風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

宝積 ~もののふ魂~

2015-06-12 15:28:02 | 幕末の盛岡藩





「平民宰相」原敬が座右の銘とした言葉に

【宝積】

があります。




宝積(ほうしゃく、ほうじゃく)は仏教用語。「人に尽くして見返りを求めず」「人を守りて己を守らず」という意味だとか。



自分の身も守った方がいいよ、なんてツッコミを入れたくなりますが、それは私の「軽さ」故のこと。これはそんな薄っぺらな意味ではなく、以前、このブログで紹介した映画『七人の侍』の登場人物・勘兵衛(志村喬)のセリフ、

「他人を守ってこそ自分も守れる。己のことばかりを考える奴は、己をも滅ぼす奴だ!」

に通じる意味かと、解釈できますね。


そういう意味では、原敬もまた、一人の武士(もののふ)でした。






守るためには用意がいる。それは自分を守るためであると同時に、他者を守るためのものでもなければならないってことです。

自分のことばかりを考えている奴(国)は、自分(国)をも亡ぼすんですよ。

そんな人(国)に、なってはいけない。

してはいけませんねえ。



宝積。この言葉の意味を掘り下げていったとき、それをこの国の現状に当てはめてみたとき、

さあて、どんなもんでしょうかね?



いやはや、なんとも……。

この国に、もはや武士(もののふ)はいなくなっちまいましたかねえ……。


いやいや、まだ分かりませんよ。


武士(もののふ)ではなくとも、武士(もののふ)の「魂」を持っている方々は、まだまだ大勢おられるはず。

己のなかに眠っている、もののふ魂を目覚めさせるのは

今。

そういう点では、まだまだ私は、この国の方々を

信じたいと、思う。

















                         


娘を自慢したがる父親の気持ちってのは、こういうものですかね?

どうだ!カワイイだろー(笑)




そうです、私はモノノフです…って、そういうオチかーい!




真面目な話。この笑顔が、いつまでも絶えることのない世の中であって欲しいです。

そうするためには、我々がやらにゃあならんのよ!



【宝積】、どうかこの言葉を、心の片隅にでも、置いておいていただけると、

有難い。










                        






今日はこれにておしまい、で、






ありやーす!

最後の武士(もののふ) 楢山佐渡 ~結び~

2015-06-11 12:38:27 | 幕末の盛岡藩




ここで、維新直後の、政府による地方統治について、簡単に紹介しましょう。

明治新政府は、旧幕府の直轄地を「府」と「県」に分け、旧大名領を「藩」とする、「府藩県三治制」を敷きました。

これは後に行われる「廃藩置県」への過渡期的な制度で、「版籍奉還」によって、「土地」と「国民」を天皇へお返しし、かつての大名は「藩知事」として中央から派遣されるというかたちをとったわけです。

藩は大名の「領地」ではなく、国より派遣された知事が「管轄」するものとされたのです。



先述したように盛岡藩には、領地没収、知行を減らされた上、白石へ転封という厳しい処分が下されました。

南部家当主となった南部利恭は、新たに白石藩知事に任命され、明治2年(1869)7月、白石に赴任します。

ところで、この転封に大きく反発したのが、旧盛岡藩領の人々でした。

盛岡御城下の一般庶民を中心として、南部の殿様の転封を反対する運動が起こります。領内をあげての署名嘆願書が政府に向けて提出されました。

南部氏が奥州の地に踏み入れたのは、源頼朝による、奥州平泉藤原氏討伐軍に加わってのことでした。

戦の功績が認められ、糠部5郡(三戸、八戸付近か)を領地として与えられ、爾来およそ700年に亘って、ほぼ同じ地域の領主として君臨し続けてきました。

これは非常に珍しいことで、これほど長く、同じ領域を統治し続けたのは、薩摩の島津氏と、この南部氏だけだそうです。

その為か、地元の人々には、「おらほの殿様は南部のお殿様しかいねえ!」という意識が根強くあったのです。

苛斂誅求に苦しめられた経験もあったはずなのに、それでもやっぱり南部の殿様がいい!この運動は政府を動かし、南部利恭は白石赴任よりわずか1ヶ月後の8月に、新たに盛岡藩知事に任命されることとなります。

ただしこれには、700万両を政府に献上するという条件が付いていました。しかしそんな大金を用意する術はありません。なんとかかき集めた5万両を政府に献上することで、政府側に了承してもらい、南部利恭は父祖の地盛岡の土を踏むこととなるのです。

