あけぼの

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8.30 国会へ、10万人デモに参加しました!

2015-08-31 17:53:34 | 旅行記、多文化教育、国際

   12時、国立駅に集合した人々は新婦人の会、三多摩健康友の会、民医連等。組織に所属しない人も誘い合って70人ぐらいのグループ(GP)が一緒に霞が関へ。駅で「小金井」の旗を持ったGPと会った。駅を出て2GPに。「くにたち」旗GPと分かれ、「三多摩健康友の会」旗GPは国会まで行くことに。筆者も夫も勿論国会へ。国会近くの交差点で警官に「国会議事堂周辺はもう一杯なので日比谷公園へ」と止められた。やっと交差点を渡ったら国会議事堂が真正面に見えた。だがデモ隊でびっしり。幟には東京農工大、早稲田の会、東大工職、日本弁護士連合会、日本婦人団体連合会、川口九条の会、江戸川区…、世田谷区…とびっしりだ。少しでも国会に近づこうと前に進もうとするが人にぶつかり謝り続け、諦めかけた。が、それでも二度にわたり人を縫って突き進んでいるうち夫ともGP の人ともはぐれたが、なおも雨の中、抗議のシュプレヒコールに唱和しつつ前へと移動した。「戦争法案絶対反対!」「戦争法案絶対反対!」「戦争法案今すぐ廃案!」「戦争法案今すぐ廃案!」「平和を守れ、子どもを守れ!」「平和を守れ、子どもを守れ!」「戦争したがる総理はいらない!」「戦争したがる総理はいらない!」。集まっている人々の気持ちが重なり合っているのを感じた。1人1人が自覚し、活動しないと社会は変えられない。いや、変えられてしまうのだ。唱和しながら歩き続けているうちに涙が出そうになった。70年安保以来のデモだった。70年代、今はなき日本婦人会議の活動をしていた。その頃の仲間は何人生きているだろうか。(彩の渦輪)



戦後平和の原点、『鐘の鳴る丘』 II

2015-08-24 08:34:20 | 旅行記、多文化教育、国際

 種々の賞が展示してある「鐘の鳴る丘少年の家」 

見せて頂いた写真や歴史資料によると、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」に感銘を受けた初代園長の品川博氏が私財を投入して青少年養護施設を創立、菊田一夫の支援も受け、映画のごとく「鐘の鳴る丘」と称した。当初は少し離れたところにあったが1953年に時計台付きの現在の場所に移り、名実ともに鐘の鳴る丘」になった。現在は「社会福祉法人、鐘の鳴る丘愛誠会」により運営されている児童養護施設「鐘の鳴る丘少年の家」。親が離婚したり国際結婚が破たんしたりと事情は多様だが、児童相談所を介して入所した2~18歳の児童76人が生活する。児童養育の具体目標を定め、心理療法を導入し、虐待児や情緒障害時の心理的ケアの充実を図り、全職員参画の運営体制で愛情と親身の指導でケアしている施設だ。職員さんたちにとっては日々が挑戦であろう。が、素晴らしい立地、「鐘の鳴る丘」から望む風景は美しい。群馬には県の天然記念物、風流にしなる連取(つなとり)の松あり、たわわに実る巨峰の葡萄畑あり、駅伝には常に出場する上武大学も、鷺が8羽も遊ぶ大水田もあった。この平和な田園を壊す事態があってはならないと、行動の必要性に駆られた「平和の原点」訪問だった。

「ガツンとやられたらガツンとやり返せ」は正しい?

アメリカでタクシーの運転手さんが言った。「ガツンとやられたらガツンとやり返すの当然でしょ?」防衛上軍備が必要だと言う意味だが、この意見は正しい?筆者の答えは「ノー」だ。ボタン1つで地球上の全人類を滅ぼし得るほど核兵器がある今、必要なのは「ガツン、ガツン」レベルの自衛ではなく、話し合いによる平和的問題解決法と核兵器廃絶運動だ。無意味な死者とそれに伴う孤児を2度と作らないために。(彩の渦輪)

 伊勢崎の牛さん、こんにちは


戦後平和の原点、『鐘の鳴る丘』 

2015-08-23 14:33:18 | 旅行記、多文化教育、国際

  命ほど大切なものはない。いかなる命も失わないためには平和ほど重要なものはない。日本の政治の雲行きが怪しい今、日本の平和のスタート地点を訪問してみた。戦後70年の平和の原点ともいうべきラジオドラマ、『鐘の鳴る丘』は菊田一夫作、1947年から約3年半、放送回数790回に及び、1949年には松竹で映画化された作品だ。戦災孤児は浮浪児と呼ばれ街頭で靴磨きをしたり、上野公園や鉄道の駅構内にたむろしていた。当時の戦災孤児が最近新聞紙上で語っていたが、「“もらう”か“拾う”か“盗む”しか生きる手段はなかった。夜、列車で眠ろうとすると孤児狩りでつまみ出された!」と。 

妹の号泣が映画館中響き渡った!泣いた、泣いた!こらえきれずに泣いたっけ。5歳下の妹がウォーンウォーンと号泣する声が田舎の映画館(当時は芝居小屋と呼んだ)に響き渡り、他の客に迷惑だろうと気にしながらも自分も泣き続けた映画を今でもありありと思い出す。復員帰りの青年が孤児たちに安住の場を作ろうと決意し奮戦する中で孤児たちの心が解きほぐされ逞しく成長する姿が涙と感動を誘った映画『鐘の鳴る丘』。「鐘が鳴りますキンコンカン 鳴る鳴る鐘は父母の 元気でいろよと言う声よ…」。当時小学生以上だった人は今でも主題歌を歌えるだろう。

