、真に守るべきものを守るために戦う人々のことです。

戦うとは、なにも相手を傷つけたり殺したりということばかりではありません。

自分ができる範囲で、たとえ微力でも真に守るべきものを守るための行動を行う人々は皆、反骨の士です。

そのような方々を、私が愛する蝦夷の英雄、日本の歴史に名を残す志士たちにあやかって、「縄文士道の志士たち」
と呼ばせて頂く。

縄文時代以来の伝統文化、生命観、死生観。それらをすべて内に呑みこんだ縄文士道の志士たちの静かで、そして確実な行動が

我が国を守る礎となると、私は信じたい。




                       
                       ドラマ「必殺シリーズ」より、中村主水(藤田まこと)



ところで、さっきから張り付けている画像はなんだ?と思われている方もおられるでしょう。

御覧の通り、皆様時代劇のヒーローです。

さらにもう一人。

                      
                      映画『るろうに剣心』より、緋村剣心(佐藤健)



これで七人。いや、たいした意味はありません。単に私なりの『七人の侍』を集めてみた次第です。この七人なら絶対無敵でしょ?(笑)でも、まとまらないだろうなあ(笑)

『七人の侍』ではマズイかな。では『七人のもののふ』とでも呼びましょうか。もののふ、モノノフ、うーん良い響きだ(笑)


しかし、この七人よりも、ある意味もっと重要なのが、

                     
                     名も無き斬られ役(福本清三)



こういう方々あってこその時代劇、それを忘れてはいけません。






世間とは常に、名も無き人々の深き志と善意、誠意によって支えられている。ある意味、それこそ「縄文士道」。

おのおの方、志と善意と誠意、努々怠ることなかれ。

それと、出来れば先祖供養ね。                      

縄文武士道 その4 生命観

2014-06-23 14:24:20 | 歴史・民俗
 

        


岩手県内陸部に伝わる伝統芸能「鹿踊り」(ししおどり)。

その起源には諸説ありますが、私はおそらく、縄文時代以来の、動物霊の葬送儀礼ではなかったか、と思っています。

縄文人は鹿や猪、兎などの森の動物を狩って食料としていました。彼ら縄文人は、そうした糧となってくれた動物たちの霊に感謝を捧げ、丁重にあの世へ送り返した。

 

縄文遺跡で発見される貝塚ですが、一般的には「ゴミ捨て場」であったかのように言われていますが、どうやらそうとばかりも言えないらしい。大量の貝殻に混じって、他の動物の骨や壊れた土器片、人骨まで発見されることもある。

これは単なるゴミ捨て場ではなく、やはり葬送儀礼の行われた場所ではなかったか。

食糧となってくれた貝の霊を送り、動物の霊を送り、壊れた土器の霊を送り、また人間も送った。

ここに、縄文人の生命観が窺えるような気がします。





大いなる大自然の中で、すべての存在は生かされている。

それは人間も他の動物もみんな同じ、森の木々も、山も、川も、海も、人が作った土器などの物質も、みなすべて大自然の大いなる伊吹の中で生かされている。縄文の人々はそう考えていたに違いない。

みなすべて、大自然=神によって生かされた存在。

大自然は時にやさしく、時に災害などの災いも呼ぶ。しかし縄文人はそうした災いをも神の顕現であるとして祀った。和魂と荒魂の両方を祀る形態は、そのような世界観から生まれたものではないでしょうか。いずれも神の一側面に過ぎない、どちらも神の顕現なのだ、と。

それは人間も同じ、同じ人間の中に穏やかな面もあれば激しい側面もある。でもそれは、同じ一人の人間の中にある。

やさしくも厳しい大自然の中で生きて行く。そうした中で人々は、おそらく、すべての存在と「和」することを学んだのでしょう。

人の犠牲となってくれた動物たちと和するために、丁重にその霊をあの世へ送った。アイヌの方々はイ・オマンテで熊の霊を送る際、「また来いよ」と言って送るそうです。また来るためには、一度あの世へちゃんと送り返さないといけない。