しかし幕末以来の逼迫した財政を立て直すことが叶わず、明治3年(1870)、盛岡藩大参事・東次郎は廃藩を決断し、政府に申請します。

ここに盛岡藩は消滅し、盛岡県が誕生。盛岡県は曲折、集散を繰り返し、最終的に岩手県となる、というわけです。







上記にみられるように、盛岡藩領の人々は、一言で言えば「情の篤い」人々が多かった、と言えるでしょう。

かの楢山佐渡が、刑執行のため盛岡に帰ってきたとき、町の人々がこぞって沿道に集まり、佐渡の乗せられた駕籠を見送ったそうです。

皆一様に目を泣き腫らし、中には駕籠を追って駆けだす者もいたとか。警備の者たちも、あえてそれを止めなかったそうです。

誰一人として、負け戦の惨状を攻める者は無かった。皆、佐渡の心情を理解していたのでしょうか。



佐渡は盛岡・北山の報恩寺にて刑が執行されました。

刑が執行された時刻、報恩寺の周りを、泣きながら巡っている少年がおりました。

敬愛する楢山様の御姿を一目拝せぬものか。少年は泣き腫らした目で、いつまでもいつまでも、報恩寺の周りを巡っておりました。

この時少年の胸に、「薩長なにするものぞ!今に見よ!」という、奥州人特有の反骨精神が芽生えたのです。

少年の名は原敬、14歳。

後に、薩長閥に寄らない、日本最初の政党内閣を樹立した「平民宰相」原敬です。



原は盛岡藩の家老職の家に生まれました。佐渡と同様、上級武士の出です。

その気になれば、爵位も得られたはずでした。しかし、

「薩長の軽輩どもがこぞって欲しがり、それを得ることでバカみたいに偉ぶる姿はなんだ!見苦しい!、自分はあれと同じにはならぬ!あのような軽輩どもと一緒ににされてたまるか!」

盛岡藩の上級武士としての誇りと反骨精神が、あえて爵位を得ない「平民」としての道を選ばせました。

原の本願は唯一つ、盛岡藩の逆賊の汚名を雪ぐこと。

その為に粉骨砕身、己を捨て、只々御国のため、陛下のため、民草のために働く。

それだけが唯一、盛岡藩の逆賊の汚名を返上させる道。



維新後、旧盛岡藩から幾多の人材が各界に排出されました。

外交官であり、世界的ベストセラー「武士道」の著者、新渡戸稲造。

日本近代製鉄の父、大島高任。

東洋史の泰斗、那珂通世。

国際連盟事務次長、杉村陽太郎。

陸軍中将、東条秀教(東条英機の父)。

海軍大臣・内閣総理大臣、米内光政。

歌人、石川啄木。

農業家・童話作家、宮沢賢治。

その他その他。みな一様に、その胸の内に反骨の炎を燃やしながら生きた方々だと言えましょう。


********************


大正6年(1917)、9月8日。盛岡市北山の報恩寺にて、「戊辰戦争殉難者50年祭」が、厳かに執り行われました。

楢山佐渡を筆頭とする、戊辰戦争で亡くなった盛岡藩士たちの霊を弔う祭の、事実上の祭主は、当時政友会総裁だった原敬でした。

この祭のために原が用意した祭文の全文をここに明記させていただきます。



【同志相謀り旧南部藩戊辰戦争五十年祭本日を以て挙行せらる、顧みるに昔日も亦今日の如く国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり、其真相を語るものなり、今や国民聖明の沢に浴し此事実天下に明らかなり、諸氏以て瞑すべし、余偶々郷に在り此祭典に列するの栄を荷ふ、乃ち赤誠を披歴して諸氏の霊に捧ぐ

大正六年九月八日

旧藩の一人 原敬】






【戊辰戦役は政見の異同のみ】誰も朝廷に逆らおうなどという者はいなかった。皆それぞれの立場で、国を想い、民を想い、皇室を想い戦った。

どこにも逆賊など、いなかったのだ。

どこにも。



                       
                         原敬





戊辰戦争で亡くなられた同盟諸藩の方々、決して靖国神社に祀られることのない数多の「英霊」方に、

敬意と哀悼と、

感謝を込めて。











これにておしまい、で、ありやす。




最後の武士(もののふ) 楢山佐渡その7 ~武士(もののふ)の道~

2015-06-09 14:29:04 | 幕末の盛岡藩
 



明治元年(1868)12月7日。盛岡藩は領地を没収され、国の直轄地とされました。

12月17日、藩主南部利剛は麻布の南部藩邸にて謹慎の処分が下され、世子彦太郎(南部利恭)が家督を継ぎ、旧仙台藩領の白石に13万石での移封が命じられました。

翌明治2年(1869)1月4日、白石への正式な転封が届けられます。

盛岡藩は20万石でしたから、それが13万石にまで減らされ、さらに白石に移動させられるとは、かなり厳しい処分であるといえます。

この処分に対する怒り、憤りが一人の人物に向けられてしまいます。

目時隆之進です。



楢山佐渡とともに京都にあった目時が、妻子共々長州藩邸に逃げ込んだことは、以前お話しました。

目時はその後、新政府軍に付き従って盛岡へ進駐し、盛岡藩の新たな執政の一員として家老職につき、東次郎らと終戦処理にあたっていました。

目時に対する周囲の目は冷たかった。意見を異にしたとはいえ、一度は脱藩しておきながら、「官軍」とともに舞い戻ってきて、執政を担当している。

目時には目時なりの、藩への想いや苦悩があったことでしょう。しかしながらその行動は、武士として決して誉められたものではありません。

「此度の厳しい処分は、きっと目時の差し金に違いない!あの『売国奴』めが!」

藩民の容赦ない視線が目時に浴びせられます。東京にあって処理にあたっていた目時は、藩士達に捕えられ、取り調べの為盛岡へ護送されます。その途上2月8日、目時は黒沢尻(現・岩手県北上市)の鍵屋の一室にて、壁に「報国」の文字を記し、切腹します。

