あけぼの

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突然心臓が飛び出すような連続激痛が走り、母を思った!

2020-10-11 16:12:04 | 狭心症発作・母の愛
 胸の痛みを辛抱してPCに向い、良い区切りまで打ち込んだ。心臓に手をやると痛くて頭にジーンと来た。ただ事ではないと救急車を呼んでもらった。直ぐ来たのは消防自動車。救急車は立川から呼ぶという。暫く待ち救急車が着いた。初めての心臓発作で、一時はどうなるかと心配だった。行先はT共済病院、原因解明のため心電図、エコー。翌日、心臓カテーテル処置で病名が判った。冠攣縮性狭心症。心臓周りの血管が狭くなって血液を送れない病状。薬は1日2回、死ぬまで服用だそうだ。2泊3日で退院した。6日目、また心臓に鈍痛。押さえれば結構痛く別の痛み止め、ニトロベン舌下で収まった。
 突然母のことを思い出した。翌朝炊く米や、おつゆの準備をして寝るのが母の習慣だった。ある朝、母が起きるのが遅いと同居している息子が気付き、母と一緒に寝ていた女の子に尋ねたら、母が起きないという。そこで息子が行ってみたら、母は亡くなっていたのだ。心筋梗塞か何か、だっただろう。私は東京で世帯を持っていたのでわからない。母は享年68歳だった。女の子は母が不幸な身の上の子どもを預かって世話していたのだ。突然の母の死を思いだし、今回の自分の発作を遺伝的なこととして受け止め、母の生前の生活の苦労を思い浮かべ、母に苦労をかけた筆者のことをちょっと書いてみたくなった。
 筆者は高卒後家の手伝いとして農業を1年間やり、その後三朝の温泉研究所に就職、お金を貯め、それからBack to Schoolで大学へ。だから大学は他の人より4年遅れだ。勤める時身に着けるものを全部母が準備してくれた。当時、豚を飼っていてその売り上げが資金だった。背広、靴、冬のオーバーコートなど。筆者の支出のため身を粉にして働いてくれたのだ。苦労をかけた事は忘れない。母親は子どものこととなると命がけで面倒を見てくれたけれど、「子を持って知る親の恩」を感じた時は既に遅く、母はいない。悔やんでも悔やみきれない思いがいつまでも脳裡に残っている。その分、我が子に返すのが筋道かな?(自悠人)