あの世へ帰れなかった霊は、この世へ帰ってくることも出来ないのです。

あの世とこの世の循環。環=和ですね。

生きるとは、この循環=和を乱さないことだと、考えていたのかもしれない。




日本には古来より「客人(まろうど)神」という信仰があったそうです。

他所からやってきた人(神)を丁重にもてなすことで、幸いが得られ、邪険にあつかうと禍がもたらされる。

それは時に貴種であったり、神そのもの(蘇民将来伝承など)であったりするわけです。

他所からやってくる人は、新しい情報や技術、品物を持ってきてくれるし、時には新鮮な「子種」を置いて行く。非常にありがたい存在なわけですね。だから生命の循環を乱さないために、客人を歓待した。

もちろん、宿が無くて困っている人を単純に助けたいという情もあったでしょうが。




この「客人神」、現代でも人気がありましたね。

どこからともなくやってきて、ひょんなことから関わった一般庶民の家に泊めてもらい。

悪い奴らを懲らしめて、「カッカッカッ」と笑って去って行く、老人とその一行。

悪い奴らは、大概この老人一行を邪険に扱うんですね、そして最後に大きなしっぺ返しを食らう。視聴者はそれを観て胸が透く。

極めて日本的な勧善懲悪であり、日本古来の信仰に則った物語でもあったのです。

だからこそ、長い間人気を誇った番組だったのです。終了してしまったのは大変残念なことです。








「鎮まれ、鎮まれい!この紋所が目に入らぬか!」

「こちらにおわす御方をどなたと心得る!?畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!」

「一同の者、御老公の御前である。頭が高い!控えおろう!!!」


一同「ハハァー」



                      


                      



さて、和をもって他者と接する縄文人ではありましたが、その他者が明確に危害を加える(と彼らが判断した)者達であった場合、彼ら縄文人は徹底的に戦ったことでしょう。

危害を加える、それはすなわち、生命の循環を乱す行為でした。



原日本人とも言われる蝦夷たちが、古代日本において中央の政策に対し反乱を起こしたのは、おそらく自分達が先祖代々培ってきた伝統、生命の潮流を急激に乱されることを好としなかったからではないでしょうか。

蝦夷は彼らが代々つちかってきたものを守りたかった、だから、それを乱す者たちに反旗を翻した。

その蝦夷の戦い方は、勇猛果敢で堂々としており、潔く、爽やかですらあった。

そんな蝦夷と戦った中央の武士達は、ある意味衝撃を受けたのかも知れない。その蝦夷流の「もののふの道」はやがて中央の武士達に大きな影響を与え、それが日本の武士道として確立されていく。



なんてことを、つらつらと最近考えております。






この話、あともう少し続く…かな。



      

小説『蜩ノ記』

2014-06-20 12:44:09 | 
 

                        




2012年度、直木賞受賞作とか。私はそんなこと知らずに、書店で何気なく目に留まって、ふっと手に取ってそのまま何も考えずにレジへと運びました。

本には、稀にそのような力を持ったものがあります。

どうやら、今私が読むべき小説だったようです。


********************

豊後国羽根(うね)藩士・戸田秋谷は、とある政争に巻き込まれ無実の罪を着せられ、藩主より10年後の切腹を言い渡されます。藩主はその10年の間に、秋谷に藩の歴史、「家譜」を編纂するよう命じます。その真意はどこにあるか明かさないまま、藩主は早逝してしまう。
秋谷を目の敵とする羽根藩家老・中根兵右衛門は、秋谷の監視と家譜の内容を探らせるため、藩士の檀野庄三郎を秋谷の下に遣わします。
庄三郎は秋谷の人柄に触れ感銘を受け、秋谷を救う手だてはないものか思案し始めます……。

********************





死すべき「その日」が確実に近づいて行く中で、己の成すべき責務を淡々と続ける秋谷。そんな秋谷に感化され、人として、武士として成長していく庄三郎。

幽閉された村の農民たちとの触れ合いを通じ、あらゆる不正不義を憎みながらも、それでもあらゆる命を慈しむ道を学んでゆく。ああこれだ、と思いましたね。

これが、縄文以来の日本の武士道の根幹なのだと。





武士道には必ず死生観が深く関わってきます。その死生観は、おそらく縄文時代1万年の間に、日本人のDNAに刻まれたもの。

死生観は宇宙観、宗教観に繋がり、縄文以来の日本人の精神世界を探るにあたって、非常に重要なもの。そうか、だから

私はこの小説を読まなきゃならなかったのだな。





縄文武士道、どうやら書き上げられそうです。もっとも、私の拙い文章を読むよりも、こちらの小説をお読みになった方が早いかもしれませんが……オイオイ(笑)