新政府への恨み辛みが、一人の男へと向けられてしまった結果でした。

目時の行動は必ずしも共感できるものではありませんが、それにしても、少々哀れではあります。

人は時に、残酷な仕打ちをするものです。




さて、東京に移送された楢山佐渡は、盛岡藩ゆかりの寺、金地院にて幽閉の身となり、取り調べをうけることとなりました。

尋問はかたちばかりのものでした。佐渡は「すべて私一人にて決断したこと、責任はすべて私一人にある」とだけ語り、他に多くを語りませんでした。

主君に類が及ばぬよう、それだけを気にかけていたようです。



やがて佐渡に、刎首が言い渡されます。刎首とは文字通り、首を刎ねるということです。

これを聞いた佐渡は「有難くお受けいたします」と、微笑さえ浮かべていたといいます。



ただちに藩邸から軍務官へ書面が提出されました。

「佐渡の罪を家中のものたちへ知らしめるため、盛岡にて刑を執行されたい」

これは東次郎の粋なはからいでした。佐渡にもう一度盛岡の土を踏ませたい。盛岡の風景を見せてから死なせてやりたい。

思えば長の年月を、ライバルとして競い合った二人でしたが、お互い意見を異にしたとはいえ、藩を思う気持ち、国を想う気持ちには変わりなかった。

最早東に、佐渡へのわだかまりはありませんでした。

東もまた、一人の武士(もののふ)であった、と申せましょう。




処刑の為盛岡へ移送された佐渡が、盛岡へ着いたのは6月7日の夕刻でした。

北山の報恩寺にて駕籠から降ろされた佐渡は、「想いも掛けず故郷に帰れてありがたい」と涙を浮かべていたといいます。


報恩寺に幽閉された佐渡は、ある夜食中毒の為、激しい腹痛に襲われます。

日に日に憔悴して行き、一時はかなり危険な状態に陥りましたが、やがて回復します。

持ち直した佐渡は「このまま死んだら、中島に申し訳がたたぬと思った」と語ったとか。

京都にて切腹して果てた中島源蔵への哀惜の念は、佐渡の胸の中にずっとあったようです。病で死んだとあっては、あの世で中島に合わす顔がないと思ったのでしょう。

堂々と処刑されることで、自分の為に切腹した中島にも、ようやく顔向けができよう。武士(もののふ)とはそのように考えるもののようです。




6月23日早朝、佐渡の刑が執行されました。

刎首ということでしたが、刑は切腹のかたちをとるとのこと。
「まことに切腹でござるな」と佐渡は念を押したそうです。切腹なれば、武士としての面目も立つというもの。見回りに来た小監察に「これで武士として、心置きなく死ねる」と満足そうに言ったそうです。

午前3時、盛岡藩士江釣子源吉の介錯により、刑は滞りなく執行されました。

楢山佐渡、享年39歳。どこまでも、武士(もののふ)としての矜持を全うした生涯でした。




【花は咲く 柳はもゆる春の夜に うつらぬものは 武士(もののふ)の道】
楢山佐渡 辞世。










もうちょっとつづく、で、ありやす。

最後の武士(もののふ) 楢山佐渡その6 ~運命の戊辰戦争 後編~

2015-06-08 13:53:45 | 幕末の盛岡藩



慶応4年(1868)7月27日、南部盛岡藩の軍勢2千余は、秋田との国境、鹿角口へ向けて進軍。楢山佐渡は6百余の軍勢を自ら率いて、先頭に立っていました。

8月8日、秋田藩十二所舘の守将茂木筑後に対し書状を送ります。

書状には「貴藩が同盟を離脱したことの罪を問う為来たが、貴藩とは隣同士で良い関係を保ってきており、干戈を交えるのは本意ではない。願わくば真の勤王の為、今一度翻意されたい」との旨が書かれておりました。

書状にはさらに、「奥羽同盟の御趣意に立ち戻り、奸邪を除き、民の塗炭を御救い、天下の為真の勤王に御帰りならるべく」(太田俊穂著『最後の南部藩士』より抜粋)との文言もあり、同盟こそが正義、真の勤皇であるという、佐渡の強い信念思想が窺えます。

翌9日、確たる返事も無いとして、佐渡は全軍に進撃命令を出し、軍勢は国境を越えて攻め入ります。十二所舘の軍勢は手薄で、僅か3時間の戦闘で秋田勢は自ら火を放ち退却します。
 
十二所舘を前線基地とした南部勢はさらに進軍。8月22日には要衝大館城を落とし、南部勢は快進撃を続けます。佐渡の兵学者としての才能が大いに発揮された戦闘でした。

この時までは……。

ちなみに同22日には、会津攻撃のための新政府軍が猪苗代に進軍しており、同日には白虎隊の悲劇が起こっています。そして翌23日より、会津若松城においての攻防戦が始まることになります。





秋田の危機を知るや、新政府軍は続々と援軍を秋田に送ります。近代兵器を完全装備した軍勢を前に、南部勢は徐々に劣勢を強いられていきます。

8月26日をもって秋田勢は反撃に転じ、最新鋭のアームストロング砲による集中砲火を浴び、南部勢は撤退せざるを得ませんでした。近代兵器の前に、佐渡の軍学はまったくの無力でした。



8月から9月へとかけて、同盟諸藩の降伏、帰順が続々と行われていきます。抑々同盟に参加したすべての藩が戦いに積極的だったわけではなく、様子見に終始していた藩も多かった。それと各藩がバラバラに戦闘を行い、指揮系統の統一がまったくなされておらず、これではいくら数には勝る同盟軍と言っても、はじめから勝利はおぼつかなかったと言わざるを得ません。

