東北の歴史を熱心に語りたがる方々の中には、ややもすると反中央的、反天皇制的であり、「東北独立」などと有り得ない夢を語る方々もおられるようです。
東北にはかつて、大和とは違う王国が存在し、それを大和が侵略、征服したのだ。その後大和は歴史を改ざんし、「日本」という国名を奪った。
東北と大和は違うのだ。だから東北は独立する権利がある!
…とまあ、こんな論旨のようです。
東北に果たして「国」と呼べるだけのレベルの王権が存在したのだろうか?正直疑問です。五世紀から六世紀にかけての頃には、岩手県のほぼ中央、胆沢平野に前方後円墳(角塚古墳)が築かれており、これは大和朝廷の勢力下にあったことの考古学的証明と見るべきで、大和と違う独立国があったとは、にわかには考えられない。例え文献は改ざん出来ても、考古学的資料を改ざんするのは難しいでしょ?
確かに奥州藤原氏のような「地方政権」と呼べるような独自の政治体制を執っていた時期もありますが、奥州藤原氏の権力基盤はあくまで朝廷より与えられた官位官職にあります。朝廷の後ろ盾無しに、奥州藤原氏の権力は有り得なかった。これは日本版“冊封体制”というべきもので、とても独立国家とは言えません。
ではアテルイの時代に独立国はあったのか?これも難しいですね。少なくとも「国家」と言えるだけの規模を示すような考古学的資料は発見されていませんし、海外の文献にも見られない。
中国の文献『旧唐書』等に、倭国と日本とを別々の国のように記している記事があるので、これを根拠に大和政権とは違う「日本国」があったのだ、と主張するむきもあるようです。
そういう考え方も出来なくはないですが、これは単純に、唐側が日本の意図をよく理解できなかったということではないでしょうか。
倭という国名は中国側が付けたもので、これは冊封体制の下では宗主国が臣下の国々に対して行う当然の行為でした。日本側はそれを嫌ったんですね。日本は唐の臣下ではない、対等の独立国である。それを宣言するために、自ら「日本」という国号を名乗った。
唐側はそれがよく理解できなかった。「えっ、どういうこと?倭と日本って違う国なの?同じなの?」その困惑が、そのような記事となって表された。
冊封体制から抜け出そうとする国があるなど考えられなかったのでしょうね。日本はその考えられないことを成し遂げ、今日まで続けてきたのです。
これは凄いことです。
東北地方を「ひのもと」「日高見」と呼ぶ風は古くからあったようです。
「ひのもと」はやまとことばですから、「ニッポン」「ニホン」よりも古い言い回しかもしれない。だからこそ、その東北の呼名を大和が盗ったのだ、という説が出てくる。
日本とは「日が昇る国」という意味です。これは東の果てに有り、天照太御神を祀る国としてはまことにふさわしい国号です。その視点は西から見た視点であり、おそらくは日本列島を目指して西方からやってきた人々が、自分達が赴くべき「聖地」に対し憧れを込めて呼んでいた地名ではなかったでしょうか。そして東北地方はその「ひのもと」の国の中のさらに東の果てにある、「ひのもとの中の聖地『ひのもと』」だった。
東北を「ひのもと」と呼ぶ風は、おそらくそうした故事に由来するのではないかと、私は想像します。
日本は最初から「日本」だったのです。「倭」は中国側が勝手につけた国名に過ぎない。
大和と東北は違う民族?そうでしょうか。
日本人の遺伝子には共通の傾向があります。Y系遺伝子D系統というもので、これはユダヤ人と日本人それとチベット人以外にはほとんどみられないものだそうです。
逆に言えば、東北人だろうと関西人だろうと、ほぼすべての日本人が持っている遺伝子なのです。これはアイヌ人がもっとも強くその傾向があり、次いで沖縄人、日本本土人だとか。要するにほぼすべての日本人が共通してもっている。日本人のベースとなっている遺伝子だということです。
日本には古来より世界中からあらゆる人種の人々が渡来していたようです。世界中で日本人くらい、バラエティに富んだ顔立ちをしている民族はいないでしょう。日本人はハイブリッド民族だと言っていい。
しかし、その根底にある遺伝子には、ベースとなった民族の遺伝子が脈々と受け継がれている。そういう意味では、日本人は「単一」民族でもある。
