あけぼの

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ウズベキスタンでロシア民謡大合唱 

2010-10-27 06:01:24 | アート・文化

Tadaaki_uzbekistan_aizu_gekkabijin_ Uzbekistan_by_a_069乾杯するノナ

ウズベキスタンのほぼ全土を観光したのちタシケントに戻り、初日に友人になっていたアミール君一家を夕食に招待した。すると義弟フルキャットの誕生会兼婚約者披露宴に招かれ、一泊予定でその街に出かけた。街はずれから車で南へ1時間半、ベカバードという街だった。

義弟フルキャットはアミールの奥さんの弟で大変な美男、婚約者もあかぬけた美女だった。レストランを借り切ってのこの披露宴にはホテルの料理に加えて両方の親戚一同が一品持ち寄りしてのご馳走だった。ピロシキに似たサムサ、炊き込みご飯プロフ、シシカバブーはここではシャシリクという名、うどんに似たラグマン、多種のマヨネーズサラダ、各種のナン、フルーツの山、等々。女性たちがウォッカを一気飲みするのには驚いた。

 外国人は筆者夫婦だけ、早々に挨拶を促され、ロシア語に英語を混ぜてのスピーチ、その後ロシヤ民謡を歌った。ロシア民謡は得意だった。だが日本語で覚えたものだ。カチューシャ、黒い瞳、赤いサラファン、と夫と歌ったらなんとフルキャットのおばあちゃん、ノナ、77歳、がロシア語で唱和しだした。筆者の歌うどの歌も彼女は歌え、日本語とロシア語のバイリンガル合唱となった。居並ぶシニアの婦人たち、ライアもゼーラもトーフィックもファリダもユーダも大声で唱和、その時思い出した。昔「ボルガの船曳歌」をロシア語で覚えたことを。「エイ・ウッフ・エイ・・・」と今度は全員ロシア語で大合唱だ。大柄のおばあちゃんが側に来て何度も筆者を抱き上げ、揺さぶり、キスをしてくれた。舞い込んだ日本からの客による自国の歌に歓び、誰もが筆者にハグをし、キスをした。食べて、歌って、踊ってのパーティーは延々と続いた。人の縁は妙なり、と地球の一角での「一期一会」を楽しんでいる筆者夫婦である。(彩の渦輪)


バトンタッチの旅~ウズベキスタン I~

2010-10-26 10:42:09 | アート・文化

 Tadaaki_uzbekistan_aizu_gekkabiji_3 Fatima Hotelのアフリシアと

 日本人の好きな国、ウズベキスタンはイスラム、ロシア、モンゴル、中国の文化がミックスした魅力に溢れ、中央アジアの歴史遺産が層をなし、短期間の訪問でシルクロード時代へと容易にタイムスリップ出来る。この国と日本はシルクロード時代より千年に及ぶ交流の歴史があると聞くが、終戦以降の友好関係に基く日本人への信頼が、国中どこでも明るい声で呼びかけられた「こんにちは!」の理由だろう。友好は挨拶だけではなかった。一つの街のホテルを出る時、頼まずとも次の街の同クラスのホテルを予約してくれた。気に入らなければ他を探せるし気に入ればすぐ入室でき、ホテル探しの時間が省けて楽だった。こうしてヒヴァからブハラ、サマルカンド、シャフリサーブス、タシケントとホテル受付の手から手へ、便利な場所にあり安くて朝食が美味しいホテルを利用出来たのだった。 城壁都市、ヒヴァのイチャンカラは1991年に世界遺産に指定され、街並そのものが博物館のようだ。かつてイスラム教の中心的役割を演じてきたブハラも世界遺産、ここではアルク城を見学したが、チンギス・ハーンに破壊されて見どころは少なかった。この街の市民の憩いの場、リャビハウスに近いファティマ・ホテルはお薦めだ。経営者の娘、アフリシアが美人で明るく、英語がうまく、働き者で出す料理も美味しい。「青の都」と過去の先達が形容したサマルカンドも世界遺産、余りにも美しく、レギスタン広場では溜め息ばかりついていた。天文学者、ウルグベクの作ったメドレセ(神学校)ではイスラム神学、数学、哲学などを多くの学生が学んだという。サマルカンドからシャフリサーブスへは車で峠越し、車窓の風景は素晴らしい。タシケントの話題は震度7.5の地震で倒れなかった劇場の話だ。他の殆んどの建造物は倒壊したなか、唯一倒れなかったナヴォイ・オペラ劇場は旧日本兵の捕虜が強制労働させられて作り上げ、ジャパン劇場と呼ばれて語り草になっていると聞き、見に行った。実に立派な建物だった。続く(彩の渦輪)