そしてなにより、圧倒的な兵器の差というものが、勝敗を決定づけた、といえるでしょう。


8月29日には米沢藩が、9月15日は同盟の主力だった伊達藩が降伏します。

9月22日には、悲壮な戦いを続けていた会津若松城も遂に落城。会津藩の降伏によって、奥羽における戊辰戦争は実質終了したといえるでしょう。

しかし、盛岡藩はまだ戦っていました。結果的に南部盛岡藩は最後まで取り残されてしまったのです。



先立つこと9月7日、新政府軍の大軍勢は、十二所舘の南部陣地を攻撃、一大攻防戦の末、南部勢は後退を余儀なくされます。

佐渡は9月20日未明に最後の反撃を試みるも、多数の戦死者を出しただけで終わります。

もはやこれまでか!そこへ藩より、同盟諸藩悉く降伏した、我が藩も直ちに降伏すべし、との知らせが入ります。

佐渡は血涙を流しながらも、これ以上藩公に逆らうことは出来ない、我らの勤皇の志は、必ずや後世の人達に伝わるだろう、と諸将に胸の内を語り、諸将の号泣する声の響く中、停戦を決断します。

9月24日、南部盛岡藩は正式に降伏の手続きを行いました。

しかし、降伏を表明したにも関わらず、勝ちに乗じた「官軍」勢は9月28日、藩境の国見峠にあった南部陣屋に発砲をしかけてきました。南部勢は挑発にのらぬよう我慢していましたが、なおも攻撃を仕掛ける「官軍」に、やむを得ず反撃します。

この戦闘は後に、降伏の意志表明をしたにも関わらず戦闘を続けたとの理由から処罰の対象となってしまいます。

まさに「勝てば官軍」です。勝ちさえすれば、なにをしても許されるのでしょうか?畏れ多くも「天皇の軍隊」を自称する者達が、こんなことをして許されるとでも?

どこか他の国がやったのではありません。同じ日本人が日本人に対して、このようなことを行ったのです。

明治維新を綺麗ごとだけで終わらせようとする方々に、日本人「だけ」を過大評価したがる方々に、このような事実があったことを伝えておきます。

これもまた「日本人」が行ったことなのだと、伝えておきます。

忘れないでいただきたい。これが戦争です。






戦線より戻った佐渡は、そのまま禁錮を申し付けられ、佐渡の代わりに、謹慎中だった東次郎が新たな老中に任命され、終戦処理にあたることとなりました。

10月5日、総督府問罪使が盛岡入り、藩の武装解除を行い、10月9日には「官軍」勢が続々と盛岡入りし、翌10日に、盛岡城の正式な開城が行われます。

11月8日、監察使藤川能登が7百の軍勢を率いて盛岡に到着。藩主利剛と世子彦太郎(後の利恭)および楢山佐渡、佐々木直作、那珂五郎(通高)の三人が、「東京」に護送されることとなります。すべての沙汰は、東京にて行われるとのことでした。

この時、年号はすでに「明治」と改まり、江戸は「東京」となっておりました。




つづく、で、ありやす。

最後の武士(もののふ) 楢山佐渡その5 ~運命の戊辰戦争 中編~

2015-06-05 12:43:59 | 幕末の盛岡藩




さて、奥州での情勢もまた、変転を見せていました。

奥羽鎮撫総督下参謀・世良修蔵が仙台藩士に斬首されてのち、総督ら一行は仙台に軟禁状態にありました。

一行は一計を案じ、仙台藩家老但木土佐に、「同盟の意見ももっともである、ついては奥羽の情勢をこの目で見聞し、情勢を報告するため上京したい」と、申し出ます。

但木はこれを同盟内で会議にかけ、結果、了承します。総督一行は仙台を出ると、6月3日に盛岡入りします。盛岡藩主南部利剛は礼を尽くしてこれをもてなし、軍資金1万両を提供するなど、朝廷に対し異心のないことを示しました。

この総督一行を仙台から出したことは明らかな失策でしょう。総督を手元に留めておけば、新政府側との交渉の窓口として、様々な利用が出来た筈です。それをみすみす逃してしまい、同盟瓦解の魁をなす結果となってしまいます。

あまりにも、人が好すぎる。

総督一行は盛岡を発ち、6月24日に秋田に入ります。秋田藩内では折しも同盟に与するか否かで反論が揺れておりました。そこへ総督一行が入ったことで、藩論は一気に同盟破棄へと傾きます。

秋田藩内の不穏な動きを察知した仙台藩は、同盟維持を促すための使者を秋田に派遣します。しかし血気に逸る秋田藩士が、この使者を斬ってしまう。しかも偶々同じ場所に居合わせていた盛岡藩士までもが、誤って斬られてしまいます。

秋田の転心!盛岡藩士までが斬られてしまったことで、盛岡藩内には、にわかに「秋田赦すまじ!討つべし!」との気運が高まりを見せ、藩論はさらに揺れて行きます。

佐渡への帰国要請は、そんな激動の中、行われたのです。


********************


佐渡の決心は、先述した岩倉具視卿との会談によって決まった、と申せましょう。

その事績から垣間見える佐渡の人となりから鑑みるに、佐渡は、「武士の本懐とはなにか」と考えたでしょう。

武士の本懐、それは朝廷に尽くし、朝廷をお守りするために戦い、死すること。

例え薩長が偽りの官軍であったとしても、朝廷がそれを好とするなら、従うのが武士の道。

しかし、岩倉卿の言質から、「朝廷は奥州諸藩に期待しているのだ、薩長を討ってくれと、期待しているのだ!」佐渡はそのように受け取ったのでしょう。

ならば、やらねばならぬ。これぞ武士の本懐!

