あけぼの

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米子東高生6人短期留学へ:卒業生が後輩の留学支援

2017-06-30 08:51:38 | 講演・アート・音楽・スピーチ

  筆者は今週は郷里米子へ。米子東高校の後輩在校生で今夏短期留学する6人へ、小川留学基金の贈呈式のためだった。和文・英文の応募論文等、諸々の審査をパスした6人と校長副校長先生、担任の先生方だけかと予想していたが、会場に入ったらマスコミの人々が取り囲んでおられビックリ!贈呈式では生徒さん1人ひとりの抱負を聞き、共鳴と感動と激励のコメントをちょっとだけ。留学費贈呈式は賞状形式で6人の生徒お1人お1人の手へ。米子東高校卒業生、後輩留学支援に基金を創設というような見出しで3社、日本海新聞、朝日新聞、山陰中央新報社が昨日の朝刊に筆者の記事を載せた。校長先生から3記事を送信頂いたのでここに載せたかったが、PDFという形は転載が難しく、諦めた。新聞記事は3社とも素敵に書いて頂いていたがテレビ局の取材には何をしゃべったか全く覚えていない。(彩の渦輪) 写真、1、2、3 は日本海新聞の渡部ちぐみ記者さまより。4、懐かしの米子東高校。 

   


ピンコロ人生と地球知の旅、触れ合いの旅 

2017-06-24 09:23:34 | 講演・アート・音楽・スピーチ

  シニアーは今何が出来て何をしているかがその人の価値だと思う。過去の履歴は関係ない。気力、体力、心意気があるかどうかだ。好奇心の退化と身体の反応が鈍くなった分、判断力は上がった筈だ。年齢を口にすることは自己弁明だ。生まれ持った個性と能力、ユニークな思考と行動力で精一杯生き、社会への還元を願うばかりだ。健康年齢は平均年齢より伸びているので筆者の終焉は5年先だろう。今まで頑健そのものだったのでピンコロで行きたいものだ。メイ・サートン(アメリカの詩人・小説家)の言う「……老いて生きることの意味は身近な若者に『手を貸す』喜びを持つこと」に学び、車も買い換え、現在若い人たちにその車で手を貸している。考えられることには何でも挑戦してきたがバックパックの旅もその一環だ。近年はアイスランド、イラン、ガイアナ、スリナム等、余り人が行かない国を旅してきたが、特にガイアナ、スリナムは個人旅の報告ブログぐらいしか情報が無い国で、「そこに行くことが旅だ!」と冒険を試みた。若者の旅行者、「何でも見てやろう」の旅と異なり、「国の文化遺産より人間遺産!」が目的だ。その一部をご紹介しよう。  魚の調査に来た人以来我々が初めて見た日本人だって!  南米はスリナムの旅行代理店に飛び込んだら、5年前、魚の調査に来た日本人以来、貴方たちは2回目だと珍しがられた。実際日本人に会わなかったが宗主国のオランダ人はよく見かけた。ホテル、クラスノポルスキーは市内散策中に飛び込んだが、受付のアンウォーさん(いい名前!)が宿泊費30%も割引し、カード手数料も不要にしてくれ、現金持ち合わせが少ない我々には渡りに船、3日間ここで楽しんだ。人々は親切、話しかければフレンドリー、大統領官邸前の広場の落ち着き、植民地時代からの建築物の品格、5民族共生の像、屋根を連ねた個人マーケット前の賑わい、白タクがバスより安く運んでくれたり等、近い将来への発展が感じられた。若い独立国らしい新鮮さがある国へメリハリのある旅だった。

 筆者の今後の旅には挑戦だけではなく、若者に手を貸すという新しい課題を追加し、過去の体験も活かして地球千鳥足の旅の価値を拡大したい。(自悠人)

  写真 1.格安で泊めてくれた、親切レセプショニストのアンウォーさん 2.オランダ植民地時代のユニークな建造物 3.パラマリボの街で見かけた素敵な父娘 4. 5民族共生の像


上げ膳、据え膳で久方ぶりにrelaxation

2017-06-22 08:20:36 | 講演・アート・音楽・スピーチ

先頃MINORUさん、TOSHIさんご夫妻から★先生とともにお招きを受け、ご友人NATSUKOさんも交え、おもてなし頂いた。野菜サラダ、隠元の胡麻和え、野菜スープ、大根おろし、アワビ入りタケノコご飯、シシャモ等、MINORUさんお手作りの無農薬野菜が中心で、帰宅したら便秘症の夫が「出た!」と嬉しそうな声をあげたおまけつき。NATSUKOさんは元教師でプロの写真家、レストラン経営者、等、職歴豊富で話題の多いお方だ。ゆえにおしゃべりは無農薬野菜を始めとし尽きることなく、心身ともに大変Healthyな半日を過ごさせていただいた。筆者は働き者、いつも仕事しているか学んでいるか、ノンビリした記憶がないぐらいだ。が、久方ぶりに上げ膳据え膳でリラックス、活力を充電させていただいた。(彩の渦輪)