鐘の鳴る丘少年の家 群馬県前橋市に「鐘の鳴る丘少年の家」があると知り出かけた。この家には歌のごとく赤い屋根、とんがり帽子の時計台があった。(続く)(彩の渦輪)


My name and Soho Tokutomi

2015-08-14 09:32:00 | 旅行記、多文化教育、国際

Angry people set fire to his newspaper office 'Heimin-shinbunsha' 徳富蘇峰館訪問の感動が遠のきかけた折、我が最初の著書、『Still Waters Run Deep: Part I、1982年』が戸棚の奥から顔を出し、その中にMy name and Soho Tokutomiがあった。身近な話題を取り上げた短いエッセイや旅行記集で英文だけの本。一部ご紹介するが変な表現は笑ってね。 My name is Ayako, and 彩子 in Kanji. I was named by Soho through a magazine. My name was sent to my parents, written in India ink on fine thick Japanese paper. Nowadays the same name can be seen a lot; however, in those days I seldom saw the same Kanji character. Someone may think that my life and Soho’s doesn’t overlap, but Soho lived until 95.  Soho is the elder brother of the famous novelist, Roka Tokutomi. When I was a university student, he came to give a lecture.  It was DOSHISHA , the Tokutomi brothers studied when young, for several years. The time he came was only one year before his death (I was 19 years young then).  If I had met him after the lecture, or even listened to his lecture, I could have written my own special article. To my regret, I did not pay attention to him. I only remembered he was a convert. 

 和文にしよう。徳富蘇峰は明治、大正、昭和を通じての大新聞記者、思想家、社会事業家だ。新島襄の同志社へ進み、20歳で大江義塾を開き4年後上京、翌年「民友社」を創立。若くして「国民之友」や「国民新聞」を創刊し、平民主義を掲げて明治中期の指導的役割を果たし、ジャーナリズムの巨人と呼ばれた。が、約7年後人々にショックを与えた。平民主義者から一転、国家主義へ。日清戦争を契機に政治色を強めた。弟の蘆花は兄へある本の巻頭で「決別の辞」を突き付け、彼の「平民新聞社」は二度も焼打ちにあった。51歳で政界から離れ、著述や新聞事業に専念、出版界の指導者となり300冊以上の著作をものしたが、特に「近世日本国民史」全100巻完成は偉業、彼は文化勲章第一回受賞者だ。弟、蘆花ほどには知られていない徳富蘇峰について、我が名とのエピソードを介してご紹介した。  Anyway, the time my parents asked for a name for me was during his best days as a critic at seventy-six years of age. What do you think of his life style? I learned that he was not in the least concerned with what people said. I dare say that during each period of his life, he lived his beliefs to the fullest. (彩の渦輪)


ショック!帰国後にアイスランドでCredit Cardが使われた!②

2015-08-09 14:35:09 | 旅行記、多文化教育、国際

いわくのレンタカーアイスランドから帰国後5週間以上経って勝手に我々夫婦のVisaカードを使ったのはHertzというレンタカー会社。アイスランドではレンタカーで行動したが、レンタカーを返した6月4日のレセプショニストは素敵な青年で、問わず語りに「支払は全て完了です。後で余計な請求書が行くことはありません!」と言い、バランス(残金)ゼロの立派な領収書をくれていた。インターネット上にも同様の領収書が届いていた。なんと、約5週間経った7月10日、何の予告も問い合わせも無くある金額落とされたのだ。我々のカードを勝手に利用して。Hertzの新入社員かアイスランドの誰か悪い奴の詐欺事件だと思うでしょ?急いで銀行のFRAUD OFFICEとやり取りし、被害が続くのが怖いのでカードはClose、その事後処理もまだ終わらぬ3日前、アイスランドのHertzから手紙が 届いた。曰く、「Speeding Admin Feeを頂いたが、これはあなたがSpeed Violationをしたので警察からの照会に対する情報提供サーヴィス料です。近々警察からスピード違反の請求書が行きます」と、次の請求の予告が…。夫はアイスランド運転中、スピード違反をした意識は勿論なく、チケットも貰わず、どんな警告も手紙も貰っていない。日本やアメリカのように路上にスピード計があるかもしれないが、国を去る時は何も言われず、国を去ってから5週間もたって、「貴方はSpeed 違反したから罰金よこせ 」が通用するなら、この国の警察署は訪問客にいかなる罪名もつけられる。もしかして警察の名を語った詐欺では?

日本のアイスランド大使館に連絡したら、アイスランドの日本大使館に連絡しなさい、との指示が。詐欺の疑いがあり、「次に来ると予告されているSpeeding Fineはもっと高いだろう、他にも犠牲者が出るといけないので」と。というわけでアイスランドの日本大使館に連絡した。領事関係の職員さんが警察へ問い合わせしてくださり、「警察からの請求書は来ない」、とお返事頂けた。Hertzには5つの疑問点について質問状を送信したが、一切答えてくれないままだ。「ショックその①」の文は「それで中和されるほど生半可な温められ方でなかったアイスランドの人のぬくもり」と結んだが、「ショックその②」は「クワバラクワバラ」で結ぼう。それにしてもアメリカの銀行だからカード利用の都度、「貴方が使っていなければ連絡を!」とセキュリティー・メールが来るが日本の銀行にはこのサーヴィスはないようですね。(彩の渦輪)