あけぼの

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マホガニーの木は見たサイパン玉砕 完 ~テニアン島~

2010-06-15 10:13:24 | 旅行記

087 テニアン島の旧日本海軍司令部跡

テニアン島:サイパンから5km、空路10分で到着する。現在は個人で行けば往復料金69ドル、サイパンからのグループ・ツアーでも行ける。波乗りも楽しめる。島での交通はレンタカーだけでタクシーは無い。レンタカーは格安で契約出来た。南北に走る道路名はブロードウエイ、唯一の村落サンホセまで空港から6分で着く。島の観光起爆剤になっているのがダイナスティ・ホテル&カジノ。ロビーの豪華さは超一流、広く美しく目を見張る。

テニアン島はB29爆撃機が広島、長崎に投下するため原爆を搭載して離陸した場所で有名な島である。当時日本へは12時間で往復出来たので日本戦略基地としてアメリカは狙ったのだ。「テニアンの末日」(中山義秀著)に第二次大戦中日本の惨敗状況が記されているが玉砕した日本兵、民間人は悲惨の一語に尽きた。アメリカ軍は1944724日、北のチュル・ビーチに上陸、30日には南のカロリナス高地に戦車が登って来たとある。ここにも自殺クリフがあり、戦士たちはアメリカ軍の捕虜となることを恐れ、飢えと絶望の中追い詰められ、手榴弾を抱いて断崖から海に飛び込んだ。崖に沿って沖縄平和記念碑、日本人戦没者慰霊碑がある。ジャングルを縫って行く奥に日本に向かうためのB29爆撃機の2400m滑走路が一本現状を留めており、あとの3本やそれらを繋ぐ滑走路はジャングル化していて見られない。歳月は戦争の悲惨さを打ち消しているが、原爆積荷場跡が長方形の穴にガラス張りの枠で囲まれ保存されている。

 この島はサイパンと同じくスペイン、ドイツ、日本の統治を経て大戦後はアメリカの国連信託統治領となった。歴史的に「スペインはキリスト教を、日本は働くことを、アメリカは遊ぶことを教えた」と聞いている。

 現在両島の日本人観光客は減りつつある一方で中国や韓国の観光客で賑わいだした。30年前の日本の新婚さんは中国の新婚さんに置き換わり、中国語が飛び交っている。時代の変化を間の当たり見た今回のマリアナ諸島訪問だった。マホガニーの大樹は語らないが歴史の全てを見て人間の愚かさを嘆いていることだろう。(自悠人)


マホガニーの木は見たサイパン玉砕  ~北マリアナ諸島~

2010-06-14 17:00:36 | 旅行記

015_3 旧日本軍の錆びた戦車と火炎樹

サイパン島は日本から南2400km、面積185平方kmで伊豆大島の2倍、現今は日本から3時間強で行ける。若い人はマリンスポーツの魅力からサイパン、テニアンの観光に出かけるが、戦前は砂糖きびが栽培され、1万人の民間人が砂糖生産に従事していた。その人たちは第二次世界大戦時に多く死亡した。島北部の海岸線やジャングルに覆われたマッピ山頂にも多くの慰霊碑が建造されている。その周辺の断崖には高さ50mのバンザイ・クリフや250mの「スーサイド(自殺)・クリフがある。大戦末期の状況は悲惨の一語に尽きる。疲労と飢え、恐怖と絶望の中、進むも死、留まるも死、という状況の中で兵士、民間人を問わず断崖から飛び込み自殺した。日本人として先人たちの参戦悲劇の歴史の上に今の平和があることを感謝し、多くの慰霊塔に合掌した。国のため犠牲になった先人たちの魂に語りかけ、人類の幸せに貢献する活動を誓って祈らざるを得なかった。この島の地質は石灰石ゆえ、水は浸透して地面に溜らない。雨水を貯め、濾過する知恵で水と格闘しながら生活した歴史的な背景がある。大戦中の水不足は生地獄で想像を絶するものだった。 現在は平和のありがたさがこの島に満ちている。島内の各種お遊びプログラムは花盛りで、恵まれた太陽と透明な海を満喫できる島だ。訪問客は遊び目的の若者が多いが、他方、日本の統治下にあった頃の場所や大戦の激戦地跡などを訪ねる人々も今に続いている。日本軍爆弾格納庫跡、刑務所跡、砲弾に撃ち抜かれた指令部の砦跡、シュガーキング・パーク内の神社跡を巡ったが、特にここのマホガニーは巨木で、戦争を見た生き証人と思えた。戦後アメリカの自治領となったが、大戦終結から65年の今は平和を象徴する島だ。訪問時のこの6月はフレーム・トリー(火炎樹)、日本名、南洋桜の赤い花が咲き誇って美しかった。(自悠人)