先述したように、岩倉卿が語ったとされる話は、後に薩長側の研究者によって完全否定されています。これは佐渡の妄言、詭弁であると。

今となっては、真相はわかりません。岩倉卿が本当は何を思って(画策して)語ったのか、語らなかったのか、何もわかりません。

真相は、闇の中です。






佐渡に付き従っていた者たちは、皆、佐渡の想いを理解していました。

しかしそれでも、藩のために、新政府に反抗することには反対の意見を持つ者たちもおりました。


特に激しかったのは、用人・目時隆之進と目付・中島源蔵でした。

目時は以前より長州藩邸と連絡をとり、佐渡の動向を逐一報告していたようです。そうしてなんとか佐渡の考えを翻させ、盛岡藩が朝敵にならぬよう長州側に働きかけていました。

しかし佐渡の決心が固いと知るや、目時は妻子をつれて長州藩邸に逃げ込みます。これを知った佐渡は、何も語らなかったとか。

一方の中島は、何度も佐渡に諌言しましたが、佐渡は頑として聞き入れない。思い余った中島は、自らの命を持って佐渡を諌めようと、割腹します。

中島割腹!の報に血相を変えて中島の元に駆け寄る佐渡。中島は瀕死の状態で「何卒、御考え直し下され…」と、とぎれとぎれの声で佐渡に訴えます。佐渡は目にいっぱいの涙を溜めながら「王道に尽くす気持ちは君と同じだ。安らかに眠ってくれ」と語りかけます。

中島は無言でうなずき、そのまま息を引き取りました。



中島の命懸けの訴えにも、佐渡の決心は変わりませんでした。





中島の死より数日後、佐渡一行は海路北上し、仙台に上陸します。

佐渡は付き従っていた者たちの大半を先に盛岡へ返し、自身は仙台藩家老・但木土佐と会見します。

佐渡と但木は「我々は一蓮托生である」との意志を確かめ合いました。




7月16日。盛岡入りした佐渡は、屋敷に入るや藩内の動性をつぶさに聴き取り、東次郎の反対行動に憤慨し、東の屋敷をより厳重に警戒するように命じます。そしてその日の夕方には、藩主利剛を前にした御前会議が開かれました。

会議は再び、同盟に与するや否や、秋田を討つか討たぬかで紛糾します。佐渡は何も語らず、皆の意見を黙って聴いていましたが、やがてすべての意見が出尽くしたところを見計らって、やにわに口を開き、自説を述べ始めました。

この4か月間、京都にいて肌で感じたことを滔々と述べ、正義は同盟側にあると主張。ただちに秋田を討つべし!と結論付けました。

その口調は柔らかでしたが断固たる意志を感じさせ、もはや誰も反意を述べる者はおりませんでした。

会議は秋田討伐に決します。会議に同席していた反対派の重臣・石亀左司馬は、「会議で決した以上、臣下としてこれに従うは当然のこと。持論に捕われることなく、第一線に立って戦ってみせましょう」と言明し、佐渡をいたく感激させました。

ここにも、武士(もののふ)がおりました。






佐渡は秋田攻撃にかかるよう全藩に布告。その日から10日後の7月26日には、すべての準備が整いました。


南部盛岡藩、運命の時が近づいていました。





つづく、で、ありやす。

最後の武士(もののふ) 楢山佐渡その4 ~運命の戊辰戦争 前編~

2015-06-02 11:27:54 | 幕末の盛岡藩




岩倉具視と楢山佐渡との会談で、どうような話がなされたのか、詳細は一切明らかにされておりません。

ただ、佐渡が受け取った内容としては

「朝廷は必ずしも、薩長による新政府を好としているわけではないが、朝廷には武力が無いので、仕方なく従っている。薩長による支配は、やがて将来の禍根となるやもしれぬ。薩長と戦えるのは奥州諸藩だけだ」

岩倉はこのように言ったのだ、これにより、佐渡は反薩長の想いを固めた、とされています。

しかしこの岩倉発言は、後に薩長側の研究者によって完全否定されています。岩倉卿はそのようなことは「一言も」言っていないとか。

どうにも、真相は闇の中です。

おそらくは、権謀術数に長けたお公家さんたる、岩倉卿のこと、後でなんとでも言い訳できるような曖昧なことを、のらりくらりと語ったのでしょう。奥州の純朴な田舎武士たる佐渡はその言に見事に翻弄されてしまった、というところが真相ではないでしょうか。

この時、奥州では仙台藩と米沢藩を中心として、奥羽同盟結成の動きが活発化しており、盛岡藩はいかにすべきなのか、この岩倉卿との会談によって、佐渡の決心は決まった、とみるべきでしょう。


********************
 

慶応4年(1868)3月23日、会津討伐の指揮をとるため、奥羽鎮撫総督・九条道孝卿らの一行が仙台入りします。

仙台藩としては、もとより朝廷に逆らう意志はないものの、この度の会津討伐に関してはいささかの疑義ありとして、会津藩赦免の周旋を申し入れます。

九条総督は鷹揚として聞き入れようとしましたが、これに下参謀として就いていた長州藩士・世良修蔵が激怒し、にべもなく跳ね除けます。

九条総督に実権はなく、この世良修蔵ともう一人、薩摩の大山格之助が、実質上の総督でした。



4月4日、仙台藩と米沢藩の四家老によって、奥羽諸藩に列藩会議招集の回状が回されます。新政府の方針に理不尽なものを感じていた諸藩は、4月21日に仙台藩領内の白石に集結、列藩会議が開催されました。