コール元首相死去に蘇った8年前と24年前の東ドイツの思い出

2017-06-20 07:50:58 | 講演・アート・音楽・スピーチ

「ベルリンの壁」が壊されて間もなくの1993年1月、24年前、61歳で、本格的バック・パッカーとして東ドイツ、チェコ、スロバキア、ルーマニアを旅した。当時は兵隊の姿が街頭に多く見られ、品物は売ってやるのだといった威圧的態度で、サーヴィス精神のかけらもないように感じた。特に東西ベルリンの経済格差は大きくスッポンと月、東側では薄暗い街を垢抜けしない人たちが暮らしているという印象、同じ毛皮のコートを着ていても野暮ったい感じだった。両替所もなく、ツーリスト・カウンターで両替し、ホテルの場所を聞き、歩くこと数10分、とんでもない間違いでまた地下鉄に乗りなおし、訪ねたホテルは東側の中心地アレクサンドリヤ広場、ということもあった。繁華街といっても崩れかかり黒ずんだ建造物が多く、暗い世相をまだ引きずっていたが、どこでも多くの人々の親切に支えられて旅が出来、感謝の念で一杯だった。国の体制がどうあれ人々の思考や行動は同じと知らされた旅だった。50年にわたる弾圧の歴史を想うとき日本人に生まれた幸せを感ぜずにはいられなかった。荷物を預け100番バスで旧西側に行ったが、商店街は賑やかでサーヴィスもよくアメリカと同じだった。一か所だけかつてのベルリンの壁が残されており、壁を挟んでの東西の街自体、余りにも違いすぎ、その差に愕然とした。

 8年前のベルリン訪問ではもう過去の面影はなかった。16年の歳月は過去を一掃し、駅舎も3階建ての近代ビル。二階建てバスに乗ったが、旧西側、東側の区別の説明はなく16年前のほうがそれなりによく見聞したと思った。新生直後の印象や感動のほうが強かったのだろう。ベルリンから列車で夜8時にライプツィヒ到着、ここも再訪だ。建物が余りにも立派に変わり、人々の暮らしに相乗して変わる環境というものを見せつけられた。寺院はどこも改修工事が行われていた。街の復興はまず信仰からかと、宗教の位置付けを知らされた。ここは突出した音楽家を生んだ街、シューマンやメンデルスゾーンの家訪問についてはワイフが記した。(自悠人)

写真 ブランデンブルク門


ドイツ統一、コール元首相死去に蘇ったライプツィヒの思い出

2017-06-18 12:31:15 | 講演・アート・音楽・スピーチ

東西ドイツ統一の立役者であると同時に…平和を希求する信条の持ち主だったコール元首相が亡くなった。…『欧州から戦禍をなくす』という政治信条を育んだ(朝日新聞ベルリン支局長・高野弦)立派な人だ。お蔭で我々夫婦もベルリンへ行けた。2009年春、ベネルックス3国を早めに切り上げ、東独訪問(夫には再訪)を決めた。フランクフルトでBAHNの親切な駅員が格安で乗り放題の周遊パスを手配してくれた。ベルリンへの列車沿線は悠久の大自然、雨に煙る光景も風情があった。駅構内の旅行社に行き、20ユーロで乗り降り自由な二階だてバスの切符を買った。主要な観光建造物の説明はヘッドフォーンで聞ける。まだまだ建築ラッシュだったが旧西側、東側の区別の説明はなかった。ベルリンから列車で夜8時にライプツィヒ到着。相応のホテルが夜でも探せた。曰く、「16年前には路面電車に乗って探し、当時は古く黒ずんだ建造物が多く幽霊のような佇まいだった」と。ここは突出した音楽家を生んだ街、シューマンやメンデルスゾーンの家を訪れ、迷うほど広い有名なゲヴァント・ハウスも見た。筆者の父はメンデルスゾーンが好きで、若き日から89歳で亡くなるまで毎夜、彼のヴァイオリン・コンチェルトをステレオで聴いてから寝たものだ。愛娘(筆者)がメンデルスゾーンが住み死を迎えた家に来て、ゆかりのヴァイオリンや彼が弾いたピアノの前に今佇んでいると知ったらなんて羨ましがることだろう、と感無量だった。ライプツィヒには旧東側のイメージはなく、美しい街並みには時代の先端を進む文明が漂い、世界各国から-日本人女学生にも会った-音楽を学ぼうと集まってくる人たちの謳歌が聞こえた。音楽好きなドイツ人の気質は永劫に生きづけることだろう。(彩の渦輪)

キャプション ベルリンの壁