あけぼの

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Cincinnatiは第二の故郷、汗と微笑と虹色の涙の舞台なんです

2009-11-15 05:41:19 | アート・文化

Uc_oct_23_09_010 UCのマクミケン・カレッジ

紅葉が散ってしまった後の家の周囲はスケルトンと呼ばれる裸木の林立だ。枯れ木群は枝を上空に向けて花が咲いたように手を広げ幾重にも重なって経つ。11月中旬のある早朝、朝焼けでシェルピンクの空を背景にこのスケルトン群が立ち、その上空、筆者の目の前方に珍しい形の帯状の雲が流れるようにスケルトンの上にかかっている。さながら白い天の川だ。二羽の雁が白い天の川を反対方向から上手に横切り、天空へ消えた。織姫と彦星が会えたようだった。朝から情調豊かな風景を見せてくれる我が家の窓外、18年住んだこの家のクロージングも近い。私の第二の故郷は間違いなくシンシナティ、Ohioだ。ちょっと我が人生、どこでどう過ごしたか振り返ってみよう。

鳥取県の田舎:18年間

京都(学生時代)4年間

西宮(リサーチャー時代)1.5年間

Cincinnati:約19.5年間

東京:約28年(Cincinnati と東京は行き来したので重なるが)

Cincinnatiを第二の故郷と呼びたいのは滞在の長さからではない。生活密度の濃さゆえだ。1990年、52歳でこの地に来て運転免許証を取得した。行動範囲がぐんと拡がった。日本では運転しない主義だったのでアメリカに来なければ今も運転していない。PCを52歳から操ったが、日本にいたらやっていないだろう。機械嫌いだったから。アメリカに来た翌日大学院の門を叩いた。私立ザヴィエル大学で修士課程を学び修士号取得、州立シンシナティ大学で博士号を取得したが、その過程でコンピューター操作は必須だった。手書き論文など受け取ってもらえない時代がもう1991年に来ていた。特にXavier University(ザヴィエル大学)は思い出が深い。ここでの修士課程の方が、Cincinnati大学の博士課程よりもある意味大変だった。日本から来たばかりで、言葉の壁が大きく、年齢の壁もあり、更年期障害と闘いつつの論文書きは大変だった。その上この大学に日本語講座が無かったので偉い人たちに働きかけて日本語プログラムを開いたのだった。大学院生をやりながら日本語、日本文化の責任者となり、日本語部門は発展し続け、もう一人講師を雇ってもらったが、ここで6年以上教えた。シンシナティでは、4役つまり駐在員の妻、大学員研究生、日本語講師(から助教授へ)、地域住民、として多くの人々と交わった。43人という大規模な参加者で、日本から実演者も招待し、「多文化音楽、アートと多文化食パーティー」も5回行った。日々のホーム・パーティーは数え切れない。教職がザヴィエル大学からシンシナティ大学に移ってからは日本文化の講座で多くのイヴェントや実演、映画,音楽演奏、等を続けたが、学生だけでなく地域にも呼びかけて日本文化のプロモーションを図った。

かくのごとくシンシナティは筆者にとっては「汗と微笑と虹色の涙の狂詩曲」の舞台なのである。新緑や紅葉が去り、木々がスケルトンになろうとも、この家を去ろうとも、忘れることが出来ようか。(彩の渦輪)


本日はアプレイザー来る

2009-11-10 22:17:18 | アート・文化

T_002  次から次と家の評価(またはあら捜し)をする者がやってくる。本日はアプレイザーだ。銀行のためにこの家が売値の価値があるかどうか評価する人だ。彼はインスペクターのように細かくはチェックしない。家全体や基礎(土台)を見ていた。銀行を守るために。なぜか。

 アメリカでは家の購入はほとんど銀行からの借金で行う。自分のお金は家の売値の5%、10%またはせいぜい15%だけしか払わない人が殆どだという。だからほとんどの家屋は銀行の持ち物というわけだ。だから銀行はお金を貸す場合、用心しなければならない。借り手の信用調査も当然する。最近また100ぐらい銀行が破産したというニュースがあった。大不況で家購入時借りたお金を返済出来ない人が増え、銀行はその家を取り戻すけれども売ること不可能で破産していくのだ。

 兎に角、大不況の現今は近所中売り家ばかりだ。買い手がついたら喜ばねばならないが、今まで書いたようにやたら値切られる。買い手市場はやむをえないだろう。売り家側の我々についている不動産エージェントのJimに「また値切られるかしら?」と聞いたら「Possibly(可能性はある)」と答えた。これ以上値切られたらもう売らない。