この会議により、会津藩および庄内藩赦免を要求する「会津藩寛典処分嘆願書」が採択され、後日奥羽鎮撫総督に提出されましたが、却下されてしまいます。

世良修蔵は会津討伐の兵を出すよう再三要求しますが、仙台藩以下奥羽諸藩は、会津の近郊まで兵は進めても、そこから先へは進もうとはしません。

督促に応じない奥羽諸藩に業を煮やした世良は、大山格之助宛の書状に、「奥羽皆敵、討つべし!」という意味のことを書きましたが、この書状は大山のもとへは届かず、仙台藩士の手に渡ります。

書状の内容に激怒した仙台藩士は4月20日、福島の金沢屋に投宿していた世良を襲撃。世良はピストルで応戦しますがついに捕えられ、阿武隈川の河原で、仙台藩士の手によって斬首されます。

これにより、列藩同盟側と新政府側との対立は決定的なものとなってしまいます。




同盟はこの後も協議を重ね、奥羽諸藩に越後長岡藩等を加えた「奥羽越列藩同盟」が結成されます。同盟は会津・庄内両藩の赦免を要求する太政官建白書を作成、会津や庄内を討つのは薩長の私怨であって天皇の御意志ではないこと、薩長こそが「君側の奸」であることなどが、連綿とつづられています。

白石の片倉城には「奥羽北越公議府」が設置され、後には、旧幕臣の榎本武揚らが参加します。

6月には元上野寛永寺法主で、孝明天皇の御弟君にあたられる輪王寺宮を迎え入れ、宮を旗印とすることで、同盟は大義名分を得ました。

ここに同盟側と新政府側との武力対立は、愈々避けられない局面へと入って行ったのです。


********************


さて、南部・盛岡藩も同盟に参加しておりましたが、武力衝突が避けられない局面となってきたことで、藩論が二分されます。

元々、会津・庄内両藩の赦免要求をするための同盟だったはずが、いつの間にか軍事同盟化しているのは話が違う!それに御所が薩長の側にある以上、いかに疑念が多くあろうとも、薩長は官軍である、官軍に抗すれば南部藩は賊になってしまう!とする、同盟反対論が湧き上がってきます。

この反対論を陰で指揮していたのが、当時謹慎の身であった、佐渡のライバル東次郎でした。

東は謹慎の身でありながら、藩上層部と連絡をとり、南部藩が同盟に加担せぬよう、出来る限りの働きかけをしていたようです。

東は東なりに、藩の将来を思っての行動でした。



藩内での議論に決着はつかず、ここは家老である楢山佐渡に帰国を願う他はない。

藩より佐渡に、帰国要請が出されます。

佐渡の帰国によって、南部盛岡藩の「戊辰戦争」は、最終局面を迎えるのです。




つづく、で、ありやす。

最後の武士(もものふ) 楢山佐渡その3 ~時局急転!?どうする佐渡!~

2015-06-01 12:58:52 | 幕末の盛岡藩




慶応3年(1867)10月14日、徳川家15代将軍慶喜は、大政奉還を上表します。

政権を返上したところで、将軍職まで辞したわけではありません。全国の4分の1を占める領地を持ち、外交権もいまだ徳川家が握っている。全国の大名への影響力はいまだに大きいものがありました。

慶喜は討幕派の論拠である「幕府」を失くすことで、徳川攻撃の口実を失くし、再び政治の実権を徳川家が握るべく、画策したのです。

そうはさせじと、明治天皇の外祖父、中山忠能卿や参与岩倉具視、薩摩の大久保利通らが中心となって「小御所会議」が開かれます。

この会議に慶喜や松平容保、容保の弟で桑名藩主の松平定敬は呼ばれず、欠席裁判のかたちで議事は進行します。大政奉還は認められ、将軍の廃止と、摂政関白の廃止。天皇の下で、公家や諸藩による新たな政権の樹立を宣言する、いわゆる「王政復古の大号令」が出されます。

徳川家には辞官納地(官職、領地をすべて返納)が命じられ、徳川家は実質的な力を削がれてしまいます。こうして慶喜の狙いは水泡に帰してしまいました。

この前日には「討幕の密勅」が出されており、ただしこれは偽勅、つまり天皇の御意志で出されたものではない偽の勅ですが、この勅には徳川慶喜と会津藩主松平容保を朝敵として誅せよと書かれており、これを根拠として薩長中心の新政府側は、武力による旧幕勢力の一掃に力を傾けるのです。







翌慶応4年(1868)正月3日。京都郊外の鳥羽伏見にて、会津桑名両藩を先鋒とする旧幕軍と新政府軍とが激突、3日間の戦いの後、新政府軍が圧倒的な勝利を収めます。

楢山以下南部藩がこのことを知ったのは正月18日のことでした。事態が呑み込めず、藩内に動揺が走ります。

そんな矢先、今度は仙台藩に会津討伐の命が下り、続いて米沢、南部、秋田各藩にも、伊達と協力して会津を討つべしとの命令が下されたのです。

「とにかく情勢を知らねばなるまいが、朝廷から命が下された以上、従う他はあるまい」

複雑な思いを抱えながら佐渡は、出兵の準備をしておくように命じると、自らは京都警備の軍を率いて上洛します。自分の目で、情勢を見極めたかったのでしょう。






京都に入った佐渡は、そこで見た光景に愕然とします。

薩長の軽輩どもがこぞって祇園、島原の花街をわが物顔に徘徊し、傍若無人に振る舞っている。国事を談ずるに、妓楼をもって集会するなど、几帳面で生真面目な佐渡には、およそ考えられないことでした。