他用にして単一、単一にして他用。それが日本人の本質。だから日本人はスゴイのです。優れているのです。
大和と東北は違ってなどいません。同じ「日本人」なのです。
そしてその日本民族統合の象徴として、天皇陛下がおわします。
東北の歩んだ歴史を見てくると、何故東北ばかりが悲惨な目に会わねばならないのか?と悲しい気持ちになる、怒りが湧いてくる。
その原因は大和国家のせいだ!日本のせいだ!そして天皇のせいだ!と思いたくなる人々もいる。
その気持ちはわからないでもない。かつては私も、若い頃にそのような気持ちに駆られたことがある。
しかし今は違います。東北の歴史は、むしろ東北の民に架せられた貴い「お役目」なのだと思っています。
日本の負の側面を背負いそれを流す。聖地「ひのもと」に住む人々に与えられた、それが聖なるお役目なのだと。
被災直後の人々の行動、それが世界に与えた衝撃。
あれが真の日本人の姿です。東北人は日本人そのものです。
考えてもみてください。もし東北が日本から独立したとして、「東北国」はなにを心の拠り所としてまとまって行くのでしょう?東北人であるというだけで、果たして国家としてのまとまりができるでしょうか?私は無理だと思う。ヘタをすればどこかの国みたいに独裁政権が出来上がり、混乱状態を呈することになるでしょう。
失って初めてわかる天皇のありがたさ、では遅いのです。
「ひのもと」の聖地東北はこれから輝くのです。
東北から日本を変えてゆく。そうした気概を持ちましょう。
いつまでも「コンプレックス」に苛まれていてはいけない。
天皇の歴史は疎いのですが、天皇は初代から日本国土を北海道から沖縄含めて想像して神事をあげていたんじゃないかな?って思いついて。
天皇はいつの時代から御所から動かないのか知らないんですが、太古から日本国土を統合して守りたい意識で、それと別に政治として朝廷があって、天皇は朝廷におまかせ、あとは神事のみだったのかしら?なんて最近思ってました。
富士山が噴火したり飢饉で人が亡くなるのと同じように東北での戦で民の命が亡くなることは同じに感じてくれたのでは…と。それは何代続いても天皇は同じ気持ちだったらいいなぁ、なんて。
薫風亭お兄さまをお慕いしていることだけは確かなようです!
たは~~_(^^;)ゞ
天皇が直接政治を行う「天皇親政」というのは例が少なくて、物部氏だったり蘇我氏だったり、藤原氏だったりといった、豪族とか臣下が政治を行って、天皇はひたすら「祈って」いた。「君臨すれども統治せず」という象徴天皇制は、一部の例外を除いて古代から連綿と続いていたと思われます。
律令制度では天皇の権限はかなり制限されていたそうで、天皇が独裁的な政治を行うことは出来ないようになっていたらしいです。詳しくは知らないんですけど。
そんな中で桓武天皇という方は、超法規的ともいえる政治を行った方で、この方の時代に大規模な征夷軍事行動が行われ、京の都が建設された。
唐に負けない一流の文化国家になるために、中央集権体制を確立させる。そのためには、それまで移転を繰り返していた首都を一か所に定め、まつろわぬものどもを屈服させて安定した税収入を得なければならない。
自分の代でそれをやり遂げる。そんな気概をもって、ある意味心を鬼にして、ことに臨んだのではないかと思う。
「涙隠して人を斬る」子連れ狼じゃないけど、そんなお気持ちだったのかな、だったらまだ救われるかな、なんてことを思ってます。
国のため、民のためなら、例え自分は地獄に堕ちようともかまわない。そんな強いお気持ちでことに及んだのではないか。なんてことを想像してます。
私は田舎の農家の生まれで、実家の周辺には古い歴史なんかない!と思ってました。そんな私も、自分の生まれ故郷に誇りを持てるようになりました。日本は国全体がすごいから(嬉)最近は、天津神を国津神が自ら支えてたんじゃないかな~と思うのです。それが、ホントの大和魂のような・・・
なるほど、国津神が支えていたのか。いいですねえ、それ。
イギリスから独立を勝ち取ったアメリカを参考にすれば良いだけでは?。
おそらく現在の中国や北朝鮮の事を指して「独裁政権」と書いてるのでしょうが、
アメリカという参考にすべき国家がせっかくあるので参考にすべきだと思います。