苦悩渦巻く珊瑚礁の島、沖縄 

2010-06-06 09:33:12 | アート・文化

100 住宅地に隣接する普天間基地。向こうに見えるのは滑走路。

普天間問題についてJ-Angleに書こうと5月、那覇へ、続いてサイパンへ飛んだ。マリアナ諸島の一つ、テニアン島が基地誘致に手をあげているということで見ておきたいと思ったのだ。テニアンについては後日に投稿するとして沖縄についてちょっとご報告。まず訪問したのはひめゆりの塔、そして普天間基地だった。

季節は春と夏だけの緑濃き沖縄、エメラルドの水淡き沖縄の海、桃色珊瑚の砕片が打ち寄せられるきれいな浜辺。この美しい沖縄の島に19453月、米軍が上陸作戦を開始した沖縄戦では昼夜の区別なく村は焼かれ、地面は数十万人の鮮血で染められた。首里城から死の道をさ迷い歩き、降り続く豪雨で包帯には蛆が涌き、20万人もの人々が戦死したという。ひめゆり資料館によると、ひめゆり学徒隊は沖縄陸軍病院に配属され、負傷兵看護や死体埋葬に追われたが、5月下旬、日本軍と共に島の南端部に向かい、激しい砲爆撃の中、618日、米軍が包囲する戦場を逃げまどい、砲弾で、ガス弾で、また自らの手榴弾で命を絶った。240人中136人が死亡したが日本軍は女子学生を助けるどころか冷酷な行為もあったという。

日本の基地の75%が沖縄にあることは皆さんご承知だ。沖縄の中に基地があるのか、基地の中に沖縄があるのかわからないと言われるが、普天間に向かう途上でバスから嘉手納基地の施設を眺望し、面積の殆んどが基地であると実感した。嘉手納市は80%が基地で、世界で3番目に忙しい飛行場だそうだ。那覇市では沖縄一の繁華街、活気溢れる国際通りを歩き、牧志駅から儀保駅までモノレールを楽しみ、タクシーで普天間基地へ。嘉数の高台から普天間基地が一望出来、滑走路までよく見えると聞き、はやる心で展望台へ上がった。だが普天間は生憎の雨、筆者の身体も心も沖縄の人々の涙雨で濡れそぼった。基地の隣の学校で騒音と不安の中学ぶ子どもやその母親たちの心情を慮って。沖縄戦慰霊塔近くにガジュマル、デイゴ、夕顔が咲き競っていた。

長く沖縄で教師をしてきた友人に話を聞いた。沖縄の地で学ぶ生徒の辛さ、教師や親たちの心労を語ったあと、「鳩山首相は今コテンパンに批判されているが、沖縄の基地の問題は故橋本総理時以来14年間放置され、当時から何も全く変わっていない。鳩山さんがやろうとしたことは秘密文書公開、仕分け等、評価できる。政権が変わって明らかになったことが多いのだから。5月末決着と限定せず、時間がかかっても公約を守る努力をしてほしい」だった。筆者も同感だった。戦後65年、沖縄の基地にはアメリカは「余りにもお金をかけ過ぎているので、手放さないだろうから鳩山氏の談判は難しいだろう」とは友人も筆者も予想していたが、談判どころか逆だった。5月末に辺野古移設が閣議決定され、日米合意に辺野古の名前が盛り込まれた。「少しずつでも沖縄の負担を軽減してほしい」という沖縄の願いをよそに。「沖縄の心よりアメリカの声に耳を傾けた」と思われている鳩山さん。彼が沖縄県民の意見を代表してアメリカと談判したなら多くの人々に感謝・評価されたであろう。

杭打ちで美しい珊瑚礁、淡いエメラルドの海、可愛いサンゴが打ち上げられる白い砂浜が泣く。基地を撤去して沖縄を元の姿に戻してもらって初めて沖縄の戦後が終わるのです」と沖縄の人々が語っている。日本中が政党を超えてもっともっと沖縄県民の苦悩に心を寄せ、沖縄の負担軽減に問題意識を持たなければならない。(彩の渦輪)