「これが畏れ多くも天皇の軍隊を名乗る者達のすることか…?」

佐渡の心に、大きな不信の念が生まれます。



佐渡はある日、西郷隆盛に面会しようと、薩摩藩邸を訪ねます。

その時西郷は部屋の中で、下級武士達と牛肉の鍋を囲み、談論風発していました。そして佐渡を見かけると、一緒にこちらで食わないか?と誘いをかけたとか。

正式な記録が残っているわけではないので、この牛鍋への誘いの話は噂話の域を出ません。しかしこの会見の後、佐渡は憤然とした面持ちで帰り、

「武士の作法も地に墜ちた。あのような軽輩に、天下の政治を行えるものだろうか?」

と、大いに不満と不審を口にしたことは確かなようです。



佐渡の家は代々家老職を務める上級武士の家柄。上級武士は藩政を預かる誇りと責任感とを持つように、幼い頃より英才教育が施されています。佐渡は藩政改革に際し、門閥に関わらない有能な人材を多数登用しましたが、最終的な決定権は常に自分が持ってきました。

それが上級武士の責任だからです。

当時の武士の一般的な価値観では、これが常識でした。

これをもって、佐渡という男の「限界」を指摘するのは容易いでしょう。しかしそういう価値観、そういう世界観の中で育ってきた者としては、致し方の無いことでしたでしょう。従来の秩序を守り、世の安寧を図ろうとするのは、官僚たる上級武士としては、当然の在り方だった、ともいえます。

単純に良い悪いは、言えません。




佐渡は長州の木戸孝允とも、宴席で1、2度合っているようです。後の木戸の述懐では、佐渡はなかなかの人物だったが、どうにも堅苦しくて、気持ちがうまく通じ合えなかった、もっと気楽に接してくれたら、お互い得るところもあったろうに、と、残念がっていたそうです。

如何にも、奥州武士だなと、感じさせます。



佐渡は元々、薩長に敵対する意図などありませんでした。それが「正しく」朝廷の軍であるなら、当然従うべきだと考えていました。

しかし京において情勢を探るうち、薩長は朝廷の命によって動いているわけではなく、薩長自身の意志によって動いていることが見えてきます。

これは「偽り」の官軍ではないか!佐渡の中に、新政府への怒りと憤りの念が湧き上がっていきました。


佐渡は朝廷の意図を知るべく、右府岩倉具視のもとを訪れます。





つづく、で、ありやす。

最後の武士(もものふ) 楢山佐渡その2 ~一揆の決着と藩政改革~

2015-05-29 14:14:29 | 幕末の盛岡藩



楢山佐渡は天保2年(1829)南部盛岡藩の家老・楢山帯刀の庶子として生まれました。名は隆吉、幼名は茂太。通称五左右衛門。

藩主の親戚筋であったことから、9歳のときに藩主の相手役として城に召され、15歳で側役に昇進します。

時の藩主は南部利済。この利済の時代に、南部藩には先述したような悪政の嵐が吹き荒れることになります。

佐渡の父帯刀は、何度も利済を諌めますが、利済は聞く耳をもたず、楢山父子は登城を禁止されてしまいます。

利済の側には「三奸」と呼ばれた側近がおり、この三人が利済の暴政を許し、私欲を貪っていたようです。この三奸に阻まれ、利済への諌言はその耳にすら達せられない。

「この三奸を討ち、殿には御退位いただく他はない!」

若さ故の血気に逸る佐渡。それをひたすらなだめる、帯刀。



先述したように、弘化4年(1847)の大規模な一揆により、利済は藩主から退きましたが、その後も隠然たる権力を握り院政を続けます。その側にはやはり「三奸」が就いておりました。

度重なる凶作で、藩財政は窮乏、領民の暮らしも困窮する中、城の御殿を新たに築造し、奥州街道沿いに遊郭を設けるなどの華奢遊蕩三昧に、領民は塗炭の苦しみを強いられていました。

嘉永6年(1853)、佐渡は22歳で家老職を拝命します。藩主の親戚筋とはいえ、22歳はさすがにまだ若い。しかも一度は退けたことのある者を、何故利済は抜擢したのか、その意図はわかりません。

佐渡が家老職を拝命した同じ年、例の江戸時代最大規模の農民一揆が起こります。

仙台藩からの知らせにより、ようやく事の重大さを理解した利済は、あわてて佐渡を城中に呼び出します。佐渡は白装束姿で、決死の覚悟で殿に諌言申し上げるべく、御前に進みます。

佐渡はこの一揆を集束させたのち、藩を根底から立て直すために、一時的に藩政を自分に一任させて欲しいと申し出ます。もはや他に手立てはない。利済は受け入れる他ありませんでした。