ちなみに映画化もされたようで、撮影は去年の内に終わったのかな?公開は今年の10月とか。
出演は戸田秋谷に役所広司。檀野庄三郎に岡田准一。その他堀北真希、青木崇高、原田三枝子、寺島しのぶ、井川比佐志など。
監督は「雨あがる」「博士の愛した数式」の小泉尭史。

映画はともかく、小説は一読の価値あり。お薦めです。

縄文武士道 その3 縄文時代の太陽信仰と祖霊信仰についての私論

2014-06-17 13:18:16 | 歴史・民俗


   



日本列島は豊かな自然に恵まれていますが、それでも季節によってその様相は変わります。

春夏秋冬それぞれに合わせた生活をしていかなければなりません。

種を植える、焼き畑を始める、それぞれ適切な時期というものがあり、木の実はいつ頃収穫するのが最適か、サケは何時川を上ってくるのか、その時期というものを出来るだけ正確に知る必要がありました。

だから縄文時代にも、「時」を知る必要性があったのです。

「時」を知るために、縄文の人々は太陽の動き、月の満ち欠け、星辰の位置を観測したことでしょう。縄文時代にすでに暦はあったものと、私は考えます。それに観測するためにはメジャーがいります。だから所謂「縄文尺」も存在したのです。



誰ですか!?縄文時代は原始時代だなんて言ったのは!






日月星辰の動きは、縄文人の暮らしと密接に関わっていました。中でもやはり太陽は重要です。太陽の力が最も衰える冬場には、地上の生命力もまた衰える。

逆に太陽の力が最も活発な夏場には、地上の命たちもここぞとばかりに萌え盛る。

その太陽の生命力が最も横溢している日が「夏至」です。だから縄文の人々は、夏至の日に太陽を祀り、感謝する祭礼を行った。

ストーンサークルは、そのための祭祀場だったのではないでしょうか。





では、そも太陽信仰と、「祖霊信仰」との関わりは?



それはつまり、要約して言えば、「命は太陽からやってくる」と考えたからではないでしょうか。

太陽の盛衰(夏至と冬至)と、地上生命の盛衰は連動している。だから命の「源」は太陽からやってくるのだ。

人間もまた、大自然の中で生きる生命の一つです。だから人の命もまた、太陽からやってくると考えたとしたらどうでしょう。

また、太陽は一度死んで(冬至)もう一度復活しますね。地上の木々も冬が近づくと葉を落として一度「死に」、春に新たな芽を吹いて復活します。だから人の命もまた同じで、一度死んでも、もう一度生まれ変わると信じた。

では一度死んだ人の命はどこへ行ったのでしょう。山の上でしょうか。

そういう考え方もあったかも知れない。しかし山の上から、さらに命の元である太陽へ帰った、と考えたかもしれません。

祖霊は皆太陽にいる。そしていつかまた、地上に帰ってくる。太陽信仰と祖霊信仰はこうして結びついた。


だから、夏至の日の太陽祭は、祖霊祭でもあった。

あるいは、太陽へ行けずに彷徨っている霊たちを、太陽へ滞りなく送り返す儀式も行われたかも知れない。

ある意味、今日の「お盆」にも通じる祭だったのかも知れません。

まあ、相当私の妄想が入っておりますが、大筋の部分ではまちがってないんじゃないかな?と思いますけどね。と、自画自賛しておきます(笑)




さて、太陽信仰と祖霊信仰との結びつきから、私はある御方を連想せずにはおられません。

そうです、天皇陛下です。

太陽神を先祖とし氏神とする皇室は、つまりは日本人すべての御先祖様方を祀っていることになる。

ですから皇室は日本人すべての先祖となり、総氏神となるのです。

皇室の御先祖様方が、例え「外」からやってきた方々だったとしても、縄文以来の伝統的な信仰形態にのっとったかたちで天皇位に就いているわけで、必ずしも侵略して奪い取った地位ではないのではないか、と言えそうです。






…で、いつ武士道と繋がるんだ?