月下美人

2010-10-24 13:54:59 | アート・文化

Tadaaki_uzbekistan_aizu_gekkabijin_ 二本からそれぞれ一つずつ咲き始めた。前夜から蕾がふくらみ始めていたが20101012日の夜8時に開花。芳香ではなく強烈な匂いだ。魔物が住んでいるようなドぎつい匂い。異臭とでも言いたくなる。二つの花は蕾のうちは紅白に見えた。花の外側の花弁が一方は大変濃い紅色で他方は外も真っ白だったから。開花後は正面はどちらも純白。人を魅了する大輪だ。時が経つほどに匂いは柔らかくなり、玄関中に充満してきた。5時間は開花を保ったであろうか、翌朝には萎れていた。夜中に咲き、一夜の命だ。短命だから鑑賞の対象に値するのだろう。この花をくれた人は3年前に亡くなった。脳溢血だということだった。以前頂いた一代目の苗は会社の人からだった。鉢の割に背丈が高く育ったので風で倒されて壊れ、植え替えたが枯れてしまった。二代目の今回の花はえも言えず豪華、三代目にはどんなエピソードや命運が待っているのだろう。自悠人


「こんにちは」に歴史の重み 完

2010-10-18 20:14:20 | アート・文化

Tadaaki_uzbekistan_aizu_gekkabiji_2 日本人墓地の世話をするファジルミラールさんと

 ムスリム墓地の一廓にあるとは聞いていたものの広くて見当もつかない。諦めて帰ろうとしたその途中、布を広げた縁台にぽつねんと座っていた老人にその場所を訪ね、案内してもらった。200mも奥の道から左に入ったところだった。案内人無くしてわかる筈のない場所、運に救われた。その人こそ三代にわたって日本人墓地を管理していた二代目、ファジルミラール(68歳)さんであった。第二次大戦後中央アジアに抑留された日本人は64000人、内2000人が亡くなっている。ソ連に抑留され強制労働させられてこの地で没した79名の日本人が、殆んど飲まず食わずの労働の果てに病気や衰弱で倒れ眠っている墓地だ。石碑には出身県と氏名が刻まれていた。今は桜の木が十数本植えられ花壇も作られている。彼が植えたと言っていた。彼の父が路上に転がっている日本人の死体を一人一人埋葬したのだったと。日本人は勤勉でよく働いたことが美談として二代目の彼に語り継がれていた。ソ連兵に支配されたウズベキタン人が見た、従順で懸命に働く日本人のその魂が物語として伝えられ、人々の「こんにちは」に象徴されたのではなかろうか。帰りには縁台で熱いお茶をご馳走になり、自分が取り上げられた日本の新聞を見せてくれた。平成7年の日経だった。言葉はうまく通じなくとも彼の行為に謝辞を述べ、持っていた日本の物をお礼に渡した。世界遺産より人間遺産の偉大さを改めて考えさせられた旅だった。(自悠人)


「こんにちは」に歴史の重み

2010-10-17 17:30:30 | アート・文化

Tadaaki_uzbekistan_aizu_gekkabiji_3  蒼の都サマルカンド

 旅も重なり、ビザを必要とする国に軸足を移すようになって訪ねたウズベキスタンは中央アジアに属し、シルクロードのイメージに最も近い国である。蒼いイスラム建築、砂漠、ラクダ、オアシス都市、多彩な果物。旧市街では60年前の日本のような暮らしを垣間見ることも出来、懐かしさを覚え、親切な人たちに出会える国であった。  

 首都タシケントから航空機でウルゲンチに降り立ち、タクシーでヒヴァ、ブハラ、サマルカンド、シャフリサーブスと移動し、列車でタシケント、西から東に折り返した。各都市の移動には交通機関に選択性のない不便な旅、道路も悪く、高速道路でもないのに最高速度120km出すのだから驚きだった。ヒヴァからタシケントへの途中6、7世紀頃のホレズム王国の2つのカラ(都城跡)を見学、砂漠の一廓には宿泊出来る施設が作られていた。一泊10ドルと言っていた。

各都市の観光の目玉としては大きさや広さの規模こそ違えメドレセ(神学校)モスク、50mにおよぶミナレット、宮殿、廟が点在、時代時代の国王の権威の象徴として建造されていた。ビヴァとサマルカンドは世界遺産にされており、その周辺はお土産ものの店で賑わっていた。

 伝えたいことがある。我々を見つけると店番たちが「こんにちは」を連呼することだった。商売として関心を惹くのはいずこの国も同様だが、余りにも多くの人たちから声かけヲ聞き、慣れた発音での「こんにちは」には心からの親近感が感じられた。ある夜、蒼の都サマルカンドで若者のグループから「こんにちは」の連呼を受けた。ひき続き子どもたちからも「こんにちは」の連呼。「こんにちは」の言葉の奥に商売以外の何かがある。子どもは純粋だし夜中まで挨拶の必要はない筈だ。日本に帰ったら研究して見るのも旅の一環だと決めた。ところがタシケントの日本人墓地に行き、始めて日本人にたいする敬愛の情を知らされたのであった。ここで親、子、孫、三代に渡って日本人墓地の世話をしてきた二代目に会ったのだ。続く(自悠人)