佐渡は早速江戸へ早馬を送り、江戸家老向井大和をして江戸在府中の仙台藩主に対し、幕府への正式な届け出をしばらく猶予してもらうよう頼みいれました。重ねて越境した領民たちには、元々藩の悪政が原因であるからと、全面的に認め、誰ににも罪咎を課さないことを条件として、藩内復帰を呼びかけました。

やがて江戸より、仙台藩主は了承したとの知らせが、佐渡の元に届きます。折しも黒船来航により、日本国の情勢風雲急を告げており、幕府としては奥州の田舎大名のゴタゴタになど関わっている暇はありませんでした。また仙台藩にも、海上警備の沙汰が幕府より出されており、他所の藩の揉め事になど、関わる暇は無かったのです。だからこの佐渡よりの申し出は、渡りに船でした。

無事に一揆を集束させると、佐渡は休むことなく藩政改革に着手します。

まず改革を行うにおいての協力者として、才気煥発の誉れ高い、若干19歳の東次郎(中務)を家老に任命します。

改革は疾風迅雷の速度で行われ、老中首座の老臣・南部土佐を、奸物を信じ藩政を誤ったとして隠居させ、石原汀、田鎖左膳、川島杢右衛門のいわゆる「三奸」には、家禄・家屋敷・家財等没収の上追放の処分を下しました。

それに代わって多くの人材が、門閥に関係なく登用されます。その中には、新渡戸稲造の祖父にあたる新渡戸伝がおり、藩学の教授として新たに登用された那珂通高は、藩校の名を「作人館」とし、その門弟には、後の「平民宰相」原敬がおりました。


産業を奨励し新田開発を行い、利済が建てた新御殿は破却され、奥向き女中の数を300人から250人に減らし、奥州街道沿いの遊郭は廃止。藩主利剛は率先して衣服を木綿とし質素倹約を示しました。

悪政の張本人利済は、南部藩江戸下屋敷に蟄居謹慎し、安政2年(1855)、蟄居のまま病を得て死去します。



藩政改革の見返りとして、幕府から5千両の貸下げがあり、それを足がかりとして、財政の立て直しと、多年の窮乏に苦しむ領民救済へと当てて行きました。しかしながら、長年積もり積もった悪政のつけを払拭することは難しく、どちらかというと「情」をもって行おうとする佐渡と、徹底した「理」をもって改革を進めようとする東との間に、対立と確執が生じて行きます。

一端は東の意見を取り入れ、佐渡は職を辞しましたが、東の果断な改革方針は藩士達の士気を著しく落とします。結果東は失脚、再び佐渡が職に返り咲きます。


初めは協力者であった両名でしたが、やがて「政敵」として、互いをライバル視していくこととなるのです。




さて、黒船来航以来、日本国の情勢は愈々風雲急を告げる展開が加速して行きます。

中央から遠く離れた奥州、盛岡・南部藩も、やがてその大風に大きく翻弄されていくこととなって行くのです。

大政奉還、鳥羽伏見の戦い、そして奥羽越列藩同盟。楢山佐渡の活躍やいかに。

では、また次回、

つづく、で、ありやす。

最後の武士(もののふ) 楢山佐渡その1 ~三閉伊一揆~

2015-05-26 14:32:43 | 幕末の盛岡藩






                       



幕末の東北を語るにおいて、外せない人物がいます。

盛岡、南部藩家老、楢山佐渡(ならやまさど)。



佐渡を語るにおいてまず、語るべきは、江戸時代最大の農民一揆といわれる、「三閉伊一揆」でしょう。

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南部藩13代藩主、南部利済は、領内が度重なる飢饉等で窮乏しているにも関わらず散財を繰り返し、領民に重税を課し続けます。折しも天保の大飢饉で領民達は飢餓に苦しめられ、それでも遊蕩三昧の藩主。特に重税を課せられていたのは、海産物の盛んだった九戸郡、上閉伊・下閉伊両郡の、いわゆる三閉伊と言われる、北三陸沿岸地域ででした。

この三閉伊の領民たちが、税の減免と藩主・利済の隠居を要求して、弘化4年(1847)に一揆を起こします。

藩はこの要求を一旦は受け入れ、利済は隠居し、家督を長男の利義に譲ります。

しかし、利済はその後も藩政の実権を握り、院政を敷きます。これに不満をもつ藩主・利義と対立。利済は利義をわずか1年で藩主の座から引きずりおろし、三男の利剛を新たに藩主に据えます。

こうして利済は再び藩政を完全にその手に握り、またしても悪政を繰り返したのです。



嘉永6年(1853)、三閉伊にて再び大規模な一揆が発生します。1万6千人、一説には3万5千人と言われる領民たちが、南部藩領を越えて、隣の仙台藩領に越境し、仙台藩に直訴を行ったのです。

直訴の内容は、三閉伊を南部藩領から外し、幕府直轄地か、あるいは仙台藩領に組み入れて欲しい。この願いを、仙台藩を通じて幕府に上申して欲しいという、前代未聞の内容でした。

南部藩は、領民から完全に見切りを付けられてしまったわけですね。なんともはや、情けない限りではあります。



この、農民運動ともいうべき一揆により、利済の悪政は幕府の知る所となり、時の幕府老中、阿部正弘によって南部藩は激しく叱責され、利済は江戸の南部藩邸にて蟄居謹慎を命じられるに至ります。



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これが、江戸時代最大の農民一揆「三閉伊一揆」の概要です。

さて、肝心の楢山佐渡はなにをしていたのか?

それは次回、改めて。

つづく、でありやす。