あの~、なんか思ったよりもこの記事、長くなりそうです。いつ武士道にたどりつくのか、分からなくなってきました(汗)。まあ、その内繋がるでしょ(……無責任だなあ)。

まっ、ユラユラ語りですから、焦らずユルユルと行きましょ、ってことで。

続きます……(笑)



                   

縄文武士道 その2 縄文時代概論

2014-06-16 14:49:24 | 歴史・民俗


                      
                          火焔土器(縄文時代中期)




縄文時代は今からおよそ1万5~6000年前から3000年前に至るまで、1万年以上に亘って続いた時代です。

日本は世界最古の土器が発見された国です。その最古の土器には縄目状の紋様がつけられており、これは実際に縄を押し付けてそのような文様を描いたものだそうです。

なにかの呪術的な意味があるのかもしれません。



ここで、縄文時代の時期区分を記しておきましょう。



草創期(紀元前15500~紀元前10000)
早期(紀元前10000~紀元前5000)
前期(紀元前5000~紀元前3500)
中期(紀元前3500~紀元前2500)
後期(紀元前2500~紀元前1300)
晩期(紀元前1300~紀元前950)



この区分は学者や資料によって大小の相違があります。絶対的な区分ではありませんので、あくまでも一つの目安として参考程度のものだと思って下さい。





日本列島は豊かな森と海に囲まれた、大変恵まれた土地です。縄文の人々はその豊かな森から木の実や植物を採収し、川を遡上してくるサケなどを捕え、森に棲む動物たちを狩り、基本的に定住生活を行っていました。

また、船で海に出て、近海でのクジラ漁や、外洋に出てのマグロ漁も行われていたようです。かなり高度な船舶技術を持っていたということでしょう。

獲物を追って山野を移動する原始人というイメージからは、遥かに遠い人々です。



青森県青森市の、縄文前期から中期にかけての遺構「三内丸山遺跡」

この遺跡からは、六本の真っ直ぐなクリの木を垂直に立てた「六本柱建物遺構」が発見されています。柱だけのものだったのか、上に櫓などの建築物が乗っていたのかは分かりません。私は個人的には、神の憑代となる柱だったのではないかと思っていますが、どうでしょうね。


                      



三内丸山には最盛期には800人近い人々が暮らしていたようです。広場や道路、墓地などが整備されており、集会所にでも使ったのか、大型の竪穴住居も建てられていたとのこと。割と組織だった生活を行っていたということでしょうか。


                        


三内丸山では、クリの木が栽培されており、ゴマやマメ、ゴボウなどの植物も栽培されていたようです。すでに農業が行われていたんですね。こうして収穫した木の実や野菜、それに動物や魚介類などを深鉢型の土器に入れ、炉に刺して火をくべて、鍋のようにして食した。現代にも繋がる日本の鍋文化は、縄文時代に起源を持つのです。


              
                    http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp02.html


えっ?稲はないのかって?日本人の主食は米だから、米がなければ日本の食文化のルーツとは言えないんじゃないかって?

ガチガチなことをおっしゃる。でもね、米だって弥生時代の始まりと同時に、日本に入ってきたわけではないのですよ。

考古学的には、少なくとも縄文後期には原始的稲作農耕が行われていたとされています。川の側の湿地などを主に利用して栽培したもので、弥生時代に比べれば遥かに小規模なものだったとされています。

御承知の通り、考古学は遺物が出土しない限り、検証しようのない学問です。今後、もっと古い時代の稲作跡が発見されるかもしれないし、それこそ、稲作の起源は日本、なんてことも証明されるかもしれませんね。

まだまだ、分からないことだらけ。ちょっとワクワクしますね(笑)


                          
                                 http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp02.html





さて、縄文時代といえば、土器と共に有名なのが「土偶」です。


                    
                         遮光器土偶(青森県亀ヶ岡遺跡出土)



                    
                        縄文のビーナス(長野県棚畑遺跡出土)



