生物は大概が雌雄二対であり、この雌雄それぞれの遺伝子を合体させることによって、子孫を繋げていく。
人間もまた同じ、男女の営みが新たな生命を生み出す。現代の我々でさえ感じる、この「神秘」。
古代人が、ここに「神」を見出したとしても、不思議ではないのではないでしょうか。
古代、日本には「歌垣」という風習がありました。
一定の日時に近隣の男女が集い、供食をし、歌を詠みあう。
大概は春の蒔種期と秋の収穫期に開催されたようで、豊作の願いと感謝を込めた農耕儀礼だったようです。
かつて日本には「言霊信仰」があって、言葉には呪的な力があると信じられていました。
決められた韻律で詠まれる歌には、特に強いパワーがあった。天皇はその御詠みになられた歌の呪的パワーによって、日本を危機から救ったとも言われています。
歌垣に歌われる歌は多岐に渡り、豊作を祝う歌や労働歌、創世神話歌、葬送歌等々。
その中の一つに、恋愛歌がありました。
特定の異性に歌を送り、送られた側はさらに歌を返す。この歌の掛け合いの強弱によって、恋愛関係が成立するかどうかが決まるわけです。
歌はその場の即興で歌われますので、それ相応の技術に、知識や教養も必要となりますし、その他声の良さだとか、様々な要素が加わって、そこにさらに言霊が乗るわけです。こうしてペアになった男女は、大概その場で男女の営みを行ったようです。
つまり稲の豊作と人間の子供の誕生とがセットになっているんですね。稲がたわわに実ることと、人間が子を授かることは同レベルのめでたいことだったわけです。
この歌垣が行われた場所は、山の頂上や河川敷、海辺、市など、「境界」的な場所で行われました。
境界とはもちろん、土地や村、町の境界でもありますが、そういう場所は同時に、あの世とこの世の境界線でもあると考えられていました。
つまり協会は聖地であり、聖なる境界でセックスをすることにより、あの世からやってくる人の魂を受け入れやすいと考えたのではないでしょうか。
境界の向こうからは色々な者がやってきます。古代人はそうした客人(まろうど)を非常に低調にもてなしました。
山奥にあって、人の出入りの極端に少ない村々などでは、時に村の若い娘などを「夜伽」として客人に差し出すこともありました。
これは単なる性的饗応ではありません。なぜなら、共同体の外から、「新鮮なDNA」を運んでくる人物は、「神」の如くに有り難い存在だったからです。
同じ共同体内でばかり婚姻を繰り返せば、そのうち共同体の成員はみんな家族親戚縁者ばかりになってしまい、遺伝的欠陥を持った人々が増える結果とも成りかねず、こういうことは共同体の存続という点において非常によろしくない。ですから、新鮮なDNAによる子種を得ることは、共同体全体にとっての死活問題だったといっていい。
差し出された娘さんは、たとえ見知らぬ客人と一夜の閨を共にしたとしても、なんら恥じ入ることなどはなかったのです。
むしろ共同体のため、村のためになる、尊い行為だったのです。
共同体を存続させ、子孫を、「命」を繋いで行くための……。
境界とはあの世とこの世、神と人とを分ける場所でもあり、「命」が行き交う場所でした。
この境界を守る神のことを、「堺の神」だとか「道祖神」と呼び、共同体の境界線などに祀られていますね。その姿は時に老夫婦の姿で描かれ、時には男性生殖器そのものの形で表されます。
人の命はこの世とあの世の境界の外側からやってきて、男性生殖器を通して、白い液体となって女性の中に放たれる。だからこそ境界を守る道祖神は、男性生殖器の形そのままに表されるのでしょう。
セックスとは、あの世、「神」の世界から命をこの世に呼び寄せる、ある種の「神事」的側面が強かった。
古代においては人の平均寿命は大変短く、抑々子供が無事に生まれる率も低かったろうし、生まれてもその後大人まで順調に育っていけるかどうか、その確率も現代に比べれば遥かに低かった。
無事に子を授かるということが、どれだけ「有り難い」ことか、現代の我々には想像もつかないくらいのものだったに違いない。
その、子を授かるための行為、男女の営みに、ある種の神事的側面を見出したとしても、なんら不審な点はない、と私は思う。
この点を踏まえた上で、
次回へ続く。
※これはあくまでも、古代における性の価値観を元にした話です。これを安易に現代に結び付けるなどという、アホで愚かなマネは厳に慎むよう、お願い致しますよ。