 郵便受けに可愛い蛇が丸まっていたりする、自然と共生した愛する我が家。クロージングまでまだその行方が定まらない。(彩の渦輪)

 


アライグマがお立っちし、梟や鹿が来た裏庭

2009-11-09 22:11:53 | アート・文化

Barredowl 裏の斜面の落ち葉かきを始めたが台所の裏手で「ああ、アライグマたちが毎日顔を覗かせたりお立っちしたな」と思ったらもう胸にぐっと来てRake(巨大熊手Or松葉かき)の手が止まってしまった。この広い緑のグランド・カヴァーの庭(実際は林だ)はもう自分の屋敷で無くなるんだ、と涙ぐみそうになったので30分で切り上げた。またやらなければ。落ち葉でまっ黄黄だ。その下のグリーンを眺めてこの家を去りたいので多忙でも明日からちゃんとRakingしよう。グランド・カヴァーというのは地面を覆う蔦の一種だ。

アライグマたちが餌をねだりに来出して18年、我が家のデッキの下に棲み、朝晩パンを求めて現れた。利巧だったステファニーが初代、食い意地の張ったトッディー、その娘のメレッサはおっとりタイプ、その子どもたちも大きくなった。トッディーに子ども5匹を連れて棲みつかれたときは餌はすぐなるし、真夜中にドンジャラホイと騒ぎ立てるし、大変だった。今はひ、ひ孫の代だ。バルコニーの手すりの上で前足を高く上げて頂戴をする芸は祖母伝来だ。トッディーは子どものときから敏捷でずる賢こかった。パンを投げると一切れを食べながらもう一切れは足で抑えて子どもに取られないようにし、子どもが食べているものまで横取りする慾すっぱな母親だった。浅ましかったが親離れする子どもたちに自然界の厳しさを身体で覚えさせていたのだろう。メレッサは食べている子どもたちをじっと見守り、自分が貰った物だけ食べる優しい母だ。与えられるパンをお立っちして掴む仕草は可愛いが、我々が不在だといつまでも座って待つ。人間を信じきっているメレッサには哀れさが漂った。

思い直してまたRakeを握った。斜面を上から下へ落ち葉を引きずるのでジーパンの脛まで枯れ葉で埋まる。黄色の枯葉を取り除くと下から鮮やかな緑のグランド・カヴァーが顔を出す。木々をまねて紅色になった可愛い葉たちもある。春にはすみれ色の花を咲かせた小さな蔦たち。屋敷周辺の地面を覆ってくれ、林立する木々と共にその風景は誰をも圧倒した。今まで18年、義務でやってた落ち葉掻き。グランド・カヴァーの窒息を防ぐために。だが今初めて、そして最後になろうが、自分のためにやっている。一本一本のグランド・カヴァーに「さよなら」を言うために。裏庭一杯に何十万という蔦さんたちがいる。蔦さんたち、もう会えないだろうけど「元気でネ!」アライグマちゃんたちも「さよなら!」額に汗しつつ、Rakeを振り上げ、引きずりおろす時、アライグマに囲まれたここでの18年の1シーン・1シーンが映画のフィルムを巻き戻すように思いだされる。しっかり心に焼き付いた大事な宝物、私の第二の故郷、CincinnatiWyoming地区の我が家の裏庭、私の林。(彩の渦輪)

006 グランドカヴァー


はらはらと命の終わりを感じつつ落ち葉かき

2009-11-08 22:33:05 | アート・文化

T_015 二階側のデッキ(バルコニー)

ラップ・アラウンド・デッキといってデッキがこの家中を取り巻いている

四月に蜻蛉の羽のような新緑が出てから十一月上旬に紅葉が燃え尽きるまでなんと美しい街だろうと思い続けるシンシナティ。燃え盛った紅葉がシャワーとなって降りしきり木の葉が舞う裏の林はさながら天国だ。夕陽に映え、円舞しながら落ちる葉、蜘蛛の糸にかかり空中に身を晒す葉、緑色を十分残しつつ突風に捥がれた葉、適所に落ち若木のための腐葉土になる葉、等、落ち葉の運命は人の命の果て方と重なる。紅葉のシャワーが終わり枯葉が地面を覆うとグランドカヴァーが窒息するので落葉掃除をしなければならない。Rakeという大きな松葉かきを持って裏の林を駆けずり回り、あちこちに固めた落葉を運びおろす。運びつつ思う。つむじ風で若い命が奪われることも地面が若い骸で覆われることもあってはならないと。オハイオの林で、目前にはらはらと命の終わりを感じつ

つ落ち葉かきをする。(彩の渦輪) T_oct24_009

家の裏側のデッキ:アライグマがよく餌をねだりに来たところ