そのほとんどは女性を模ったものであり、意図的に壊されたものがあることから、ある目的のための祭具、呪具ではにかと思われます。

女性であるというところに、縄文の頃の「母性」信仰の一端が窺えるような気がします。

縄文社会がどのような構造であったのかは分かりません。おそらくは、女性というか、「母親」を中心とした所謂母系制社会ではなかったか、とも言われます。

女たちは家にいて、男たちは山野を経巡り他所の集落を巡り、子種を残す。

そうして生まれた子供は「ムラ」の子として主に女たちによって育てられる。

折口信夫の言う「客人(まろうど)神」のルーツはこんなところにあるのか、なんてことをつらつら思いつつ。





秋田県大湯には、縄文時代の環状配石遺構いわゆる「ストーンサークル」が遺されています。

同じような形態のものが、鹿児島県の指宿でも見られるそうですから、案外全国的に広まっていたものかもしれません。


                    
                           http://nihonjin.ninpou.jp/sannai/sutoniseki/sutoniseki-html.html



ストーンサークル、墓地説もあれば日時計説もあって、実際人骨が発見されていることから、墓地説が有力か、とも思われます。

しかし、大湯のストーンサークルは、複数のストーンサークルが夏至の太陽が沈む方向に真っ直ぐに並んでいるんです。

その方向には神奈備山たる、綺麗な三角錐状の山、「黒又(くろまんた)山」が聳えているんです。


                   
                       黒又山


まあですから、日時計説も捨てがたい。私なんかは思います。

両方合わせりゃいいじゃん!ってね(笑)

墓地であり尚且つ、日時計でもある。

これはどういうことか?つまりそれは、

「祖霊信仰」と「太陽信仰」とを合わせた、ある種の宗教的施設ではなかったか。







さあ、愈々佳境に入って参りました。ここまで書いたことと、武士道とがどのように繋がるのか。

どうやって繋げようかな~って、そうでなくて!!(笑)



諸々含めて、以下次回。

縄文武士道 その1 承前

2014-06-13 17:22:18 | 歴史・民俗


「エビ反り」と言えば?

ももクロの【茶畑のシンデレラ】【エクボは恋の落とし穴】百田夏菜子さんですかね。

もちろんそれは正しいのですが、かなこぉ↑↑よりも以前から、エビ反りをトレードマークにしていた方がおられます。

【5万回斬られた男】俳優・福本清三さんです。


                     




所謂「斬られ役」一筋の俳優さんで、御年71歳。セリフはほとんどない、画面にもちょこっとしか写らない、いや、まったく写らないときもある。

それでも作品を盛り上げるために、ほんの数分、数秒の自分の出番に全力で取り掛かる。

その斬られ方が凄まじい。まさに「エビ反り背面落ち」とでも言うべき技で、斬られると身体を思いっきりのけぞらせて一瞬固まり、そのまま地面へ落下する、かなり危険な技。実際何度も怪我をされているようです。

映画「仁義なき戦い 広島死闘編」では、北大路欣也演ずるヤクザにマグナム銃で撃たれ、後方に跳んでそのまま床に落下するという、もはや伝説となったスゴ技を披露しています。

「自分は二枚目ではないし、演技もヘタやから、これしかでけしませんのや」と謙虚に語り、ただただ自分の出来ること、自分の役割を淡々とこなしてきた。

その姿勢が時代劇ファンの心を撃ち、いつの間にかファンが増えていった。そしてついには、ハリウッド映画「ラストサムライ」で、トム・クルーズの側に常についている「サイレント・サムライ」役での出演を果たします。

本人が知らない間に、注目される人になっていた。謙虚さと一生懸命さが人の心を捕えた、そんな人物の典型。


私は思います。こういう人こそ、ある意味本当の「サムライ」なのではないだろうかと。









一口に武士道といっても、時代によってそのかたちは微妙に変わります。

江戸時代の武士道は儒教的な道徳観念を盛り込んだ、多分に「人工的」なものです。それは江戸幕藩体制を維持するための、政治的イデオロギーとして利用するために、そのようなある種の操作が行われたのだ、とする説もあるようです。

幕末の会津藩があそこまで頑強に抵抗した理由の一つに、この「イデオロギー」に徹底的に従おうとした部分もあったのでしょう。もちろんそれだけではない、様々な複合的理由があったからこそですが、それにしても、初代藩主以来の強力な家訓が存在しなければ、あそこまでの悲劇には至らなかったかもしれない。

致し方ないことではありますが。


                      




理想的な武士の姿って、どんなものでしょうか?

もちろん剣の腕は立つ方が良い。でもそれだけでは単なる乱暴者と変わらない。やはり精神的な徳目がなければならないでしょう。

その徳目を突き詰めていけば、つまりは「人の良さ」に行きつくのではないでしょうか。

困っている人がいると助けずにはいられない。その結果だまされることもある。それでも人を怨まず、静かに、あるいは豪放磊落に笑っている。

時代劇のヒーローって、大体こんな感じでしょ?これが一般庶民の、理想的な武士のイメージなんです。




古い文献、物語などを漁っておりますと、そういう「理想の武士像」にある種の特色があることに気が付きます。

それは、中央の武士ではなく、地方もっと言えば「蝦夷」などの姿に、その理想像があるという事なのです。

古代の武家の棟梁と言えば源氏ですが、「陸奥話記」などに描かれた源氏の悪逆非道、傍若無人ぶりはとても武士の鑑とは言えず、むしろ対戦相手の安倍氏の方がよほど正々堂々としており、爽快、痛快に描かれていると言って良い。

さらに遡って、胆沢蝦夷の族長アテルイも、一族を守るために戦い、もはやこれまでと知るや、やはり一族の命を守るため決然として政府軍に投降し、京へ護送されて処刑されます。征夷大将軍・坂上田村麻呂はアテルイの助命を求めますが、公家達によって却下されてしまう。この辺りのアテルイや田村麻呂の姿に、爽やかな武士の姿を見るのは、私だけではないはず。

大人気の楠正成公にしても、中央から離れたところで武士の鑑的な姿勢を貫いている。

ずっと下って明治の始め、西郷隆盛はやはり中央から離れた故郷薩摩の地で、己の武士道を貫くために立ち上がった。

これらの人々の中に私は「縄文」を見るのです。





この話、もう少し続きそうです。

ではまた、次回。







「縄文」武士達はきっと、普段はこんな素敵な笑顔をしていたに違いない。



                           

カマ神様について、ちょこっと補足

2014-06-10 20:00:47 | 岩手・東北


神道においては、竈三柱神として、オキツヒコ、オキツヒメ、カグツチの三神を祀るそうです。

オキツとは奥津と書きます。奥津城なんて言葉もありますように、なにか、冥界を連想させませんか?

冥界の彦と姫です。冥界の姫の言ったら思い浮かぶのは、イザナミ、ですかね。

ならば彦は?やっぱり……。

イザナギ、でしょうねえ。



イザナギ、イザナミ、つまり白山神です。

いにしえ、日本は白山信仰だった、という説に従えば、竈神にも白山信仰が残存していると考えるのも、さほど無理はないように思われます。白山は火山ですから、火山活動活発なりし頃には、激しく火を噴いてもいたでしょう。火の神と白山神とが結びついてもなんら不思議はない。

白山信仰はある勢力によって抹消されてしまった。しかし東北・岩手の辺境地帯(お住まいの方失礼!)には、その白山信仰が変形した形で残存したのかもしれない。

オシラサマしかり、このカマ神様しかり……。

私の故郷にも、夏場まで山頂に雪を頂いた「白い山」があります。こうした御山は大概火山なんですよね。だから活発に火を噴いていた時期もあるわけですから、「白い山」の神と火の神とが結びつくのは、全国的にも普遍的に有り得ることだった、と私は思います。

まあですから、カマ神様と白山神とも無関係とは言えない。それと国常立神とスサノオと。

人智の及ばぬ深いところにある、神秘を感じます。





そういえば、家庭で火の管理を行うのは大概女性だとされていますが、沖縄では女性神官はじめ、ほぼすべての女性が、線香を立てて先祖と太陽神を祀る「香炉」を所持していたとか。

線香と言えば「火」と「煙」です。しかもこの香炉のことを「コンジン」と呼ぶのだそうです。



遠く離れた東北と沖縄との間に、カマ神様と香炉を通して、なにやら繋がりが見えてくるような気がしませんか?

日本列島の文化は、古い古い信仰を通じて緩やかに繋がっている。

なにやら、感動的です。




まあ、適当に流してください。